鳳来山天安寺 その2

 素空と栄信が部屋を出て障子しょうじを閉めようとした時、部屋の中から瑞覚大師の声がした。「栄信、言い忘れたことがあった。こちらに来なさい」

 呼び止められた栄信は、素空を廊下で待たせて障子を閉めた。

 「栄信よ、ようくお聴き。希念は並みの僧ではない。そなたも気付いているとは思うが、英知と、徳を併せ持つまれなる僧じゃ。わしの兄弟弟子きょうだいでしの玄空は稀なる才を持つ僧だったが、その玄空が愛して止まぬ愛弟子だよ。そこでじゃ、大部屋おおべやでの暮らしに間違いがあっては困るのじゃよ。荒くれ坊主に妙な扱いをされては、玄空に顔向けができんよ」

 瑞覚大師は真顔で囁いた。

 「そうですね、2年ほど前から明智みょうちとその仲間達が異端いたんを唱えて、従わない者はいじくと聞いています」栄信の言葉に、瑞覚大師は眉根まゆねを寄せて言った。

 「巧妙なやり方で毒し始めているようなのだが、どうにも、証拠と証人が現れないのじゃ。それはさておき、どうかな、わしが希念の処遇を決めるまで、そなたの部屋で預かってはもらえぬかな?」

 栄信は穏やかな笑顔を見せて、喜んで承知した。

 「そうか、そうか、暫らくの間頼みましたよ」

 瑞覚大師の言葉の中に、栄信への信頼が読み取れた。

 素空は庭を見ながら廊下で待っている間、玄空のことを考えていた。旅の間中、実に様々なことがあり、ゆっくり思いだす暇がなかったことと、なぜか瑞覚大師に玄空と同じような雰囲気を感じたからだった。素空は、薬師如来像の作り手を間違った時の瑞覚大師の表情を思いだして一人笑いをした。その時何とも不思議な親しみを感じたのだった。

 やがて、素空の中に静寂が広がり、庭の緑に包まれているような気分になった。

 「希念様、お待たせしました」

 「お庭を拝見していましたら、時を忘れてしまいました」

 2人は廊下を3度曲がり、荷物を置いた土間に着いた。濯ぎ桶は片付けられ、石造りの足台の上には、栄信の草履と、もう1つ真新しい草履が置いてあった。栄信は先に土間に下りて、素空に言った。

 「さ、この草履をお履き下さい。は緩めてあります。足がなじむまで、このままお使い下さい」

 「恐れ入ります。細やかなお気遣いをして頂きありがとうございます」

 2人は瑞覚大師の部屋に往く時より、更に打ち解けていた。

 素空は部屋に案内されて驚いた。「このお部屋は、栄信様のお部屋ではありませんか?私は多くのお坊様方と同様の大部屋で構いません」

 栄信は声音を変えて重々しく、瑞覚大師の言葉を伝えた。

 「お大師様は宿坊で俗悪な僧達に関りを持たせてはならないとおっしゃいました。私の部屋に出入りする僧達は『とわの法灯』を守る者達が殆んどで、僧としての素養を備えた者ばかりです。今宵こよいからは、希念様と私は兄弟弟子として互いに修行に励みましょう」素空は少し間をおいて答えた。

 「栄信様、兄弟弟子とは誠に嬉しいお言葉で痛み入りますが、10とお若年じゃくねんの私のことは『希念』と呼び捨てて下さい」

 栄信が間髪を入れず、諭すように言った。

 「希念様、人の器量や、徳の高さは年の数では測れません。知識や、思慮深さや、心のあり様も同じことなのです。私と、希念様を年の計りとは違う計りで測ったとしたら、年ほどに長じているかは自信がありません。また、私があなたに敬意を表していることと、弟子同士として兄弟のように交わることは、一向に矛盾するところはありません」

 素空は、何と思慮深くこうも謙虚に言い放つ兄弟子に心からの敬意を払った。

 2人は栄信の詰め所で歓談したが、その間に灯明番の僧が3人出入りした。

 その中の1人に栄雪えいせつと言う次席じせきの僧がいた。人懐ひとなつこそうな笑顔が印象的な認可僧にんかそうだったが、この僧は素空の将来に深く関わることになる重要人物だった。

 

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