第5章 鳳来山天安寺 その1

 素空は鳳来山天安寺ほうらいさんてんあんじの手前の広場に辿り着いた。右に下れば京への降り口で、広場を突っ切って進むとその先には天聖宗てんしょうしゅう本山ほんざん天安寺てんあんじがあった。

 いよいよ天安寺の山門さんもんを前にして、更に身の引き締まる思いだった。道中様々な出来事があり、いつの間にかここまで遣って来たような思いだった。

 見上げると鳳凰堂ほうおうどうと記された額札がくさつを掲げたお堂の前に立っていた。高ぶった心を静めるため、鳳凰堂の前の岩に座って禅を組むと、はやる気持ちが次第に収まり、しおが引いていくような心地よい静寂が心を満たし始めた。素空は静寂の中で心の底の底を見定め、既に平常心を取り戻していた。

 傍らの桐箱を背負い、その先の忍仁堂にんじんどう額札がくさつを目指した時、視線の先に数人の僧達が幾つもの塊となって、素空を覗っていた。僧達は、鳳凰堂の大岩で座禅ざぜんをしている新参の僧に興味津々きょうみしんしんの目を向けた。誰しも、天安寺に初めて上がった時、大きく息を吸い平静を装って山門をくぐったものだが、座禅を組むなど思いもしなかった。

 素空が更に山門に近付くと、明らかに周りの僧達とは異彩いさいを放つ1人の僧が歩み寄った。素空は、その僧に石段の下まで近付くと会釈えしゃくした。

 「私は、伊勢滝野いせたきの薬師寺やくしじから参りました希念きねんと申します。瑞覚大師ずいかくだいしにお目通りいたしたいのですが、よろしゅうございますか?」

 僧は、柔和な笑顔を向けて重々しく口を開いた。

 「私は、栄信えいしんと申します。希念様のことはお大師様より伺っています。お越しになったらお連れせよと命じられていました。さあ、こちらにおいで下さい」

 栄信は28才で、落ち着いた物腰と、理知的な目鼻立ちが印象深い僧だった。瘦身で色白だったが、弱々しさが微塵みじんも感じられないのは、シャンと伸びた背筋が精神の強さを表しているせいなのだろう。

 栄信は奥の僧院まで来て履物を脱いだ。

 「今すぐにすすぎをお持ちしますので、暫らくお待ち下さい」そう言って、暫らくして手桶と手拭いと白足袋を持って現れ、土間に下りると素空の足を濯ごうとした。

 「何をなさいますか栄信様。恐れ多いことです。濯ぎは私自身でいたしますので、どうかお先にお上がり下さい」

 恐縮して拒む素空に、栄信がぴしゃりと言った。

 「希念様はお大師様の大切なお客様なのですよ。ご遠慮なさいますな。さあ、お御足をおだし下さい」

 素空が観念して足を差しだした。

 栄信が草鞋わらじひもはさみで切ろうとした時、素空が慌てて制した。

 「栄信様、この草鞋は私が解いて供養しますほどに、どうかお切りなさいませんように…」栄信は背負った荷物の中に同じように履き古した草鞋を見てただならぬ思いを感じた。

 素空が足袋たびを脱ぐと、栄信が眉を寄せて言った。

 「これはこれは、たいそう難儀いたしましたね。私など近江おうみからの旅でしたので、これほど足を痛めることはありませんでした」そう言うと、素空の足を丁寧に濯ぎ始めた。

 「痛くありませんか?」栄信はそっと布を当てながら言い、素空はジッと目を閉じて答えた。「いいえ、見た目ほど痛くはありません」栄信と素空は、互いに何となく気が合うような気がした。

 栄信は、忍仁堂の法灯ほうとうを絶やさぬ役目を3年ほど続けていた。開祖かいそ忍仁大師にんじんだいしが、みかど御世みよが続くように1本、天下の安寧あんねいのために1本、と2本の蠟燭ろうそくを立てたことに始まる『永久の法灯とわのほうとう』を預かる灯明番とうみょうばんおさだった。

 素空は桐箱をしっかりと抱き、長い廊下を3度曲がり、見事な庭園を見ながら進んだ。

 「失礼いたします。希念様をお連れいたしました」

 「お入りなさい」柔和な声が、薄暗い部屋の奥から聞こえた。

 部屋に入ると、奥の人物の輪郭は分かるものの、顔の表情までは見えなかった。

 「お前さんのことは玄空からの知らせで存じていたが、姿形は、わしの想像通りであった。玄空め、見事なまでにそなたの特徴を書き表したものだ。それも、わしがどう想像するかまで考えた上のことよ。さすがは、わが友玄空じゃ。希念よ、今日からはわしの門下で修行するのだよ。諸事栄信に従い、天安寺に早く馴染むことじゃ。既に玄空から多くのことを学んでおろうが、修行の手法も様々で、経典も膨大に収蔵してある。僧も随分と仰山いる故、様々なことを思う存分学ぶが良かろう」

 瑞覚大師は上機嫌だった。

 素空は傍らの桐箱を開いて口上を述べた。

 「これはお大師様に献上するために持参したものです。お納め下さい」

 瑞覚大師は、素空が差し出した1尺5寸(45cm)ほどの薬師如来像を見るなり、目をしばたかせ満面の笑みを見せた。

 「見事じゃ、おお、実に見事な如来様じゃ…玄空は若い頃から才があったのじゃ。これほど見事な如来様をようもようもわしのために作ってくれたとは…」瑞覚大師は実に感じ入った様子で、薬師如来像を手に取って嘗めるように眺めた。

 素空は誤解を解くには早い方が良いと思い、意を決して申し上げた。

 「お大師様、誠に申し上げにくいことながら、如来像を彫りましたのは私でございます。師に教授を受けて7年、この度御本山に上がるに際して、お大師様に献上せよとの師の勧めに従いましたもので、未熟ではありますが心血を注いでおります。なにとぞ改めましてお納め下さい」

 素空は整然とした語り口で、瑞覚大師の誤解を解き、改めて献上の意を示した。

 「なるほど、そうであったか。希念よ、そなた、ひょっとしたら…わしの誤りは彫り手を間違ったのではなく、そなたの才を測りちごうたのかも知れんようだ」瑞覚大師はそう言うと、薬師如来像を手に取りいとおしむように満面の笑顔で眺めまわした。

 「お大師様、これから希念様を宿坊にご案内いたします」栄信の言葉に、瑞覚大師が答えた。

 「おお、そうであったな。明日の朝、勤めが終わったら皆に見知らせようぞ」

 栄信と素空は、深く頭を下げて部屋を出た。

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