旅立ち その3

 水口みなくちが3日目の宿場だったが、せきからの山越えでは思うように進まなかった。宿場外れまで来た頃には陽が沈み、すぐに宿を探したが、表通りの宿は荷物を背負った旅の僧に宿を貸す素振りがなかった。僧はたっとばれる反面、辛気臭しんきくさいと嫌われることもあった。羽振はぶりの良い宿に時々ある、言われなき差別も素空は承知していた。

 街外れまで行き、通りを右に曲がって、裏通りをひと回りしようとした時、すぐに客引きの番頭に声を掛けられた。

 「お坊様、お背なのお荷物、さぞ重とうございましょう。今宵は近江屋おうみやでお泊り下さいまし。…ささ、こちらでございます。どうぞどうぞ、ささ」

 番頭は客を逸らさぬ見事な客引きを披露した。宿は暫らく歩いたところにあり、ここならば番頭の講釈こうしゃくなしには商いにならないだろう。表通りの宿と違って間口まぐちせまく古めかしいたたずまいはいかにも安宿然としていた。

 素空は、三杉にもらった金子のおかげで、宿賃を気にせずにすんだ。だが、案内された部屋は小奇麗に手入れされていたが、古くて狭かった。部屋に着くまで宿賃が安いの、風呂が良いのとか言っていたが、なるほどこの部屋なら安いだろうと思った。

 「番頭さん、客は私1人ですか?人の気配がまったくしないものですから…」

 素空の問いに、番頭が明るく答えた。

 「お坊様、お客の大半は表通りの宿に持って行かれて今日はお坊様お1人でございます。宿は、女将と手前と小男とその女房で下働きの小女の4人でやっていて、湯も食事も表通りには負けないのですが…場所がちょっと悪いだけで残念なことです」

 その日は食事をして風呂に入り、夜の勤めをすませると、ぐっすり眠った。

 翌朝、朝食後に昼の弁当を受け取り、出発の支度に取り掛かった時、番頭と女将がそろって挨拶に来た。

 「お坊様、お背なのお荷物は御仏像ではありませんか?お出掛けの支度をすませていますのに、誠に申し訳ありませんが、ひと目お見せ願えませんか?番頭が申すにはお床を延べに行った時に見事な仏様が祀られていたそうで、つい先ほどそのことを聞き、私も是非拝見したいと思いまして…」

 女将は恐縮しながらも、かなり強い希望をただよわせていた。

 「改めてお見せするほどのものではありませんが、私が鳳来山のお大師様に献じるために彫りましたものです。…ご覧下さい」

 素空が桐箱から取りだして見せると、女将と番頭は目を見張って合掌した。

 「こちらの仏様が宿にお住み付きになれば、この宿も繁盛するのでしょうに。世の中ままならないものですね」

 女将の切なる思いを聴いて、素空は暫らく思案していたが、筆と紙を用意すると、薬師如来の正面図を描き始めた。

 「これは如来様の下絵なのですが、御仏の御姿を仏間に掛けてお祈りすれば思いも届き易くなると存じます」女将は目を見張りながら押し頂いた。

 「何と神々しいお顔でしょうか、仏様の御慈愛が伝わって来るような見事な筆遣いですね」

 素空は更にもう1枚の半紙に姉に贈ったのと同じ福の神を描き、昨日を思いだしながら『湯よし、食よし、人よし』と宿の宣伝となるよう添え書きした。ほとんど描き上げた時、女将が待ちきれずに話し掛けた。

 「こちらのお姿はどのようなお方でしょうか?」

 「こちらは福の神と申します。商売繫盛、家内安全いかようにも運気を運んでくれるでしょう。ただし、欲を捨て心から御仏の意にかなうよう生きることです。日に1度の感謝の言葉を欠かさず申し上げることで、御仏の御心が理解できるようになる筈です。この絵を帳場の屏風びょうぶり付け、お客が奥に目を遣った時に必ず見えるようにして下さい」

 「はい、必ず仰せの通りにいたします。そして、添え書きにたがわぬよう心して商いに精進しょうじんいたします」

 荷物をまとめ、もう1度出発の支度を始めた素空は、女将にニッコリと笑顔を向けて別れを告げた。

 水口をって1時いっときほど歩いた時、石部いしべのすぐ手前まで到着した。

 朝の風はまだ寒々しく僧衣そういすそをなびかせていた。川の水は透き通って底の様子もハッキリと見えた。はやのような2~30匹の魚の群れが目の前を泳ぎ去った。川面に湯気が立つほど寒かったが、母と息子だろうか『水に入って何をしているのだろうか…?』ハッとして駆け寄った。

