鳳来山天安寺 その6

 素空は3日目の午後になって、本山まで背負って来た自分の荷物の中で、最も大切な物を取りだした。

 栄信に案内されて2人で墓所に向かい、修行僧が葬られている1画の隅で土を掘り始めた。1尺5寸(45cm)の南北に細長い穴を掘り、履いて来た3足の草鞋を安置した。

 穴の片側に大津おおつの百姓家の亭主からもらった杖を墓標ぼひょうの代わりにした。杖には、俗名太一之墓ぞくみょうたいちのはか、と黒く太い書体で書かれていた。背には、誕生年号と大津別所在おおつべっしょざい享年きょうねん1才と細書きされていた。

 土を戻す前に合掌して、貧しい百姓夫婦の心を念じ込めた。やがて、盛られた土の上に、栄信が運んで来た丸石が置かれた。

 2人の僧は合掌して経を唱え始めた。声が重なり、共鳴しあうような独特な響きを放った時、1陣の風が吹き、木々のこずえがザワザワと音を立てて揺れ始めた。雲が湧きだし、雨粒がパラパラ落ちて来たが、不思議なことに2人の僧の周りだけは妙な静寂に包まれ、雨粒の1つも落ちて来なかった。

 素空は、貧しくとも心豊かな百姓夫婦のために、幸福の訪れんことを一心に願った。3本の経が終わると、風はぎ、雨は止み、雲は消え去った。

 素空は、栄信に深くこべをを垂れた。

 「いいえ、亡くなられた人に対して、僧として当然のことをしたまでです。今は親御様の幸福を心よりお祈りするばかりです」

 素空は自らの思いと同じ思いで居てくれた兄弟子に深く感謝した。

 素空は墓所に足を踏み入れた時から、これまで感じたことがない妙な気配を感じていたが、太一の墓から坂を下り始めた時に更にハッキリと気配のようなものを感じていた。

 「素空様、ここは開闢以来かいびゃくいらい数多あまた御霊みたまが眠るのです。その中には成仏できずに骨に留まる霊がいるのでしょう。私には感じないのですが、素空様にはその気配が分かるのでしょうか?」栄信はさほど気にするでもなく問い掛けた。

 素空は霊の予感と神仏の存在が当然の関りだとは理解しているが、これまで感じたことのない初めての経験だった。

 「栄信様、おっしゃる通りです。私は墓参のたびに、この悲しき霊魂達れいこんたちのために祈ることにいたします」

 素空はやがて、霊や魂との関わりを持つようになるのだが、この時はまだそれを知る由もなかった。

 墓所の帰り道、栄信に太一たいちの親のことをかいつまんで話した。「私が御本山を下りる時、もう1度立ち寄るつもりです。その時、栄信様との本日の埋葬をお話ししたいと思います。親御様も喜ぶことでしょう」素空は本山において、栄信の存在が日に日に大きくなり、玄空とは違った形ながら、信頼に包まれるような安らぎを覚えた。

 栄信は、素空の律義りちぎさと僧としての優れた資質ししつを備えていることに満足した思いだった。

 「素空様、僧の世界も俗世とは違った意味で、種々様々な者がいます。資質に優れた者、そうでない者。知力に長けた者、そうでない者。頑健な者、病弱な者。4日の後、宿坊の片隅で皆と一緒に修行をする中で、あなたが放つ御仏への深い信仰をねたましく思う者もいる筈です。私の周りの僧は、心利こころきいた者ばかりです。どうか、親しく寄せて下さい」

 「栄信様、お気遣い下さりありがとうございます。御本山に上がって以来、栄信様のもとで、様々なことを学びました。もともと、宿坊での生活を当然のことと思っていたので、それが叶っただけのことと思っています」そう言い放つ素空の断固たる思いに、栄信はこれ以上の心配を口にできないと思った。

