無名作家の一生

浅野浩二

第1話無名作家の一生

大学進学で、僕は、広島大学医学部を選んだ。

理由は、模擬試験で、広島大学医学部に入れる学力があったからだ。

もちろん、それが理由の全てではない。

高校時代、僕は、将来、自分が、何になりたいのか、どうしても、分からなかった。

それで。医学部に、入り、卒業しておけば、医師になれる。

医師になれば、就職には困らない。

ということを、友達から、聞いていた、からだ。

僕も、医学部や、医者の生活の、本を何冊も読んで、そのことは、実感した。

それで、ともかく、医学部に入っておいて、勉強していれば、入学から卒業までの、六年間の、間に、きっと、自分が、本当に、やりたい事、が、見つかるんじゃないか、と思った、からだ。

日本では、高校三年の、18歳という年齢で、何の学部に進学するか、つまり、将来、どういう方面の仕事をするか、という選択を、決定しなくてはならない。

僕は、これは、年齢的に無理だと思う。

確かに、高校生の中には、幼少の頃から、自分の、自分の特性や、思い入れから、自分の天分、天職を、見出して、それに、一図に生きてきた学生もいる。

プロスポーツ選手とか、作曲家とか、漫画家とか、科学者とか、つまり、スポーツとか、芸術家とか、学者、で、そういう人間はいる。

そして、それによって、社会的成功を、おさめた、人間は、確かにいる。

しかし、数から、言えば、そういう、幸運な人の、割合は、100人中、1人、くらい、の圧倒的な少数派だと思う。

ほとんどの高校生は、自分の、将来というものを、つかめないまま、大学を選ぶ。

選ぶ、というより、自分の学力で入れる大学に入る。

しかし。小学校、中学校、高校、と、勉強してきて、おおまかに、自分が、何の科目が、得意で、好きか、ということくらいは、わかっている。

おおまかに、自分は、文科系が、得意なのか、理科系が、得意なのか、くらいの、判断は出来ている。

学校の試験の結果や、模擬試験の結果から、それは、明らかだ。

しかし、数学が、得意だからといって、即、数学者になれるわけでもない。

歴史が好きだからといって、即、歴史学者になれるわけではない。

高校までに、学ぶ勉強は、決して、「学問」、なんかではなく、他人が、作ってくれた、「学問」の、さわり、を、ほんの少し、受け身で、覚える、だけである。

そのことを、ほとんどの、学生は、大学に入って実感する。

自分は、数学の問題を解くのが、好きなだけだったと。

歴史が好き、といっても、テレビドラマの時代物を見るのが、好きなだけだったと。

高校までの、勉強は、「学問」の、さわり、であり、学者になるということは、広大無辺の、「学問」に、一生、自分の人生の、情熱の、全てを、捧げる覚悟がなければ、ならない、ということを、大学に入って気づく。

それで、結局は、自分には、そこまでの、情熱は、とてもない、という、ことを、実感する。それで挫折する。

そういう学生は、まだ、いい方である。

実際の所は。

そういう夢をもって大学に進学する若者は、大学に進学する高校生の、ほんの一握りに過ぎない。

大学に進学する高校生の、ほとんどは、勉強なんか、嫌いであり、遊ぶために、そして、大学を出ていた方が、就職に有利だから、という理由で、大学に進学するのである。

ましてや、バブル景気が、はじけた、失われた、20年の、デフレ不況の、現在の日本においては、企業は、正規雇用を、減らそうとしているから、何とか、フリーターや、ニートにならずに、就職先が見つかれば、それで、十分な、御の字なのであり、就職活動では、100社、まわって、一社でも、採用してくれる会社があれば、ほっと、胸を撫で下ろしている、というのが、現状なのである。

僕が、小学、中学、高校と、クラスの中で優等生だったのは、決して、頭が良かったからではない。

平均よりは、ちょっと、上、程度だっただけである。

内気で、友達がいなく、趣味も無く、何もすることが、なかったから、そして、何か、自分の情熱を、打ち込む物を、見つけられなかったから、勉強いがいに、やることがなく、それで仕方なく、勉強に、打ち込んだだけのことである。

僕は、数学や、物理の理系の科目が、得意で好きだった。

しかし、だからといって、僕は、即、数学者や、物理学者になりたい、などと思ったことは、一度もない。

それは。なれない。ということも、(僕は、直観力だけは、いいので)何となく、分かっていた。のだが、それが、理由の全て、ではない。

僕は、学者だの、研究者なんかに、なりたい、などと、憧れたことが、一度も無いからである。学者なんて、どんなに、努力しても、一生かけて、一つの発見を、出来るか、出来ないか、であり、仮に、発見、出来たとしても、自分でなくても、他の学者でも、発見可能なことであることの方が、圧倒的に多く、(要するに、早い者勝ち、であり)その発見に、自分の名前がついて、その一文字が、辞書に載ることになっても、それが、一体、何なのだ、実に、くだらない、と、思っていたからである。

僕には、自分でも説明できない、得体のしれない、他人と違った個性があることは、感じていた。

それが、何であるかは、わからなかった。

僕は、その、自分でも説明できない、得体のしれない、他人と違った、何かを、表現したい、というのが、僕の願望だった。

しかし、それを、どのように、どういう手段で、表現すればいいのか、ということは、全く、分からなかった。

僕は、子供の頃から、音楽を聞くのは、好きだった。

しかし、人間なら、誰だって、自分の好きな音楽、曲というものはあり、何ら特別なことではない。平均的な子供以上に、音楽が好きだった、というわけではない。

それに、音楽が好き、というのは、もちろん、自分の好きな曲を、聴くというだけのことであり、それは、完全な受け身の行為で、何ら、自分の個性の表現ではない。

音楽で、自分の個性を発揮する、というのは、音楽の論理を勉強し、音符が読めるようになり、自分で作曲する、ということである。

僕には、音楽に対して、人並み以上の、関心も、興味も無かった。

音楽の論理を勉強し、作曲してみたい、とも、全く思っていなかった。

それに、僕は、直観力だけには、自信があり、仮に、僕が、音楽の論理を勉強し、作曲してみても、素晴らしい曲など、作れないだろう、ということには、絶対の確信があった。

変な確信だが。

次に、僕は、絵画を描く、ということを考えた。

僕は、子供の頃、絵を描くのは、好きでも嫌いでもなかった。

自由な時間に、絵を描く、ということは、しなかった。

学校の、図工の時間でも、絵を描くことになって、描いて絵を完成させても、喜びも嬉しさも起こらなかった。ただ、漫画(劇画)の模写は、暇な時、時々、することがあった。

僕は、漫画の模写は、上手く、漫画家の描いた絵と、ほとんど違わない、人が見ても、区別出来ない、ほどに、正確に、漫画の絵を模写(レプリカ)できた。

これは、多少は、楽しかった。

しかし、それは、自分は、デリケートで、性格が繊細で、手先が器用という、技術的な、満足に過ぎなかった。

なので、漫画を読むのは、好きだった。

しかし、漫画家になりたいとも、なれるとも、全く思っていなかった。

漫画を読むのが好き、ということと、漫画家になれる、ということは、全く違うことである。

漫画家になるには、音楽と同様、人物や風景を自在に描けるようになるまでに、たいへんな訓練をしなければ、なれない。

僕には、自分の情熱の全てを、注ぎ込んで、漫画家になりたい、という思いなど、全くなかった。し、絵もストーリーも、上手い、面白い漫画家になれる自信など、全く無かった。

特に、上手い絵を描く自信が無かった。

では。絵が描けないなら、絵の技術の必要のない、お話しである、小説は、どうか、というと。

僕は、子供の頃、本を読むのが大嫌いだった。

なので、子供の頃は、ほとんど、本は読まなかった。

もちろん、子供向けの童話、とか、学校の国語の授業で、文章を読むことはあった。

しかし、僕には、好きな、お気に入りの、童話も、小説も、お話しも、全く無かった。

むしろ、活字だけを読むのは、嫌いだった。

僕は、子供の頃から、理屈っぽく、論理的な性格で、子供の頃から、自分は、文科系人間ではなく、理科系人間だと思っていた。

なので、小説家になりたい、などとは、さらさら思わなかった。

文章を読んだり、書いたりするのが、嫌いなので、文章を書いて、お話しを、作る、ことなど、まっぴらごめん、だった。

小説家とか、小説を書くヤツは、特別な変わり者に、僕には、思われた。

しかし、僕は、一人になると、いつも、楽しい、気持ちのいい、エッチな、お話しを、想像してしまう。

その、想像の中での、お話しは、実際に、友達と、遊んだり、漫画を読んだりしている時の、楽しさに、勝るとも劣らなかった。

なので、僕は、子供の頃、想像の中だけで、お話しを作って、楽しんでいたのである。

本気で、打ち込める趣味というものがないので、学校の勉強だけは、真面目にやった。

そのため成績は、良かった。

中学生になった。

中学になっても、僕は、一人ぼっちで、友達は出来なかった。

趣味も無い。

自分の情熱を、注ぎ込んで、打ち込める物がない。

それで、学校の勉強に、打ち込んだ。

もちろん、僕は、理科系人間なので、数学や物理の勉強の方が、社会科の勉強より、面白かった。

しかし、僕は、負けず嫌いなので、全ての学科を熱心に勉強した。

僕の、負けず嫌いは、他人との競争ではなく、社会の勉強なら、たとえば、「歴史」の勉強なら、「歴史」の勉強を、身につけられない、という、口惜しさ、に、僕は、耐えられないからである。

僕の、負けず嫌いは、自分の能力に対する劣等感を認めたくない、という、自分との戦いだった。

なので、僕は、得意な、理数科系の勉強だけでなく、自分の、苦手な、国語や、社会の、勉強も一生懸命、頑張って、勉強した。

そのため、成績は、全科目、概ね、良かった。

しかし、自分が、将来、何になるか、何に、本当に、打ち込みたいのか、それは、何なのか、という、疑問と不安は、いつも、心の中に、潜んでいた。

それが、わからないので、中学、そして、高校時代は、不安の日々だった。

勉強で多少、成績がいいからといって、学者や研究者になる気もなかった。

猛烈な、ガリ勉をして、東大法学部に入り、官僚になりたいとも思わない。

それで、多分、自分は、将来、そこそこに、いい会社に、入り、サラリーマンになるんだと思っていた。

なので、中学、そして、高校時代は、夢も希望も無い、虚無感の日々であった。

自分が、何になりたいか、知るために、色々なことを、やってみた。

スポーツもやってみた。

テニスや、水泳や、スキー、などである。

スポーツも、出来るようになると、嬉しいが、所詮は、刹那的な快感を、一歩も出るものではなかった。

また、苦手で、嫌いな、国語の学力を上げるために、読書もしてみた。

読書すると、国語の学力が上がる、と、先生が言って、自分でも、そう信じていたからである。

それで、日本の近代文学の、代表である、「夏目漱石」、とか、「芥川龍之介」とか、「森鴎外」とか、西洋の古典である、シェークスピアとか、ロシアの文豪といわれている、ドフトエフスキーとか、トルストイ、とかを、読んでみた。

しかし、全然、面白くなかった。

それに、読書をしたからといって、国語の成績が、上がるとも、思えなかった。

それは。もちろん、読書しないよりは、読書した方が、いいだろうが、それによって、国語の成績が上がる、効果は、極めて微々たるものでしかないと、僕は、直観力で思った。

そもそも入試に出る、国語の、問題文の、文章は、評論文とか、新聞の社説とかの、社会問題、や、芸術論とか、人生論とか、歴史観とか、そういう、物事の、本質的な、問題をあつかった、論文ばかりであり、国語の、成績を上げるためには、国語の過去問を、たくさん、解くのが、一番よく、また、それ以外に方法は無い、と思った。

それで、読書は、やめてしまった。

それで、僕は、全科目を一生懸命、勉強し、広島大学医学部を受験して、合格した。

模擬試験を、受けて、僕の学力では、広島大学医学部なら、合格の可能性がある、と、判定に出たからである。

僕の学力では、東大や、京大、阪大などの、旧帝国大学の医学部には、とても、入れる可能性は無かった。

しかし、かろうじて国立の医学部に入れる学力はあった。

それで、かろうじて国立の医学部に入れて、ほっとした。

僕の、得意、不得意からいうと、医学部は、僕の特性に向いていない、とは、わかっていた。

僕は、理系の勉強が、得意だったが、それは、僕が、ガチガチの論理的な性格なためである。

そのため、数学や物理は、得意だったし、高校の時から、哲学書を読むのが好きだった。

カント。ヘーゲル。パスカル。デカルト。サルトル。ヤスパース。キルケゴール。プラトン。その他、この世の、あらゆる、哲学者の書物が、面白くて、高校時代には、哲学書を貪り読んだ。

なので、僕には、大学は、文学部の哲学科が、似合っていたかもしれない。

しかし、僕は、哲学者になる気は、全く無かった。

医学部に入ったら、生物学の、知識が要求される。

しかし、僕は、生物学は、むしろ、苦手だった。

それでも、医学部に入れたのは、一次試験でも、二次試験でも、医学部は、理科は、生物学は、必修ではなく、二科目が選択で、僕は、理科では、得意な、物理と、化学で、受験できたからである。

また、僕は、子供の頃から、オートバイに、魅力を感じていて、乗るのも、またオートバイの構造にも、強い興味があって、かなり、知っていた。

なので、僕は、医学部ではなく、理工学部に入って、将来は、本田技研に入って、オートバイの設計技術者になるのが、僕の適正にかなっている、のではないか、と、考えたこともあった。しかし、オートバイの設計に、たずさわって、成功したとしても、僕には、オートバイの設計が、僕の、心の中に潜んでいる、巨大な、得体の知れない、個性の、表現、になり得るとは、全く思えなかった。所詮、それは、会社の中の、単なる歯車になる事と、たいして、代わりがないと、しか思えなかった。

オートバイの設計という、所詮は、機械に過ぎない物に、自分の、あふれんばかりに、わだかまっている、情熱を注ぐ気には、全くなれなかった。

僕が、医学部に進学することを選んだのは、将来、医者になって、病める人々を救おう、などという、高邁な理由からでも、さらさらなかった。

医者になると、将来、食うには、困らない、ということを、高校時代に知っていたからである。

しかも、医学部は、4年間ではなく、6年間である。

6年間のうちには、きっと、自分の、本当にやりたい事が、見つかるだろう、という、モラトリアムの心理もあった。

さて、医学部に入った、最初の二年間は、教養課程で、教養課程では医学とは、関係のない、様々な、学問を学ぶことになった。

僕は、自分の天職という物を探していたので、教養課程では、そのヒントが、見つかりはしないかと、全ての、授業に出席して、真剣に勉強した。

しかし、それは、講義に出ても、なかなか見つけられず、また、見つけられそうにも感じられなかった。

それで、僕は、色々と、本を読むことにした。

小説とか、文学には、高校の時に読んで、面白くなくて、失望していたので、興味がなく、自分に、興味のある、哲学や、心理学、偉人の自伝、思想書、宗教書などを、読んでみた。

ある心理学の本を、読んでいた時のことである。

その中に、日本や世界の、偉人の、病「せき」跡学、という、項目の中で、日本の文豪である、谷崎潤一郎という、作家が、マゾヒストである、と、書かれている一文を見つけた。

僕は、それを、ウソではないかと、疑った。

高校の時、国語の勉強のために、僕は、かなり、文学書を読んだ。

しかし、それらは、全て、「人間は、いかに生きるべきか」という、真面目で、重いテーマの内容ばかりで、それらに、面白さは、感じられなかった。

ただ、国語の受験勉強の中で、谷崎潤一郎という小説家が、日本を代表する、文豪の一人で、耽美派という範疇の小説家であり、代表作は、「刺青」、「痴人の愛」、ということは、読みもしないが、知識として、覚えて、知っていた。

なので、僕は、ある日、その心理学書で、書かれている、谷崎潤一郎が、マゾヒストである、ということが、本当なのか、どうか、確かめるために、近くの書店に行ってみた。

新潮文庫の書棚の、谷崎潤一郎のプレートの所では、「刺青、秘密」、と、「痴人の愛」、の二つがあった。

「痴人の愛」は、一編の長編小説であり、「刺青、秘密」は、初期の頃に書いた、短編集だった。

文学書とは、つまらない物と思っていたので、長編小説は、読む気になれなかったので、短編集である、「刺青、秘密」を買った。

そして、読み出した。

読んでいるうちに、僕は、今まで、経験したことのない、驚き、と、興奮、と、歓喜を、感じた。

美しい文章、読者の官能を刺激せずにはいられない、美しい、マゾヒスティックなエロティシズムのストーリー。が、ページの中に、光り輝く真夏の太陽のように、あふれんばかりに、横溢していた。

