第3章 旅立ち その1

 素空が本山に旅立つ1月ひとつきほど前になって、ようやく如来像の姿がハッキリした。

 「希念よ、なかなかに良い御姿になりそうだな。この寺の御本尊とは趣が違うように見えるが、何を思ってこの御姿に決めたのじゃな?」

 素空は暫らく考えて、歯切れが悪そうに口を開いた。

 「これはまったくの想像なのでございます。お経を何度も繰り返し読み、お住職様に何年も前にお聴きしたお話がもとになっています。意識して御本尊の真似にならぬように趣を変えています。如来様がお持ちの薬壺やくつぼは少し大振りにいたしました。また、ころもの風合いを大事にして羽衣はごろもの如くにいたしました。如来様は天上のお方でございますので、女人の優美な御身体おからだに似せて、女人とは感じない御姿にいたしたいと思いました。如来様の慈悲の心は、母の心にも似た深い優しさを表したいと思っていますが、そうできるのかどうかは分かりません」

 玄空は、満面に笑みを浮かべて言った。

 「希念よ、話を聞いてますます良い御姿になるように思えて来たぞよ。だが、御仏の真の御姿を求めるなら瞑想のうちにその御仏とお会いするのが良かろうよ。さすれば御姿について思い悩むことはない筈じゃ。梅も咲き始め、出立の時が迫って来ている。心を尽くしてお作りするのだよ」

 素空は、玄空の言葉に元気付けられ、迫り来る本山への旅立ちに向けて、更に打ち込んでいった。それからは、仕上げ彫りの合間に禅を組む姿を見るようになった。

 梅の見頃が近付き、本山への旅立ちが日一日と近付く中、素空の薬師如来像がほぼ完成した。玄空は如来像のでき栄えに感服したが、その御像ごぞうにはまだ仏の魂が吹き込まれていなかった。

 「希念よ、よくぞ彫り上げたな。出立しゅったつまでに御心を吹き込めば出来上がりだな」

 「はい、お住職様、あとは残された日々、どのようにして村の地蔵菩薩様のように魂の篭ったものにするかと言うことだけを考えます」

 「そうだな、1人で考えることだよ。こればかりは手助けできないこと、いや、仏師なれば許されぬことじゃ。全霊を込めて御心を吹き込むことだよ」

 素空は本山への旅立ちの日、桐箱に収めた薬師如来像を背負って、玄空から差し出された路銀ろぎんを鄭重に断り、山門さんもんを下った。弁当ひとつで後は托鉢たくはつをしてしのぐつもりだった。本山までは急いで5日の道程みちのりで、托鉢しながらの旅でも6日で行き着くだろうと思った。

 寺を出て、里の方に足を向けるのは久し振りだった。川沿いに歩き、あの地蔵菩薩の前まで来た時、川に下り手拭いを濡らして清めの用意をした。肩口まで丹念に拭き上げると、地蔵菩薩は口元を少し上に持ち上げ微笑んだように見えた。目元も素空を見るためにあの時のように大きくなったようだ。素空は驚く風でもなく、地蔵菩薩に微笑み返した。清めがすむと、木箱から薬師如来像を取りだし、地蔵菩薩の前に祀った。

 経を3本上げると、本山への旅立ちを報告し、玄空と家族の健康を祈願した。そして、立ち上がると櫛田川流域の村々の守護に感謝した。

 四半時しはんとき(30分)ほどで懐かしい生家の前まで来ると中に入った。母親が気付いて飛んで来たが『長居はできない』と本山に上がる報告だけして、挨拶もそこそこに出て来た。

 素空は、涙を浮かべて見送る母の視線を感じながら、振り返ることなく歩みを進めた。村を過ぎると、初めて足を踏み入れる道だった。

 暫らく行くと、道は開けてう人々が随分多くなった。

 路傍の石碑せきひの前で合掌して経を唱えた。この石碑は新田開拓の時に犠牲になった人々の霊を慰めるものだった。石碑近くの土手で弁当を開き、前に広がる田んぼを眺めながら食べ始めた。今は刈り取られた稲の切り株がまっすぐに連なっているが、田植えが始まって暫らくすると、一面青々いちめんあおあおとした稲穂で覆われるのだろう。やがて、夏の風が水を張った田んぼを駆け抜けるのかと思うと、懐かしさに駆られるのだった。

