地蔵菩薩 その2

 素空が寺に来て3年が過ぎ、長女のマキの年季が明ける頃、里に帰ることになった。だが、マキが奉公先で見初められ、出入りの商人あきんどと所帯を持つことが決まり、すぐに隣町に戻ることも聞いていた。

 玄空に相談すると、『福の神の絵を描いてはなむけとせよ』と言われ、以来、実体のない未知のものに対して、あれやこれや、夜も昼もなく想像の限りを尽くした。日ごとに姿を変え、衣服や持ち物もさまざまに変わった。素空の想像の源は師から教えられた様々な神仏の姿だった。そうやって、悩ましい日を過ごして半月ほどのこと、遂にひとつの姿が決まった。下絵を見てもらい、大きさと背景について注意を受け、言葉を添えるよう助言を受けたが、素空は厄介な注文に途方に暮れながら部屋に戻った。

 やがて、姉が帰って来る日になり、仕上がった絵を見てもらった。

 玄空は、その絵の出来栄えを褒めた後、何やら思いを秘めたような顔で言った。

 「今夜はわしが預かることにしよう。この絵にひと手間掛けて、明日お前に返すことにしようぞ」そう言うなり自室に閉じ篭り、夜中まで出て来なかった。

 朝の勤めの支度を始めようと本堂に入った時、素空は既に本尊の前に香の煙が上がっているのに驚いた。

 『お住職様は既にお勤めをすませたのだろうか?いつもと違うのは一体どういうことなのだろうか?』妙な気分で玄空の姿を探した。

 勝手口から外を眺めると畑から作物を持って来る姿が見えた。ホッとして何事かと尋ねると、穏やかな声で玄空が答えた。

 「希念よ、3年振りに親兄弟と会うのだ、手土産の1つも持たせたいと思ってな。下世話のこととも思ったが、お前が飢饉でこの寺に預けられたことを思えば、手土産を持って帰ることの意味はそれなりにあるのだよ」

 素空は次々と新しい知識に触れるうちに、飢饉で預けられたことを心の隅に押しやっていたのだった。そして、終始穏やかに接してくれた玄空の慈愛に感謝した。

 暫くして、玄空が身なりを整えて本堂に入って来るなり、声を改めてひとこと言った。

 「希念よ、今朝のお勤めはお前の親兄弟のために捧げなさい。ことに姉の門出の祝いもあるのだ。姉の幸せを一心に願うのじゃ」

 やがて読経が静かに響き始めると、いつも以上に神妙な顔で素空は姉と家族の幸せを念じようとした。

 朝の勤めの終わりに、玄空が向き直って言った。

 「希念や、お前が姉のために描いた絵を掛軸に仕立てておいた。今朝のお勤めはお前が親兄弟を思い、わしはその思いを掛け軸に念じ込めたのじゃ。もうこの掛軸は、そんじょそこいらの掛軸ではなくなったのだよ。人の運命をも良きに導く本当の福の神なのだよ」

 玄空が開いた掛軸には、素空が昨夕までに仕上げた絵とは趣の変わった、風格のようなものが備わったように思えた。

 『掛軸に仕立てられた瞬間に、この絵は魂を得たのかも知れない』素空はぼんやり考えた。

 「姉と、連れ合いになる者に、この絵に向かって毎日感謝の言葉を掛け続けるよう伝えておくれ。どんなことがあっても毎日欠かさず感謝するのだと…そうすることで2人の運命も福の神に導かれて福となるだろうよ」

 素空はこれまで漠然と感じていた目に見えない魂の働きをはっきりと感じていた。

 『渾身の思いで作った訳ではない。想像を確信に変えられず形にこだわり、魂を込めるなぞ露とも考えなかった。お住職様はすべてをお見通しだったのだろうか?』

 素空の幼い思考はもうその先に進むことはなかった。ただ、すべてのことをありのままに受け入れることしかできなかった。

 巳の刻みのこく(午前10時)になって、そろそろ出発の時間が近付き、朝採りの作物を持って玄空が出て来た。門前で別れを告げた時、背負った荷物の重さと3年の重みを肩に感じた。3年前、親と別れた時の気分より、玄空との暫しの別れの方が、何故か寂しいのが何とも不思議だった。

