第2章 福の神 その1

 その年の暮れは雪が僅かに積もるだけの暖冬だった。素空が薬師如来像を手掛けて10日ほど経った頃、隣町の商家で不思議なことが起きた。そこは、姉のマキが連れ合いと開いた店で、素空が姉のために描いた福の神ふくのかみの掛軸にその不思議が起こったのだった。

 姉が掛軸を亭主の茂助もすけに初めて見せたのは、婚礼の翌日、茂助が行商に出かける支度を始めた時だった。僅かな嫁入り道具の中でも桐箱に入った掛軸は、随分と見栄えのするものだった。

 マキが由来を話しながら箱を開き、壁に掛けて見せた時、茂助は目をしばたかせて眺めた。「なるほど、神々しいお顔は何とも御利益ごりやくのありそうな感じだな」

 「そうだよ、お前さんが無事で仕事ができますようにと願い、元気で帰ったらそれに感謝しようと思っているよ」

 「そうだな、俺はお前がいつも元気でいますようにと願い、俺が元気で稼げることを感謝することにしよう」2人はそれ以来、朝な夕なに壁に掛けた福の神に、毎日の健康とその日の糧に感謝した。

 それから3年の歳月が経ち、2人の子ができた頃、茂助は行商をやめて店を開こうとしていた。茂助はまじめなだけの男ではなかった。商売にかけては才があり、話しも上手く、客をらさなかった。街に店を持つことは大きなけをするようなもので、るかるかの博打ばくちにも似ていた。

 普段は明るいマキもすっかり笑顔がなくなり心配で仕方なかった。掛軸の前で途方に暮れながら『福の神様、心配でたまりません。店をだして失敗したらと思うとどうしたものか…』フーッと溜息を吐きながら、すがるような眼差しで眺めていたら、福の神の口元が微笑んでいるように見えた。どう見ても笑顔を向けているではないか。

 マキは見間違いではないかと何度も目を瞬かせたが、やはり微笑んでいる。やがて『店をだしても大丈夫だと教えていらっしゃるんだ』と理解したマキはだんだんと気が楽になり、今までの心配が吹き飛んでしまった。

 マキと茂助が店を持ち軌道に乗って来た頃、前の年に生まれた次男がやまいかかり生死の境を彷徨さまよった時も、2日目の晩に掛軸の福の神が微笑んだ。店をだす時は亭主にも秘密にしておいたが、次男が良くなるとなればひとしおだった。

 「お前さん、この子が良くなるってのは、夕べのうちから分かっていたんだよ」

 「それはどう言うことだ?」いぶかる茂助にマキが答えた。「ここに店をだす時に初めて見たんだよ。掛軸の福の神様が心配顔の私に微笑みなすったんだ。何度も何度も見直したんだけど、笑顔のまんまだったのさ。それで気が楽になって、店をだしても大丈夫だって思えるようになったんだよ」

 「その時何故言わなかったんだ?」

 「そうだね…言っても信じてもらえないんじゃないかって思ったし、自分でも夢かうつつかだんだんはっきりしなくなって来たのさ。でも、夕べまたおんなじことが起きたんで間違いないって思ったんだよ」

 茂助は目を細めて掛軸をしげしげと眺め、手を合わせて次男の病平癒を感謝した。

 「不思議なことだ。希念様はただ者じゃないよ。お前の弟はたいしたお方だよ」

 「お前さん、確かに源助が描いたけど、掛軸に仕立てたのは和尚様だって聞いているよ。多分、和尚様に特別なお力があるんじゃないのかねぇ」

 「どちらにしても、お寺でこのことをかすまでは他言してはいけないよ」茂助は不思議な福の神の掛軸を、家宝として更に大切にしなければならないと思った。

 茂助とマキが所帯を持って7年が経った時、本当の不思議が起こったのだった。

 2人は毎年少しずつ身代が大きくなっていることを実感していた。

 暮れも押し詰まり、奉公人達を里に帰して、通いの番頭と家族の6人になった。

 番頭の作蔵さくぞうは夕食が終わり何気なく掛軸を眺めていたが、その目が自分をにらみ付けていた。ゾッとして、何とも落ち着かない嫌な感じがした。いつもは気にもならない掛軸だったが、年の最後になって何とも妙な心地だった。

 夕食の片付けは下働きの女の仕事だったが、今日は女将おかみのマキがやっている。

 「旦那様、今年1年お世話になりました。おかみさんがいらっしゃらないのに申し訳ありませんが、そろそろおいとまさせて頂きます」

 作蔵は帰りに勝手の方に声を掛けて店を出て行った。茂助とマキは、慌てて帰った作蔵のいつにない態度をいぶかりながら、寝間の用意をして子供達を床に就かせた。

 夕食の片付けが終わり2人だけになった時、どちらからともなく掛軸を眺めた。顔を見合わせてニコリと笑い、また眺めた。

 「正月は家族揃ってお前の里と、お寺にご挨拶に行こうか?」

 「そうだね、ずっと気になっているんだから、和尚様に相談しなくちゃね」

 「そろそろ俺たちも寝るとしようか?」そう言うなり掛軸の前に立ち、合掌して今年1年のあきないに感謝し、子供部屋の隣で布団に入った。

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