第3章 旅立ち その1
素空が本山に旅立つ
「希念よ、なかなかに良い御姿になりそうだな。この寺の御本尊とは趣が違うように見えるが、何を思ってこの御姿に決めたのじゃな?」
素空は暫らく考えて、歯切れが悪そうに口を開いた。
「これはまったくの想像なのでございます。お経を何度も繰り返し読み、お住職様に何年も前にお聴きしたお話がもとになっています。意識して御本尊の真似にならぬように趣を変えています。如来様がお持ちの
玄空は、満面に笑みを浮かべて言った。
「希念よ、話を聞いてますます良い御姿になるように思えて来たぞよ。だが、御仏の真の御姿を求めるなら瞑想のうちにその御仏とお会いするのが良かろうよ。さすれば御姿について思い悩むことはない筈じゃ。梅も咲き始め、出立の時が迫って来ている。心を尽くしてお作りするのだよ」
素空は、玄空の言葉に元気付けられ、迫り来る本山への旅立ちに向けて、更に打ち込んでいった。それからは、仕上げ彫りの合間に禅を組む姿を見るようになった。
梅の見頃が近付き、本山への旅立ちが日一日と近付く中、素空の薬師如来像がほぼ完成した。玄空は如来像のでき栄えに感服したが、その
「希念よ、よくぞ彫り上げたな。
「はい、お住職様、
「そうだな、1人で考えることだよ。こればかりは手助けできないこと、いや、仏師なれば許されぬことじゃ。全霊を込めて御心を吹き込むことだよ」
素空は本山への旅立ちの日、桐箱に収めた薬師如来像を背負って、玄空から差し出された
寺を出て、里の方に足を向けるのは久し振りだった。川沿いに歩き、あの地蔵菩薩の前まで来た時、川に下り手拭いを濡らして清めの用意をした。肩口まで丹念に拭き上げると、地蔵菩薩は口元を少し上に持ち上げ微笑んだように見えた。目元も素空を見るためにあの時のように大きくなったようだ。素空は驚く風でもなく、地蔵菩薩に微笑み返した。清めがすむと、木箱から薬師如来像を取りだし、地蔵菩薩の前に祀った。
経を3本上げると、本山への旅立ちを報告し、玄空と家族の健康を祈願した。そして、立ち上がると櫛田川流域の村々の守護に感謝した。
素空は、涙を浮かべて見送る母の視線を感じながら、振り返ることなく歩みを進めた。村を過ぎると、初めて足を踏み入れる道だった。
暫らく行くと、道は開けて
路傍の
飢饉の前には
暫らく幼い頃の思い出に浸っていたが、ボーッとしている場合ではないのだ。ハッとして我に返った素空は、櫛田川の下流を目指して道を急いだ。明日の泊りは
櫛田川沿いに下り
行き交う人が経を唱えながら歩く素空にお
「
素空が足を止めて笠を上げると、
「おおう、これはお若いお坊様だ。
武士は背負った木箱を下ろしながら、神妙な顔で言った。
「
木箱の
「経を唱える前に、
素空の言葉に、武士はハッとして見上げ、申し訳なさそうな顔で言った。
「拙者は寺とは無縁の暮らしをしていたから戒名など気にしたこともなかったが、言われてみればまことに不信心なことだった。葬儀の後はどこにどうして置いたか覚えもしないのだ」
「では、奥方様と娘様のお名前をお聞かせ下さい」
素空の問いに、武士が即座に答えた。
「申し遅れたが、拙者は
棺の中の骨に手を当て、
素空は背負った桐箱を降ろして蓋を開け、持って来た僅かな道具で桐の蓋を割り始めた。蓋から
「これはこれは、見事な仏様だ…
「三杉様、さあ始めましょう」そう言うと経を唱え始めた。
三杉正介は、素空の横で合掌したまま目を閉じて祈祷した。素空の声は少年期の声変わりが終わり、若くはあったが
経が終わり、素空が薬師如来像の桐箱を背負った時、三杉正介が声を掛けた。
「お坊様、思いも掛けない
そう言うと一礼して、振り返らず
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