血流と白帯

山崎山

血流と白帯

 行きつけの本屋で文芸雑誌を立ち読みしていると、背後から誰かに呼ばれた気がした。

 声ではなく、そんな感覚が頭に流れ込んできた。私は首だけで振り返る。誰もいない。

 後ろは文芸書の棚だった。しかし誰もいない。単行本の山の数々が寒々と、誰の目にも留まることなくそこに鎮座していた。

 仕事終わりで疲れているのかもしれない。私は再び雑誌に目を落とす。しかし釈然としなかった。誰かが、というより何かが私の後ろ髪を引っ張っているような気がして、新人賞受賞作家特集に集中できなかった。

 もう一度、振り返る。今度はいた。いや、そこにあった。

 ほんのりと埃を被っている単行本の山の中に、それはあった。私は雑誌を棚に戻し、踵を返してそれを手に取る。

 真っ白だった。タイトルも、作者名も、バーコードも、何もかもが存在していなかった。ただ白色で全てが覆われている。少し手をずらして、初めて帯が巻かれていることに気づいた。その帯も白くて表紙と何ら見分けがつかない。

 冒頭から三分の一くらいで中を開いてみると、ページまで真っ白だった。何も書かれていない。どれだけページを捲っても、表紙を外してみても、白以外がなかった。

 本屋に置いてあるのが不思議なくらい白一色に染まっていた。まるで美術品の類だ。本、ではある。本ではあるが、読めるものではない。読めない本に意味はない。もうそれは、本ではない。

 でも、今この本を山の中に戻してしまうと、もう二度と巡りあえない気がした。私は妙な魅力に取り憑かれ手放すことができずにいた。

「ありがとうございましたー」

 気づけば私は本屋を後にしていた。財布からは千四百円くらいが消えていた。


 ◇


「なんだこの企画書は」

 今日も課長の怒号が飛ぶ。

「こんなものを発表できるか。私の面子を潰す気か。やり直せ。明日までだ」

 気に入らない企画書は投げつける。それがこのハゲ頭の特技だった。だが別段痛くはない。慣れたというわけでもない。私は体に当たって落ちたそれを拾い上げ、課長に目を合わせぬまま会釈をして自分の席に戻った。

「気にしなくていいよ。今日はいつもより気が立ってるみたいだから」

 隣に座る同期の浅田あさださんが、そっと私の机に飴玉を置いた。背が低く、髪はふわふわ。根暗で背が高くて肩肘張ったOL然とした格好の私とは正反対の、かわいい女の子。私は「ありがとう」と苦笑して飴玉を上着のポケットに入れた。

「なんかさー、不本意だよねー。あんなに理不尽で、おまけに全然働かない上司を持っちゃって。あたしもっと子供と近い仕事だと思ってた」

 下唇にペンのお尻を当てながら、浅田さんは深く嘆息した。

「社会人って、もっと華やかだと思ってたんだけどなぁー」

 私は適当に相槌を打って、弾き返された企画書を見直す。

 私の中では現状で最高の企画書を作ったつもりだった。長く遊ばれるおもちゃをモットーにしているこの会社としては申し分ない生産性と安全性を担保できていると思っていた。しかしどうやら課長の頭の中の笑えない理想とはミスマッチだったらしい。彼は狡猾で唯我独尊、コネで入社しコネで昇進した分、毛髪を贄に捧げたと社内ではもっぱら有名だ。私が知っているくらいだから相当だ。部下に考えるだけ考えさせて、都合よく直しの指示を出す。そして直った企画書が気に入ればそれは課長の産物になる。

 私は浅田さんに適当に相槌を打ったことを少し後悔した。成程、私も浅田さんと同じ気持ちだった。社会に出て働くことは辛いことこそあれ、その分華やかさに満ちているものだと思っていた。惰性で続けているこの仕事もいつかやりがいを感じる日がくると思っていた。だが入社してから三年が経っても、それが私の中で生まれる気配はない。これから先も生まれることはないのではないかと薄々感じる。

