旅立ち その5

 草津くさつまで来ると、琵琶湖びわこの水が陽にキラキラと眩しく輝き、輝く先に鳳来山ほうらいがあると思うと、体中に力がみなぎって来るようだった。

 素空が大津おおつに着いたのは、申の刻さるのこく(午後4時)すぎだった。足を延ばせばまだ先に行けたが、翌日の昼過ぎに本山入りの予定だったので、街外れで宿を探すことにした。大津の街はこれまで見たことがないくらい賑わっていた。

 托鉢で寄進されたものは1しょうほどの米と、銭もこれまでの10倍はあった。素空は何軒も回ることなく袋に一杯いっぱいなったところで托鉢を終えた。

 旅籠はたごに泊まることは考えず、宿場を通り過ぎて最初に目にした百姓家に宿を頼んだ。しかし、次々と断られて、10数軒目の見るからに貧しい、夫婦2人住まいの百姓家に来た。亭主もかみさんも気さくで人の良さそうな笑みを浮かべて迎え入れた。

 素空を招き入れると、すすおけを用意して素空の草鞋わらじを外し始めた。おかみさんは濯ぎ終えると、素空を囲炉裏端いろりばたいざなった。手馴れた様子のおかみさんを見ていると、亭主が話し掛けた。

 「女房は娘の頃、旅籠に奉公していまして、こんな百姓家には不似合いでしょうとも…」亭主はにこやかに、少しばかり自慢げに言った。

 「いいえ、そのようなことはありません。見事な客あしらいに感心しました。ご案内のままに上座かみざに着いてしまいました」

 すると亭主は愛想良くキッパり言った。「お坊様、何をおっしゃいますか。お坊様は御仏に1番近いお方でございます。私共のあばら家においで頂けただけでもありがたいことです。…そう申しても、貧乏百姓びんぼうびゃくしょうですから、たいした持て成しもできませんが、ごゆっくりお過ごし下さい」亭主はそう言うや否や、外に出て行った。おかみさんは、素空の荷物を上座の壁に運んだ後、素空の様子を覗き込むように尋ねた。

 「あの…お坊様、この桐箱の中には一体何が入っているのでしょうか?初めから気になっていたものですから…よろしかったらお教え下さい」

 桐箱の蓋が四角く欠けていては、誰が見ても気になることだろう。

 素空は、おかみさんの疑問に、にこやかに答えた。

 おかみさんは聞いた以上は是非とも見たくなって素空に頼んだ。素空は箱を開けて布にくるんだ薬師如来像を披露した。

 「あれまア、見事な仏様だこと、これをお坊様がお彫りなすったのですか?」おかみさんは感心してしげしげと眺め、眺めては手を合わせて何やらブツブツ呟いた。

 亭主が両手に野菜を抱えて戻って来た。おかみさんを見るなり、素空に弁解をするように囁いた。「わしらは、夫婦になって12年になります。10年前は息子が1人いましたが、飢饉でろくな食べ物もなく、乳の出が悪かったせいか、風邪を患いあっけなく死んでしまいました。女房は暫らく悲しみに暮れて、立ち直るのに2、3年掛かりました。若いうちはまた授かることもあるだろうと思っていたのですが、もう10年も子を授かりません。近頃は神仏を見ると、必ずあのように何やらブツブツと呟くようになりました」

 初めに見せた柔和でにこやかな笑顔の影に、おかみさんの深い悲しみがあったとは思いもよらないことだった。

 暫らくすると、おかみさんは元の明るい笑顔を取り戻して夕食の支度を始めた。亭主が持って来た野菜をまな板に乗せた時、素空が托鉢の米を差しだしながら、おかみさんに声を掛けた。「おかみさん、これをお使い下さい。明日鳳来山に参りますので夕餉ゆうげ朝餉あさげを頂ければ十分です。それから、この金子もお使い下さい。私には不要のものです」

 おかみさんはいったん断ったが3度目に受け取り、恐縮しながら亭主に告げて、亭主からも礼を言わせた。

 「お前さん、お坊様のお陰でこうして白いご飯が頂けますよ。ありがたいねぇ」

 おかみさんは気持ち良いほどの笑顔を見せて亭主に同意を求めた。

 「そうだな、盆か正月みたいだよ。希念様、ほんとうにありがとうございます」

 亭主も久し振りの白いご飯で涙ぐむほど喜んだ。

 「ここいらの百姓は、みんな貧しい暮らしをしていますが、とりわけうちは作地が狭いものですから…ろくなおもてなしもできません」

 食事の後、素空は薬師如来像の前で経を唱え始めた。おかみさんは夕食の片付けを始め、亭主は藁打わらうちを始めていた。暫らくの間、読経と藁打ちの音と、柄杓ひしゃく水瓶みずがめから水を汲む音が聞こえるほかは、何とも妙な静寂せいじゃくが家の中を満たしていた。

