鳳来山天安寺 その5

 「素空よ、僧になってからこれまでのことを教えてはくれまいか?」

 興仁大師の問い掛けに、素空は伊勢滝野いせたきのの薬師寺に預けられてからこれまでのことを語った。

 興仁大師は、素空の言葉に頷きながら聞いていたが、最後に大きく頷いて深く思いを巡らした。

 「そうであったか、玄空とは、瑞覚様の弟弟子おとうとでしで非凡な才を持つと言われながら、想雲大師そううんだいしうとまれ、寺を出た例のあのお方ですね。御仏が、素空に新堂の守護神を作るのを御命じになった訳が分かりました」

 瑞覚大師は当時を思い出したのか、にがい顔で答えた。

 「さよう、あの当時は真の仏道とはほど遠く、求道に励むより想雲大師にを唱えないことだけが修行のような、何とも情けない日々だった。玄空は、想雲大師より真の仏道を選んだのじゃよ。わしは、他の者と同様に、お大師に異を唱えず、ひたすら耐えるばかりの毎日だった。何とも、小乗しょうじょうの極みであったことよ」

 興仁大師は目を細めて懐かしむように付け加えた。

 「玄空様が寺を出る時、言った言葉が御本山の語り草になったのじゃが、瑞覚様は間近で聞いておいででしたな?」

 「はい、わしが玄空を引き止めている時、想雲大師が現れ、『去る者は、ささ、早く去るがよい。おのが才をひけらかすおろかか者が。この寺で、わしの意に適わぬ者は置いてはおかぬのじゃ。去れ!』と言うたのじゃよ。30年の時が流れようと、決して忘れることのない1日じゃった。玄空は、わしの手を払いのけて言った。『想雲大師よ、よく聴くがよい。我は御仏に仕える修行の僧なり。しこうして、汝の下僕げぼくにあらず。寺に汝がいる限り、我の修行は叶わぬと知った』そう言うや否や天安寺から去ってしもうた。わしはその日を最後に1番大切な友を失ったのじゃよ。正確には10年前まではな…」

 瑞覚大師は寂しく語った。

 「ほう、10年前とは?」興仁大師は、おそらく素空のことが絡んでいると察しが付いたが、合いの手を打つように軽く聞き返した。

 瑞覚大師は、いつものように興仁大師の聞き上手に乗せられて、気分よく話を進めた。

 「わしは、玄空が伊勢いせにいることは知っておったが、10年前、ふみが届いて初めて、滝野たきのの薬師寺にいると知った。そして、弟子を持ったことも書かれてあった。玄空にとってはよほどの喜びだったのだろうよ。修行時代の満面の笑みが文面に溢れていたよ。わしは祝いに多くの経典と孔子・老子・孟子・孫子などの書物を贈ったのを思い出したよ。そなたは確か『源助げんすけ』と言っていたのじゃな?書物と一緒に、乞われてそなたを『希念きねん』と名付けたのだよ、玄空が天安寺に上がった時の名なのじゃ。そなたを御仏の授かりものだとも書いていたよ。玄空は、御仏に愛された僧じゃったが、そなたも玄空と同様、御仏に愛された者のようじゃ。修行を重ね、御仏にもっと近付くのだよ」

 瑞覚大師は久方振ひさかたぶりに多くを語った。心許せる者ばかりだったこともだが、玄空のことに触れたのが最大の理由だった。30年前に心の中にぽっかりいた穴が、10年前に埋まり、今大きな喜びの内に未来への継承を予感していた。瑞覚大師は、おそらく玄空も同じだろうが、後の世に弟子の心を通して生き続けることを確信していた。

 その夜、素空は、玄空にてて手紙を書いた。

 『素空そくう』の名を頂いたこと、正式な僧として認可を頂いたことを書き、次に玄空の様子や村に変わったことはなかったかを尋ねた。それから、旅の途中での様々な出来事をかいつまんで書いた。最後に天安寺の様子を細かく伝え、瑞覚大師や興仁大師のこと、兄弟子栄信のことを書いた。

 素空は本山に上がった日より、この日の方が眠れなかった。興奮しているせいもあるが、師に宛てて書いた手紙のせいで、これまでの薬師寺での生活を次々と思い出していた。目を閉じると、寺での最初の夜が目の前に広がった。

 師にはこれまで叱責しっせきを受けたこともなく、常に柔和な笑顔で接してもらった。本山を去る時の師の言葉は、素空にとってまったく意外なことだった。若き日の言葉と言うだけでは釈然としない、慈悲深い仏が、悪に対する怒りを表した時のような、怒りの形相を師に思い起こせなかった。思えば、慈悲の心を考えることはあっても、怒りの形相など露とも想像したことはなかったのだ。

 その時、栄信が声を掛けた。

 「素空様、眠れないのですか?」素空はハッとして目を開いて答えた。

 「栄信様、わが師が御本山を去る時の言葉を考えていたのです。師は、私が寺に預けられて以来10年、いかる姿を目にしたことがありません。師が若き日の、その時の表情を思い浮かべることができないのです」

 栄信は、素空が何を思い巡らしているのか測りかねていた。

 「素空様、あなたは玄空様の許で幸せな歳月を過ごされたのでしょうね。毎日が実に楽しく、充実していたのでしょう。私には、あなたが玄空様と過ごした10年が見えるような気がします。あまりにも幸せで、善に満ちた中に生活している者は、あくなる者、まさに邪悪じゃあくなる者のことは思い及ばないのです。怒りを知らぬ者に、怒れと言っても怒ることはできません。そのように、あなたに怒りの顔を想像させることは難しいでしょう」

 「確かにこの10年、私は幸せな毎日を過ごし、善なるものの中で、善なることのみに触れて参りました。ただ、心に掛かることは、姉の店に賊が押し入った時、姉に贈った福の神が賊の頭目に制裁を下したことがありました。姉夫婦から聞いたことですが、私の知らないところで予想もしないことが起こったのです。わが師曰しいわく『神仏はいつも慈悲深く、人を優しく導くばかりではなく、時として激しく怒り、厳しい制裁を下しもする』と、分かっているのですが、憤怒ふんぬ形相ぎょうそうも、非情ひじょうな制裁も見てはいないのです。信じていてもなかなか形が現れないのです」

 ここに来て、栄信が、素空の眠れぬ訳に思い当たった。

 「もしや、素空様はお堂の守護神のことをお考えではないのですか?」

 素空は思いもよらない言葉に驚いた。

 「いいえ、そのようなことは露とも考えませんでした。わが師のことを考えていたら、思いの及ばないことに突き当たってしまったのです」

 栄信は、素空の思考がある方向に進む時、自身の意思に関わらず一貫性いっかんせいを持つことに驚き、この夜のことはきっとお堂の守護神を作る時に役立つ筈だと確信した。

 「素空様、明日になれば思い及ぶこともあろうかと存じます。今宵は目を閉じ、無心となって明日へのたくわえををいたしましょう」栄信はそう言うと目を閉じた。

 「はい、夜分にお騒がせいたしました。お休みなさいませ」素空もそう言うと目を閉じた。栄信はすぐに寝息を立てて眠りに落ち、やがて素空も深い眠りの中に引き込まれて行った。

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