僕は、貪るように、一気に、「刺青、秘密」を読んだ。

「刺青」、「少年」、「幇間」、が、特に、エロティックだったが、「刺青、秘密」に収められている、7編、の小説は、全てが、美しいエロティシズムの表現だった。

文学は、真面目な物、堅苦しい物、という、僕の先入観は、この一冊によって、粉々に砕け散った。

僕は、数日後、また、書店に行って、「痴人の愛」、を買った。

そして、読んだ。面白いので、一日で、一気に読めた。

これもまた、谷崎潤一郎という作家の、素晴らしく、美しい、マゾヒスティックな、女の美しさに、かしずく小説だった。

僕は、もっと、もっと、谷崎潤一郎の、小説を読みたくなった。

出来れば、その作品の全てを。

しかし。書店には、「刺青、秘密」、と、「痴人の愛」、の二冊しか、文庫本がなかった。

それで、僕は、書店で、谷崎潤一郎の文庫本で、手に入れられる物を、すべて注文した。市立図書館では、谷崎潤一郎全集は、あるかもしれないが、全集は、大体、本が分厚くて、文字が小さくて、読みにくいし、それに、二週間したら、返却しなくては、ならない。

僕は、本は、文庫本で、そして、自分の物として、いつまでも、死ぬまで、とっておきたかったので、書店に、注文して、谷崎潤一郎の本が、届くのを待つことにした。

待つことには、僕は、それほど、気にはならなかった。

それより、谷崎潤一郎という、小説家を知ったことによって、僕の文学に対する、見方が、180°変わってしまった。

文学には、こんな、自由奔放な、素晴らしい、作家、や、作品もあるのだ。

高校の時、国語の勉強のために、嫌々、読んだ文学書では、不運にも、それに、巡り合えなかった、だけなのだ、と。僕は、知った。

僕は、文学に対する認識を、あらためた。

僕は、谷崎潤一郎の他にも、面白い、作品や、作家は、あるだろう、と思った。

僕は、書店に行って、もっと、もっと、面白い作家は、いないか、探すことにした。

しかし、僕は、文学には、疎いので、作家や、その作品を、ほとんど知らない。

なので、いい作品、面白い作品に、出会うため、片っ端から、読んでみることにした。

三島由紀夫は、ノーベル賞候補に上がった、ことも、あるほどの、作家ということだったので、高校の時、国語の勉強のために、傑作と言われている、「金閣寺」という作品を読んでみていた。

しかし、面白くもなく、また、難解で、よくわからなかったので、三島由紀夫は、面白くない、作家だと思って、「金閣寺」の、つまらなさ、難解さ、から、拒絶反応が起こって、それ以外は、読まなかった。

しかし、新潮文庫の、三島由紀夫のプレートの所を、見ていると、「仮面の告白」という、小説が、目に止まった。

「仮面の告白」、というタイトルから、何となく、面白そうな気がした、からである。

長編小説だが、分厚くなく、むしろ、213ページと、薄い。

それで、最初の数ページを、パラパラッと、読んでみた。

すると、最初のページから、「あのこと」、つまり、セックスのことを、書いた文章に、出くわして、驚いた。

それで、もう一度、三島由紀夫、に挑戦しようと、「仮面の告白」を、買って、その日のうちから、読み始めた。

この作品は、「金閣寺」とは、違って、わかりやすかった。

ひとことで言って、三島由紀夫が、自分の性欲に焦点を当てて、書いた自伝的小説だった。

通常の男と違って、女に関心を持てない、ホモ・セクシャルであり、また、空想では、サディストであって、好きな男を、次々と殺す、夢想を楽しんでいた、ことなど、とんでもない事が、露骨に書かれていた。

谷崎潤一郎の作品と違って、陶酔するような、美しいエロティシズムは、感じなかったが、文学とは、かくも、自由奔放であり、思っていることは、何でも表現していい、素晴らしい、ものである、ということを知って、僕は、ますます、文学に関心を持つようになった。

川端康成の、「伊豆の踊子」には、素直に、感動した。

石川啄木の、短歌は、よくわからなかったが、たまたま、読んでみた小説、「二筋の血」は、啄木が、子供の頃に、一人の、女の子を好きになった体験を小説化した作品だが、それは、谷崎潤一郎の作品に、勝るとも劣らぬ、ほとの、美しく、可愛く、切なく、そして、可哀想な、無邪気な、子供の恋愛小説だった。

数日して、書店に注文しておいた、谷崎潤一郎の、文庫本が、10冊ほど、届いた。

すぐに読み始めたが、谷崎潤一郎の、作品は、どれも、マゾヒスティックな、エロティックな、小説で、ほとんど全ての作品で、心地よさを、味わえた。

しかし、僕は、谷崎潤一郎の、作品を読むのと、同時に、他にも、いい作家や、作品は、ないか、探し続けた。

僕の感性に合わない、つまらない作品で失望する小説も、多かったが、僕の感性に合う、面白い作品に出会えることも、あった。

こうして、僕は、どんどん、文学の世界の深みに、はまっていった。

文章の美しさ、文章の味、というものも、わかってきた。

芥川龍之介の文章など、実に美しい。

僕は、だんだん、自分でも小説を書きたいと思うようになっていった。

というか。正確にいうと。

谷崎潤一郎の、初期作品集である、「刺青、秘密」を、読み終えた時に、「これだ。これこそが、自分の心の内に、溢れんばかりにある、思いを、表現できるものは」、と、決定的に思ったのである。ただ、谷崎潤一郎の、作品が、あまりにも、美しく、偉大すぎたので、自分が、ああいう文章を、はたして書けるのか、どうか、ということには自信がなかったのである。

しかし、多くの、素晴らしい文学書を、読んでいくにつれ、自分でも、小説を書きたい、という欲求が、募っていって、もう、その欲求を、押さえることが、出来なくなってしまったのである。

僕の心の中には、表現したい、と思っている、思い、夢想が、無限ともいえるほど、あるのである。

それで、僕は、小説を書き出した。

最初に書いたのは、小学校6年の時のことである。

恥ずかしがり屋で、好きな女の子に、告白できないで、煩悶している、少年と、その少女のことを、ヒントに、恋愛小説に仕立てた。

お話しを書くのは、生まれて、初めてだったので、骨が折れ、とても疲れた。

しかし、多くの文学書を、丁寧に、よく読んでいたことが、文章を書くための、スキルアップにも、利していたのだろう。

それで、何とか、書き上げることが出来た。

書き上げた時の、喜びといったら、それは、言葉では、言い表せないほどのもので、あたかも真夏の太陽に向かって、自分が鳥になって、飛翔していくような、この世離れした、歓喜だった。

タイトルは、「忍とボッコ」とした。

男の名前が、「忍」で、女の子の、あだ名が、「ボッコ」、だったからである。

一作だか、小説を書き上げられると、自分にも、小説を書くことは、出来るんだ、という、自信がついた。

それで、僕は、小説を、どんどん、書いていった。

18歳で自殺した岡田有希子さんの、夭折の人生が、あまりにも美しく、その人生を、僕は、表現したいと思っていたので、彼女の人生を、フィクションも入れて、小説風に書いてみた。

タイトルは、「ある歌手の一生」とした。

次は、女子高に、来た、男子教師が、一人の、女子生徒に恋してしまう、という、架空の小説を書いた。

タイトルは、「高校教師」とした。

こうして、僕は、次々と、小説を書いていった。

ある時。

僕は、食堂の掲示板に、

「文芸部員募集。文集を作るので、作品を募集しています。文芸部員でなくても、構いません」

という、貼り紙を見つけた。

僕は、処女作、「忍とボッコ」を、書き上げた、はじめの頃は、書き上げた、ということだけに、純粋に、嬉しさを感じているだけだった。

しかし、何作も、小説を書いているうちに、だんだん、それを、自分で読むだけの自己満足ではなく、他の人にも、読んでもらいたいと、思うように、なった。

また、自分の書いた小説を、他人が読んだ時、どう感じられるのか、その感想と、そして、作品の文学的評価も知りたく、なっていった。

それは、創作する人間にとっては、至極当然の感情だろう。

ある日、僕は、勇気を出して、文系部の、部室に行った。

自分の書いた、いくつかの作品を持って。

トントン。

僕は、文芸部の、部室のドアをノックした。

「はい。どうぞ」

部屋の中から、大きな声が聞こえてきた。

ガチャリ。

「失礼します」

僕は、ドアノブを回して、戸を開けた。

部屋には、8人くらい、着ける、大きなテーブルがあって、一人の男子生徒が座って、本を開いていた。

壁際の書棚には、ズラリと、本が並んでいた。

「はじめまして。山野哲也といいます」

と、僕は、畏まって、お辞儀をした。

「はは。そんな、堅苦しい挨拶なんて、いらないよ。ここは、教授室じゃないんだから」

彼の気さくな、くだけた、態度に、僕は、精神的に、リラックス出来た。

「ともかく座りなよ」

彼に言われて、僕は、彼と向き合うように、テーブルについた。

「用は何?」

彼が聞いた。

「あ、あの。食堂の掲示板の、貼り紙を見て。小説をいくつか、書いたので、見ていただけないかと思って・・・」

僕は、少し緊張して、どもりどもり言った。

しかし、僕としては、自分の書いた小説を、人に読んでもらうのは、生まれて初めてのことなので、しかも、相手の生徒は、おそらく文芸部員で、文学に詳しいだろうから、気の小さい僕が緊張したのは、無理もないことだ。

僕は、あたかも、出版社に、小説を持ち込む、小説家をめざす、文学青年のような、気持ちだった。

「ほう。君。小説を書くの。すごいね。どれどれ。ぜひ、君の書いた小説を見せてくれない」

すごい、と言われて、僕は、照れくさく、恥ずかしくなった。

僕は、自分の書いた小説は、そんな大層なものではないと、思っていたから。

僕は、ワープロで、印刷した、小説の原稿を、カバンから、取り出して、おどおどと、彼に渡した。

「ほう。結構、書いているんだね」

そう言って、彼は、原稿を、受けとった。

「ちょっと、10分、くらい、待ってて。読むから」

そう言って、彼は、僕の書いた、小説を、読み始めた。

目の動きや、原稿を、めくるスピードが、かなり速い。

僕は、今、まさに、自分の書いた小説が、おそらくは、文学に詳しい人に、読まれている事実に恐縮していた。

顔は、無表情だが、心の中では、幼稚な小説だな、と、嘲笑っているのかも、しれない、という疑心まで起こってきて、顔が赤くなった。

大体、10分、くらいして、彼は、原稿の束を、テーブルの上に置いた。

「読んだよ。全部。なかなか面白いね。いかにも、君が書いた小説って、感じが伝わってくるね」

と、彼は、感想を言ってくれた。

僕は、なかなか面白いね、という言葉が、単純に、嬉しかった。

彼の、単刀直入な言い方から、彼が、心にも無い、お世辞を言う性格には、見えなかったので、僕は、彼の感想を素直に信じた。

「この作品の中で、一番、最初に書いたのは、忍とボッコ、でしょう?」

「うん」

「君。谷崎潤一郎が好きでしょう?」

「うん」

「君。小説を書き出したのは、比較的、最近でしょう」

「うん」

「いつから、小説を書き出したの?」

「大学に入ってから。だから、半年、前くらいから」

彼の、言っていることが、全て当たっているので、僕は、彼の炯眼さに驚いた。

「ところで君は、何学部なの?」

彼が聞いた。

「医学部です」

僕は答えた。

「何年生?」

「一年です」

「そうなの。僕は、文学部。石田誠。二年生。一応、文芸部の主将ということに、なっているけどね」

彼が、文学部だろうとは、一目、見た時から予想していた。

「どうして、一応、なんて、言い方をするんですか?」

彼が、単刀直入で、謙遜するような、性格には、見えなかったので、僕は、疑問に思って、聞いた。

「部員が少ないからさ。僕を入れて、部員は、三人しか、いないんだ。学校が、部員の数が、それだけでは、廃部にする、と言ってきたのを、僕が、必死に頼んで、何とか、学校に、残させてもらっているような状況だからさ」

なるほど、と、僕は思った。

「そうなんですか」

「他の二人の部員は、小説は、よく読んでいるんだけど、自分では、小説を書かなくてね。小説の、感想や、文学論みたいなものばかり、書いているんだ。まあ、それでも、書かないよりは、有難いけれどね。作品が集まらないと、文集を作れないから、君の小説は、文集に載させてもらうよ」

「有難うございます。でも、あの程度の、小説で、いいんでしょうか?」

「全然、構わないよ。君は、大学に入ってから、小説を書き始めた。と、言ったね。そういう人は、やむにやまれぬ思いから、小説を書き出した人が、多いから、本当に、表現したい物を持っている人である、場合が多いんだ。僕は、君の作品を読んで、君が、表現したい、情熱をもっていることを強く感じたよ。むしろ、中学生とか、あまりにも早い時期から、小説を書き出した人には、子供の頃から、小説を読むのが、好きで、趣味で読んでいて、自分も、真似して書いてみよう、という、軽い、遊びの感覚で、小説を書いている場合が、多くて、本当に、表現したい物は、実は、持っていない、という場合が、結構、多いんだ」

僕は、なるほど、そうかもしれないな、と思った。

「先輩も、当然、小説を書くんですよね?」

「うん。書いているよ」

「先輩は、いつから、小説を書き始めたんですか?」

「そうだね。高校生の時からだね。文学書を、読むのは、好きだったから、子供の頃から、よく、読んでいたけどね。高校から、自分でも、書こうと思い出して、書き始めたけれど、なかなか、満足のいくものが、書けなくてね。いくつか、作品は、書いたけれど。本当に、満足できる作品は、まだ、書けていないんだ」

彼の創作意欲は、趣味の、遊び感覚の、ものとは違う、本当の、表現欲求から、来ているのだと、僕は思った。

「先輩は、将来、小説家になろうと思っているんですか。文学部に入ったのも、そのためですか?」

僕は聞いた。

「まあ、そうだけどね。でも、なろうと思って、簡単に、なれるものじゃないからね。でも、自分が、本当に、満足のいく、小説は、書くことを、やめないで、努力して、続けていれば、きっと、いつか、満足のいく作品が書けると思っているんだ。今のところ、僕は、一生、小説を、書き続けようと思っているんだ」

「では、先輩の目から見て、僕は、小説家になれると思いますか?」

「書く、という行為を、すること自体が、もう、作家の資質があるということさ。あとは、その気持ちが、一生、続くか、どうか、だね」

そう言って彼は、紅茶を啜った。

「ところで、君は、文芸部に入ってくれるんだよね?」

先輩が聞いた。

「ええ。入ります」

僕は、躊躇なく答えた。

そのあと、先輩と、色々と、雑談した。

彼は、日本の文学は、あまり読まなくて、外国の文学ばかり、読んでいること、日本の作家では、安部公房や村上春樹が、好きなこと、大学受験では、慶応大学にも受かったけれど、親が国立である、広島大学に進学するよう強制したので、仕方なく、広島大学に入ったこと、などを、語った。

彼は、好きな作家として、外国文学の、ヘルマン・ヘッセ、トーマス・マン、フランツ・カフカ、その他、現代の、作家の名前を、いくつも、あげた。だが、僕には、そのどれも、聞いたことのない、名前ばかりだった。○○○○○○

彼は、高校時代も、文芸部で、高校時代に、出した、文集に、彼の、作品を載せたのが、あるので、それを、僕に、渡してくれた。

それと、部室の書棚にあった、安部公房の小説や、トーマス・マン、の、「魔の山」など、小説を、数冊、渡してくれて、よかったら、読むように、勧めてくれた。○○○○○○

僕は、それらを、受けとって、アパートに帰った。

文学を本気で、志している人と、会えて、また、自分の書いた小説も評価してもらえて、とても、嬉しかった。

彼の言うことは、全て、最もなことのように、思えた。

僕は、彼が、高校時代に出した、文集、の中の、彼の作品を、真っ先に読んでみた。

文章は、上手く、滑らかだが、何を言いたいのか、何となく、漠然と、わかる気もするが、やはり、よく、わからなかった。

ついでに、ヘルマン・ヘッセの、短い、短編小説を、読んでみたが、これも、何を言いたいのか、よくわからなかった。

なので、優れた文学とは、何を言いたいのか、よくわからない作品なのだという、変な理屈を持った。

外国文学は、とても、読む気がしなくなって、安部公房や、村上春樹を、読んでみたが、これも、何を言いたいのか、よくわからない。

しかし、文章は、上手い。

しかし、その程度で、僕には、外国文学は、わからない、とまでは、結論づけなかった。

いつか、わかる日が来るかもしれないと、積ん読、に、とどめることにした。

ちょうど、絵画でいうなら、ピカソの絵は、わけがわからないが、専門家の目から見ると、高尚な芸術であるらしいが、その逆に、一見して、わかってしまう、絵画は、大した価値が無い絵画、というような、理屈と同じだと、思った。