「それよりこのあとさ、みんなで飲みにいかない? あたしいい店知ってるんだよー」

 浅田さんが満面の笑みで言った。

「みーちゃん全然来てくれないから、今日こそは! おいしい酒とおいしい料理で、今日のストレスもパーッと……」

「ごめん、遠慮しておく」

 私がはっきり言うと、浅田さんの笑顔が萎んで、残った笑みの欠片が苦笑に変わった。

「そ、そっか。まあ仕方ないね。ごめんね」

「ううん……」

 少し、胸が痛んだ。

 断る理由は特にない。浅田さんの誘いだけでなく、職場の飲み会も一度だって行ったことがない。私は元来暗い性格だ。大学卒業までに受けた評価、悪口、陰口の数々はもう浅田さんが受ける一生分を遥かに超えていることだろう。それは社会人になってからも継続中だ。何もしていないのに、「根暗」というだけで聞こえるように嘲笑された。それを引きずっている気もする。

 だがそれも断る理由の一片に過ぎない。気乗りがしなくて、申し訳ないと思いつつ、私にとってはちょうどいい距離を保っていた。

 一人でいる方が断然好きだし、こんな私を何度も誘ってくれる浅田さんは殊勝だと思いつつ、まだ懲りないのかと思ってしまう。悪いと感じるのに、奥底では勘弁してくれと、自分の意思なのか無意識なのかわからない感情が芽生えてしまう。

 コミュニケーション不全の私の心は、この職場ではない別のどこかにある。


 ◇


 結局就業時間中に企画書を直し切れず、持ち帰って再考することになってしまった。

 会社を出て行きつけの本屋に立ち寄る。落ちた肩も、自動ドアを潜れば自然と持ち直す。「いらっしゃいませー」という店員のやる気のない声に迎えられながら、入口近くの雑誌棚から文芸雑誌を一冊手に取り、パラパラと捲る。

 連載小説、作家へのインタビュー、その他収録されている内容を隅々まで読む。読んでいて羨ましくなる。これを書いている人は好きなことを仕事にしている。この一冊の中にたくさんの世界が広がっている。自分の中に生まれた世界を投影して、それが雑誌に載るのだから、私からすれば心底羨ましい。

 ふと、あの白い本が頭を過った。私は雑誌を開いたまま文芸書の棚に振り返った。

 どこにもない。昨日はあんなに堆うずたかく積まれていたのに、今はそこに違う本が積まれている。それもまたうっすらと埃を被っていた。

 雑誌を棚に戻してそれを手に取ると、表紙が鮮やかな色彩を纏っていた。タイトルも、作者名も、バーコードもある。中にはびっしりと文字もある。当たり前のことなのに、私の目には新鮮に映った。あの白い本が強く脳裏に焼きついていた。

 表紙を開き、最初の一文を読む。終わったら次の文。そして次の文。三ページ目を過ぎたあたりでふと我に返った。いかんいかん、と本を閉じる。読み始めると熱中してしまうのが私の悪い癖だ。気がついたら閉店までいたことが何度もあった。だから本屋では単行本なり文庫本なりは立ち読みせず背表紙だけを見て、どうしても気になった本があれば買って帰って家で読むことにしている。

 故に、私はその本を手放せなかった。

「ありがとうございましたー」

 気がつけば本屋を後にしていた。手には袋に入った単行本。財布からはまた千四百円くらいが消えていた。衝動買いというをぶらさげている気分だった。

 私は嘆息していつもの帰り道に舞い戻る。するとすぐに強い懸念が胸の奥の方から襲ってきた。

 私のは、家にあるのか?