 飢饉の前には畦道あぜみちやこんな土手で子守をしながらカエルやヤゴを捕って遊んだ。

 暫らく幼い頃の思い出に浸っていたが、ボーッとしている場合ではないのだ。ハッとして我に返った素空は、櫛田川の下流を目指して道を急いだ。明日の泊りはせきの辺りと決めていた。椋本むくもとの先まで行けば安心だったが、初めての長旅で草鞋わらじが足に食い込むような痛みを我慢しながら歩いた。足の痛みに耐えながらただ歩くより、経を唱えながら歩くほうが随分楽になるように思った。

 櫛田川沿いに下り深野ふかのから辻原つじはらへと、和歌山街道わかやまかいどう一路松坂城下いちろまつさかじょうかに向けて歩いた。

行き交う人が経を唱えながら歩く素空にお辞儀じぎして行くたびに、笠が軽く会釈を繰り返したが、時折、刀を下げた横柄な態度の武士が通り過ぎた。この頃はまだ、伊勢詣いせもうでの旅人は少なく、この街道がにぎわうのはまだ先のことだった。

 松阪まつさかの前まで来た時、背に木箱を背負った1人の武士に声を掛けられた。

 「御坊ごぼう、すまぬが足を止めて願いを聞いてはくれぬか?」

 素空が足を止めて笠を上げると、白髪交しらがまじりの無精髭ぶしょうひげの顔が覗き込んで来た。

 「おおう、これはお若いお坊様だ。拙者せっしゃ桑名くわなから鳥羽とばに行く途中なのだが、今日は朝からずっとお坊様に出会わなかったのだよ。今日は、3年前に死んだ女房と娘の命日なのだが、経のひとつも上げてやりたいと思ってね…寺に立ち寄るには仰々しくて、不信心な拙者には敷居が高過ぎるのだよ。鳥羽の郷里に連れて行き、女房の親と一緒の墓に眠らせてやる手筈なのだが、明日にならねば辿り着かぬようだ」

 武士は背負った木箱を下ろしながら、神妙な顔で言った。

 「相模さがみから3月前みつきまえに連れて来たのだが、娘の骨はどこにもなかったよ。箱の底に敷いた土が娘で、おこつは女房の変わり果てた姿だよ。この箱は、言わば女房と娘のひつぎなのさ」

 木箱のふたを開けて、目に涙を浮かべた武士の顔が意外にも若いのに驚いた。

 「経を唱える前に、戒名かいみょうをお伺いしたいのですが…」

 素空の言葉に、武士はハッとして見上げ、申し訳なさそうな顔で言った。

 「拙者は寺とは無縁の暮らしをしていたから戒名など気にしたこともなかったが、言われてみればまことに不信心なことだった。葬儀の後はどこにどうして置いたか覚えもしないのだ」

 「では、奥方様と娘様のお名前をお聞かせ下さい」

 素空の問いに、武士が即座に答えた。

 「申し遅れたが、拙者は三杉正介みすぎしょうすけと申す。女房はおナミ、娘はおハルと名付ける筈だったが、死産だったよ。女房は娘が死産とも知らずに事切れてしもうたのだよ」

 棺の中の骨に手を当て、いとおしげに撫でながら言った。

 素空は背負った桐箱を降ろして蓋を開け、持って来た僅かな道具で桐の蓋を割り始めた。蓋から短冊状たんざくじょうに2枚切りだし、筆で俗名ぞくみょうを入れ、桐箱から薬師如来像を取りだした。三杉正介は薬師如来の立像りつぞうをひと目見るなり目を見張った。

 「これはこれは、見事な仏様だ…勿体もったいない勿体ない」三杉正介が合掌している横ですべての支度を整え、素空が声を掛けた。

 「三杉様、さあ始めましょう」そう言うと経を唱え始めた。

 三杉正介は、素空の横で合掌したまま目を閉じて祈祷した。素空の声は少年期の声変わりが終わり、若くはあったが胸膜きょうまくに響くような深みがあった。2本目の経を唱えた頃から、三杉正介の目に涙が浮かび、3本目の頃には嗚咽おえつに変わっていた。

 経が終わり、素空が薬師如来像の桐箱を背負った時、三杉正介が声を掛けた。

 「お坊様、思いも掛けない供養くようができました。ありがとうございました。これは些少さしょうですがお礼の金子です。拙者の路銀はあと1日分あれば十分です。どうかお収め下さい」そう言うと無理やり握らせた。素空も手にした名札を渡して、三杉正介に別れを告げた。「三杉様の御心が奥方様と娘様の御霊みたまに届きますようお祈りいたしました」

 そう言うと一礼して、振り返らず松阪まつさかに向けて歩き始めた。日がだいぶ傾き、急がなければ夕方までに松阪に着きそうになかった。

 

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