福の神 その4

 やがて、マキの笑い声や、茂助の歓声が響く中、玄空が帰って来た。

 「随分楽しそうだな。わしもお仲間に入ってよかろうかの」

 「これはこれは和尚様、初めてお目に掛かります。源助の姉のマキと申します。こちらは、亭主の茂助でございます」

 マキは茂助と顔を見合わせて掛軸のお礼を言って、すぐに本題に入った。

 「つきましては、福の神様に魂を込めなされた和尚様に、お伺いしたいことがありまして、よろしくお教え下さいませ。実は、昨年末、私共の店に盗賊が押し入りまして、すんでのところで命を救われたのです」マキは、牢内で頭目が死ぬまでの一切を語った。

 「ほほう」玄空は何やら深く考え込んだ様子で話しの先を促した。

 「所帯を持ってから2度ほど不思議なことが起こったのですが、先日のことはとても信じられないようなことでしたので、和尚様にご相談しなければならないと思ってお伺いしました。ここに、お隠れになった掛軸を持参していますのでどうかお改め下さい」

 「ほほう、それでは掛軸をお見せ下され」

 マキは桐箱から取り出し、玄空の前の畳の上に開いた。

 マキと茂助は半分ほど開いたところで、唖然として目を見張った。

 「お前さん戻っていらっしゃった。朝までお隠れになっていたのに、一体どうしたことでしょう。和尚様、信じて下さい。本当にお隠れになっていたんです」

 そう言うと、互いに顔を見合わせ、次に呆然とした顔を玄空に向けた。

 「良いのだよ。いつまでもお隠れになっているより、こうやって現れなされたことはめでたいことじゃ。この掛け軸にあったものがこの中に帰って当然のこと。何より、わしはお2人を疑ってはおらんよ。信じる者に訪れる不思議と言うものが時折あるのだよ」

 2人は少し安心気あんしんげに顔をに合わせて尋ねた。

 「一体どうしてこんなことが起こったのかお教え下さい」と、初めから抱いていた疑問を投げ掛けた。

 「そうじゃな、人は説明の難しいことを『不思議』と言うが、これはまさに不思議なことだよ。信じる者には見え、信じない者には見えないのだ。わしには一向に不思議ではないことで、本当に信じているのなら、素直に受け入れることができるものだよ。だが、お2人にはとてつもなく突飛過ぎたのかも知れないな」

 茂助は、玄空の言葉に新たな謎を感じた。「でも、不思議なのは頭目に姿を現しになったことです。頭目も福の神様を見ています。お言葉を聞いてもいます。同じ信じていない子分は何がなんだか分からないままのようでした」

 「神仏はいつも慈悲深く、人を優しくお導き下さるばかりではない。時として、激しく怒り、厳しい制裁を下しもするのだよ。盗賊の頭は神仏の怒りを買い罰せられたのだろうが、神仏は罰する者に姿を現されることが時々あるのだよ。そして、直に地獄の炎へと落とすこともあるそうじゃ。その形は時に夜叉やしゃ羅刹のらせつ姿でらしめを行い、普段は穏やかな御顔を見せているのだよ」

 玄空は、2人に笑みを浮かべて更に言葉を続けた。

 「さて、ここからが大事なのだが、そもそも、福の神と言う神様はいないのだよ。希念に福の神を描くように言った後、神の御姿そのままを写したできえに感じ入ったのだよ。そうじゃ、まさしく毘沙門天様びしゃもんてんさまだったのだよ。毘沙門様はもともと、光明神こうみょうしんであり、幸福の神なのじゃよ。但し、だ。毘沙門様は夜叉や羅刹を従えておられるのじゃが、毘沙門様が自ら制裁を加えたか、夜叉、羅刹にそうさせたのかは分からないことだがね」

 暫らくの沈黙の後「描けば皆、神となるものではない。希念が心を込めて描いたものに、わしが掛軸に仕立てる時、希念の思いを更に補い、念じ込めたのじゃよ。だが、一番肝心いちばんかんじんなのは、お2人の毎日の信心があったればこそなのだよ。おそらく、1日も欠かすことなく感謝の言葉を唱え続けたのであろう。福の神の掛軸に魂を吹き込んだのは、誰あろうお2人なのだよ」

