旅立ち その4

 石部いしべは街道沿いの要衝で賑わいがあった。素空は商家の軒先を片側から順に托鉢たくはつを始めた。軒先で耳に届くか届かないかの小声で唱えるのが托鉢の基本だと思い、低く地を這うような声音こわねを発した。

 軒先に僧侶が立つと、信心からではなく、迷惑そうな顔で寄進する者も多かった。短い経を店の前で唱えると必ずお布施をくれるのだが、ほとんどの商家で懐紙かいしに入れたほんの僅かの米粒を2重3重にひねって渡した。

 通りに面した殆んどの商家を回ったところで、街外れの飯屋に入って、米を渡して飯を食べさせてもらおうとした。飯屋の場所は托鉢の前に承知していたが、これから奇妙な展開が待っていようとは、予想もしないことだった。

 飯屋は橋のたもとの大きなやなぎの木に隠れるように、ひっそりと「めし・酒・さかな」と書いた木の看板をだしていた。この飯屋には、まだ暖簾のれんが掛かってなかったが、中に人影が見えたので声を掛けることにした。

 「ご主人、申し訳ありませんが、この包みの米と引き換えに飯を1膳いただけませんか?」素空の言葉が終わる前に、飯屋の主人が愛想良く言った。

 「これはこれは、お坊様、店はこれから支度を始めるところで、誠に申し訳ありません。夕べの残りの冷や飯を湯漬ゆづけにしますのでお召し上がり下さい」

 飯屋の亭主は寡黙かもくな40近い男で、それでも素空の物腰に心を開いて、思ったことが容易に口を吐いてでた。普段の亭主は殆んどむっつりして無表情で接客をしていたが、決して不機嫌でも、いやな男でもなかったし、常連の客もいた。しかし、亭主が思うほど飯屋は繁盛せず、日銭を稼ぎだすのがやっとのことで、店の改装など金の掛かることは一切いっさいできそうになかった。

 亭主は、調理場で支度をしながらぽつぽつと質問を始めた。

 「お坊様はまだお若いようですが、お幾つになりなさる?…どこから来なさった?…どのような旅でしょうか?」

 素空はその都度答えたが、亭主にはどことなく親しみを感じた。

 亭主は、湯を沸かすと何やら火であぶりながら言った。

 「お坊様は、天安寺てんあんじのお大師様で、瑞覚様ずいかくさまをご存じでしょうか?石部のご出身で、天安寺ではたいそうご出世されたそうです。この辺りの者にとっては自慢でございますよ。私の伯父おじが、お大師様と幼馴染おさななじみで、子供の頃からその賢さは評判だったそうです」

 「お会いするのはこれからですが、お大師様は、私の師の兄弟子に当たるお方で、天安寺の東院とういんで最高位の貫首かんじゅをなさっていると聞いています」

 素空は、瑞覚大師の名がでたことで、亭主に一層いっそう親しみを感じた。

 「お食事の支度ができました。粗末なそまつもので申し訳ありませんが、どうぞ、おなかいっぱいお召し上がり下さい」漬物つけものいわし目刺めざしが2匹小皿に乗っていた。

 素空は目を閉じて感謝の祈りを唱えてから箸をとった。

 亭主は、素空が湯漬けを口に運ぶ傍らで、素空の荷物を興味深げに眺めていた。

 『御本山に上がるお坊様は、その身ひとつが常だろうが、このお坊様はなぜこの荷物を運ぶのだろうか?』桐箱を眺めながら、亭主の興味はそこだけに集中した。

 「お坊様、お荷物の大きな桐箱は何でしょうか?」亭主はたまらず尋ねた。

 「これは瑞覚様に献上する薬師如来像です」

 素空が答えるのも待ちきれないように亭主が言った。「お食事の後、お見せ頂いてもいいでしょうか?」

 食事の後、素空は箱を開いて食卓に薬師如来像を祀った。亭主はひと目見て合掌して、もう1度よく眺めて見た。また合掌してようく見ると、如来像の肩から腰にかけて、決して触れはしなかったが、なぞるように両手を添わせた。

 「お見事な仏様ですねぇ。このような立派なものは見たことがありません。これならばお大師様もお喜びになることでしょう」

 素空は、瑞覚大師にゆかりの地で、瑞覚大師を誇りに思う亭主に感じ入った。

 托鉢の時おひねりに使われた懐紙かいしを取りだし、湯熨斗ゆのしをして、筆で商売繁盛の福の神を描いた。片手に稲穂を下げて、何かを呼び寄せるように手招きをしていた。もう1枚に米をついばむすずめが描かれていた。雀は稲穂に魅せられたような目を向け、3羽4羽と寄って来て全部で7羽えがかれた。

 「ご主人、大変お世話になりました。この1枚を入り口の近くに貼って下さい。福の神はお店の奥の方で、いつもあなたから見えるように貼って下さい。お店が繁盛しますようにと、思いを込めています。この福の神は、一心におがめば必ずや願いを叶えてくれましょう。肝心なのはいつも御仏に感謝する心を持つことです。1日1回御仏に感謝をすると、いつの日かお店に福が到来することでしょう」そう言うと出立の支度を始めた。

 素空が店を出ようとした時、亭主が声を掛けた。

 「お坊様、少々お待ち下さいまし。このお米はこの先でお召し上がりの折にお使い下さい。私は先ほどの仏様を拝ませて頂いただけでも、ありがたいことでしたのに、このような福をもたらして下さる絵を描いて頂き、どんなにお礼を申し上げても足りないくらいです」亭主は米の入った包みを渡すと頭を深く下げて、店から少し出たところで見送った。

 素空が去ってから暫らくして、店に暖簾を掛けるとすぐに人足風にんそくふうの4人連れが入って来た。

 4人は腹いっぱい食べると店を出て行ったが、すぐに新しい客が現れて注文した。その客が食べ終わらないうちに、また次の客が入って来て注文したが、この店が開店してすぐにこれほどの客が立て続けに遣って来たのはこれまでになかったことだ。

 亭主は、素空が描いた雀が客のことで、福の神がこの店に客を招く本当の福の神だと言うことに気付いた。

 その日の仕事はあっという間に終わり、飯もおかずも売り切れてしまった。

 『こんなに早仕舞いをしたことなど滅多にないことだ。これはあのお坊様のお力なのだろうか?』

 亭主は次の日も、また次の日も絶えることなく客が遣って来て、その日用意したすべての食材があっという間になくなったため、本当に素空の力だと信じた。

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