 寺を出て歩き始めると、見知らぬ人が次々と、すれ違いざまに会釈をした。素空は、3年間寺を出たことなど殆んどなく、生活のすべてが寺の中にあったことを改めて感じた。

 小さい村だから半時はんとき(1時間)ほど歩けば帰り着く道程だったが、川沿いの道を景色を眺めながらの道草歩きは、生まれて初めての経験だった。川の中ほどまで来ると1つ目の橋の下で子供達が魚を獲って遊んでいた。

 『急ぐこともないのだ、見物しながら弁当を食べることにしよう』そう思い、土手に座って包みを開いた。

 いつもの雑穀米に漬け物が添えてあり、丸く固めたおにぎりの中に梅干しが入っている。これをいつの間に作ったのか考えながら、玄空の不思議な部分に思いを馳せた。素空は、自分の心が家に向くのではなく、ここに来てもなお寺に向いていることに苦笑した。

 『今、こうしてのらりくらり歩く姿もお住職様はお見通しなのかも知れない』そう考える自分の意思と玄空の意思が繋がったような妙な気分になった。ふと、魂の繋がりや、働き掛けと言うことを考え、子供達の歓声で我に返るまで没頭していた。

 『さて、そろそろ歩くか』自分に言い聞かせるように歩き始め、更に2つ目の橋で道を左に折れた時、路傍の地蔵菩薩じぞうぼさつが目に入った。

 一礼いちれいして経を唱えようとした時、顔がチラリとこちらを見たような気がした。ハッとしてもう1度見直すとやはり、最初の面差しとは少しばかり違うようだった。

 『目の開き具合が変わったような、薄目の地蔵様が私を見るために目を開いたのだろうか?…だが、時を元に戻せないのであれば、ここにいつまでいても仕方がない』

 素空は土手を下り、川の水で手拭いを濡らすと、地蔵菩薩の肩口に落ちた鳥の糞を拭い取った。更に一礼してその場を発つと道を急いだ。

 寺を出て一時ほど経って、やっと見覚えのある風景が目に入って来た。懐かしさがこみ上げ、足取りが速くなった。村の家並が切れて、粗末な百姓家が点在するようになると、とうとうたまらず走りだした。

 久し振りの我が家だったが、家の前まで来ると急に勢いが落ちて、思わず立ち止まった。聞き覚えのある声が家の中から聞こえて来ると、涙が溢れて呆然とするばかりだった。姉のマキが外に出て来た時、初めて声を出して抱き付いた。姉に促されて家の中に入ると、なぜか3年間寂しさに耐えていたかのように、またしてもどっと涙が溢れだした。

 マキの声が家中に響いた。「おっかあ、おっとう 源助だよ、帰って来たよう。えらい大きくなったもんだ。早くおいでなされ」

 母親のウタが慌てて駆け付けて言った。「源助や!…イイヤ希念様、達者だったかの?おっかあは修行の邪魔になると思って会いに行かなかったよう…赦しておくれ」素空は母親の顔を見て首を振りながら、涙声で一声叫んで抱き付いた。

 やがて、素空が土産を手渡し、姉にはなむけの掛軸を見せて由来を説いた時、家族のすべてが驚愕と畏敬の眼差しで見返した。さっきまで泣きながら母に抱き付いた幼さなど微塵も感じなかったばかりか、知性と教養を輝かせていた。父親の弥太郎やたろうはマキが隣町に戻るまで家に掛けておきたいと申し出て、マキも是非にと言い、ほんの数日だったが仏壇の脇に掛けられた。家中の誰もが掛軸の前を素通りせず、何かを念じながら通り過ぎ、マキがいる間はこの家の家宝として祀られた。

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