思った、というより、思うことにした、と言った方が正確である。

そもそも欧米人は、歴史的に見ても、物の考え方にしても、スケールが大きい。

それに比べ、日本は、小さな島国で、徳川時代は、260年間も、鎖国をしてきて、源氏物語や、清少納言のように、もののあわれ、や、感情の機微は、知っていても、日本の近代文学には、欧米のような、スケールの大きなものは、ない。

しかし、僕も、日本文学なら、わかる。

谷崎潤一郎だって、ノーベル文学賞候補にあがった、ことがあるほどだから、間違いなく、優れた文学であることには、違いない。

なので僕は、谷崎潤一郎の、作品を読みながら、また日本の面白い、小説を探して読みながら、同時に、自分の書きたい小説を、書いていった。

二ヶ月ほどして、文芸部の、文集が出来た。

僕の、作品二作と、石田君の、新しい作品、一作と、あと、文芸評論みたいな、作品が、数作、と、文学部四年生の学生の、卒業論文みたいなもの、が、載っていた。

僕は、五作品、石田君に、預けたのだが、残りの三作は、作品が、なかなか集まらなくて、文集を作れなくるのを、考慮して、次期、作る、文集に載せる、ための、ストックにしておく、と言った。

石田君の、小説は、文章は、上手いが、やはり、何を言いたいのかは、よくわからなかった。

自分の、小説が、活字になって、文集に載っても、僕には、それほど、嬉しくなかった。

文集は、所詮、文集で、発行部数も、たかが、200冊で、たかがしれているからだ。

そうこうしているうちに、僕は、教養課程の二年を終えた。

三年からは、基礎医学で、医学一色の勉強になった。

三年、四年、の、基礎医学は、人体の構造や、病気の原理を学ぶ、学問である。

三年では、組織学。解剖学第一。解剖学第二。生理学第一。生理学第二。生化学。

四年では、病理学第一。病理学第二。免疫学。腫瘍病理学。細菌学。薬理学。寄生虫学。衛生学。公衆衛生学。法医学。である。

そもそも、僕は、理数科系が得意といっても、数学や物理などの、ガチガチの論理的科目が、得意で、生物学は、好きではなかったので、基礎医学は、つまらなかった。

毎日、分厚い、医学書を読み、顕微鏡で、極めて薄く切り取られて、ピンク色に染色された、人体の組織を、スケッチする単調な毎日だった。

それでも、理屈がわかれば、面白かった。

僕は、基本的に、何事でも、勉強熱心である。

基礎医学の勉強は、ほとんど、遊びの、教養課程の勉強と違って、覚える量が多く、本格的だった。

なので、小説を書く、ゆとり、が無くなって、小説を、書く、時間は、取りにくくなった。

読書は、好きになっていて、小説を書く参考にもなると思っていたので、書く、より、読む、方に、うつっていった。

しかし、僕の心は、もう、小説を書くことにしか、人生の価値を見いだせず、いつも、小説の、ストーリーのヒントに、なるものは、ないかと、絶えず、それを探すように、なった。

そういう目で、世の中や、自分の身の回りを見るようになっていた。

そして、小説の、インスピレーションが、起こると、すぐに、それをメモした。

やがて、石田君の、卒業が近づいてきた。

石田君は、東京の、大手の、出版社に就職することに決まった。

就職活動では、そんなに、困らなかったという。

石田君は、文学新人賞に、作品を応募して、小説家になる、夢を持ち続けていた。

「小説、書くのをやめたらダメだぞ。オレも、一生、書き続けるからな」

と、石田君は、言った。

石田君は、僕に、どっちが、先に、小説家になれるか、競争しようと、笑って言った。

石田君は、僕の、文学での、良き友人であると、同時に、良きライバルでもあった。

冗談も、半分あるだろうが、本気も、間違いなく、あるだろう。

やがて、石田君は、卒業した。

僕は、四年の、基礎医学を終えて、五年の、臨床医学に進んだ。

臨床医学は、無味乾燥な、基礎医学と、違って、面白かった。

臨床医学とは、内科、外科、産婦人科、小児科、眼科、泌尿器科、他、つまり、全ての、医学の科目を、学ぶ学問である。

まず、教科書を選ぶ困難がなかった。

全ての科の勉強は、医師国家試験用の、教科書で勉強することが、出来たからだ。

医学生は、卒業する、約一ヶ月前に、医師国家試験を受ける。

医師国家試験は、大学の、臨床医学と、同じではあるが、大学の、アカデミズムに比べると、レベルは、少し下がり、国家試験用の、教科書は、分厚くなく、わかりやすく、使いやすかった、からである。

皆も、そうだが、臨床医学の授業は、国家試験用の、教科書で勉強していた。

そして、五年の二学期から、臨床実習が、始まった。

臨床実習とは、大学の付属病院で、実際に、患者を診る勉強である。

五人で、一組の班となって、全ての科を回っていくのである。

臨床実習の勉強は。教授回診の見学。手術の見学。大学病院の先生のレクチャー。入院患者や、課題を出されて、そのレポート書き。などである。

レポート書き、は、多少、面倒くさく、見学の方が、楽で、面白かった。

なにせ、生きて、病気と闘っている患者である。

それを、医学という、長い長い、時間の中から、数限りない、学者たちが、築き上げてきた、医学という学問が、何とか、必死で、治そうとしている、壮絶な戦いである。

しかし、臨床実習と、医師国家試験の準備の勉強で、忙しくなって、僕は、ひとまず、医師国家試験に受かるまでは、読書も、小説創作も、おあずけ、にして、勉強に、専念することにした。

それほど、臨床医学は、忙しく、また、やりがいも、あった。

そもそも、小説家になるには、若い時の、人生体験というものが、作家になってから、大きく、ものをいうのであり、若い時に、真剣に生きる、ということが、すなわち、小説を書く、訓練でも、あるのだ。

それで、僕は、臨床実習も、臨床医学の勉強も、国家試験の勉強も、精一杯、やった。

それで、僕は、無事、医学部を卒業し、医師国家試験にも、通った。

僕は、関西は、どうしても、気質が、肌に合わないので、研修は、関東でしたかった。

できれば、神奈川県か、東京都、の医学部で、研修したかった。

それで、前もって、入局願いの、手紙を、東京の、医学部に、たくさん、出していた。

関東や東京には、医学部が、たくさんある。

どうせ、ダメだろうと思っていたのだが、入局者の定員が足りない、ということで、東京大学医学部の、第一内科から、入局を、認める、手紙が、来た。

天下の、東京大学医学部、ということで、僕は、ちょっと、ビビったが、医師国家試験に通ってしまえば、研修医も法的には、立派に医者であり、医者になってしまえば、対等だろうと、僕は、思っていた。

僕は、卒業すると、すぐに東京都内に、アパートを借りて、引っ越した。

卒業してから、入局して研修が始まるまでには、一ヶ月ほど、期間がある。

ほとんどの、医学生は、海外旅行に行く。

もう、一切の受験勉強から、解放されて、僕は、小説を書き始めた。

五年、六年の、臨床医学になってからは、小説は、ほとんど、書いていなかったが、小説の、インスピレーションは、メモしていたので、あとは、それを書くだけだった、からだ。

五、六作品、僕は、一気に、小説を書き上げた。

やがて、一ヶ月して、東京大学医学部の第一内科に、入局する日が来た。

医学部に、近づくのにつれ、僕は、だんだん、足が、ガクガク震え出した。

僕も、国立の医学部を出たんだぞ、と、自分に言い聞かせ、無理して、自分に自信を持とうとしたが、相手は、天下の、東大医学生である。東大医学部である、東大理科三類の偏差値は、最低でも、駿台模擬試験で、偏差値80は、超してなければ、入れない。

東大理科三類は、日本で、一番、頭のいい人間の、上から、100人のみが、入れる、所なのである。

僕は、全身をガクガクさせ、滲み出る、冷や汗を、ぬぐいながら、第一内科の医局をノックした。

トントン。

「はい。どうぞ」

中から、声がした。

僕は、手をブルブル震わせながら、ドアノブを回した。

おそるおそる、医局の中を、覗くと、10人くらいの、カジュアルな、服を着た、僕と、同い年くらいの、男達が、タバコを吸いながら、喋っていた。

東大医学部、第一内科の、新入局者たちだろう。

僕は、もちろん、新調した、紺のスーツに、ワイシャツに、ネクタイの正装だった。

皆の目が、サッと、僕に集まった。

皆、スーツの正装で、来ているものだと、思っていたので、自分一人だけ、スーツの正装というのが、とても、ばつが悪かった。

「おめえ。誰だ?」

眼鏡をかけた、鋭い目つきをした、赤シャツを着た、男が聞いた。

「は、はい。今日から、第一内科に、入局することになりました、山野哲也と申します。よろしく、お願い致します」

僕は、コチコチに緊張して、深々と、頭を下げた。

「おい。外部からの、入局者が、いるなんて、聞いてるか?」

赤シャツを着た、男が、皆に向かって聞いた。

「さあ、知らねえな」

「そんなこと、聞いてないぜ」

と、皆は、口々に言った。

その中で、一人、青シャツを着た男が、口を開いた。

「オレ。知ってるぜ。なにか、今年は、入局者が、少ないから、特別に、他の大学から、研修医を、募集するかも、しれないって、中山信弥先生が、言ってたぜ」

中山信弥先生とは、東京大学医学部、第一内科の主任教授で、臨床医であると同時に、日本の再生医療の権威だった。

「ほう。そうか。するってえと、おめえが、外部からの研修医か。大学は、どこだ。京大か。慶応か?」

青シャツを着た男が聞いた。

「は、はい。広島大学医学部です」

僕は、小声で答えた。

「ぎゃーははは。広島大学だとよ」

皆が、腹を抱えて笑った。

「広島大学に医学部なんて、あったか?」

青シャツを着た男が、皆に聞いた。

「さあ。知らねえな」

「医学部といえば、東大か、京大か、慶応、以外は、クズだからな。知らねーな」

皆、本当に、知らないような、感じだった。

広島大学医学部にいた時、友達に、東大医学部は、プライドが高い連中ばかりだから、気をつけろ、と、言われていたが、まさか、ここまで、すさまじいとは、知らなかった。

しかし、駿台模試でも、広島大学医学部は、偏差値58の学力が、必要で、その学力があれば入れるが、東大理科三類は、偏差値80でも、合格の保証はない。

なにせ、日本で、トップの頭脳の人間、100人のみが、入れる大学なのだ。

「ところで、お前、国家試験では、何点とったんだ?」

黄色いシャツを着た男が聞いた。

医師国家試験は、60点合格の資格試験である。

僕の、国家試験の成績は、65点だった。

僕は、正直に、「65点です」、と、言おうかと、思ったが、「低すぎる」と、また、バカにされそうな気がしたので、

「な、75点です」

と、声を震わせて、ウソを答えた。

「ぎゃーはははは。75点だとよ」

東大生たちは、皆、腹を抱えて笑った。

「おい。お前、何点だった?」

赤シャツを着た男が、青シャツを着た男に聞いた。

「そんなこと、聞くまでもないだろう。100点に決まってんじゃねえか」

と、青シャツを着た男が、言った。

「そういう、お前は、何点だったんだ?」

青シャツを着た男が、赤シャツを着た男に、逆に、聞き返した。

「オレだって、もちろん、100点さ」

赤シャツを着た男は、ゆとりの口調で、言った。

「おーい。みんな、何点で、合格した?」

赤シャツを着た男が、皆に聞いた。

「オレも100点」

「オレも100点」

みんな、口々に、言った。

全員が、100点、での合格だった。

僕は、タジタジとした。

「おい。愚図野郎。医師国家試験なんて、あんな簡単な、試験はな。満点とって、当然の試験なんだよ」

そう、赤シャツを着た男が、言った。

「おい。こいつの、頭のレベルを、試してみようぜ」

青シャツを着た男が、言った。

「そうだな」

「賛成」

みな、賛同して、決まった。

「じゃあ。まず、暗算の能力だ。黒シャツ。お前が答えろ」

そう、赤シャツを着た男が、言った。

「オーケー。いつでも、いいぜ」

黒シャツを着た男が、余裕の笑顔で言った。

「では・・・・。7986+4838は?」

赤シャツを着た男が、言った。

(えーと。6に8を足すから14で、1足す8足す3だから・・・)

僕が、そう考えようとする、はるか前、黒シャツを着た男が、質問をした、直後に、黒シャツを着た男は、電光石火の如く、即座に、

「121824」

と、1秒もかからず言った。

僕は、10秒くらい遅れて、

「121824」

と、答えた。

「ぎゃーはははは。こんな暗算に、10秒も、かかりやんの」

「お前。低能といえか、知能に障害のある人か?」

東大生は、みな、腹を抱えて笑った。

「よーし。今度は、博学テストだ。お前が、どれたけ、知識があるか、テストしてやる。紫シャツ。お前が答えろ」

と、赤シャツを着た男が、言った。

「オーケー。いつでも、いいぜ」

紫シャツを着た男が、余裕の笑顔で言った。

「それじゃあ、ランダムに、いくぞ。では。ら行で・・・・」

と、言って、赤シャツを着た男が、電子辞書を取り出して、言った。

「ラーガ、とは何だ?」

赤シャツを着た男が、言った。

僕には、聞いたこともない名前だった。

なので、答えようがない。

「ラーガとは、・・・インド音楽の理論用語で,音楽構成上の主要な要素の一つ。ラーガは,音の動きによって人の心を彩るという言葉に由来する。その用語は8世紀頃現れるが,ラーガの概念はずっと以前からあったといえる」

紫シャツを着た男が、余裕の笑顔で言った。

僕は、急いで、スマートフォンを取り出して、「ラーガ」で、検索してみた。

その通りだった。

僕は吃驚した。

「じゃあ。次。今度は、は行で、・・・・ハボローネ、とは、何だ?」

赤シャツを着た男が、言った。

僕には、聞いたこともない名前だった。

なので、答えようがない。

「ハボローネとは、・・・アフリカ南部、ボツワナ共和国の首都。旧称ガベロネス(ガベローンズ)。同国南東部のリンポポ川上流にある。19世紀末にはトロクワ族の小村だったが、1966年の独立に伴って首都となり、急減に人口が増加。南アフリカ、ジンバブエと鉄道で結ばれ、交通・IT分野のインフラの整備が進んでいる」

紫シャツを着た男が、余裕の笑顔で言った。

僕は、急いで、スマートフォンを取り出して、「ハボローネ」で検索してみた。

その通りだった。

「おい。グズ野郎。わかったか。オレ達の頭の中には、ブリタニカ国際大百科事典、以上の知識が詰まってるんだ。オレ達はな、この世の中の、ありとあらゆる事を知っているんだ」

赤シャツを着た男が、自慢げに言った。

「おい。こんな白痴野郎が、国家試験で、本当に75点も、取れたのか、疑わしいぜ」

青シャツを着た男が、言った。

「そうだな。おい。お前。本当に、国家試験で、本当に75点、取ったのか?調べれば、すぐに、わかるんだぜ」

彼は、僕に、鋭い目を向けて聞いた。

僕は、全身が、ガクガク震えていた。

僕は、正直に答えた方が、身のためだと思った。

「ごめんなさい。75点というのは、ウソです。本当は、65点です」

と、僕は、言った。

「ぎゃーははは。そうだろうと思ったぜ。このウソつきの、イカサマ野郎」

そう、言って、赤シャツを着た男が、僕を、突き飛ばし、倒れた僕の顔を、皮靴で、グリグリと、踏みにじった。

他の、東大医学部生も、全員、寄ってきて、僕の顔をグリグリ、踏みにじり出した。

「おめえ、みたいな、低能人間が、身の程知らずにも、医者になろうとするから、日本の医療は、世界から低く見られるんだ。オレ達にとっちゃ、いい迷惑だぜ」

彼らは、ペッ、ペッと、僕に、唾を吐きかけながら、そんなことを言った。

「ごめんなさい。ごめんなさい」

僕は、泣きながら、謝った。

法的にも、道義的にも、謝る必要など、ないのに、謝らずには、いられなかった。

その時、ガチャリと、医局のドアが開いた。

五分刈りに頭を刈った、額の広い、キリッと、引き締まった顔つきの、年配の、白衣を着た、先生が、入ってきた。

東大医学部、第一内科の、中山信弥教授、だった。

みなは、蜘蛛の子を散らすように、サッと、席にもどった。

僕も、すぐに立ち上がった。

僕は、黙っていた。

「どうしたんだ。何かあったのか?」

中山信弥先生が先生が聞いた。

「いやー。別に、何もありませんよ」

東大生たちは、何食わぬ顔で言った。

中山信弥先生は、僕の肩に、ポンと手を置いた。

「紹介しよう。今年は、第一内科の入局者が、少ないので、入局者を募集して、外部の大学から、来てくれた、山野哲也先生だ。みな、よく面倒をみてやってくれ」

そう、中山信弥先生は、僕を紹介した。

「山野哲也です。よろしくお願い致します」

そう言って、僕は、深く頭を下げた。

「こちらこそ、よろしく」

「よろしく」

東大医学部生たちは、掌をかえしたように、恵比須のような、笑顔で、みな、明るい、挨拶を返した。

(こ、こいつら・・・)

