鳳来山天安寺 その3

 瑞覚大師は酉の下刻とりのげこく(午後7時)を過ぎて1人の時間を持つことができた。自分の部屋に戻ると、改めて薬師如来像を眺め回した。

 『本当に立派な御姿をしていなさる。神々こうごうしいお顔立ちもじゃが、薬壺やくつぼが身の丈に実によく釣り合っている。この衣の風合いと、御身体の線を実によく彫りだしたものだ。わしはこれまで、これほど見事な御仏を見たことがない。御本尊様ごほんぞんさまにも決して劣るものではない』ぶつぶつと、独り言を言いながら、愛おしむように何度も眺めた。

 それから、寝間に運び込み、枕元の文机ふづくえの上に祀って四半時しはんとき(30分)ほどの間、寝間に低くおごそかに読経が響いた。就寝の時は経文の1節を唱えて床に就くのだったが、瑞覚大師の心はよほど昂っていたのだろう。夜半、ゆめともうつつともつかない奇妙な体験をした。

 床に横たわり、ぐっすり寝入っている自分を部屋の隅に立って眺めていた。枕元の文机を見ると薬師如来像がなかった。『いつの自分だろうか?昨日か一昨日か?』考えながらとこの足元を見てハッとした。素空が運んで来た桐箱が畳の上にあったのだ。

 『と、すると…如来様を持ち出した者がいるのか?そんなことはない筈じゃ』瑞覚大師が思いを巡らしていると、その右手後方から声がしたかと思うと、部屋の中がフッと明るくなった。

 《瑞覚よ、私はここです。この部屋から消え去ることはありません。安心しなさい》ギョッとして背後を見ると、金色こんじきの光に包まれ、ぼんやりした輪郭が現れていた。その輝きは目を見開くことができないほど強かったが、部屋の中はほの暗いままだった。光の発する場所はふすまのずっと後方からのようだったが、声は耳元で囁かれているようだった。

 『ああ、ありがたいことじゃ。御仏に導かれてこのままお召し頂きたい』

 瑞覚大師は、座して金色の光を仰ぎ見ると、目から大粒の涙を流して歓喜した。それは老婆の礼賛らいさんにも似て、ただただ神仏への恭順きょうじゅんの意を表すばかりだった。

 《瑞覚よ、そなたは3年の後に素空そくうが彫りし私の姿と共に、私のもとに参るでしょう。これは決まったことです。さて、そなたが決めようとしていることを私が決めてあげましょう》

 「勿体もったいないことでございます。…素空とは希念のことでございますか?」

 瑞覚大師がおずおずと質問した。

 《そうです。と名付けなさい。これはずっと以前から決められたことです。…明日正式な僧として認可し、7日後に宿坊に移し、3年の間天安寺でなくてはできない修行を存分にさせなさい。また、明年建立される新堂の守護神を彫らせなさい》

 そう言うと、光と共に消え去った。

 瑞覚大師は枕元に戻り、文机の上を改めた。如来像は戻っていない。そして、己の寝顔をジッと見た。と、いつの間にか意識が遠のき寝ている自分の上に倒れ込んだ。

 翌朝、お付きの僧、栄垂えいすいから起こされるまで随分長く起き上がれなかった。起きて尚、昨夜のことが頭の中を支配していたのだ。文机を見ると、薬師如来像はちゃんと元の位置に祀られていた。

 「お大師様、お体の具合が悪いのでしたら、朝のお勤めはお休みしては如何でしょう?」瑞覚大師は、栄垂の勧めを断り、着替えを始めた。

 忍仁堂は天安寺の中心となるお堂で、忍仁大師を祀る神聖なお堂だった。ここで、東院とういんの朝の勤めが、早朝から厳かに始まるのだった。

 朝の勤めが終わると、瑞覚大師は栄信を呼び、この日の指示を与えた。

 「申の刻さるのこく(午後4時)に皆を招集するように。わしは、希念が献じた薬師如来像を持って興仁大師こうじんだいしを訪ねることにしたが、申の刻には興仁大師にもおいで願うことになるかも知れぬ。わしの部屋でおもてなしせねばなるまいから、興仁様がお好きな菓子を作らせて欲しいのじゃ。余のことはかねての通りじゃ、よろしく頼み置くぞ」

 興仁大師とは天安寺西院せいいん貫首かんじゅで瑞覚大師とは最も気の合う僧だった。

 瑞覚大師は、興仁大師に昼食を共にしたい旨を伝えるよう、栄垂に指示を与えていた。この日から素空の存在が天安寺に広く知られるようになるのだった。

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