 無論、本屋にあった分は売り切れてしまった可能性も返品してしまった可能性も否定できない。私が買ったものがもし消えていたら、なんて幻想めいたことを考えるのも馬鹿らしい。ただもし仮にそれがなくなっていたとしたら、その理由は私にあるのではないかと思った。不安が頭を強く揺さぶった。

 自然と歩幅が広くなり、早足になっていた。一刻も早く確かめなければならない。あれが勝手になくなってしまったら、本をなくす以上の喪失感に苛まれてしまいそうだった。

 アパートが見えてきて、ようやく自分が走っていることに気づく。脇の階段を上って、手前から三番目の部屋。もう三年も住んでいるのに鍵を開けようとして少し手間取った。解錠の音を聞くなり焦燥のままにドアを引く。

 居間の真ん中にあるテーブルの上にそれはあった。読まれることを礼儀正しく待っているかのように、表紙を上にして置かれていた。

 それは天井を向いているくせに私を見据えている。パンプスを脱ぎ捨てて引き寄せられるように居間へ向かう。

 その本であることを確認して、ようやく懸念が深い安堵に変わった。へたり込んでそれを手に持ち、ふぅ、と息を吐くと、安堵している自分が妙に可笑しくなった。たかが本一冊で馬鹿げた懸念に苛まれ柄にもなく走ってしまった。そんな自分の姿が馬鹿らしい。まるで本に取り憑かれているみたいだ。

 肩の力が抜けた途端、右足の痛覚が震えた。見ると、踵から血が滲んでいる。パンプスで後先考えず走り倒したせいだ。本当、馬鹿げている。

 クローゼットにある救急箱から絆創膏を取り出し、踵に貼る。そういえば怪我らしい怪我をしたのは随分と久しぶりだった。

 少し顔を上げると、部屋の隅にある小さな本棚が目に入った。今度はそこに差してある一冊の文庫本が私を見ている気がした。

 作者は私と同じ苗字。静謐でありながら内に秘めた激情を感じさせる文章と、それと相まって鮮やかな情景を映し出す描写が得意な作家だった。どんなに普遍的なテーマでもこの人の手にかかれば美しい世界へと変貌してしまう。彼はこの作品で有名な文学賞をとった。私はその前から彼のファンだったから、彼が私だけのものではなくなる気がして少し複雑だったのを覚えている。

 その文庫本を開く。文章の羅列が物語を紡いで、私の心に繋げようとしていた。

 血が熱くなる。胸が高鳴って、熱い血流が体の隅々に行き渡り、身も心も軽くなる。頭に入ってきた世界が血に溶ける。

 これを書いた人はもうこの世にはいない。だがいないからこそ、この作品が彼の残留思念としてこの世に残り、たくさんの人の心にその面影を焼きつけている。そう思うと胸がいっぱいになった。

 ひととおり感傷に浸ってから本棚に戻して、今日買ってきた本の前に座った。白い本は、とりあえず横に置いておく。

 私は本を読んでいる時間が一番好きだ。人と話すよりも、本の世界に没頭している方が私は好きだ。窮屈なこの世界から他の誰かが練り上げた世界に飛び込むその瞬間。そして繰り広げられる、その世界の中での出来事。それらを肌で感じ、頭で理解し、疑似体験する。本の世界の全てが好きだ。私はもう、この魅力からは逃れられそうにない。

 ただ、ここに私の心があるかどうかは別だ。本は好きで、読めば読むほどその気持ちは膨らんでいくが、何かが足りない。作品のそれぞれは成り立っているのに、読み終わった後に物足りなさを感じる。読書自体がそれを埋めるための手段でもあった。でも、埋まらない。

 その理由は自分でもわかっている。

 私は買ってきた単行本を開いた。そうして今日もその中に何かを捜すように本を読む。


 ◇


 企画書の再考を忘れて、あのまま本に没入してしまった。

 課長に朝一で叱られ、変化のない企画書をまた練り直す。浅田さんがまた慰めてくれた。私はそれにただ苦笑いを返すしかなかった。

 相変わらずの悪い癖だ。あの一冊では飽き足らず、本棚にあるものにまで手を出してしまった。半分を読破したところで我に返ると、窓の外がほのかに明るくなっていた。

 跳ね返された企画書を見直すが、どこをどう直せばいいのか、いや、どうすれば課長の思い通りに仕上がるのかわからない。これは私が考え得る限りで最高のものだ。だが私の中で最高だったとしても、仕事としては違う。ここでの最高とは課長のことだ。ただ最高のものが最高にいいとは限らない。無論私が考えたものが最高にいいというわけでもない。