 「そこのお方、何していなさる!子供を道連れとは、なおさらいけません。おやめなさい!そのようなことをしては、神仏のばつを受けますぞ!やめなされ!」素空は言葉を絶やさないよう、気遣いながら接近した。逃げるように深みに向けて進む母子に、素空の言葉が伝わったのか、息子が歩みを止めた。素空が追い付くと、母親は急に憑物つきものせたような表情で、素空の言葉に従順になった。

 川から上がると、素空は一軒いっけんの小屋に2人をしょうじ入れまきに火を点けた。

 町人の御新造風ごしんぞうふうだった。身なりはよくないが、小奇麗な性分のようだった。息子は7つか8つで素空が寺に上がった頃と同じ年恰好としかっこうだった。この親子に何があったのかは分からないが、この親子の不幸は、10年前の我が家の不幸とは比べようもないことは容易に察しが付いた。

 炎が回り、温かな風が小屋を満たし始めると、母親は、息子の着物を脱がせて火に当てた。次に、自分の帯を解き、着物を脱いだ。襦袢じゅばんを着てはいたが、目のやり場に困った。素空も腰のあたりまで濡れていたが、女人の前で僧衣を脱ぐことは憚られ、寒さに耐えながら火に当たった部分が次第に乾いていくのが待ち遠しかった。

 「お坊様、先ほどは申し訳ありませんでした。夕べこの子と死のうと決め、今朝になって川に入りました。この子も黙って付いて来てくれましたので、異存いぞんがないものと決め付けていました。お坊様に呼ばれ、この子が足を止めた時、私は我に返りました。亭主に死なれ、この子を育てて行くことができなくなり、ひと思いに命を絶とうと決心したのです。あろうことか、生きるつらさより死を選んでしまいました。でも、生きるためにはこの子を手放すことになると思えば、こうすることしか思いつかなかったのです」

 母親はそう言うなり、涙を浮かべてすすり泣いた。

 素空は桐箱を開いて如来像を祀った。護摩ごまくように盛んに燃える炎の脇で素空の経が始まった。母親の言葉の後に続ける言葉が見つからなかったのだが、静かに始まった経の響きが次第に母親の心を癒していった。

 息子の衣が乾いたところで着物を着せた母親は、自分の着物が乾いた時、襦袢を脱いで裸になり、乾いた着物と交代に下着を乾かした。素空はもはや、気持ちの片隅にもその仕草を感じ取ることはなかった。

 経が3本目になる頃、素空の僧衣はほとんど乾いていた。親子の着物は乾き上がり素空に倣って薬師如来像に向かって合掌した。経が終わると、盛んに燃えていた炎が静まり、赤々と輝いていた如来像の顔が元通りに落ち着いて慈愛に満ちた表情に変わった。

 「お坊様、この子をお坊様のお寺にお預かり下さいませんでしょうか?このままではやはり生きて行けません。いずれ、また同じようなことをしては、お坊様に申し訳ありませんし、仏様のお怒りを買うことにもなります。どうかどうか、この子をお助け下さい」

 素空が、10年前の自分を思いだして色々な思いにとらわれていたのはほんの一瞬いっしゅんだった。

 素空は薬師如来像のような慈愛に満ちた笑顔を母親に向けて言った。

 「母御殿、この先の水口みなくちと言う街に入ってすぐの橋を渡り左に折れると近江屋おうみやと言う宿があります。宿の女将さんと番頭さんはとても信心深いお方ですから、あなた方を迎え入れて下さることでしょう。宿に着くとすぐに、今朝発った希念と言う僧に聞いて来たと言えばいいでしょう」

 素空は最後に大切なことをひとこと付け加えた。

 「私の名前を言えば近江屋さんが引き受けて下さる訳ではありません。この世のことは御仏の御心の内です。御仏の御慈悲にすがるのです。すべてを御仏の御慈悲と思いありがたく受け入れ、感謝の心を忘れないで毎日御奉公することです。近江屋さんもそんなお気持ちで接してくださるでしょうから…」

 別れ際に朝方もらった弁当を渡し、更に三杉正介からもらった金子の残りを全部持たせた。素空は母親の心にすべてを受け入れる素直な気持ちが芽生めばえたのが嬉しかった。そして、2人に別れを告げ、石部に向けて歩きだした。

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