さっきまで、さんざん、人を、コケにしていたのに。

僕は、東大生の、転身の早さに、ただただ、驚いていた。

「じゃあ。今日は、挨拶だけだ。これで、おわりだ。これから、飲みに行こう。オレが、おごってやる」

中山信弥先生が、言った。

「やったー」

「ラッキー」

東大生たちは、みな、ガッツポーズをして、喜んだ。

そして、ゾロゾロと、医局室を出ていった。

医局室は、僕だけになった。

「君は、どうする?」

中山信弥教授が聞いた。

「ぼ、僕は、いいです」

僕は、オドオドと、小さな声で、言った。

「そうか。無理には、誘わないよ。あいつら、ちょっと、プライドが、高くて、オレも、困っているんだ。わからないことがあったら、あいつらにでも、オレにでも、何でも聞いてくれ」

そう、中山信弥教授は、言って、医局室を出ていった。

(あれが、ちょっと、プライドが高い、という程度か)

と、僕は、言いたかったが、僕は、怒りと悲しみを、胸の内に、ぐっと、こらえた。

中山信弥教授の、態度も、何となく、冷たく感じられた。

僕は、憤りと、口惜しさ、で、泣き出したい気持ちを、心の中に、押さえこんで、東京大学医学部付属病院を出て家路についた。

こんな、口惜しい、思いをしたのは、生まれて初めてのことだった。

普通の人だったら、こんな時、酒を飲むのだろうが、僕は、酒が飲めなかった。

僕は、東大理科三類出のヤツラを、みんな、ぶん殴りたい気持ちで一杯だった。

だが、しかし、雲泥の、学力の差は、彼らの、言うように、僕の能力の低さに、問題があって、そして、彼らの、能力が、ズバ抜けて、高い、という、ことは、彼らの、言う通りなのだ。

彼らは、今頃、中山信弥教授と、レストランで、大いに、飲み、そして、食っているだろう。

僕には、中山信弥教授が、東大理科三類出のヤツラと、一緒に、僕を、笑い者にしている、様子が、浮かんできて、それは、いくら、振り払おうとしても、僕の頭から、消えることは無かった。

僕は、まさに、やりきれなさ、に、死にたいほどの、屈辱を感じていた。

アパートに着いた。

僕は、ベッドに、うつ伏せに、飛び乗った。

そして、心の中にある、口惜しさを、全て、吐き出すように、号泣した。

「うわーん。うわーん。うわーん。うわーん」

涙は、とめどなく、ナイアガラの滝のように、溢れ出て、枯渇する、ということがなかった。

体中の、水分が、全て、涙として、流れ出て、脱水状態になって、死にはしないかと、思った。

その時である。

ブー。ブー。

ポケットの中の、スマートフォンの着信音が鳴った。

発信者は、「石田」と、表示されていた。

石田君は、三年前に、卒業して、東京の、大手出版社に、勤めていた。

石田君が、大学を卒業してからも、僕は、しばしば、石田君と、メールや、電話の、遣り取りをしていた。

石田君の、アパートは、僕の、アパートに割と近かった。

「よう。元気か?」

石田君が聞いた。

「・・・・」

僕は、答えられなかった。

元気であるはずがないからである。

「今日から、東大医学部での、研修だろ。初日は、どうだった?」

石田君が聞いてきた。

僕は、答えられなかった。

しかし、石田君の、元気な声からは、石田君が、東京の、出版社で、バリバリ働いている、様子が、ありありと、想像された。

石田君は、外国の、難しい文学ばかり、読んでいて、また、石田君の、書く小説も、僕には、難解で、わからなかった。

その点、僕は、石田君を、文学における能力という点で、石田君を尊敬していた。

僕は、石田君に会ってみたいと思った。

「僕は、元気だよ。ところで、石田君。久しぶりに会わないかい?」

僕は言った。

「ああ。いいよ。いつ。どこで?」

石田君が聞いた。

「今すぐにでも、会いたいんだ。駄目かい?」

「いや。構わないよ。今日は、会社が休みなんだ」

「じゃあ。今から、君のアパートに、行ってもいいかい?」

「ああ。構わないよ」

「じゃあ、すぐ、行くよ」

そう、言って、僕は、スマートフォンを切った。

そして、ワイシャツを脱ぎ、カジュアルな普段着に着替えた。

そして、アパートを出た。

石田君は、世田谷区にあるアパートに住んでいて、電車で、30分で、行けた。

石田君と、メールの遣り取りは、たまに、していたが、石田君の、アパートに、行くのは、初めてだった。

最寄りの駅を、降りると、スマートフォンの、地図アプリを、頼りに、僕は、石田君の、アパートに、着いた。

トントン。

僕は、石田君の、部屋をノックした。

「はーい。ちょっと、待って」

部屋の中から、石田君の、声と、パタパタ走る、足音が、聞こえた。

ガチャリ。

戸が開いた。

「やあ。久しぶり」

石田君は、学生時代と、変わらぬ、笑顔で、僕に挨拶した。

石田君が、広島大学を、卒業してから、一度も会っていないので、三年ぶりの再会だった。

「やあ。久しぶり」

僕は、死にたいほどの、屈辱を胸の中に秘めていたので、とても、笑顔など、作れず、小声で、挨拶を返した。

石田君は、僕の、心の中の、憔悴を、見てとった、ように、僕は、感じた。

「ともかく、入りなよ」

石田君に、言われて、僕は、部屋に入った。

石田君の、部屋は、僕には、名前すら知らない、外国文学の本が、ぎっしり、並んでいた。

「石田君。小説は、書いている?」

僕は、聞いた。

「うん。書いているよ」

「会社の仕事は、忙しくないの?」

「はじめの頃は、忙しかったけれど、もう、慣れちゃったよ。社会で、働くようになって、感じさせられることが、たくさんあって、小説の創作意欲は、大学の時とは、比べものにならないほど、高まっているよ。会社が終わった後と、土日は、すべて、創作しているよ」

石田君は、元気溌剌な口調で言った。

「ところで、君は、小説、書いているかい?」

石田君が、聞き返した。

「うん。書いているよ。君の書く、小説と、比べると、幼稚な小説だけれどね」

僕は答えた。

石田君は、お世辞は、言わない性格なので、黙っていた。

石田君も、僕の、言う通りだと、思っているのだ。

「君の気質は、エンターテイメントの小説を書くのに、向いているだけさ」

石田君は、かろうじて、そう言って、僕をなぐさめてくれた。

「ところで、今日から、研修なんだろう。何か、あったのかい?」

石田君が聞いた。

僕は、黙っていた。

「東大医学部の医局の雰囲気は、どうだった?」

黙っている僕に、石田君は、さらに、聞いた。

今日の、悪夢のような、人間が耐えられる限界を、はるかに超えた、屈辱が、僕の脳裡に、一気によみがえった。

「うわーん。うわーん。うわーん」

僕は、畳に、突っ伏して、号泣した。

石田君は、黙っていた。

僕は、10分、ほど、泣き続けた。

10分もすると、ようやく、僕の涙も枯れ果てて、精神的にも、落ち着いてきた。

僕は、顔を上げた。

僕は、ようやく、今日の、出来事を語れる心境になった。

僕は、東大理科三類出の、研修医たちに、さんざん、バカにされたこと、口惜しいが、彼らの、頭脳は、事実、ブリタニカ国際百科事典を、はるかに越していること、彼らに、低能人間、呼ばわりされたこと、など、今日の、出来事の全てを語った。

「そうか。そんなことがあったのか」

石田君は、しばし、目をつぶって、黙って、腕組みして、黙然と、考え込んでいる様子だった。

しばしした後、石田君は、目を開いて、重たい口を開いた。

「山野君。気にする必要は、ないよ。東大理科三類のヤツラってのは、要するに、先天的に、記憶力と、計算力が、ズバ抜けて、優れている、だけに、過ぎないよ。彼らは、情報処理能力が、優れた、人間コンピューターに、過ぎないよ。そんなの、コンピューターで、代替が出来る。彼らに、創造力は、無いんだ。東大理科三類を出たヤツで、小説家になった人間なんて、いないだろう。人間の、頭の良さ、には、色々な、要素が、あるじゃないか。君は、小説を書けるんだから、創造力という能力では、東大理科三類のヤツラより、君の方が上さ。彼らは、秀才であっても、天才ではないんだ」

僕の感情は石田君のいったことに満幅の賛意を表した。

確かに、石田君の、言う通りなのかもしれない。

しかし、僕は、すぐに、一人の、例外を思いついた。

「でも。森鴎外は、東大医学部出で、しかも、優れた、小説家じゃないか?」

僕は言った。

「森鴎外か。・・・確かに、森鴎外は、優れた小説家だね。森鴎外の小説は、確かに、語彙も豊富だし、文章も上手い。しかし、あれは、秀才の小説さ。森鴎外の小説で、内容的に、海外でも認められている傑作の作品は、あるかい?」

石田君が、即座に、言った。

僕には、思いつかなかった。

「・・・思いつかないな」

僕は、言った。

「そうだろう。東大理科三類出のヤツラなんて、単なる、電子辞書に過ぎないんだよ。人間の、価値は、創造力の能力によって、新しい、価値の、産物を作っていく所にあるんだ。小説は、人間の、創造力によって、創り出された、この世に、二つとない、価値の産物なんだよ。君は、小説を書ける能力がある。だから、君は、東大理科三類出のヤツラより、優れているんだよ」

と、石田君は、言った。

僕は、何だか、自分に自信が出てきた。

「そうだね。彼らは、性能の良いコンピューターだけど、僕は、創造力のある、かけがえのない人間なんだね」

僕は、自分に言い聞かすように言った。

「ああ。そうさ。だから、君は、もっと、自分に自信をもつべきだ。東大理科三類出のヤツラを、心の中で、お前らは、単なるコンピューターだ、と、バカにしてやれ」

石田君は、自信に満ちた強気の口調で言った。

「ありがとう。石田君の、励ましの、おかげで、僕は、自分に、自信がもてたよ」

「そうか。それは、よかったな」

「ところで、研修は、東大医学部でなくても、他の大学でも、できるけれど、僕は、どうすればいいと、君は思う?」

「東大医学部で、研修した方が、いいと思うな。強く生きること、困難に挑戦すること、が、君を小説家として、大きくすると思うよ。そう、僕は、確信している」

石田君は、キッパリと、言い切った。

「わかったよ。僕は、創造力をもった人間として、性能の良いだけの、コンピューターと、戦うよ」

「おお。そうだ。その意気だ」

こうして僕は、東大医学部で、研修を受けることに決めた。

その後、僕と、石田君は、近くの焼肉屋に行った。

「山野君の、入局と、今後の活躍を祝って・・・カンパーイ」

と、僕と、石田君は、グラスを、カチンと、触れ合わせた。

石田君は、ビールだったが、僕は、酒が飲めないので、コーラで、乾杯した。

僕たちは、食べ放題の、焼肉を、腹一杯、食べた。

翌日、僕は、胸を張って、堂々と、東大医学部、第一内科の医局に、入った。

東大理科三類出のヤツラが、昨日と同じように、たむろしていた。

「おはようございます」

僕は、元気に、挨拶した。

東大理科三類出のヤツラは、僕を見ると、

「おおっ」

と、一斉に、驚きの声を上げた。

僕が、昨日一日で、やめて、もう来ないと、思っていたのだろう。

「信じられん」

「どういう精神構造なんだ?」

「豚は、バカだから、神経が鈍感なんじゃないか?」

彼らは、口々に、そんなことを、言い合った。

すぐに、眼鏡をかけた、白衣のドクターがやって来た。

医局長の、山田鬼蔵先生だった。

「おい。お前達。担当患者を、割り当てるから、病棟へ行け」

山田鬼蔵先生が、言った。

「はーい」

東大理科三類出の、研修医のヤツラは、みな、ゾロゾロと、医局室を出ていった。

研修医は、一つ年上の、指導医に、ついて、指導医のやることを、そのまま、真似るのである。研修は、徒弟的な面があって、大工の見習いと、似たような所がある。

特に、外科は、手術の技術の伝授なので、徒弟的な面が、強いが、内科でも、同じである。

東大理科三類出の、研修医が、みな、ゾロゾロと、医局室を出ていって、医局室は、僕一人になった。

僕も、最後に、彼らのあとについて、医局室を出ようとした。

その時。

「まて」

医局長の、山田鬼蔵先生が、僕を引き止めた。

「君は、昨日一日で、辞めた、と、昨日、研修医たちから、聞いたんだ。だから、君の、担当患者も、指導医も、決まっていない」

そう、医局長は、言った。

「では、僕は、何をすれば、いいんでしょうか?」

僕は、医局長に聞いた。

「えーと。そうだな・・・君の、担当患者と、指導医が、決まるまで、医局室の、掃除でもしていてくれ」

そう、言って、医局長は、僕に、モップを渡した。

僕は、ムカーと、天地が裂けるような、憤りを感じたが、昨日、石田君と、約束した、「つらくても我慢する」ということを、思い出して、モップを、受けとった。

そして、僕は、誰もいなくなった医局室を、モップで、磨き出した。

医局長といっても、やはり、東大理科三類出は、プライドの塊なんだな、と思いながら。

ぼくは、「ならぬ堪忍するが堪忍」と、自分に、言い聞かせて、一生懸命、医局を掃除した。

午前の診療が終わると、東大理科三類出の、研修医たちは、「あーあ。疲れたな」、と言って、昼休みに、もどってきた。

僕が、医局室を掃除していても、彼らの眼中に僕は、なかった。

まさに、傍若無人である。

「おい。豚野郎。お茶を配るくらいの、気は使え」

医局員の一人が言った。

僕は、ムカーと、頭にきたが、我慢して、皆に、冷たい、お茶を配った。

彼らは、お茶を飲むと、ゾロゾロと、職員食堂に行った。

そして、午後の研修が、終わると、「おい。今日も、飲みに行こうぜ」、と言って、医局室を出ていった。

僕は、彼らが、全員、帰ると、帰り支度をした。

その時。

医局長の、山田鬼蔵が、やって来た。

「山野君。今日は、すまなかったな。明日からは、研修に、参加してくれ」

僕の、憤りは、溶け、喜びに変わった。

「しかし、まだ、君の、受け持ち患者は、決まっていないんだ。すまないが、君の、担当患者を決めるのは、少し、待ってくれないか?」

医局長が言った。

「どのくらいの期間ですか?」

僕は、聞き返した。

「そうだな。二週間。二週間したら、きっと、君の、受け持ち患者を、決めるよ」

医局長が、言った。

「わかりました」

僕は、医局長の言うことを信じることにした。

そして、僕は、アパートに帰った。

その日は、よく眠れた。

翌日も、僕は、早起きして、一番で、東大医学部の、第一内科の医局に行った。

「おはようございます」

東大理科三類出の、研修医たちが、「ふあーあ」、と、欠伸をしながら、ゾロゾロと、やって来ると、僕は、元気に、挨拶した。

しばしして、医局長が、やって来た。

「おい。お前たち。注射の練習だ。はやく、病棟へ来い」

医局長は、あわただしい様子で、言った。

僕は、嬉しくなった。

研修医、がやることは、指導医の元で、患者の治療に、あたる、ことだけではない。

医学部を出たての、研修医は、注射も出来ない。

注射や、ナート(傷口の縫合)、気管挿管、マーゲン(経鼻胃管)、など、は、それなりに、技術が要るので、練習しなくては、出来るようには、ならない、のである。

「おい。山野。お前も来い」

医局長が言った。

僕は、嬉しくなった。

やはり、東大医学部だからといって、特別ではないんだ、と僕は思った。

研修医は、静脈注射は、もちろん、皮下注射も、出来ない。

注射の練習から、研修は、始まるのである。

もちろん、医学生の時にも、四年の時の、生理学の授業と、六年の時の、臨床実習の時に、ほんの2、3回、学生同士で、注射をしたことは、あった。

しかし、その程度では、とても、注射の技術をマスターすることなど、出来ない。

注射は、ルート確保という、点で、医者になろうとする者が、必ず、身につけなくてはならない、基本中の基本の、技術である。

僕は、医局長について、病棟に向かった。

東大理科三類出の研修医たちが、ズラリと並んでいた。

それと、なぜか、看護学生たちも、いた。

東大理科三類出の、研修医たちは、僕を見ると、ニヤリと、笑った。

何だか様子が変である。

「よし。じゃあ、注射の練習をするぞ」

医局長が言った。

すぐに、サッと、看護学生たちが、僕の腕をつかんだ。

「な、何をするんですか?」

僕は、あわてて、叫んだが、彼女らは、答えない。

彼女らは、僕のワイシャツを、無理矢理、脱がした。

そして、僕を、ベッドの上に、乗せると、ベッドの鉄柵に、僕の手首を、縛りつけた。

「な、何をするんですか?」

僕は、また、聞いた。

「だから、注射の練習だ」

医局長は、チラッと、看護学生たちの方を見た。

看護学生たちは、僕の口に、ガムテープを貼った。

僕は、声を出すことが、出来なくなった。

「では、注射の練習をする。採決する部位の、少し上を、ゴムで、緊縛して、皮下静脈に、針を入れるんだ。ある程度、しっかり、入れないと、ちゃんと血管に、入らないからな。堂々と、思い切りよくやれ」