 「和尚様、今戻られた福の神様は、これまで通りのお力をお持ちなのでしょうか?」マキがおずおずと尋ねると、玄空は暫らく思案した後ニッコリ笑って答えた。

 「この掛け軸の不思議がまた起こり得るか?と言うことであろうが、こればかりは神のみぞ知るだよ。お2人が不思議を頼まず、以前と同じ気持ちで接することが肝心じゃ。信心とは世俗の欲を打ち捨て、すべてを御仏に委ねることなのだよ。一心にお祈りなされよ。さすれば、苦難の時はまた御姿を現されることじゃろうよ。いずれにしても頼みにせず、心を尽くすことだよ」

 茂助は、玄空の顔を眩しそうに見上げ、マキに目を戻して言った。

 「お前は、希念様のことで何かお伺いしたいと言っていたようだが。言ってみな」

 マキはためらいがちに一瞬素空に目を遣ると座を外させた。

 「実は源助の体はどこか悪いのではないかと思いまして。あのような掛軸の不思議な絵は誰にでも描けるものではないと思います。また、ここ何年も彫り物に打ち込んでいるとも聞いています。あの子は夢中になると食べるのもそっちのけになるところがありました。不思議な絵を描ける子です。彫り物をする時も、きっと寝食を忘れて打ち込んでいる筈です。過ぎるところが見受けられたらどうか、暫らく休むようご注意を頂けませんか?」

 玄空は暫らく考えて一言だけ言った。

 「姉様、心配はごもっともじゃができぬ相談だよ」

 マキはスッと力が抜けて途方に暮れたような顔になった。

 「それは一体どう言う訳でしょうか?」

 茂助の問いに、玄空が声音を変えて答えた。

 「人は一体幾つまで生きておれるのだろうか?…答えはでるまいて。御仏を信じる者には、死は天界てんかいに帰ることに他ならず、喜びのうちにこの世の生を終えるだけのこと。何年生きるかと言うことは、大きな問題ではなく、如何に生きたかと言うことが大事なのだよ。希念はいつお呼びが来ても悔いのない日々を過ごしているだけのことなのだよ」

 玄空は2人に目を遣り、微笑みを浮かべながら語り続けた。

 「お2人が、大切な弟を思えば心配も当たり前のこと。この寺はご覧の通りの貧乏寺だが、粗食ではあるが食べる物には事欠かぬのじゃよ。希念は御本山に上がる前の大切な身じゃ、わしもそうだが、当の希念も十分承知していることだよ。どうか、ご安心召されよ」

 マキはまだ納得ができないような面持ちで、玄空に訊いた。

 「和尚様、御仏にすべてを委ねたお方には簡単にできても、私達にはどうにも納得できないのです」

 玄空は諭すように穏やかに言った。

 「よいかな、希念への心配は取り越し苦労に過ぎないのだよ。お前さん達にとっては大切な弟じゃろうが、希念にとっては神仏と寺と修行の他は、世俗の些細なことなのだよ。…希念はやがて不世出の仏師となるか、徳に長けたひじりとなるだろうよ。姉様よ、何も案ずることはない。若者の生きる力は一時いっとき萎えることはあっても、決して折れはしないものだよ。ひとつことに打ち込んでいる時、その目を見ればよく分かるものなのだ。希念の目を見るがよい。輝きを放つ、何と生気に満ちた目をしていることよ。そこに、万一死の影が忍び寄っても決して負けることはないだろうよ。御仏は、多くのことを希念に望み、まだそのことごとくを成就じょうじゅしていないのだよ。御仏が希念をお召しになるのはまだずうっと先の話だろうよ」

 やがて、素空が部屋に呼ばれ、本山に献上する如来像の話になった。鳳来山の雪が解ける頃、本山に上がると言うことで、もうあまり余裕がないことや、寺の本尊の薬師如来像が素空の自由な発想を邪魔しているとか、とにかく、彫り始めて10数日あら彫りがまだ終わっていないとか、かんばしい状態ではないらしい。姉夫婦は、あまりこんを詰めないよう案じながら寺を後にした。

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