地蔵菩薩 その4
その夜、玄空の部屋に来たのは
「よう来た、今宵はさほど長くはできそうにもない時刻だ、早速始めよう。さて、先ずはイロハを説いて進ぜよう。心構えを習得するのじゃ、よいな。では、なぜ御仏の御姿を彫るのか、と言うことから考えようぞ」
素空の反応を窺うように見たが、更に続けて言った。
「世の多くの者は、真の御仏に
玄空は重ねて言った。「よいか、御仏を彫ることは御心を込めることに他ならず、形の前に御心が
「はい、お住職様、私も御仏に近付くよう精進いたします」
玄空は笑みを浮かべて更に言った。
「希念よ、御仏に近く在る者は御仏に近いものを彫り、そうでない者は御仏に似て非なる物しか彫れないと言うことじゃ」
「お住職様、それでは何を以って区別ができるのでしょうか?」
暫らくの沈黙の後、玄空が笑みを浮かべ、声音を変えて言った。
「肝心なのはそこだ。真偽のほどは容易には分からん。だが、御仏に近い者が見れば
素空が初めて
「希念よ、わしの道具はすべてお前に譲ろう。わしは時折石を彫ればよい。そのための道具は別に持っている。これらを己の物として大切に使うのじゃ。彫り続ければ木の心が分る筈じゃ。道具が手に馴染み、やがて、木がここを彫ってくれと言って来るとしめたものだよ。人によっては、そこに達するまでに何十年も掛かるが、お前なら大丈夫。すぐにそうなるだろうよ」
次の日、彫り物に適した木と、そうでない木について説明を受けた。
「希念よ、木彫りに適した木は、1つに
素空は、仏師と言う言葉を初めて耳にした。
「お住職様、仏師とは如何なる者でしょうか?」
「そうさなア、御仏を彫ることを
素空の上達は早く、それから3年間手取り足取りの教授が続き、自在に道具を使い、新しい道具も作りだせるようになった。新しい道具を作るには、
「希念よ、これからは、わしの手を借ることなく仏師としての真の修行をするのだ。1人ですべてを解決するのだよ。1人前の仏師とはそのような者なのだよ。そして、お前にはそれができる筈だ」玄空は、13才の弟子が仏の心に
それから4年、素空は17才になった。既に、本堂の本尊とそっくりな
玄空から、仏の心を彫り込むよう教えられていたが、どうしても心を彫り込むことができずに思い悩んでいた。
玄空は、素空の思いを哀れんだ。『まだ17才の若さで御仏の
素空が寺に来て10年の歳月が流れたが、その年の
「希念よ、そなたは寺に来て10年の間に随分多くのことを習得した。わしはいつの間にか年を取り、体も随分弱くなったようじゃ。希念よ、そろそろ
鳳来山とは、都の北東、
玄空は50半ばで、老人と言うにはちょっと早過ぎるのかも知れないが、粗末な食事と質素な生活の上に無理が重なったのだろう。素空もこの歳の若者にしては痩せて青白く、目の輝きを除いて活力がないように見える。
素空は、玄空が患って以来、日ごろの勤め以外に2日に1度の
「希念よ、随分世話になったが、もう大丈夫だよ。わしは、床に就いてからずっとそなたが一人前の僧になったことを嬉しく思うておった。来春は言うた通り御本山に上がるが、その時瑞覚大師に御仏を献上するのじゃ」
「お住職様、私は未だ満足な御仏を彫ったことがないのです。未熟な私が御本山のお大師様に恐れ多いことです」素空は
「何の、希念よ、瑞覚大師はわしの
素空は、玄空の言葉で何が未熟だったのかを理解した。
「物の良し悪しより献じる心だよ。そなたは仏師の通る道を歩き始めたのじゃ。困難を乗り越えながら先に進むのみ。やがてその道を
玄空は言いながら、素空が必ずそうなることを確信していた。
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