医局長は、そう言った。

注射の練習とは、指導医が、入院患者に行って見せて、手本を見せて、研修医が、入院患者にする、ものだと思っていたので、まさか、僕が、その実験台にされるとは、想像もしていなかった。

東大理科三類出の、研修医たちは、荒々しく、僕の、上腕を緊縛すると、僕の、皮下静脈に、注射器の針を刺し始めた。

5、6人が一度に、寄ってたかって。

僕は、恐怖に、おののいて、「やめろー」と、叫ぼうとしたが、口に、ガムテープを貼られているため、声が出せなかった。

僕は、抵抗しようと、手足を、バタバタ激しく、揺すった。

すると。

「バカヤロー。患者が動いたんじゃ、注射が出来ねえだろ」

そう言って、医局長は、僕の顔を、力の限り、ぶん殴った。

僕は、抵抗することを、あきらめた。

東大理科三類出の、研修医たちは、僕の腕で、注射の練習を始めた。

彼らは、頭は、良いが、勉強ばかりして、生きてきたので、運動したことがない。

なので、運動神経は、ゼロで、手先の器用さも、全く無かった。

そのため、なかなか、注射の針が、血管に入らない。

僕は、あまりの痛さに、「ウガー。ウガー」、と、叫び続けたが、口に、ガムテープを貼られているため、声を出せなかった。

結局、東大理科三類出の、研修医たち、全員が、僕を実験台にして、注射の練習をしたが、誰も、満足に、注射針を血管に入れられなかった。

「しょうがないな。お前ら。よし。今度は、マーゲンの練習だ」

医局長が言った。

マーゲンとは、栄養を、経口摂取できない、患者に、鼻から管を入れて、胃に、栄養を流す、もので、これも、医師が身につけねばならない基本の技術である。

東大理科三類出の、研修医たちは、僕の鼻に、チューブを、入れる練習をし出した。

しかし、運動神経ゼロの、東大理科三類出の、研修医たちは、満足に、入れられない。

そもそも、キシロカインゼリーを、チューブに、着けておくべきなのに、それを忘れている。

鼻に、耐えられない、激痛が、走った。

僕は、あまりの痛さに、「ウガー。ウガー」、と、叫び続けたが、口に、ガムテープを貼られているため、声に出せなかった。

「バカヤロー。キシロカインゼリーが、ついてないじゃねえか。キシロカインゼリーを、つけて下さい、と何で言わねえんだ」

そう言って、医局長は、僕の顔をぶん殴った。

口に、ガムテープを貼られているため、声が出せないのに、なんで、僕が、殴られなくては、ならないんだ、と、僕は、東大医学部の、不条理さに、怒り狂っていた。

そもそも、叱られるべきは、キシロカインゼリーを、つけ忘れた、東大理科三類出の研修医たちで、あるべきはずであるのに。

結局、誰も、マーゲンを、入れられなかった。

「よし。今度は、尿道カテーテルの、練習だ」

と、医局長が言った。

僕の顔は、恐怖で、真っ青になった。

医局長は、看護学生に、サッと、目配せした。

看護学生たちは、僕の履いているズボンを、抜きとり、ブリーフも、抜きとった。

下半身、男の性器が、丸出しになった。

東大理科三類出の、研修医たちと、看護学生たちの、前で、下半身を露出して、男の性器を、丸出しに、されていることに、僕は、耐えられない、羞恥を感じた。

特に、看護学生たちの、好奇に満ち満ちた、視線が、耐えられなかった。

「研修医は、ダメだな。よし。看護学生。ひとつ、手本を見せてみろ」

医局長が言った。

看護学生の一人が、尿道カテーテルに、たっぷりと、キシロカインゼリーを、塗ると、僕の、陰茎を、しっかりと握り、亀頭の先端の穴に、尿道カテーテルを入れ出した。

僕は、恥ずかしさで、顔が、真っ赤になった。

いっそ、死んでしまいたいと思うほど。

なので、僕は、膝を閉じようとした。

すると。

「バカヤロー。尿道カテーテルを、入れる時は、股を大きく開かなきゃ、カテーテルを、入れにくいだろ」

と、医局長が、僕の顔を、思い切り、ぶん殴った。

僕は、仕方なく、股を開いた。

「前立腺を、通過させる時に、ちょっとした、コツがあるんだ。わかるか?」

医局長が、尿道カテーテルを、入れている、看護学生に聞いた。

「大丈夫です。わかっています」

看護学生は、目を輝かせて、欣喜雀躍とした口調で言った。

僕は、尿道カテーテルの先が、前立腺を通過して、膀胱の中に入った、のを感じた。

「わあ。入ったわ」

看護学生は、嬉しそうに言った。

そのあと、僕は、ガムテープを、はがされて、胃ファイバースコープを入れられたり、肛門から、大腸ファイバースコープを、入れられたりと、さんざん、研修医と、看護学生の、検査器具の扱い方の、練習台にさせられた。

5時を知らせる、チャイムが鳴った。

「よーし。今日の研修は、これまでだ」

医局長が、言った。

東大理科三類出の、研修医たちは、ゾロゾロと、医局にもどって行った。

「野郎の裸を見ても、面白くねえもんな」

と、言いながら。

あとには、看護学生たちが、のこされた。

看護学生たちは、目を見開いて、食い入るように、僕の、陰部を見ていた。

「ねえ。私たち。もうちょっと、男の人の体を、調べてみましょう」

看護学生の一人が言った。

「賛成」

「そうね。賛成」

こうして、看護学生、全員が残った。

看護学生たちは、尿道カテーテルを、引き抜いた。

そして、大腸ファイバースコープも、引き抜いた。

しかし、胃ファイバースコープは、そのまま、だった。

口に、胃ファイバースコープを入れられているので、僕は、喋ることが、出来なかった。

直腸診の練習をしましょう、と言って、看護学生たちは、指サックをはめて、僕の尻の穴に、指を入れてきた。

「前立腺マッサージって、こうやってやるのよ」

と、看護学生は、肛門に入れた、指を、動かし出した。

それは、気持ちが良かった。

僕の、死にたいほどの屈辱は消えて、いつしか、激しい、マゾヒズムの陶酔の感情が、起こっていた。

僕は、看護学生たちに、見られ、触られる、ことに、激しい被虐の官能を感じていた。

僕の、陰茎は、激しく怒張し、天狗の鼻のように、そそり立った。

「うわー。すごーい。男の人の勃起って、初めて見たわ」

小川彩佳に似た看護学生が言った。

「エッチな動画で、見たことは、あるけれど、実物を、こんなに間近で見るのは、初めてだわ」

背山真理子に似た看護学生が言った。

「どうして、こんな恥ずかしい姿を、見られて、興奮するのかしら?」

杉浦友紀に似た看護学生が言った。

「それは、山野哲也先生がマゾだからよ」

鈴木奈穂子に似た看護学生が言った。

「じゃあ、たっぷり、気持ちよくしてあげましょう」

生野陽子に似た看護学生が言った。

こうして、彼女らは、僕の、陰茎や、金玉や、尻の穴に、キシロカインゼリーを、塗りはじめた。

優しい手つきで。

それは、まるで、オイルマッサージのような感じだった。

そして、みんなで、寄ってたかって、怒張した、マラをしごき出した。

金玉を、揉んだり、尻の穴に、指を入れたり、しながら。

僕は、だんだん、興奮してきた。

(ああー。出るー)

僕は、心の中で、叫んだ。

しかし、胃ファイバースコープを、口の中に、突っ込まれているので、それは、ヴーヴー、という、唸り声にしか、ならなかった。

ピュッ。ピュッ。

溜まりに溜まっていた、精液が、勢いよく放出された。

それは、放物線を描いて、看護学生たちの、顔にかかった。

「うわー。すごーい。男の人の射精って、初めて見たわ」

看護学生の一人が言った。

こうして僕は、体中を、実習という名目で、隈なく、見られ、触られ、もてあそばれた。

その日。

僕は、よろめきながら、アパートに、帰った。

その晩は、東大理科三類出の、研修医どもに、された、へたくそな、無数の注射、や、マーゲンを、入れられた、気持ち悪さで、痛くて、なかなか、寝つけなかった。

しかし、看護学生に、弄ばれた、被虐の快感のために、それを思い出しているうちに、極度の、疲れも、加わって、眠りについた。

翌日も、僕は、東大医学部の、第一内科の医局に出勤した。

体中、痛かったが、石田君に、どんなに、つらいことがあっても、くじけない、と約束したことを、守り抜こうと、胸に抱きしめて、行った。

「おはようごさいます」

僕は、医局に、たむろしている、東大理科三類出の、研修医たちに、元気よく、挨拶した。

彼らは、僕を見ても、もう、黙ったまま、何も言わなかった。

僕が、どんなに、イビられても、根を上げない、根性を、もっていることを、彼らも、認め始めているようだった。

その日も、僕は、気管挿管や、気管支鏡を飲まされたり、骨髄穿刺されたり、尿道検査、されたり、と、豪気な男でも、泣き叫ぶほどの、検査の実験台にされた。

しかし、僕は、歯を食いしばって、耐えた。

東大理科三類出の、研修医たちは、運動神経ゼロで、手先も、不器用で、しかも検査や治療の手技を、覚えようという、意欲がまるで無かった。

確かに、治療、や、検査の手技は、看護婦の技術の方が上で、医者の役割は、正確な診断と、正確な、治療の指示である。

しかし、医師である以上、検査の手技も身につけていなくては、医師とは、いえない。

しかし彼らは、ひたすら、受け持ち患者の病気の、アメリカでの、最先端の英語の論文を読むだけだった。

彼らは、実際に、患者を診ようとせず、血算や生化、心電図、レントゲン、エコー、脳波、MRI、などを、見るだけだった。

彼らは、頭脳を使うことにだけに、価値があって、検査の手技の、練習は、頭を使わないので、看護婦が、やるものと、見なしているようだった。

しかし、僕は、つらい検査の実験台にされたことによって、つらい検査を受け続ける、患者の、つらさが、わかる研修医になっていた。

そもそも、東大医学部出の医者なんて、自分は、病気をしたこともなく、最先端の、アメリカの、英語の論文を読むだけで、患者の、病気の、つらさ、や、検査の、つらさ、など、まるで、わからない、頭でっかちの医者ばかりなのだ。

それに比べると、僕は、子供の頃から、喘息で、自律神経失調症で、アレルギーで、過敏性腸症候群で、病気の、苦しみを、知っていた。

医学部に進学しようと思ったのも、そのためだった。

その上、研修では、ありとあらゆる、つらい検査を、受けさせられて、検査の、つらさも、実感した。

東大医学部出の医者は、ほとんど全員が、患者を診ずに、病気だけを医学的に診る、人間不在の医者になるが、もしかすると、僕は、患者の苦しみを、わかる人間味のある、医者になれるかもしれないと思った。

僕は、病院の、つらい検査を、ほとんど全部、受けてしまった。

また、たとえば、骨髄穿刺を、受けたことによって、骨髄性白血病の、患者というものを、実感として、理解できるようにも、なった。

骨髄穿刺を受けている時には、医局長が、骨髄性白血病に、ついて、東大理科三類出の研修医に、説明するからだ。

何度も、説明を聞いているうちに、患者の側から、の視点で病気が、わかってきた。

「門前の小僧、習わぬ経を覚える」である。

そんなことで、入局して、待ちに待った、二週間が経った。

二週間したら、僕にも、担当患者を与えてくれる、と、医局長の山田鬼蔵先生が、約束してくれたからだ。

そのために、僕は、検査の練習の実験台にされるのも、耐えたのだ。

「医局長。二週間しました。約束です。僕にも、担当患者を、与えて下さい」

僕は、強気の口調で、医局長の山田鬼蔵先生に言った。

僕は、もう、東大医学部と、ケンカ腰だった。

「わかった。お前にも、患者を、受け持たせてやる。お前の、指導医はオレだ」

と、医局長の、山田鬼蔵が言った。

「よし。じゃあ、病棟へ行くぞ」

医局長が言った。

僕は、医局長と、一緒に、病棟に行った。

医局長は、患者の、カルテを取り出した。

「ほら。これが、お前の、受け持ちの、クランケのカルテだ。よく、読んでみろ」

そう言って、医局長は、僕に、カルテを渡した。

見ると、カルテの、すべてが、ドイツ語で書かれていて、しかも、文字が、ひどく崩れていた。

母校の、広島大学では、教養課程の時に、医学部の学生は、ドイツ語は、必修だった。

なので、ドイツ語は、一生懸命、勉強した。

しかし、教養課程では、学ぶ科目が多く、ドイツ語は、文法を覚え、リーダーを一冊、読んで学んだ、だけだった。

しかも、その後、四年間は、完全な医学の勉強だけで、ドイツ語は、ほとんど、忘れている。

なので、とても、ドイツ語だけで、書かれたカルテなど、読めない。

しかも、字が、ひどく崩れている。

「よ、読めません」

僕が、困って、言うと、医局長は、

「バカヤロー。カルテが読めないんじゃ、研修できねえじゃねえか」

そう怒鳴って、医局長は、僕を、思い切り、ぶん殴った。

「東大医学部は、伝統的に、カルテは、全て、ドイツ語で、書く習慣なんだ。お前は、まず、ドイツ語を、マスターしろ。研修は、それからだ」

医局長に、言われて、僕は、医局にもどった。

医局室の中から、話し声が聞こえた。

東大理科三類出の、研修医たちの、会話だった。

僕は、医局の外から、耳をそばだてた。

中から、研修医たちの、会話が聞こえてきた。

「おい。何で、わざわざ、外部から、研修医を募集したか、その理由を知っているか?」

「知らねえな」

「教授の方針だよ。東大医学部は、頭は良いが、注射や、気管挿管などの、基本手技が、下手だという、噂が、ネットで、広まっているんだよ。オレ達、東大理科三類は、筆より重い物は、持ったことがないからな。患者を練習台にする、わけには、出来にくいだろ。増々、基本手技が、下手だという噂が広まってしまう。そこで、外部のヤツを、研修医という、名目で呼んで、そいつで、注射の練習をさせるというのが、目的なんだとよ」

「なるほど。そうだったのか。でも、注射の練習なんか、したくねえな。注射なんて、看護婦の仕事じゃねえか。オレ達の、やべきことは、頭を使った、病気の、診断と治療と、論文を読み、書く、という、知的なことだけじゃねえか」

「なるほど。アイツの役割は、基本手技の練習台か。じゃあ、なんで、アイツに、受け持ち患者を、もたせたんだ?」

「そりゃー。ちょっとは、患者をまかせて、研修医らしく扱ってやらないと、嫌になって、やめられたら困るからな」

「だけど、医局長が、わざと、カルテは、全部、ドイツ語で、しかも、わざと、字を崩して読みにくくしているから、アイツは、患者の診療なんて、できねーよ」

「なるほどな」

あっははは、と、哄笑が沸き起こった。

僕は、怒り心頭に発した。

バーン。

僕は、医局の戸を、思い切り、足で蹴って開けた。

東大理科三類出の、研修医たちの視線が、サッと、僕に集まった。

「話は聞いたぞ。そういうことだったのか」

僕は、鋭い眼光で、研修医たちを、にらみつけた。

一人の、研修医が、立ち上がった。

テレビ番組の、クイズ頭脳王、で、優勝したヤツだ。

「おお。そうよ。おめえなんざ、豚以下なんだよ」

そう、彼は、タバコを燻らせながら、言った。

僕の、怒りを抑える自制心が、ぶち切れた。

「この野郎ー」

ボクッ。

僕は、そいつを、思い切り、ぶん殴った。

そいつは、殴られて、吹っ飛んだ。

「おう。豚野郎の反抗だぞ。やっちまえ」

東大理科三類出の、研修医たちが、みな、立ち上がって、僕を、取り囲んだ。

キエー。アチャー。ウリャー。

僕は、襲いかかってくる、東大理科三類出の、研修医たちを、バッタ、バッタ、と、殴り倒していった。

僕は、空手を身につけていた。

東大理科三類に入るような、ヤツラは、小学校から、ずっと、塾に通っていて、家でも勉強だけの、人生であり、筆より重い物は、持ったことがない、連中なので、うらなりの、もやしの、ガリ勉ばかりで、腕力も、運動神経も、ゼロなので、僕は、全員を、ぶっ倒した。

