仏師素空 天安寺編(上)

晴海 芳洋

第1章 地蔵菩薩 その1

 素空そくう慶長けいちょう19年(西暦1614年)伊勢国いせのくに多気郡たきごおりに生まれた。

7才の時に伊勢滝野たきの薬師寺やくしじに小僧として預けられ、本山に上がるまでの10年間、住職のもとで多くを学んだ。

 素空の師は玄空げんくうと言い、仏師として系譜に連なる者ではなかったが、その弟子となった素空が後に彫り上げた仏像が摩訶不思議まかふしぎを世に残すことことになるのだった。

 素空が寺に預けられた年は飢饉で食べ物がなく、伊勢の村々では餓死者こそ出なかったものの、子沢山の貧乏百姓は食い扶持減らしのために、12、3才の子は奉公に出して、荒れた農地を何とか守っていた。

 素空の親は6人の子の内、既に長女のマキと次男を隣町に奉公に出し、17才の長男源太げんたと5才と2才の子だけを残した。素空は奉公に出すには幼く、さりとて、食い扶持減らしはしなければならず、手放す親も身を切られるように辛かった。

 素空の親は考えに考え、村の背後の大山の裾にある薬師寺に預けようとした。

 伊勢多気郡は櫛田川くしだがわの流れに沿って広がる斜面にあり、滝野の薬師寺は谷間たにあいを見下ろす高台にあった。多気郡の耕作地は決して広くはなく、従って、点在する百姓家はかなりの数にのぼった。

 「カーツ!親御よ、この寺に子を預けに来た者は、何もそなた達が初めてではない。既に幾人も来たが、そのたびにわしに説教されて帰って行きおったわ。出家しゅっけした子と共にこの村に居ながら、その子の修行が何でできようか?出家を望むなら、御本山に世話して進ぜよう。御本山からどこぞの寺に受け入れさせようぞ、ここよりはずっと良いだろうよ。もう1度考え直してはどうかな?」

 住職の鋭い言葉を聞いて、素空の親は心の中を見透かされたような、何とも恥ずかしい気持ちで深々と頭を下げた。

 やがて、玄空住職が慈愛に満ちた言葉を掛けた。

 「親御よ、そなた達が子を慈しむ心はようく分かっているよ。子を手放す親の中には身勝手な者も多いが、そなた達なれば、今少しの辛抱もできよう。どうしてもと言うのであれば、手習いをさせに来させなさい。昼餉ひるげぐらいは出して進ぜようぞ」

 素空の親は涙を浮かべて頭をさげると、終始俯いたままの素空にも深々と頭をさげさせておいとまの挨拶をしたその時、素空が初めて玄空に顔を向けた。

 玄空はそれまで子供には目もくれなかったが、ハッと目を見開いて素空の顔をまじまじと 見詰めると、ウーッと低く声音を発して語り始めた。

 「親御よ、お子を見ずして、不心得をしてしもうた。わしは近隣の子は言うに及ばず、旅のあちこちで多くの子供らを見て来たが、この子は今まで出会ったことがない顔をしている。そうじゃ、実に賢そうな眼の光を放っている。どうかな、前言を覆すことは道理に合わぬが、この子を見て初めて手元に欲しくなったのだよ。仏門ぶつもんに身を置く者として世俗せぞくよくを断ち切らねばならぬものを、これも御仏のお導きかも知れぬ。わしは、終生弟子を取らぬつもりだったが、お子を見てどうしても世話をしたいと思ったのだよ。わしが身に付けた一切を伝授したくなったのだよ。親御よ、お子は必ずや一角ひとかどの者になろうぞ」

 両親は、たった今この地ではこの子の修行ができないことを納得したばかりで、腑に落ちない顔で玄空を見ていた。

 「親御よ、並みの者なら考え物だが、この子にはそれも修行、乗り越える道を探すことができよう。わしとて、これまで断り続けて来たものを、世間の口さがない者に何を言われるやら、わしにとっても新たな修行の始まりなのじゃよ」

 『我が子をそこまで見込まれては断る理由はどこにもない。そもそも、預けに来たのだから…』両親は心の中でそう呟いて承知した。そして、この日から奉公に出した2人の子供と同様に、当分会うことはできないと心に決めた。

 当の素空は自分の身の上を承知していて否やはなかった。

素空の素振りを見ながら、玄空は満足の笑みを浮かべていたが、帰り際に母親を呼び止めて言った。

 「母御ははごよ、待ちなされ、到来物とうらいものだが留守番の子らに土産みやげを差し上げよう。持って行かれるがよい」玄空は小さな包みを手渡しながら、母親にそっと囁いた。

 「どの子も皆一様に可愛いものだろうが、子供とは言え人はそれぞれに定めを背負うて生きているものだよ。御仏の思し召しのままに生きて、死に逝くだけのこと。母の慈愛は必ず子に通じるものだよ。ご安心召され」

 母親は目頭を押さえながら一礼して亭主の後を追い、振り返ることなく帰って行った。

 玄空は、素空に優しく言葉を掛けると、夕食の支度が始まるまで、1いっとき(2時間)ほどの時間を掛けて寺を案内した。

 「この寺は、小さな寺だが御仏みほとけ御座おわす尊い場所なのじゃ。御本堂ごほんどうには御仏の御心みこころを吹き込んだ御仏像ごぶつぞうがあり、そのすべてをこれから少しずつ覚えるがよい」

 そう言うと、本堂のすべての仏像の名と特徴を教え、同時に本堂の中のすべての仏具の名前と使い方を説明した。庫裏くりに入ると、素空に部屋を与えて夜具と身の回りの小物の所在を伝えた。くりやでは戸棚の中まで見せ、事細かにその使い方を説明した。

 玄空が驚かされたのはそれからすぐのこと、夕食の準備を手伝わせた時だった。素空は既に箸と椀を膳に乗せて次の指示を待っている素振りだった。

 『あれほど多くの説明を受けながら、そのすべてを覚えているのだろうか?賢い子であるのは間違いない』玄空はそう思った。

 素空は寺に来て以来、1度聴いた言葉を訊き返すことや、忘れることはおろか聞き間違いも皆無だった。

 寺に来て2ふたつきほどの間、俗名ぞくみょう源助げんすけという名を通していたが、希念きねんと名付けられ頭も丸めてどこから見ても寺の小僧さんになった。素空は寺を訪れる客が、剃髪後ていはつごの自分に対する物腰が変わって来たことを不思議に思いながら、日常の修行や経の暗記、学問の教授を受けていた。毎日が実に楽しく、時折思い出す親兄弟のこともさほど寂しく感じなかった。

 素空は寺に来て以来、玄空に叱られたことなど1度もなく、いつも優しくしてもらった。そして、自分の心を高みに上げるために、すべての力を注ぐことに集中し、それが何よりも心地よかった。

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