 2人が栄信の部屋に戻ると、灯明番の僧が1人待っていた。僧の名は栄雪と言う22才の認可僧だった。

 「栄信様、灯明の油が半月分ほどしかありません。それから、不思議なことに芯の在庫もほんの僅かになっています」

 「そうですか、あぶらは既に手配しています。10日後には岩倉屋いわくらやさんから荷が届くことでしょう。芯は明日、私が在庫を調べます。油が着くまでもつかどうか、もたない時は栄雪に出掛けてもらいます」

 栄雪は『かしこまりました』と答えてニッコリ笑った。灯明番の僧にとって、公然とはねを伸ばせる滅多にない機会だった。栄雪は、次席の灯明番で、それこそ滅多にない機会に思わず笑みを浮かべたのだった。

 既に素空とは顔合わせをしていたが、本山に上がったばかりの素空に、喜びを見取られないように顔を引き締めた。栄雪は、栄信の指名をずっと待っていて、この報告も密かな期待を持ってのことだった。まさに、栄雪はその要領の良さも、下心をも含めて、何とも憎めない性分だった。

 次の日、朝の勤めが終わり、それぞれの仕事に散って行った後、栄信は法灯の芯を改めた。『なるほど、これは奇妙なことだ、先月調べた時の数からこれほど減る筈がない』

 法灯の材料は、油と芯は言うに及ばず、灯台や器に至るまで、一般いっぱんの灯明とは別枠で扱われていた。思いたくはなかったが、僧の中にこの倉から法灯以外に持ちだす者がいると疑わざるを得なかった。栄信は芯を半分に分けて、自分の部屋に持ち込んだ。

 それから、栄雪を呼んで錠前じょうまえの掛け替えを指示した。栄雪が戻ると、素空を連れて来るように命じ、何やら物思いにふけった。『芯だけを持ちだしても、たいした使い道がある訳ではない筈だが…』栄信にはどうにも解けない謎だった。

 灯明番は、開祖直伝かいそじきでんの尊い任務に就いているとされ、法灯の保守のためには一般の灯明を代用することはあっても、法灯の材料を外部に持ち出すなどあり得ないことだった。

 『灯明番の中にはそのような不心得な者など決していない。鍵を掛け忘れる者もいない筈。となれば、誰か合鍵を持って…明智一派みょうちいっぱの者の中に…』栄信はもうそれ以上思い巡らすことを止めた。

 「栄信様、素空様をお連れしました」

 「栄雪もお入りなさい。先ほど、芯を改めましたが、なるほど、残り僅かになっていました。早速、栄雪には急ぎ取り寄せてもらいたいのですが、今回は、素空様に同行をお願いいたしたいと思います。往復2日ですが、お御足みあしえたようですので、ゆっくり往き帰りができるかと思います。素空様、よろしいですね?」

 素空は宿坊での生活を考えての、栄信の思い遣りだと言うことが分かっていたし、従わぬ理由は何もなかった。

 「素空様、明朝お勤めの後に早速出掛けて頂きますが、往き帰りはすべて栄雪が心得ていますので、ご心配なくお任せ下さい」

 素空は、栄雪に向き直って一礼した。「栄雪様、よろしくお願いいたします。明日のご支度がありますれば、何なりとお申し付け下さい」

 素空の言葉を聞いて、栄信が命じた。

 「栄雪、本日は素空様と共に行動して下さい。さすれば、明日はあなたの助けとなって頂けるでしょう。本日の灯明番にも明日からの留守の訳を知らせるのです。戻るまでは灯明の傍らを、片時も離れぬよう申し伝えて下さい」

 栄雪にとって、年齢と経験では素空に勝るところだが、栄信の部屋で1目見た時から、己が遠く及ばないほど、素空の中に仏性ぶっしょうの高さを見出していた。何と言っても実際には、栄信の素空に対する話し方や、本山に上がった翌日の認可など、ただ者でないことは誰が見てもはっきり分かることだった。

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