彼らを、全員、ノックアウトするのに、1分も、かからなかった。

もう、東大医学部にいても、研修させて、もらえないことが、明白になった。

僕は、第一内科の、教授室に行って、辞表を出した。

こうして、僕は、東大医学部の研修医を辞めた。

僕は、晴れ晴れした気持ちで、アパートに、帰った。

翌日の新聞では、東京都知事の、舛添要一、の弁護士の答弁同様、「違法ではないが、一部、不適切な行為」と、三面記事に、載った。○○○○

当たり前である。

僕は、正当防衛である。

「全部、違法で、全部、不適切な行為」は、東大医学部の方である。

さて、東大医学部での研修を、辞めたのは、いいが、これから、どうしようかと、僕は悩んだ。

厚生省の方針では、来年から、二年の研修が、必須になるらしい。

二年の研修が、努力規定である、僕は、最後の年の、医学部卒業生である。

努力規定なのだから、別に、研修指定病院で、二年間、研修医をやる義務は、ない。

医学部を卒業し、そして医師国家試験合格を通ったら、どこの、病院でも、医院でも、医師の仕事をしても、法的には、問題ないのである。

しかし、実際の所は、研修は、努力規定といっても、医学生は、卒業すると、99%、もう、ほとんど、100%、といっても、いいくらい、どこかの医局に属して、研修指定病院で、二年間、研修するのである。

それは、医学生は、国家試験に通っても、注射や気管挿管などの、基本手技が、できないし、国家試験の、ペーパーテストの知識と、実際の医療では、全然、異なるし、臨床医としての、実力を身につける、には、研修医になるしか、ないのである。

特に、外科系の科目は、そうである。

国家試験の、ペーパーテストの知識が、いくら良くても、いきなり、脳手術や、心臓手術など、出来るはずがない。

それは、内科系の科目でも、同じなのである。

父親が、医者で、個人クリニックを開業していれば、父親に、手取り足取り、実際の、医療、医学を、教えてもらうことが出来る。

そして、医学部には、親が医者という生徒が多いのである。

彼らなら、医局に属さず、親父に、患者を診察するところを、見学して、手取り足取り、教えてもらう、ということが出来る。

しかし、実際の所は、医学生は、最先端の医療技術や知識を身につけたいので、MRIや、エコーなど、最先端の、医療器具がそろっていて、最先端の、治療をしている、大学付属病院や、研修指定病院で、研修するのである。

それに、全ての医者は、将来、論文を書いて、博士号を取りたいと、思っているので、これまた、99%、もう、ほとんど、100%、といっても、いいくらい、どこかの医局に属しているのである。

博士号の認定権は、教授にあり、教授が、医局員の書いた、論文を見て、博士号と、認めれば、その論文が、全く無意味な、価値のない、論文であっても、あるいは、他の医師が代筆して書いた論文であっても、教授が認めれば、博士号を貰えて、医学博士さま、と、なるのである。

これは、日本の医学界で、昔から続いている、習慣であって、それは、今でも、変わることなく、続いているのである。

そういう理由でも、医者は、みんな、どこかの大学医学部の医局に所属しているのである。

しかし。

僕の父親は、しがない会社勤めなので、一人では、実際の医療を身につけられない。

僕は、親父が医者の、医学生をうらやんだ。

僕には、最先端の、医療を身につけたい、という思いは、ないからだ。

一介の、町医者の、知識と技術があって、医療ができれば、それでいいのである。

僕は、小説家になるのが夢で、医者は、生活費のため、嫌々やるのであって、最低の、知識、技術さえ、身につければ、それでいいと、思っていたからだ。

それで、色々と、研修できる病院を探してみた。

しかし、東大医学部に、逆らってしまったことが、命取りだった。

日本の医学界は、教授を、頂点、殿様とする、封建制度であり、教授や、医局に、逆らうと、もう、医者として、アウトローとなり、さまよえる一匹狼の医者になってしまうのである。

なので、どこの、大学病院でも、研修指定病院でも、応募しても、採用してくれる所は、なかった。

それで、僕は、もう、研修医になることを、あきらめた。

幸い、パソコン、インターネットの、発達の、おかげて、医者と、病院の、仲介業者、というビジネスが、普及し始めていた。

インターネットが、ない時は、医者の、就職は、もっぱら、医局や、教授の意向で、決められ、どこの、大学医学部も、自分の、テリトリーを、広げるために、大学医学部の関連病院に、就職する、というか、させられる、のである。

医局や、教授の命令には、逆らえない。

教授の、うまみ、の一つは、研修医の人事権であり、二年、大学の医局で、研修した、後は、教授の意向によって、ド田舎の、大学医学部の、関連病院に、行くよう、命令されるのである。逆らうことは、出来ない。

医者の卵を、僻地の関連病院に、売り飛ばし、教授は、その謝礼として、何百万円かの、謝礼を受け取る。

噂によると、医者の来てのない、僻地の病院に、一人、研修医を、売り飛ばすと、400万、教授は、謝礼として、受けとる。

森鴎外も、文学者でもある、ということから、生意気だ、と、教授に、嫉妬され、小倉に左遷された。

北里柴三郎も、師の論文を、否定したため、東大から、追い出された。

北杜生も、慶応の精神科医局から、山梨の精神病院に売り飛ばされた。

それは、昔のことであるが、旧弊的な、医学界では、その、根強い、大学医学部の、封建制は、現在でも、続いているのである。

そういうわけで、僕は、インターネットの、医師斡旋業者に、登録した。

そして、健康診断や、病院当直などのアルバイトをして、食いつないだ。

ある時。

僕は、地元の、神奈川県の藤沢市で、医師募集を見つけた。

それは、精神病院だった。

130床で、ボロボロの、民間病院だった。

院長一人で、やっていたのだが、院長が、糖尿病になり、体力が無くなっなったので、一人では診療が困難になり、誰でもいいから、医者を募集する、ということだった。

できれば僕は、内科を、しっかり、身につけたかった。

その方が、あとあと、就職で、有利だからだ。

しかし、背に腹は変えられない。

それで、僕は、応募してみた。

院長は、岡山大学の医学部出で、僕と同じように、大学を卒業して、岡山大学医学部で、研修した後、地元の、神奈川に、戻ってきた、ということだった。

そのため、東大を頂点とする、関東の、大学医学部との、しがらみ、が、無かった。

僕は、採用された。

週四日、勤務という条件で。

小説を書く時間を、持ちたかったので、週三日は、自分の時間として、欲しかった、からだ。

精神科は、大学三年の、時に、一週間、民間病院で、見学したことがあり、また、六年の時の、二週間の、臨床実習でも、見た目にも、治療手技も、ほとんど、要さず、また、診断も、治療も、楽そうに、見えたからだ。

僕は、東京から、神奈川県の藤沢市のアパートに、引っ越した。

精神科は、統合失調症患者が、ほとんどで、治療と言えば、患者の話を聞き、あとは、精神科の、薬の知識がしっかりあれば、わりと簡単に出来た。

わりと、独学で、学ぶことが出来た。

病院には、医療機器といえば、レントゲンしかなく、入院患者で、起こる内科疾患といえば、向精神薬による副作用の、便秘と、高齢者の肺炎、と、風邪、くらいだった。

精神病院でも、300床を、越す、大きな病院だと、週一回、非常勤の内科医が、来て、内科疾患の患者を診てくれるのだが、ここは、規模が小さいので、非常勤の内科医は、いなかった。

なので、入院患者で、内科的疾患が発病した時には、紹介状を書いて、近くの、医院で、診てもらっていた。

また、いいことに、常勤医は、僕一人だけだったので、医局室を、一人で、使うことが、出来た。

勤め始めて、初めの頃は、精神科の薬の勉強をしていたが、慣れてくると、医局室で、小説を書くようになった。

一ヶ月くらいして、毎週、水曜日に、年配の、先生が来るようになった。



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70歳と高齢だった。高橋圭介という名前だった。

彼は、前から、毎週、水曜日だけ、非常勤医、として、この病院に、来ていたとのことだった。

彼は、僕を見ると、

「やあ。山野哲也先生。はじめまして。私は高橋圭介といいます。よろしく。私は、この病院に、週一回、水曜日だけ、来ていたんだが、ちょっと、体調が、悪くなってね。休んでいたんだが、体調が良くなったのでね。また、週一回、水曜日だけ、来ることに、なったんだ。よろしく」

と、気さくに、挨拶した。

「はじめまして。山野哲也といいます。こちらこそ、よろしくお願い致します」

僕も、恭しく挨拶した。

「新しく、常勤で、若い医者が来た、ということは、院長から聞いていたよ」

と、彼は、言った。

「ところで・・・」

と彼は、前置きして、おもむろに、ポケットから、封筒を、取り出した。

「ちょっと、これを、見てくれないかね」

そう言って、彼は、僕に、封筒を渡した。

僕は、すぐに封筒を開けた。

封筒の中には、女性の写真と、略歴が書いてあった。

吉田美奈子という名前で、わりと綺麗な顔立ちだった。

「彼女は、帝都大学医学部の、女医で、僕と、ちょっと、所縁があってね。どうだい。君。彼女は、今、結婚相手を求めているんだ。見合いしてみないか?」

と、聞いてきた。

僕は、返答に困った。

「彼女は、帝都大学医学部の、二年の研修を終えて、今年で、三年目になるんだ。三年目だが、まだ、大学に残っていてね。彼女の父親は、千葉県の市川市で、昔から、内科医院を開業しているんだ。吉田内科医院というんだ。兄も医者なんだが、整形外科医でね。アメリカにいるんだ。医院を継ぐ意志は、ないらしく、このままだと、彼女が、医院を継ぐことに、なるようだが、結婚願望も強くてね。どうだい。遊びだと、思って、一度、会ってみないかい?」

と、高橋圭介先生は言った。

「・・・・」

僕は、返答に困った。

いきなり、そんなことを、言われても、答えようがない。

そもそも、僕の本命は、小説家になることであり、医者として、バリバリ働きたいという、気持ちは、全くない。

医者の仕事は、小説家になるまでの、生活費のためであり、そのためにも僕は、内科の実力を身につけたかった。

内科の実力は、大学附属病院で、二年間、みっちり、勉強すれば、大体、身につくものである。

そのあとは、十年一日の、同じことの、繰り返しである。

しかし、その二年の研修を、しなれけば、いつまで経っても、内科の実力は、身につかない、のである。

それは。ちょうど、車の運転技術の習得と、同じで、車の運転技術を習得するには、三ヶ月くらい、自動車教習所に、通って、車の運転技術を、訓練しなければ、乗れるようには、ならないのと、同じである。

だだっ広い、人のいない、グラウンドで、自由に、車を運転するのなら、三ヶ月も、訓練する必要はない。

一日で、ある程度は、運転できるようになる。

しかし、信号機や、車線変更や、右折、左折の方向指示器の出し方、などを、車がたくさん、走っている、日本のような狭い道で、交通規則に、従って、円滑に、運転できるようになるには、三ヶ月くらいの、自動車教習所での、訓練が、必要なのである。

医学も、それと、同じで、医学の習得は、そんなに難しいものではなく、二年間の研修を、みっちりやれば、内科の実力を、身につけることは、出来る。

しかし、その二年間の研修を、しなければ、いつまで経っても、内科は出来ない。

医者が、一人前になるには、六年間の医学部での、勉強と、二年間の研修の、合計8年間の、期間が必要なのである。

僕は、返答に困った。

「まあ。君も、急に言われて、とまどうのは、無理もないただろう。まあ、その気になったら、私に言ってくれ」

と、言って、高橋先生は、医局を出ていった。

彼は、僕と、彼女を、結びつける、恋の、キューピットの役割を、楽しんでいるような、感じに見えた。

僕は、彼女の顔写真を見た。

自分の顔写真を、誰とも、わからない男に、見られても、いい、ということから、彼女は、わりと、きれいな顔立ちだった。

自分に、自信がなければ、女は、人に、自分の、見合いのための、顔写真を、人に、渡して、まかせる、などという、ことは、しない。

僕は、その日から、悩むようになった。

彼女に、会ってみたいという気持ちと、会ってはならない、という気持ちの、二律背反の葛藤で。

会ってみたい、というのは、彼女は、二年の内科研修を、しているから、もう、一人前の内科医である。僕には、親はもちろん、親戚にも、医者が一人もいない。彼女と、会えば、彼女に、色々と、内科研修のことや、医学のことが、聞ける、だろう。

もしかしたら、帝都大学医学部と、関係を持って、帝都大学医学部で、内科が研修を出来るかもしれない。彼女が入局を、とりもってくれるかもしれない。

と僕は思った。

しかも、帝都大学医学部といえば、日本の私立医学部の中でも、一番、偏差値が低い。

東大医学部のように、劣等感を感じることもない。

しかも、彼女の父親は、個人クリニックの院長である。

医学を身につけるためには、どうしても、二年間の、研修が必要なのである。

僕には、医療、医学、関係の友達が一人もいない。

彼女と、親しくなれば、彼女を、コネにして、医学を学ぶ機会をもてる、かもしれない。

それが、彼女に、会ってみたいという気持ち、である。

しかし。

僕は、それと、正反対の、彼女と、会ってはならない、という、気持ちも、強く持っていた。

それは。僕は、彼女と結婚する気は、全くない。

僕は、平凡な、どこにでもいる、町医者や、病院勤務医、で、おわるつもりは、全くない。

僕の夢は、小説家になることである。

しかし、筆一本で生きるのは、修羅の道であり、医者の仕事は、食べていくための、生活費を得る手段に過ぎない。そのためには、二年間くらいの、研修が、咽喉から手が出るほど、欲しいのである。

医療、医学、を教えてくれる人が欲しいのである。

しかし、彼女は、そう思っていない。

彼女は、真剣に、結婚相手として、男の医者を求めているのである。

そういう、彼女の、純粋な気持につけこんで、彼女を、自分の目的のために、利用する、というのが、僕には、嫌だった。

僕は、誠実な人間であるつもりだ。

人をだましたり、人を利用したりするのが、僕は、大嫌いだ。

そもそも、僕は、哲学者カントの、

「人を自分の目的のためではなく、相手の目的となるよう行為せよ」

というのが、僕の信念だった。

なので、僕は、彼女に、会ってみたいという気持ちと、会ってはならない、という気持ちの、葛藤で悩むようになった。

毎週、水曜日になって、高橋先生が来るたびに、彼は、僕に、

「どうだね。会ってみる気になったかね?」

と、聞いてくる。

僕が、彼女と、見合いするのを、楽しみに、心待ちにしているようだった。

僕は、答えようがなかった。

それと、僕が、彼女と、一度、会ってみたい、見合いを、してみたい、という気持ちには、もう一つ、理由があった。

僕は、人付き合いが、苦手で、友達が、ほとんど、いない。

いつも、精神は、内面の想像の世界に、生きていて、友達と、会話をすることも、無いし、友達と、旅行に行ったり、議論したり、合コンしたり、と、誰もが、やっているような、人間との、付き合いがなかった。

親や、親戚の従兄妹とかも、付き合いを、避けてきた。

僕は、内向的な、性格であり、内向的な性格の人間は、人との、付き合いが、苦手で、人との、付き合いを、避ける傾向が強いのである。

しかし、そういう、通常の人間が、体験していることを、体験しないと、人間関係の、喜びも、苦しみも、その実感を、肌で感じる、ということが、出来ない。

菊池寛が、「小説家たらんとする青年に与う」で、言っているように、小説家を志す人間は、まず、自分が、自分の、実人生を、しっかり、生きることが、小説家になるには、大切なことなのだ。

生きた、人間との、触れ合いが、大切なのである。

たとえば、一人の女性を、熱烈に、真剣に愛したとしよう。

そして、不幸にも、その恋愛は、失敗に、終わったとしよう。

しかし、真剣に、人を愛し、そして、挫折した、という経験が、小説を書く上で、大いなる原動力となるのである。

もちろん、自分の、体験を、そのまま、正直に、書いても、優れた小説に、なるとは、言えない。

むしろ、自分の体験を、正直に書いても、面白い、人を感動させる、傑作とは、ならないことの方が多い。

川端康成の、「伊豆の踊子」などは、極めて、例外的である。

そこは、小説とは、基本的に、フィクション(作り話)であり、作者が、頭を酷使して、面白い、ストーリーを、考えて、創り出す、お話し、というのが、小説の、基本であるからである。