 結局、この職場は中庸を蔑ろにしている。課長の絶対王政のもと、私たち平民は王の期待通りのものを作る。それがここの掟だ。逆らえない。それは間接的な暴力だ。そんなことがまかり通っていて許されるのか。私たちに求められているのは唯一無二の発想だと、会社説明会で言われたことは嘘だったのか。

 とは思っていても、私にはそれを声にする勇気がない。胸の中で言うだけ言ってあとはしまっておく。これが性に合っている。意味のないことで変に立場を悪くするようなことはしない。

 はあ……と嘆息すると、隣の浅田さんが心配そうに私の顔を覗き込んできた。

「みーちゃん大丈夫? なんか顔色よくないけど、結構ショックだった?」

「いや、大丈夫……」

 彼女の目がキラキラしていて思わず顔を背ける。寝不足で酷い顔をしているはずだ。

 浅田さんは首を傾げて、「そう?」と呟いた。「うん」と返すと、「そっか」とだけ言って、視線を机に戻した。

 言えない。同期の浅田さんにさえ、思っていることを素直に言えない。言うつもりもないが、言わないのと言えないのは違う。

 ひたすら内向的な自分に辟易しながら、ペンケースを取り出すため、机の上にあるバッグに手をかけようとした。

 不注意だった。手の甲がバックの側面に当たり、勢いよく倒れた。しまった、と思った時にはもう遅かった。中身が盛大な音を立てて浅田さんの机の上に散乱し、浅田さんも「わっ」と驚いていた。

「ご、ごめんなさい……!」

「いいよいいよ、気にしないで」

 柔和な笑みを向けてくれる浅田さんの机には、一面に私のものが散らばっていた。だが彼女は気分を害した様子もなく、自分の机を侵した私の手帳やパスケースを手渡してくれる。

 こんな失態を晒したのはいつ以来だろう。ばつが悪くて、小さくお礼だけ言ってそれらを受け取る。浅田さんの顔を直視できない。

「あ! これ面白かったよね!」

 うん、そうだね。それはともかくごめんなさい。つられることなく、罪悪感のままに、そこまで胸の中で呟いてから、はっとした。そしていとも簡単に顔を上げる。

「それは……!」

「みーちゃんのでしょ? はい」

 軽い調子で渡してくる浅田さんの顔を私は呆然と見つめる。

 浅田さんが持っていたのは、私の本だ。昨日読んだだけでは気が済まず、一冊だけカバーをかけてバッグに入れ、空いた時間に読むつもりだった。その本が、浅田さんの手から私のもとに戻ってきた。

「みーちゃん、本好きなんだね。しかもこのカバーの擦れ具合、かなりの猛者と見た」

 少し鼻息の荒くなった浅田さんを見て、私は急に恥ずかしくなって顔を伏せた。

 胸を引き裂かれ、その内側を見られた。今まで自分の中で留めていたものを初めて他人に知られてしまった。本を読んでいて恥ずかしいことは何もない。そうではなく、私の奥にある一部を無許可に見られたことが、裸を見られたような気分になった。

 経験がないから耐性がない。だから何も言えなかった。別に知られたくなかったわけではない。ただ圧倒的な経験の差。それが全て、見られたことに対する羞恥心に変わっていた。

「あたしもだよ」

 それを払拭する声に、また容易く顔を上げた。

「あたしもね、実は本の虫」

 浅田さんはバッグの中から一冊の文庫本を取り出し、口元を隠すように表紙を私に向けた。 

 それは昨日、私が読んだ中の一冊。本棚にあるうちのひとつだった。それが予想外のところから出てくるものだから、私は無意識に「あっ……」と声を漏らしていた。

「だから、みーちゃんのその本も読んだことあるよ。面白かったよね」

 恐る恐る、頷く。浅田さんは小さく笑った。

「ね、今日こそ一緒に飲みにいかない? つもる話があるんだけど」

 今度は逡巡して、少し浅田さんの目を見てから、私は小さく、小さく頷いた。浅田さんの顔が太陽のように明るくなった。それを見た私も、体中を流れる血が熱くなった。


 ◇


 浅田さんの虫具合は深刻だった。近代、現代、国内外、ありとあらゆるジャンルを網羅し、読書ノートまでつけているという。居酒屋の個室でハイボールを片手に「あの作家は若くして賞を取ってさー」などと声高々に語る彼女の姿は、ふわふわな髪とあまりにも不釣合いだった。

