地蔵菩薩 その3

 素空の里は、3年で見違えるほど豊かになり、ウタは明日あす帰って来る次男を迎えると、飢饉の前の家族に戻れると思った。

 『源助が、寺に戻る気がなければそのほうがいい』と思っていたし、切り出す機会を探ってもいた。寺に預けていたせいで随分賢さを増したように思ったが、やはり、口減らしの負い目が頭から離れなかった。

 翌日、次男が帰って、全員が揃ったところで、近くの親戚を集めてマキの年季明けと婚礼の報告をした。家族の幸福が大きく膨らんで、掛軸の話題で座が盛り上がり、素空がその由来を親戚一同に説明した。

 玄空の教えをそのまま伝えたのだが、神妙な面持ちで福の神と素空を交互に見ながら、感心しきりだった。その後、源助と呼ぶ者はいなくなり、希念様と敬意を表した。この村に限らず、仏門に身を置く者は尊ばれ、たとえ小坊主とは言え、素空の賢さを理解する者は、決しておろそかにはしなかった。

 ウタは、素空が寺に戻るその時まで、引き止める言葉がでなかった。『泣く泣く手放したけど、今なら十分に養っていけるんだ』心の隅にある親の欲目と言うのだろう、我が子が望めば引き取りたいと密かに思うのだった。しかし、帰って来たその日に見せた幼さの影はどこにも見出せず、閑があれば書物を読んだり、仏壇に向かって祈る姿を見て、思い悩んでいたのだった。

 『源助はもう大人になってしもうた…』子供の3年の歳月は、大人には計り知れない多くのものを吸収し、自分達が待っていた子は姿を変えて、更なる高みを目指し始めたような寂しさと、喜びが入り混じった切なさを感じた。親の手を離れるには、少しばかり早すぎる年齢だが、それだけ早く成長したのかも知れない。そう思い諦めの眼差しで、寺に戻る素空の背中をいつまでも見詰めていた。

 素空は寺に戻る途中、あの地蔵菩薩の前まで来ると、一礼して経を唱え始めた。

 家族親族の平安と幸福を祈願するもので、どうにも気になるこの地蔵菩薩ならば、願いが叶うように思えた。

 経を3本唱えて、まじまじと顔を見詰めると、最初に見た薄目に戻っていた。何とも不思議な地蔵菩薩だった。目の位置を変えて見るが、どうしても謎が解けなかった。あまりじろじろ見るのも失礼だと思い、川まで下りて手拭いを水に浸して戻って来た。鳥のふんは付いていなかったが、今度は顔を中心に磨き上げた。顎の下は薄っすらと汚れていたが、首筋まで拭うと随分綺麗になった。

 地蔵菩薩を綺麗にして、一礼して歩み始めると、気持ちは既に寺に向いて、目の前には玄空の慈愛に満ちた顔があった。

 素空の歩調は随分速くなり、川から離れて大山の麓に近付くと、寺までの坂道を駆け出して玄空のもとに急いだ。寺に着くと、何をおいてもあの地蔵菩薩の不思議な眼差しを報告したかったが、帰るなり矢継早やつぎばやに質問して来る玄空が、いささか興奮気味に笑顔で迎えた。

 素空は、玄空の質問に答えると、おずおずと気掛かりなことを訊いてみた。

 「お住職様、道の往き掛けにお地蔵様の前を通りましたところ、お目の大きさが変わったように思いました。帰りにもう1度見ましたが、初めの大きさに戻っていました。石造りの地蔵菩薩が動く筈もなく不思議なことでした。一体どう言う訳でしょうか?」素空の質問には切迫した緊張感があった。

 玄空はニッコリと笑顔を見せながら語り始めた。

 「希念よ、あの地蔵菩薩はわしがこの地に来た次の年に建立したものなのだ。13年前のことじゃ。この村で野伏のぶせりが暴れ回り、村人が何人も襲われ、抗う者は殺められ、女は捕らえられ、銭のない者はこっぴどく痛めつけられた。百姓からは年貢と称して作物のほとんどを取り上げて行ったのだよ。新しい御領主に駆逐されるまで飯高郡いいたかごおりから多気郡までの村々を食い物にし続けた。この寺は殺められた者の霊を慰めるために建てられたのだよ。わしは川沿いの土手に石仏を建立したのだが、川の氾濫であそこまで流されたのじゃ」玄空は、重苦しい顔で語った。

 「お住職様、私がお訊きしたいのは、お目の開き方が何故変わるのかと言うことなのです」素空はその続きを促した。

 玄空は、初めのようにニッコリ笑って答えた。

 「信じる者には真実が見えるものだよ。お前が見たのは紛れもない地蔵菩薩の御姿みすがたなのだよ。まっすぐな心を持った者だけが見ることのできる真の御姿なのだ。お前の目には真実が見え、見たものをそのままに受け入れよ。御仏に近付いていることを実感するのじゃ」玄空は気分よく語った。

 「お住職様、私に地蔵菩薩の彫り方をお教え下さい。どうしても、あの魂の篭ったお姿を作りたいのです」

 素空が目を輝かせて懇願するのはこの時が初めてだった。

 素空の必死の願いに、玄空は暫く考えて語った。

 「希念よ、石を相手の彫り物はお前にはと早いかも知れん。始めるなら木彫りの像からにするがよい」

 素空は、玄空の言い付けに従うことにした。教えを乞う者の当然の礼であり、玄空の意に従うことは自らを高めることに他ならないことを理解していた。

 「お住職様、早速明日からお教え頂けませんか?」

 「希念よ、学ぶに時を選ぶべからず。乞う者は遠慮するなかれ!」

 仏師の修行が、早速今晩から始まった。素空の一途いちずな性分は地蔵菩薩を見た時から頭をもたげ、やがてとりこになり、打ち込んでいくのだった。

 素空は寺に来て3年の間に驚くほど多くのことを学んだが、これから学ぶことは素空自身の望みであり、るものは格段に多くなることだろう。玄空は、ほんの10才で大人に負けない学識と思慮深さを身に付けた弟子を満足そうに眺めた。

 

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