しかし、それには、まず小説家自身が、悩み、喜び、苦しみ、悲しんだ、という、人間との、生きた、触れ合いが、無くては、ならないのである。

そうではなく、自分が、しっかり、生きていないで、何の体験も無く、想像力のみに頼って、ストーリーを、捻り出しても、それは、ひなびた、生命の、躍動感の無い、いかにも、作り事のような、つまらない、子供向けの、漫画のような、ストーリーにしか、ならないのである。

たとえば、野球マンガを書こうと、思ったら、その漫画家は、何も、プロ野球選手になる、経験なとまで、持つ必要は、無いが、子供の時の、遊びの少年野球でも、いいし、あるいは、学生時代の野球部の部活でも、いいから、自分が、野球をやり、投げ、打ち、守り、走り、と、一生懸命、野球をした、体験が、無くては、描けない。

自分が、野球を体験した、経験が無いと、たとえば、ピッチャーを、描こうと思ったら、ピッチャーとは、何が、嬉しくて、何が、つらくて、マウンドの上では、どういう心理状態なのか、ということは、わからない。

だから、野球マンガを、描こうと思ったら、一度は、自分が、野球を体験したことが、なくては、描けないのである。

それは、漫画でも、小説でも、同じである。

小説を書こうと思ったら、まず、自分が、自分の、実人生を、しっかり生きて、一通り、人間が、体験することは、体験しておかなくては、小説は、書けない。のである。

これは、感性という点でも、言えることで。

自分が、ホモ・セクシャルでなれけば、ホモ・セクシャルの小説は、書けないし。

自分が、S(サド)やM(マゾ)、の、感性を持っていなければ、SM小説は、書けないのである。

そういった点でも、僕は、人付き合いを、避けて、一人で、生きてきて、実人生の、経験が、あまりにも、少なかった。

それで、空想力と、想像力だけに、頼って、今まで、小説を書いてきた。

大学一年生の、時から、小説を書き出して、はじめのうちは、空想力と、想像力に、頼って、小説を書くことが出来たが、もう、六年以上も、書いているうちに、だんだん、空想力や、想像力が、枯渇してきて、新しい小説が、書けなくなってきた、時でもあった。

なので、小説を書くためにも、彼女と、一度、会ってみたいと、思っていたのである。

毎週、水曜日に来る、非常勤の、高橋先生も、僕が、いつまでも何も、答えないので、だんだん、不機嫌な様子になってきた。

それで、ある時、僕は、ついに決断して、高橋先生に、彼女と、見合い、を、したいと、申し出た。

高橋先生は、喜んだ。

「じゃあ、私が、彼女に、その旨を伝えておくよ。いつ、どこで、会うかは、私が、彼女と話しておいて、決まったら、君に連絡するよ」

高橋先生は、そう言った。

翌日の木曜日。さっそく、高橋先生から、僕の、携帯電話に、電話が、かかってきた。

「やあ。山野先生。彼女に、話しましたよ。先生は、今週の、日曜日は、空いていますかね?」

「ええ。空いています」

「じゃあ、今週の日曜。12時。新橋の、××ホテルの、6階の、××レストランに、来てくれないかね?」

そう言って、高橋先生は、ホテルの住所と、電話番号を言った。

僕は、それを、メモした。

「ええ。わかりました。行きます」

僕は答えた。

「では、来てくれたまえ。私も、彼女と一緒に、行くから。楽しみにしているよ」

そう言って、高橋先生は、電話を切った。

楽しみにしている、などと、言われて、僕は、ちょっと、どころか、かなり困った。

高橋先生は、僕の、悩みなど、知る由もなく、僕の、心が、彼女に動き、見合いをする気になってみた、と、思っているのである。

高橋先生は、彼女と、一緒に来る、と、言ったが、彼女の方では、一体、誰と、来るのだろう?

彼女一人で、来るのだろうか、それとも、彼女の、母親が、ついてくるのだろうか?

僕は、見合いなどというものは、もちろんのこと、大学時代にも、皆がしている、合コンと、いうものも、一度もしたことがない。

僕は、現実の人間との、付き合いが、わずらわしかった、からである。

内気で、話題も無い。

人と喋るのが、苦手である。

なので、僕は、極力、人との、付き合いを、避けて生きてきた。

当日は、どんな服装で行ったら、いいのか。も、わからなかった。

僕は、いかなる、集団や団体に、属することも、嫌いなので、世間知が、まるで無かった。

そんなことで、見合いが、決まってからは、緊張しっぱなし、だった。

日曜日になった。

前日の、土曜日は、緊張で、ほとんど眠れなかった。

初めて、見合いで、会う女性なのだから、ネクタイをして、スーツ姿で、行くべきだと思ったが、僕は、堅苦しい格好が、嫌いで、特に、ネクタイの窮屈さが、嫌いだったので、普段着で、行った。

相手の女性も、どういう服装で、来るか、わからなかった、からでもある。

電車に乗って、僕は、新橋駅で降りて、××ホテルに、向かった。

僕は、ホテルに入った。

腕時計を見ると、12時、5分前だった。

ホテルの、ロビーには、高橋先生が、座っていた。

それと、見合いの相手である、初めて会う女性も、座っていた。

「やあ。山野先生」

僕と目が合うと、高橋先生は、立ち上がった。

彼女も、立ち上がった。

僕は、急いで、彼らの、座っている、ソファーの所に行った。

「どうも、遅れてしまって、すみません」

12時、5分前なので、遅れてはいないが、彼らの方が、先に来て、待たせてしまった、ことから、僕は、そう言って、頭を下げた。

「いや。私たちも、ちょうど、今、着いたところだよ」

高橋先生は、くつろいだ口調で、そう言った。

彼女は、礼儀正しく、お辞儀した。

「はじめまして。吉田美奈子と申します」

そう言って、彼女は、私に、礼儀正しく、ペコリと、頭を下げた。

「はじめまして。山野哲也と、いいます」

僕も、彼女に、礼儀正しく、ペコリと頭を下げた。

彼女の親は、来ていなく、彼女一人で来たようだった。

僕は、もちろん、親にも、見合いのことは、話していない。

そもそも、結婚しようという、気持ちが、全く無い、見合い、なのだから、当然である。

「では、6階に行こうか」

高橋先生が言った。

私たち三人は、エレベーターに乗って、6階に登り、イタリアンのレストランに入った。

「ご予約の、3名様ですね」

と、ボーイが言った。

私たち三人は、「リザーブド」と、書かれた、窓際のテーブルに着いた。

高橋先生が、仲人役をやって、二人での、見合いなのだなと、僕は、思った。

しかし。高橋先生は、

「さて。それじゃあ、邪魔者は、去るとするか。二人で、ゆっくりと話してくれ」

ははは、と、笑いながら、高橋先生は、立ち上がった。

そして、ボーイに、

「私は、ちょっと、用事が出来たんで、帰ります」

と告げて、レストランを出ていった。

これには、ちょっと、驚いた。

はたして、これは、誰の計画なのだろうかと、僕は、疑問に思った。

高橋先生の計画で、私と、彼女を、二人きりにしようと、考えたのだろうか、それとも、彼女が、「二人きりにさせて下さい」、と高橋先生に、頼んだのか、どちらかは、わからない。

しかし、高橋先生の提案であっても、彼女が、断らなかった、ということは、彼女も、それを、嫌ではない、ということなので、そこら辺を、あまり詮索する気は、起こらなかった。

「はじめまして。吉田美奈子と申します」

二人きりになって、彼女は、あらためて、礼儀正しく、挨拶した。

「こちらこそ、はじめまして。山野哲也と、いいます」

僕も、彼女に、礼儀正しく、ペコリと頭を下げた。

「私との、見合いを、承諾して下さって、有難うごさいます」

彼女は、礼儀正しく言った。

「いえ。僕の方こそ、あなたとの、見合いを、なかなか、決められなくて、申し訳ありませんでした」

僕は、謝った。

高橋先生は、彼女に対して、僕に関する情報は、知っている限り、告げているはずで、高橋先生が、最初に、僕に、彼女の、見合い写真を、渡して、見合いを、勧めたが、僕が、いつまでも、何も言わなかった、ことも、当然、高橋先生は、彼女に、告げて、彼女は、そのことを、知っているはずだ、と僕は、思った。

「いえ。山野さんこそ、色々と、事情が、おありになるでしょうから、迷うのは、当然です。山野さんが、謝ることは、ありませんわ」

と、彼女は言った。

高橋先生は、鈍感なのか、気づいていないのか、わからないが、彼女は、ちゃんと、気づいている。

男が、見合いを、簡単に、引き受けないのは。男だって、付き合っていて、熱い仲の、好きな彼女がいたり、見合いの相手の、顔立ちが、きれい、といっても、男のタイプではなかったり、とか、もっと、自由に独身生活を楽しみたく、結婚は、まだ考えていない、とか、などの、様々な事情があって、躊躇している場合だってあるのだ。

もっとも、それは、女にとっても、同様であるが。

「いえ。やはり、僕の方が悪いです。あなたの、見合い写真を見ておきながら、僕の顔写真は、あなたには、見せない、というのは、ずるいことです。僕は、そのことに、悩んでいました。ましてや、男女の関係では、男の方から、つきあい、や、プロポーズを、申し込むのが、礼儀であって、その反対の行為など、女性に対して失礼です。僕は、もっと早く、あなたとの、見合いを、決断するべきでした」

と、僕は言った。

「誠実で、優しい方なんですね」

彼女は、ニコッと、笑って言った。

「ところで、美奈子さん。まず、最初に、僕は、あなたとの、見合いを、決めた、理由を、あなたに、正直に述べて、まず最初に、謝らなければ、なりません。どうか、僕の失礼な、気持ちを聞いて下さい」

「はい。何でも、思っていることは、言って下さい。山野さんも気を使い過ぎないで下さい。そもそも、見合い、を、高橋先生に言って、見合い、を、もちかけたのは、私の方なんですから」

では、正直に言います、と、僕は、かしこまって、前置きしてから、話し出した。

「実は、僕は、大学一年の時から、小説を書いてきました」

「山野さんは、小説を書かれるんですか。すごいですね。でも、それが、何で、私との見合いを、承諾して下さったことと、か、謝罪をしなければ、ならないこと、とかと、どう関係があるんですか?」

彼女は、疑問に満ちた目で聞き返いた。

「僕は、できれば、将来は、小説家になりたいと思っているんです。ですが、小説家として、認められ、職業作家になるまでには、並大抵のことでは、なれません。それで、僕は、まず、医学を、ちゃんと身につけて、生活費は、医師の仕事で、得て、それで、コツコツと、小説を書いて、作家になりたいと思っているんです。しかし、僕には、家族に、医療関係の仕事をしている人がいません。しかし、実際の医療を、身につけるためには、大学医学部の、医局に所属し、医療を身につけた、ベテランの先生に、手取り足取り、教えてもらうしか、方法がありません。そこで、僕は、医療関係の知人、コネが、咽喉から手が出るほど、どうしても、欲しかったのです。美奈子さんは、大学医学部の、医局に属している、二年の研修も、終えている、一人前の医師です。そこで、何とか、医療関係の知人、コネを、持ちたい、という理由で、美奈子さんとの、見合いを、承諾したのです。本気で、結婚を、考えての、見合いでは、ないのです。ですから、見合い本来の、動機ではない、不純な、動機から、僕は、見合いを、承諾してしまったのです。ですから、そのことを、まず最初に、あなたに、告白して、あなたに、謝罪するのは、当然だと思います。ごめんなさい」

そう言って、僕は、深く頭を下げた。

「あっ。山野さん。頭を上げて下さい」

彼女が焦って言った。

しばしして、顔を上げると、彼女は、ニコッと笑って、僕を見ていた。

「そうだったのですか。私は、別に構いません。山野さんは、真面目すぎます。普通の人は、その程度の、ことは、内心で、思っていても、黙っていますよ」

彼女は言った。

「そうでしょうか?」

僕は、疑問に思いながら、彼女を見た。

彼女が、僕を、思いやってくれているのか、それとも、本当に世間の人間は、そうなのか、それは、わからないが、ともかく、他人と話すのは、自分を知る機会でもあった。

「わかりました。では、大学に頼んで、山野さんが、帝都大学医学部の医局に入れるように、教授に、頼んでみます。それと、医学、医療のことで、わからないことは、何でも、私に、聞いて下さい。私の知っている限りの、知識で、答えることが出来ることは、何でも、言います」

「本当ですか。有難うございます」

僕は、この上ないほど、嬉しかった。

歓喜が、胸の中から、湧き上がってきた。

それと同時に、僕は、気持ちが、リラックスしてきた。

話しにくいことを、話してしまい、彼女が、それを、怒るどころか、最高に親切な、対応をしてくれた彼女の寛容さが、無上に、嬉しかった。

彼女も、僕の、本心を知れて、リラックスしたようだった。

高橋先生は、僕に、彼女との見合い写真を渡した時点から、僕が、なかなか、見合いを、O.K.しないことなど、全ての事を話しているはずである。

人間は、理由がわからないと、とかく、悪い疑心暗鬼が、次々と起こってくるものである。

なぜ、僕が、彼女との見合いを、承諾しないのか、その理由を、彼女は、色々と、想像して、悩んでいたはずである。

それが、解けたので、彼女は、ほっとして、リラックス出来たのだろう。

それからは、色々と、くだけた話をした。

「山野さんは、恋人は、いますか?」

彼女が聞いた。

「いえ。いません」

僕が、答えると、彼女は、ニコッと、笑った。

なにはともあれ、僕に彼女がいないことに、彼女が喜ぶのは、彼女にとって、自然な感情であろう。

「大学の時、合コンとか、しませんでしたか?」

彼女が聞いた。

「いえ。しませんでした。僕は、内気で、話題がないですし。人との、付き合いは、疲れてしまいますので」

僕は、人付き合いは、苦手といったが、二人きりでなら、人と、話すのは、それほど、嫌ではないのである。何人もいる、集団の中で、話すのが、苦手なのである。

それは、集団の中だと、明るい、積極的な性格のヤツが、その場の話の、主導権を握ってしまい、内気で無口な僕は、何も話せなくなってしまうからだ。

だから、合コンには、参加できなかったのである。

しかし、二人きりなら、相手は、僕に話しかけるしかない。

だから、僕は、二人きりなら、女性とでも、話しても、疲れないのである。

「では、美奈子さんは、学生時代、合コンとか、したことは、ないんですか?」

僕も、彼女に聞き返した。

「2回ほど、あります。しかし、男の人って、結局は、アレが目的なんですね。2回とも、ホテルに行きませんかと、誘われました。それで、男の人に、失望してしまって、2回で、やめてしまいました」

「そうだったんですか」

「山野さんの趣味は、小説を書くことなんですよね」

「ええ」

「小説を書くこと以外で、何か、好きなことは、ありますか?」

彼女が聞いた。

「そうですね。高校の時は、色々と、スポーツも、やってみました。テニスとか、水泳とか、スキーとか」

「色々なことに、積極的に、取り組む性格なんですね」

「いえ。僕は、将来、何をしたいのか、わからなかったので、高校の時、色々なことを、やってみただけです。大学に入って、小説を書くようになってからは、スポーツは、ほとんど、やっていません」

「そうですか。山野さんは、自分の将来を、真剣に、考えて、悩まれて、生きてきたんですね、私なんて、親が医師でしたから、将来は、医師になることに、何の疑問も、もたずに、生きてきました。山野さんのように、深く考えて、生きてきた方を見ると、自分が幼稚なように、思われて、恥ずかしいです」

彼女に、誉められて、僕は、照れくさかった。

「ところで、美奈子さんの、趣味は何ですか?」

「趣味といえるほどの、ものは、ありません。海外旅行。映画。音楽鑑賞などです」

「海外旅行では、どこに、行きましたか?」

「ヨーロッパと、アメリカ、ロサンゼルスと、シンガポールと、カナダと、イタリアと、ギリシャと、インドと、イスタンブールに、行きました」

「すごく、たくさん、行っているんですね」

「山野さんは、海外に行ったことは、ありますか?」

「ありません」

「でも、海外旅行とか、映画や、音楽鑑賞などは、受け身なだけで、山野さんのように、積極的に、何事にも、興味を持って、身につけようと、努力する、ことでは、ありません」

ボーイが、料理を持ってきたので、僕と、彼女は、料理を食べた。

食べながらも、彼女とは、色々なことを話した。

「山野さん。今日、よかったら、東京ドームアトラクションに、行きませんか?」

料理を食べ終わると、彼女は、そんな提案をした。

「ええ。いいですよ」

僕は、抵抗なく答えた。


「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「↑まで1」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」

「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「

「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「


予想外のことであったが、彼女が、真面目で、おとなしく、また、彼女が、教授に話して、帝都大学医学部の医局に、入れるよう頼んでくれる、とまで、言ってくれたので、そのお礼の気持ちで、嬉しくて、彼女の提案は、断ることが、出来なかった。