 強烈なギャップを感じるが、そもそも彼女の言動だけで自分とは違う人種だと決め込んでいたのは私の方だ。こんなふわふわな髪の子が文学に興味なんてあるはずがない。彼女の手に本が渡った時にどうしようもなく恥ずかしかったのはそういう先入観もあったからだ。女子高生の暇潰しのような、安いケータイ小説でボロボロと泣くタイプの子に違いない。そう決めつけていたところをものの見事に掬われてしまった。

「でさー、その作者がこの前ラジオでさー」

 席に座ってからもう二時間が経っていた。それでも話は延々と続いている。

 私は半ば愚痴になっている浅田さんの言葉に、時には頷いたり、時には返したりしていた。ただ、席を離れようとは一片も思わなかった。話題に惹きつけられているということもあるが、私の中には確かに、それだけではない高揚感が膨れ上がっていた。

「できたらさー、そういう会社に入りたかったけどねー」

 酔いがまわり始めたのか、浅田さんの声音は今にも蕩けそうだった。

「そういう会社って?」

 言ってから、驚いた。今のは普通の会話っぽい。今日の私は何か違うのかもしれない。

「そうだなあ、例えば編集者とかさ。本に携わる仕事がしたいなーって考えてたけど、そういうところって大体門が狭いじゃん」

 頷く。私も就職活動の時はいくつか出版社に応募したが全滅。そもそも業界全体の採用人数が極端に少ない。大学の時家の近くにあった本屋が突然なくなった理由と、たぶん根底は同じ気がする。

「だからまあ、畑違いだけどさ、何かを作るってことに関心はあったから、少しでもそういう感じの仕事に就きたかったんだけど、上司があれじゃあねぇ……」

 そう言って、浅田さんはまたハイボールをぐいっと呷った。

 なるほど、と思った。浅田さんの志望理由も私とあまり変わらない。だからあの課長ないし職場への猜疑心も募る一方で、将来の展望も見えてこない。置かれている状況さえも私たちは同じだった。

 胸から首のあたりが急に痒くなる。酔っている同僚の前とはいえ、思い切り掻くのは憚られるので、右手を軽く添えるだけにした。

 嬉しかった。初めて、人と何かを共有して喜びを感じた。

「みーちゃんどうしたん?」

「あ、いや……」

 酔っているくせに意外と鋭くて、私は慌てて首から手を離す。

「みーちゃんはどうなの? 仕事楽しい?」

 浅田さんはテーブルに身を乗り出して私の顔を覗き込んできた。顔が赤い。私は重なっていた視線を逸らして、少し大袈裟に首を横に振る。

「じゃあ、何かやりたいことあったの?」

 槍で胸を突かれた気がして、体が強ばった。

 私はしばらく黙り込んだ。言葉を用意するのと、それ以上に私のことを素直に伝えていいのかどうかという自問自答を繰り返した。

 いつもはのらりくらりと躱していた。波風を立てないように、安定した道を標榜するフリをしていた。でも浅田さんはどうだろう。私と似ている境遇の人が、私に興味を向けてくれている。こんな機会が今まであっただろうか。これから先も、果たしてあるだろうか。

「私は……」

 何かに急かされて、勝手に声が出ていた。

「私は、作家になりたかった」

 次の言葉が、口をこじ開ける。

「小さい頃からずっと目指してて、高校までなりたいって思ってたけど、ダメだった。大学に進んでもすぐに四年経っちゃって、やっぱり少しでも何かを生み出せる仕事をと思って、この会社に入ったんだけど……」