 「お前さん何やっているんだい!それは太一の産着じゃないか!こんなに切り刻んで一体どう言う訳だい!」

 夕食の片付けを終えたおかみさんが悲鳴ともつかない絶叫をあげた。

 読経を中断して振り返るとおかみさんが、亭主の傍らで切り裂かれた産着を胸に抱えて泣いていた。

 亭主はなだめるように、おかみさんの背に手を押し当てて、囁くように優しく語り始めた。

 「お前の悲しい気持ちは痛いほど分かっているつもりだ。そして、この産着がお前にとってどれほど大事な物かかも分かっているつもりだ。だがな、希念様のお御足みあしをご覧よ、明日は鳳来山にお上がりなさると言うのに、普通の草鞋わらじじゃさぞ難渋なんじゅうされることだと思わないか?さりとて、希念様の草鞋に使える布切れはこれだけしかなかったのさ。太一の産着がお坊様のお役に立つんじゃないか、太一もきっと喜んでいるさ」

 おかみさんは、亭主の説得を聞き入れたように、顔を上げて亭主に向き直った。

 亭主は半分納得したおかみさんに更に囁いた。

 「それに、黙っていても太一の産着は鳳来山に上がっていくんじゃないか。これほどありがたいことが、そうそうあるもんじゃないよ」

 おかみさんにとって、亭主のこの言葉は決定的な説得力を持っていた。

 おかみさんは、産着を胸に押し当てたまま、素空に向かって頭を下げた。

 「お坊様、太一を鳳来山までお連れ下さい。思えば、この10年暮らしに困窮して十分な供養もしてあげていませんでした。太一のことを思い続け、悲しみ続けることしかいたしませんでした。鳳来山で草鞋と一緒に供養して下さいまし」

 亭主が、素空の方に照れたような笑顔を見せていた。

 この後、素空はこの家の仏間に案内してもらい、太一の供養を始めることにした。狭い百姓家だから、次の間が夫婦の寝間で、それっきりしかなかった。

 素空が経を唱え始めた時、夫婦の目から涙が溢れだし、初めて耳にする不思議な経の声に心を震わせた。

 素空が座を渡すと、最初に亭主が太一の位牌の前で経を唱え、位牌の傍らに祀られた薬師如来像を仰ぎ見た。『ああ何と神々しいお姿か?ああ、ありがたいことでございます』心の中でそう言うと、もう1度位牌を見て目を閉じた。

 次に座ったおかみさんも、同じように薬師如来像を見ると、まるで本当の仏にであったように驚きの目を向けて一心いっしんに拝んだ。位牌の前で何やら想像のできない力を感じた夫婦は、仏の存在をおぼろげに実感した。

 次の日、素空が出立の用意を始めた時、亭主がおかみさんと一緒に遣って来た。

 「希念様、昨夜は本当にありがとうございました。これは、山道やまみちではとても履きやすいと思いますのでお使い下さい。それから、これは金剛杖こんごうづえとは参りませんが、山道では重宝するでしょう。是非お持ち下さい」そう言うと、杖と草鞋を3足差し出した。おかみさんは、朝食の支度の時にこしらえた弁当を持って来た。

 「山道は危のうございますので、十分お気をつけてご本山までお上がり下さい」おかみさんの言葉に、素空は2人のもてなしと心配りに改めて感謝した。

 支度をすませて亭主と庭先に出ると、田畑を案内してもらった。作地を広げることができないのはひと目で分かった。道沿いに田んぼが広がり、亭主の田んぼは1番裾の3枚だけだった。畑も1反ほどしかなく、貧乏するのは当たり前だった。田んぼの水は1番最後で、日照りの時は田畑も1番先に被害を受けることは間違いなかった。

 素空は、杖をいて庭先から畦道あぜみちへと歩きだし、畑を1回りして戻って来た。

 「ご主人、この井戸を日常使うことは一向いっこうに構いません。但し、作物のために、もう1つ井戸をお掘りなさいませ」そう言うと、田んぼに近い庭先の1点を、コンコンと2度3度杖で衝いた。

 地面から乾いた音が返って来た。「ここに5間3尺(10m)の深井戸ふかいどをお掘り下さい。途中ででて来た水はすべて汲みだし掘り進めるのです。やがて、5間3尺掘り進めると大きな地下水脈に当たり、それ以上掘れなくなるでしょう。その水はどのような旱魃かんばつの時もれることはなく、作物を病害虫から守る力を与え、収穫を増やすことでしょう。旱魃の時は他の田畑にも分け与えることです。御仏はそうお望みになる筈でしょうから」

 素空はそう言うと、鳳来山を目指して歩きだした。

 

 



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