回想と予見 その5

 素空は小出石こいでいし参道さんどうをかなり進んだところでちかけた塚の前に立っていた。何やら妙な気配を感じて、経を唱え始めた。ジッと目を閉じていると、その昔比叡山ひえいざん焼き討ちで討手うってに殺された僧をとむらうためのものだと分かった。やがて3本目の経を唱えた頃から、周囲の木々が風で動き、サラサラと葉の擦れる音に包まれた。

 ジッと目を閉じて一心いっしんに経を唱える素空の体を、何かが後ろに引き倒すような力を感じた。黙しながら素空は『これはまさに霊力れいりょくではないか?』と思った。

 初めて感じる霊の力に、経を唱えながら、その力のままに身を任せようとした。

 次第に体が倒れ、背中が参道の上に着きそうになった時、素空は意識が遠くなって来た。初めての経験だったが、天安寺てんあんじの参道で経を唱えながら、悪霊あくりょうの手に落ちることなどないと思ってのことだった。素空が予感した通り、地面に着いた瞬間、別の世界に入ったと感じた。

 体は動かなかったが、意識だけが別の世界を見ていた。

 そこは、おびただしい僧の霊が待つ地上の溜り場とも言える場所だった。苦し気な霊達の様子を見ながら、素空は経を一心いっしんに唱え、現世に残された霊達の苦しみをどうすれば消し去ることができるか?未熟な自分にはどうすることもできないことで、経を唱え、哀れに思うだけの無力さに涙した。

 やがて、意識が体に戻って来た時、暫らくして、素空は気を取り戻した。

 素空はやがて昇霊しょうれいによって悲しき霊をいやすことになるのだが、それはまだ先のことだった。

 『人が魂で生きていることを、ハッキリ感じさせられた思いだ』素空はこれ以上深く考えることはなかった。天安寺での修行が始まる今、悲しき霊達の存在を知り得たことに感謝し、暫らく記憶のうちに留めておくことにした。

 もう少し登ると尾根道おねみちに辿り着いた。尾根の参道は広く、荷車の往来も可能なほど道幅にゆとりがあり、鞍馬山くらまやまへまっすぐに続いているようだった。左に少し進むと天安寺に入る筈だった。素空は尾根の参道に立った時、ハッとして今しがた参った塚がこの尾根道の端にあったことに気付いた。『どんな訳で下の道に転げ落ちたのだろうか?』

 素空は塚まで戻ると、3つに割れた塚石をひとつづつ上に運んで、元の場所と思われるところに安置した。もう1度合掌してジッと目を閉じると、参道の地面から何やら異様な気配が沸き上がるような、初めての不思議な気分を感じた。素空はその気配の中に没頭するかのようにのめり込んだ。座禅とはまったく違った没入の仕方だった。

 『この場所のせいだったのだろうか?』素空は暫らくして我に返って呟いた。

 不思議なことに、これまで考えることも思い描くこともなかった悪鬼悪霊への思いや、霊の力と法力、慈悲と仏罰などが、急坂を転げ落ちるように駆け巡った。

 素空の思いの中にあった金色の輝きがいつしか純白の光に替わって、豊かなもので満たされて行った。

 『あの豊かなものは一体何だったのだろうか?』今の素空には思い及ばない世界だった。師から学んだすべての知識の外にあったのだ。素空は考えることをやめた。そして随分長い間、この一瞬いっしゅんの、この一切いっさいの記憶までのうり裏の奥底に納めた。

 素空は天安寺を目前にして、何故こんな思いを持ったのだろうか?初めての経験に戸惑い、初めての経験のすべてを暫らく忘れることにした。それは、仏が時が来るまで開けないようにしたかのようだった。素空は天安寺での修行を終えると、その豊かなものを知ることになるが、それはまだずっと先のことだった。

 

 

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