 そこまで言って、我に返った。

 私の顔を覗き続けていた浅田さんの大きな目が見開かれていた。明るい茶色の瞳がオレンジ色の照明を反射して鈍く輝いている。驚いているようにも、訝しんでいるようにも見えるその顔で、私をじっと見ていた。

 私はその瞳から逃れるように顔を伏せた。木製の腰かけが小さく鳴った。浅田さんはようやく席に戻ったらしい。それでも、私の頭に焼きつくような視線が注がれていることはわかった。

 恐い。開きかけた心の扉が閉まっていく。

「すごいねぇ」

 そんな心に風が吹いて、扉を再び抉じ開けた。

 思わず顔を上げた。たぶん驚嘆が貼りついている。

「作家なんて、すごいなあ。私は本好きだけど、そんなの考えたこともないなあ」

 火照った浅田さんの顔は、明るい笑みを湛えて私を照らしていた。

「みーちゃんはすごいね。なんか、かっこいいね」

 心がふわりと軽くなった。

 抽象的な褒め言葉だ。でもそれ故に、初めて、私の心を認めてもらえた気がした。

 過去に押し潰されてしまった私の心を、浅田さんがこの世界に存在していいと認めてくれた気がした。

「あ、じゃあみーちゃんの書いたやつ読みたいなあ。今度読ませてよ」

 氷が解けていく。喜びに熱せられた血が私の中を駆け巡った。これが私だと、私の中の何かが叫んでいた。この血流こそが、本当の私だと。それを初めて他人に認められた。それがこんなにも嬉しくて、体を熱くさせる。

「ねえ」

 私は私の心に従った。

山崎春彦やまざきはるひこは好き?」

 浅田さんは満面の笑みを浮かべていた。

 本当に、満面の笑み。

 澱みのない、心からの笑み。

 だから、それが本音だということはすぐにわかった。

「あんまり好きじゃないかな」

 思い描いていた答えと違くて頭が真っ白になった。

「な、なんで?」

「文は巧いと思うけど、こう、新鮮さがないというか。あ、きっとみーちゃんの小説はあの人よりは面白いよ! 絶対みーちゃん才能あるもん!」

 浅田さんはまた興奮気味に身を乗り出した。笑みが私を肯定している。

 欲しかったのはそんな答えじゃない。だが、私の胸には何故だか少しの安心感と、少し遅れて黒いものが湧いてきた。それを噛み締めると、私の中で何か変化が起こった。今までの私にはなかった、大きな変化だ。

