鳳来山天安寺 その4

 昼が近付くと、瑞覚大師は薬師如来像を桐箱に戻し、栄垂を伴って西院へと急いだ。西院では、既に昼食の支度が整い、興仁大師が待ちかねていた。

 「これはこれは、瑞覚様が直々に起こしとはほんにお珍しいですね。さあ、どうぞこちらへ…」

 瑞覚大師はニッコリ笑いながら、肝心な話から始めた。

 「急な申し出で申し訳ありませんが、先ずは、この薬師如来像をご覧下さい」

 暫らくの沈黙の後、興仁大師が目を大きく見張りながら口を開いた。

 「瑞覚様、実に見事な如来様ですね。私はこのような御姿をいまだかつて目にしたことがありません。まさに、御仏そのままです。これはどなたの作でしょうか?」

 「この御姿は希念と申す者の作で、昨日本山に上がった修行僧が、私への土産として持参したものです。実は、昨夜枕元に薬師如来様がお見えになられたのです」

 瑞覚大師は、自分に関わること以外、昨夜のことをこと細かく、洗いざらい話して聞かせた。

 「希念?どこかで聞いたことのある名ですね。それで如来様が直に『素空』と命じられたのですか?と…」

 興仁大師は胸に引っ掛かる何かを感じていた。

 瑞覚大師は、玄空の名が興仁大師の脳裏に浮かんだことを予測したが、構わず結論を申し出た。

 「本来ならば、皆様の合意で認可をするのが習わしですが、この度ばかりは御仏の意に従わせて頂きます」

 「それは尤もな話です。私も希念と申す者に会いに本日お伺いしましょう」

 暫らくの間、昼食の膳の話に花が咲き、玄空のことに触れずに、やがて瑞覚大師は東院へと帰って行った。

 素空は申の刻さるのこく(午後4時)の集会前まで、栄信に従って身の回りのあらゆることを学んだ。そして、栄信は説明の間に、素空の才を知ることになった。かつて、玄空が寺を案内した時感じたのと同じことを感じていた。

 素空は、栄信の穏やかな振舞いと、滲み出るような教養を感じ取っていた。

 2人の仲は更に親しく、信頼と尊敬の念が強く結びつける間柄になっていた。

 その日の申の刻、突然認可の儀が行われると聞いて、素空は驚いた。素空に知らせた栄信も、本山に上がって以来初めてのことで、何が何だか分からないままの伝言だった。

 殆んどの僧が忍仁堂に集まり、何のための招集かいぶかる声がザワザワとした声となって伝わった。素空は自分のためだけの集まりでないことを願った。

 ザワつく僧達を目の前にして、僧にも色々な性分の違いがあり、寺の檀家総会だんかそうかいと何ら変わりがないように思えた。すべての僧が、栄信達のような資質に富んだ者ばかりでないことをぼんやりと感じていたのだった。

 やがて、ざわつきが更に大きくなり、皆の視線が1点に集中した。西院の興仁大師が2人の僧を伴い、正装して入堂したのだ。瑞覚大師の隣の老僧が口火を切った。

 「これより、希念坊の認可命名の儀を執り行う。希念坊、前に出られよ!」

 素空がハッと我に返り、一同いちどうの最前列に歩み出た。途中、射るような視線を感じ、クラクラとして、足が地に着かないような気がした。歩みを進めるうちに落ち着いて来て、瑞覚大師の前では座禅の後のように落ち着くことができた。

 素空は、老僧の目配せに従って行動した。儀式の始まりは読経からだった。忍仁堂の全員が声を揃えての読経は魂を揺さぶるほどの力強さがあった。朝の勤めでは、一同の最後列だったので、これほどの感動は思いもよらないことだった。

 やがて、認可状にんかじょう袈裟けさと腰に付ける大玉の数珠じゅずが与えられ、素空と言う新たな法名ほうみょうを授けられた。瑞覚大師は法名を授ける時に小声で囁いた。

 「この名は、如来様が直々に命名されたのじゃョ。そなたが、御仏の意にかなう者である証なのじゃ。そなたは既にとうといお方であると言うことなのじゃが、更に精進なされよ。そして、御仏の意を表しなされよ」

 袈裟を掛けた素空が、一同に向かって合掌し、頭を下げると、ざわつきが忍仁堂の隅々まで広がった。素空は元のように本尊に向き直り、合掌して丁寧に一礼した。儀式が一通り終わると、栄信と共に瑞覚大師の部屋に呼ばれた。

 栄信が声を掛けると、中から瑞覚大師の機嫌がすこぶる良い時の声が返って来た。

 「お入り、栄信はこちらにおいでなされ。素空は、興仁大師の前にお座りなされ」

 瑞覚大師の部屋では、上機嫌な2人の貫首かんじゅと、かしこまった若い2人の僧が対面する形で座っていた。若い修行僧が茶と菓子を持って来たが、それには手を付けないまま暫らく静寂が続いた。

 瑞覚大師が語り始めた。「昨夜のこと、わしは夢か現か分からぬ摩訶不思議まかふしぎな体験をしたのじゃ。…」瑞覚大師は昨夜のことを若い2人の僧に事細ことこまかに話したが、自分のことはあえて口にしなかった。

 栄信と素空はまったくの疑念を持たずに、瑞覚大師の言葉をすべて受け入れた。

 「僧であろうと誰しも信じることはできない。真に御仏を信じる者のみ信じることができるのだ。栄信よ、わしはこのことを摩訶不思議なことと言ったが、実は、摩訶不思議でも何でもないのじゃよ。そなた達にはよく分かることとは思うがな!…あのようなことが起こることの意味を随分と考えたが、未だにわからぬ。見事な如来像に御仏が降臨しただけのことではない。素空の存在に御仏が関与されたことの意味は、一体どこにあるのだろうかが分からんのじゃよ」

 瑞覚大師は、いつになく多くを話し、疑問のまま口を閉じた。このような師を見るのは、栄信にとって初めてのことだった。

 終始柔和な顔で耳を傾けていた興仁大師が口を開いた。

 「素空よそなたは御仏に愛された数少ない僧であり、何故かはわからぬが、そなたは御仏に何かを与えられているようだ。3年の修行の間に分かることもあろうて」

 興仁大師は、多くの僧を見て来たが、このように1目で仏性の高さを感じる者は、ほんの僅かだった。そして、素空の深い瞳を見ていると、吸い込まれるような心地になるのが不思議だった。

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