旅立ち その2

 3日目の朝、素空が関を発って間もなく、鈴鹿峠すずかとうげに向かう山道の途中で、小男を連れた武家の女房風の女が腹を押さえて臥せっていて、何やら眉尻を吊り上げて小男を𠮟り付けていた。小男は右往左往するばかりで、何の助けにもなっていないようだった。

 「奥様は持病のしゃくを患い、今朝から1里も進んでいません。お医者様も薬もなく、困っています。お坊様、どうかお助け下さい」

 素空は、半べそをかくような格好で、ほとほと困り果てた小男の甲斐甲斐かいがいしい働きが、何の慰めにもなっていないのを哀れに思った。

 「吉治!背中をさすっておくれ!そこじゃない下手糞へたくその役立たず者め。それに、そこの坊主は何だぇ、縁起えんぎでもない。私に要るのは医者で、坊主なんかじゃないんだよ。あっちに遣っておくれ」

 素空は、あえぎながらうめきともつかない声でののしっている女主人に、なおも従順に仕えている吉治と言う小男のために経を唱え始めた。

 経が始まってすぐに、あれほどうるさかった奥方の声がいつしか聞こえなくなったかと思うと、その場で眠りに落ちていた。暫らくして経が終わり、奥方に解放された吉治が、素空に尋ねた。「お坊様、一体奥様に何をなさったのでしょうか?…奥様は一体どうなさったのでしょうか?」

 「心配することはありません。痛みが癒えて眠っているだけでしょうから」吉治はホッとして、素空に笑顔を見せて尋ねた。

 「お坊様はさぞかし名のあるお方とお見受けします。お名前をお聞かせ下さい」

 「私は希念と申しますが、修行の身でまだまだ未熟者です」

 すると、吉治がまた尋ねた。

 「それでは、どうして奥様の病を癒されたのですか?」

 「それは、あなたが罵倒ばとうされるのを見るに見かねたからです。御仏は、あなたを哀れみ、あなたにひと時の安らぎをお与えになったのでしょう」

 「ではお坊様、仏様にもう1度お願いして頂けませんか?奥様のお心が癒されますようにと。…奥様は以前はとてもお優しいお方でした。3年前に旦那様とお嬢様が亡くなられてから、次第にお心が曲がり始めたのです。3年の間に、奥様も随分お辛い目に遭われました。私にできることがあれば、どんなことでもいたします。どうか、もう1度仏様にお取り次ぎ下さい」

 吉治の必死の願いに、素空が問い掛けた。

 「それでは、奥様がどのようなお方か、もう少し詳しく教えて下さいますか?」

 「はい、奥様は亀山かめやまの名のあるお侍様のお嬢様でした。近江八幡おうみはちまんの商家の旦那様とご縁があり、10年ほど連れ添っていましたが、琵琶湖で船遊び中に船が沈み、旦那様とお嬢様を1度に亡くされたのです。この度は、奥様のご実家にお母上様のお見舞いのためと、商いの資金繰りが苦しくなっていましたので、櫛笄くしこうがい反物たんものなどを持って参りましたところ、『見舞いかと思えば、商売に来たのか!武家の屋敷で物売りとは聞いたこともないわ』そう言われ、無心むしんもできず見舞いをすませて早々に帰るところでした。お家は兄上に代替わりしていて、傾いた商家のことに関わり合いになりたくないご様子でした。お坊様は、私を哀れに思って下さいましたが、奥様ほどお可哀そうなお方はいらっしゃらないのです」吉治は、話し終わると涙を拭った。

 素空は、吉治の話をジッと聴いて、暫らく目を閉じていたが、背負った桐箱を降ろして如来像を取りだした。

 「亡くなられたお方の戒名をお聞かせ下さい」

 吉治が申し訳なさそうに答えた。

 「旦那様とお嬢様の戒名は存じませんが、旦那様のお名前は嘉平かへいと申します。お嬢様はおルイと申します」

素空は桐箱の蓋を取りだし、道具を使って短冊状に2枚切りだした。筆を執ってひとつに俗名嘉平、もうひとつに俗名ルイとしるした。素空は薬師如来像の前に短冊を並べて経を唱え始めた。

 経は3本唱えられたが、吉治もなぞるように口を動かしていた。3本目の経が終わると、吉治の目に涙が溢れ、ジッと合掌したまま動かなくなった。

 素空は広げた荷物を元に戻して短冊を渡すと、別れ際にひとこと言った。

 「吉治様、奥様のことを本当にお思いなら、従うばかりではよくありません。あなたが良いと思うことは躊躇ためらうことなく口にだして行うことが良いでしょう」

 吉治は桐箱の蓋で作ったお札を胸にいだきながら見送った。

 暫らくして、奥方が起き上がるのを手を添えて助けた吉治に、「ありがとう。吉治や、あのお坊様はどうなされたのですか?」

 「奥様のためにお経を上げて頂き、旦那様とお嬢様の菩提ぼだいとむらうお札も頂きました」

 お札と聞いて奥方が怪訝な顔をした。

 「はい、これでございます」と差し出された札をひと目見て言った。「これは一体何のつもりでしょうか?名を書いただけのお札ではないですか?」

 吉治は、奥方の顔を覗きながらおずおずと付け加えた。「何でも、あのお坊様のおっしゃるには、日に1度お札を開いて経文を唱えると心穏やかになり、わざわいが消え去るよう仏様にお取次ぎ下さったそうです」

 奥方は暫らく考えて口を開いた。「そうでしたか、私に必要だったのは医者ではなく、あのお坊様だったようですね」

 吉治は、奥方の柔和な顔を見るのは随分久し振りだったので、心から喜んだ。

 「奥様、あのお坊様は希念様とおっしゃいまして、誠にご立派な薬師如来様をお祀り下さり、その如来様に奥様のことをお取次ぎになられたのです」

 奥方は打ちのめされた心地で、我が行いを悔やんだ。

 「そうでしたか…腹立ちまぎれに不心得なことを申してしまいました」

 吉治は、悔いても取り返しのできないことをなだめるように…「奥様、大丈夫ですよ。あのお坊様はたいそう徳の高いお方で、奥様の病が言わせたことを気にも留めてはいないでしょう」

 「吉治、いや吉治さん、私はお坊様にだけではなく、お前様にも今まで随分ひどいことを言いました。お前様に甘えて不心得ばかりをして来ました。どうか赦して下さい」吉治は、奥方の心が以前のように優しさに満ちていることに喜び、涙した。

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