「みーちゃん?」

 はっとして我に返る。軽く謝って、彼女の話にまた耳を傾けようとした。

 悲鳴が聞こえたのはその時だった。

「えっ……」

 一瞬、戸惑った。何が起こったのかわからない。

 だから私も、どうして浅田さんが頭からびしょ濡れになっているのかわからなかった。

「あ、浅田さ──」

「ちょっと! 何してんのよ!」

 浅田さんの怒号が私を竦ませる。私の手にはテーブルに置いてあったはずのグラスが握られていた。かなり残っていたはずなのに、空だ。そこでようやく理解する。

「ご、ごめんなさい! 私つい……」

「ついじゃないでしょ! ほんっと意味わかんない! なんで急に烏龍茶ぶっかけられなきゃいけないわけ?」

「本当にごめんなさい……。でも──」

 でも、なんて言ったのはいつ以来だろう。

「私は、山崎春彦が好きだから」

 自分でも驚くほど、胸が躍っていた。

「はあ? 何それ、バッカじゃないの! そんなことどうでもいいから、早く──」

 浅田さんが何か言い切る前に、私はバッグの中からハンカチと、財布から一万円札を出して彼女の前に置いた。

「今日はありがとう。楽しかった」

「は、ちょっと──」

 バッグと上着を持って、席を立つ。出口に行くまで店中の視線が注がれたことも全然気にならなかった。

 店を出ると、居酒屋特有の喧騒が小さくなって、別の世界に来た気がした。清々しくて自然と背筋が伸びた。


 ◇


 一度も振り返ることなく走って帰った。別に浅田さんから逃げたのではなく、この高鳴る気持ちをどうにかしたくてただ走った。

 家に着くと、真っ先に本棚に向かった。文庫本を一冊だけ取り出し、表紙を見て、パラパラと捲り、また表紙を見る。

 山崎春彦。私と同じ苗字の、この時はまだ壮年の作家。私は彼のことが誰よりも好きで、誰よりも彼に憧れていた。

 彼が──父が、本を書いていると知ったのは四歳くらいの頃だった。母に「お父さんの本よ」と言われて手渡されたそれを開くと、私の知らない世界が広がっていた。文字の羅列が私を包み込んだ。母からは父の仕事について「別の世界を創る仕事」と言われていたから、これがそうなのかと、パズルが完成した時のような快感が全身を包んだ。読めなくても、これが父の創る世界なのだと思うことはできた。その仕事を「小説家」と呼ぶのを知ったのは小学校に上がってからだった。

 私は父の背中をずっと見ていた。父が私の目の前で私の知らない別の世界を創っているという事実が、私を虜にしていた。そうして父の背中を追っていた私が、父のように作家を目指すのは必然だったように思う。

 なれる、と思っていた。私は父の娘だから、父にできて私にできないわけがない。私も別の世界を創りたい。私ならできる。やれる。そう思っていた。

 父が死んだのは、そんな気持ちが最高潮だった高校二年の時。交通事故だった。

 病院で父の遺体を目にした私は、一目散に家に帰って、父の部屋に閉じこもった。赤く染まった包帯が呪いのように脳裏に焼きついて離れなかった。

 父は、本の世界へ連れていかれてしまった。

 書き続けていた父は、ある時ふとそちら側・・・・へ行ってしまった。だから書くことが恐くなった。書きたいのに、書いたら、私もそちら側へ連れていかれてしまう。作家になるという夢もいつしか過去のものになった。そのかわり、私は霧中をさまようように父の姿を本の中に捜した。どこかに父がいないかと、今まで好きだった読書に別の意味が加わった。そして読書に費やした時間は、内向的な私の少ない社交性を悉ことごとく消し去ってしまった。

 文庫本をテーブルに置いて座る。テーブルの上にはもう一冊、あの白い本が置いてある。上着のポケットから浅田さんにもらった飴玉を出して、口に放り込み、その白い本を冒頭から三分の一くらいのところで開いた。何も書かれていない。

 一ページ捲って、そのページの縁が天を向くようにして持つ。その縁に右手の人差し指をあてがう。軽く力を込めて、すっ、と前に送り出した。

 鋭い痛みとともにページの縁が赤く染まった。指には刃物で切ったような傷。そこから真っ赤な血が、指をゆっくり伝っていた。そしてその指を白原に押しつけ、綴る。

 私は、勝手に自分を父と重ねていた。父と一緒に、私の心までも過去へと押し込んでしまっていた。それを他でもない浅田さんが、今この世界に存在していいと認めてくれた。父と一緒に、私の心を過去から引っ張り出してくれた。

 そして、私と父は乖離した。この心は私だ。父じゃない。我儘だった私の呪縛から、父が解放されていく。

 ああ、どうしてもっと早く気づけなかったのだろう。この体を流れる血は、現に今、私の心を動かしているのに。

 人差し指から出ていた血が止まる。次は中指を切った。それも止まったら、薬指。そして、小指。そうして世界を綴っていって、最後まで書き記す。

 私は本を閉じて、五周目に切った人差し指から流れる血で、白い表紙の上にはっきりと記した。白い帯には何も書かない。そこは、私が書くべき場所ではない。

血流けつりゅう白帯はくたい

 私の心は、過去からこの世界に戻ってきた。

 机の上には私と父がいた。父はたぶん、ずっと私の隣にいたと思う。

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血流と白帯 山崎山 @yamazaki_yama

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