それに、彼女は、騒々しくなく、おとなしい性格なので、付き合っても、疲れないように僕は、感じた。

僕は、彼女、というものを、もったことがないので、デートしたり、ドライブしたり、と、世間の、俗っぽい、享楽を楽しんでいる、男女を、うらやましく感じたことが、よくあった。

男一人では、遊園地にも、レジャープールにも、入れない。

もちろん、男が一人で、遊園地に入って、遊んでも、何ら、問題は無いが、その、わびしさ、を、想像してみたまえ。

自分は、小説家になるんだ、という高い志を持っているんだ、自分は、世間の俗っぽい人間とは、違うんだ、と、自分に言い聞かせてみても、やはり、手をつないで、無邪気に、笑い合っている男女を見ると、うらやましかった。

僕と彼女は、レストランを出た。

そして、中央線に乗って、水道橋駅で降りた。

そして、東京ドームアトラクションに入った。

それほど、混んではいなかった。

僕は、東京ドームアトラクション、および、その前身である、後楽園遊園地に入ったことは、なかった。

ほんの、小学生の頃、親と一緒に、一度、入ったきりで、それ以降は、一度も、入ったことが、なかった。

ずいぶん、様子が変わったな、と思った。

彼女は、入り口で、「大人二人、アトラクション乗り放題の、ワンデーパスポートを、お願いします」、と言って、チケットを買って、

「はい」

と、笑顔で、ワンデーパスポートを一枚、僕に、渡してくれた。

「ありがとう」

彼女の、好意を、野暮ったく、断るのは、無粋なので、僕は、素直に、お礼の言葉だけを言って、入場券を受けとった。

それに、大人一人の入場券は、たかが、3900円である。

「あれに、乗ってみませんか?」

そう言って、彼女は、スカイフラワーを指差した。

「ええ」

僕と彼女は、スカイフラワーに乗った。

地上60mからは、東京の、様子が、遠くまで、見渡せた。

なかなか、爽快な気分だった。

登山にせよ、東京スカイツリーにせよ、高い所からの、眺望は、爽快なものである。

「こ、怖いわ。山野さん」

彼女は、そう言って、個室の中で、僕に、寄り添うように、ピッタリと、くっついてきて、僕の手をギュッと握り締めた。

「どうしたんですか?」

僕は、疑問に思って、彼女に、聞いた。

「あ、あの。私。高所恐怖症なんです」

彼女は、そう言って、個室の中で、僕に、ピッタリと、体を、くっつけてきた。

怖いのなら、乗らなければ、いいのに、矛盾している、と僕は思った。

「でも、山野さんと、一緒に死ねるのなら、幸せです」

彼女は、そんなことを、言った。

次は、彼女の提案で、サンダードルフィンに乗った。

時速130km/hの、ジェット・コースターである。

これも、彼女は、

「こ、怖いわ」

と言って、僕に、抱きついてきた。

女に、抱きつかれたら、男は、女を、振り払うことは、出来ない。

握ってきた女の手を、しっかりと、握り返すしかない。

なので、僕は、彼女の手を、しっかり、握り返した。

次には、彼女の提案で、パラシュートゾーンにある、お化け屋敷に入った。

ここでも、彼女は、

「こ、怖いわ。山野さん」

と言って、何度も、僕に、抱きついてきた。

怖いなら、入らなければいいのに、矛盾している、と、思ったが、僕は黙っていた。

女には、怖いもの見たさの好奇心があるからだ。

ともかく、女に、抱きつかれたら、男は、女を、振り払うことは、出来ない。

握ってきた女の手を、しっかりと、握り返すしかない。

なので、僕は、彼女の手を、ガッシリと、握り返した。

そのあとは、ウォーターシンフォニーを見た。

水と音と光が織りなすページェントが、綺麗だった。

これは、心が和んだ。

時計を見ると、もう、夕方の7時だった。

「山野さん。今日は、楽しかったです。色々と有難うございました。教授には、私から、話して、山野さんが、医局に、入局して、研修できるように、必ずします」

彼女は、そう約束してくれた。

「有難うごさいます。僕も、楽しかったです」

と、僕は、答えた。

そう言って、僕は、彼女と、別れた。

その晩は、ぐっすり眠れた。

見合いの相手が、どういう人か、わからなくて、また、どういう、見合いになるか、わからず、会うまでは、非常に緊張していたが、相手の女性は、おとなしく、寛容であり、話していても、疲れなく、また、楽しくもあった。

彼女の、誠実な性格から、まず、帝都大学医学部の、第一内科の、教授に、頼んで、僕が、医局で、勉強できるよう、とりはからってくれる、だろう。

まだ、決まったわけではないが、彼女の、誠実な態度からして、そうなりそうな予感が、かなりして、僕は、嬉しかった。

月曜日になった。

僕は、いつものように、精神病院に、出勤した。

精神科も、もちろん、立派な、医学の一つの科目であるが、患者の話を聞くことと、向精神薬を覚えることだけで、暇なのは、いいけれど、内科の実力は、つかない。

内科疾患を、もった患者は、紹介状を書いて、近くの内科病院に行ってもらって、診てもらうだけだし、病院にある、医療機器といえば、レントゲンだけで、しかも、レントゲンを、ちゃんと、読影できるようになるには、やはり独学では無理で、やはり、研修を終えて、医学を、ちゃんと、身につけた、内科の先生に、教えてもらうしか、身につける方法が、ないのである。

そもそも、医学の基本は、何と言っても、内科である。

精神科を、やりたいと思って、最初から、精神科を選ぶ、医者も、いないわけではないが、精神科は、楽だから、という理由で、精神科を、選ぶ医者が、多いのである。

内科が、出来る医者は、独学で、ちょっと、勉強すれば、精神科も出来るようになる。

しかし、その逆は、言えないのである。

精神科医が、独学で、ちょっと、勉強したからといって、内科が出来るようには、なれないのである。

なので、精神科を、最初から、希望している医者でも、最初の一年は、内科を研修して、内科の基本的なことは、身につけてから、精神科医になる、という、医師が多いのである。

そもそも、医師免許を持っていれば、何科をやっても、いいのであり、転科ということも、出来る。

しかし、実際には、転科ということは、ほとんど行われていなく、たとえば、耳鼻科を選んだ医師は、一生、耳鼻科医をやるのである。

転科という点から、言うと。

外科や救急科を長年していた医師が、体力が、落ちて、仕方なく、精神科に転科する、ということは、結構、よくあることなのである。

しかし、その逆は、全く無い。

精神科をしていた医師が、内科医とか、産婦人科医とかに、転科する、ということは、皆無といっていいほど、無いのである。

精神科を長くやっているうちに、だんだん、医学生の時に、勉強して、頭で、理解して覚えた、医学知識も、忘れてくるので、内科医に、なろうと思ったら、また、まず、医学の教科書で、内科を勉強し直さなければ、ならない。

そして、さらに、ベテランの内科医の指導の元で、研修しなくては、ならないのである。

それは、実に、労力が要り、また二度手間でもある。

だから、いったん、精神科を選んでしまったら、一生、精神科しか、出来ないのである。

だから、医学部を卒業したら、一年くらい、みっちりと、内科を研修して、内科を身につけてしまうべきなのである。

その日の午後、さっそく、彼女から、携帯電話で、連絡が来た。

「もしもし。山野さん、ですか?」

「はい」

「私です。吉田美奈子です。昨日は、有難うございました。楽しかったです」

「いえ。僕の方こそ、有難うございました」

「今日、教授に頼んでみました。山野さんが、医局で、内科研修ができるように」

「そうですか。それは、有難うございます。それで、教授は、何と言いましたか?」

「快く、認めてくれました」

「そうですか。それは、有難い。助かります。美奈子さん。どうも、有難うございました」

「ところで。山野さん。今週の金曜日は、空いていますか?」

「ええ。空いています」

「では。今週の、金曜日、5時に、附属病院に来ていただけないでしょうか。どのような形で、研修を、するのか、山野さんの、希望を聞きたいと、言いましたので」

「わかりました。では、行きます。どうも、色々と、僕のために、骨を折ってくれて、有難うございました」

「いえ。そんなに、気になさらないで下さい」

そんな会話をして、携帯を切った。

僕は、嬉しくなった。

帝都大学医学部の、医局で、内科研修が出来るからだ。

僕は、金曜日が、待ち遠しくなった。

その週の、水曜日に、非常勤の、高橋先生が来た。

「どうだったかね。彼女との見合いは?」

高橋先生が、聞いた。

「ええ。色々と、話しました」

僕は、答えた。

「彼女は、誠実な子だからね。約束したことは、必ず、守るよ」

高橋先生が、言った。

高橋先生は、彼女と同じ医局の、歳の離れた、先輩医師という、立ち場、なので、彼女のことは、色々と知っているのだろう。

彼女が、日曜日、の、見合いのことを、高橋先生に、話したのか、話したとしたら、どこまで、具体的に、話したのかは、わからない。

しかし、「約束したことは、必ず、守るよ」、と言うからには、僕が、帝都大学医学部の、医局で、研修することは、告げているのだろう。

待ちに待った金曜日になった。

僕は、ネクタイを締め、スーツを着て、帝都大学医学部附属病院に行った。

白衣を着た、医師たちが、病院内を、行きかっていた。

アカデミズムの雰囲気が漂っていた。

医局室に、入る時は、さすがに緊張した。

トントン。

僕は、医局室をノックした。

しかし、返事が無い。

「誰か、いますか?」

僕は、大きな声で言った。

だが、返事は無い。

僕は、そっと、ドアノブを回して、少し、戸を開いた。

そして、医局室の中をそっと見た。

誰もいなかった。

「失礼します」

誰もいないが、僕は、そう言って、医局室に入り、端の方にある椅子に、背筋を伸ばして座った。

医局室の、隣りが、教授室で、医局室と、教授室は、中で、戸を隔てて、つながっている。

少しすると、賑やかな話し声と、ともに、医局室に、医師たちが、入って来た。

僕を見ると、彼らは、嬉しそうに、

「こんにちはー」

とか、

「はじめましてー」

とか、笑顔で言って、席に、着き出した。

僕も、彼らに、

「こんにちは。はじめまして」

と、言って、お辞儀して、挨拶した。

吉田美奈子さんも、入って来た。

「こんにちは。山野さん」

と、ニコッと、笑顔で。

「こんにちは」

と、僕も、挨拶した。

日曜日の、見合いの時の、スーツ姿と、違って、白衣姿の、彼女は、いかにも、大学附属病院で、日々、患者の診療に従事している、堂々たる女医に見えた。

実際、そうなのだが。

しばしして、年配の、大柄な、威風堂々とした、医師が入って来た。

第一内科の教授である。

僕は、ネットで、帝都大学医学部の、第一内科を検索して、調べておいたので、教授の顔は、知っていた。

僕は、直ぐに、立ち上がった。そして、

「はじめまして。山野哲也と申します」

と、深く頭を下げて、教授に、挨拶した。

「やあ。山野先生。あなたのことは、吉田先生から、聞きました」

と、教授は、言った。

大学附属病院では、教授も、ベテラン医も、卒業したての研修医も、お互い、相手を、「先生」と、呼びあう。

もちろん、卒後何年も経っている、ベテラン医の方が、先輩で、研修医は、まだ、実際の医療の、診断も、治療も出来ない、後輩であるが、「先生」以外の、呼び方が無いのである。

それに、卒業したての研修医は、全ての科を、細かいことまで、医師国家試験の勉強のために、全ての科の細かい知識を知っていて、知識だけは、ベテラン医より、あって、ベテラン医の、知らないことを、研修医が知っている、ということも、あるのである。

教授は、皆の方を見た。

「みんな。紹介しよう。今日から、第一内科に、籍を置くことになった、山野哲也先生だ」

と、僕を紹介した。

「山野哲也です。よろしくお願い致します」

と、僕は、あらためて、皆にお辞儀した。

皆も、立ち上がって、

「こちらこそ、よろしくお願い致します」

と、礼儀正しく、挨拶した。

ざっと見て、医局員は、20人くらいいた。その内、半分くらいの、10人くらいが、女医だった。

しかし、医局に籍を置いていて、関連病院に、出向いている医師も、多くいて、医局員、全員の数は、かなりいるのである。

「はっはは。女性の先生方。山野先生は、吉田美奈子先生の、フィアンセ(婚約者)なんだ。だから、くどこうとしても、無駄だからね」

と、教授は、笑って言った。

僕は、吃驚した。

あわてて、「違います」、と、言おうかとも、思ったが、ムキになって、主張して、その場の雰囲気を、壊すのも、出来にくかったので、僕は、顔を真っ赤にして、黙っていた。

「じゃあ、これから、山野先生の、入局祝いに行こう」

そう教授が言った。

教授は、おおらかで、親切そうな人だった。

みなは、わーい、と、喜びながら、医局を出ていった。

僕は、美奈子先生に、近づいて、小さな声で、質問した。

「美奈子さん。どうして、僕が、あなたの、フィアンセ(婚約者)ということになっているんですか?」

僕は、美奈子さんに、聞いた。

「山野さん。ごめんなさい。私も、今、知って、びっくりしているんです。この前の日曜日に、私と、山野さんが、後楽園アトラクションズで、一緒にいるのを、病院で働いている誰かに、見られてしまったらしいんです。それで、医局員の誰かが、憶測で、間違ったふうに、言いふらしてしまったらしいんです。病院の中の、医師の噂は、すぐに、病院中に、広まってしまいますから。病院の全科の医師、看護婦、看護師、や、臨床検査技師、放射線技師、臨床心理士、事務員、など、全ての人に、私と山野先生とは、そういう仲では、決して、ないことを、一人一人、納得するまで、丁寧に説得します。そして、そんな、噂を広めた人は、見つけたら、山野さんに対する、名誉棄損として、民事訴訟を起こします」

と、彼女は言った。

「い、いえ。そこまでしなくても・・・」

と、僕は言った。

誤解は、解いて欲しいが、彼女が、病院中の、全ての人に、誤解を解いてまわる、姿を想像すると、彼女が、可哀想に思えてきて、それ以上、彼女に、言うことが出来なくなってしまった。

僕と、彼女を、含めた、第一内科の、医局員は、5台の車に、分乗して、料理店に行った。

とかく、医局では、何かの理由をつけて、宴会をしたがるものなのである。

そこは、和食の店だった。

僕は、宴会の類が苦手だった。

しかし、帝都大学医学部は、東大医学部の医局と違って、温かさがあった。

「では。山野哲也先生の入局を祝って・・・・カンパーイ」

と、教授が音頭をとって、乾杯した。

皆、酒が、入ると、陽気になって、めいめい、ガヤガヤと、お喋りが始まった。

店には、カラオケが、あって、みな、歌いたくて、歌いたくて、仕方がないといった、様子で、一人が、歌い終わると、皆がマイクを、奪うようにして、別の一人が、歌った。

「先生も、歌って下さい」

と、医局員に、言われて、僕は、マイクを手渡された。

歌わないと、盛り上がった、その場を、しらけさせそうなので、僕は、仕方なく、サザンオールスターズの、「いとしのエリー」、を、歌った。

「うまーい」

パチパチと、拍手が起こった。

「先生。歌、上手いんですね」

と、医局員たちは、お世辞か、本心かは、わからないが、やたら、誉めた。

宴会、というか、お喋り、は、長く続いた。

ようやく、宴会が、終わりになった時は、もう、外は、真っ暗だった。

終電も、ギリギリか、無いか、の時刻である。

酒を、飲んでない、数少ない人が、運転して、みなを、送った。

吉田美奈子先生と、僕は、途中まで、同じ方向なので、一緒の車に乗った。

「美奈子さん。教授に、頼んで、入局の便宜をはかってくれて、有難うございました」

とりあえず、僕は、お礼を言った。

「いえ。約束したことですから、当然です。それより、山野先生が私のフィアンセ(婚約者)などと、いう噂を広めた人は、必ず、見つけ出して、山野さんに対する、名誉棄損として、民事訴訟を起こしますので、安心して下さい」

「い、いえ。そんな、ことまで、しなくてもいいです」

僕は焦って言った。

そうこうしている内に、彼女のアパートに着いた。

「山野さん。おやすみなさい」

と、丁寧に、お辞儀して、彼女は、車から降りた。

「おやすみなさい」

と、僕も挨拶した。

そして、運転していた、医局員は、僕を、僕のアパートまで、送ってくれた。

「ありがとうございました」

と、お礼を言って、僕は車を降りた。

アパートに着くと、僕は、ベッドに、ゴロンと、身を投げ出した。

やっと、ほっと、リラックス出来た。

色々なことが、あり過ぎた。

人間には、そもそも、集団帰属本能があって、人と、宴会で、笑い合うことで、疲れが、とれるのであるが。

しかし、僕のような、内向的な人間は、そもそも、集団帰属本能が、無く、集団の中にいると、逆に、疲れるだけで、一人きりになった時に、やっと、ほっと出来るのである。

翌日の、土曜日は、寝て過ごした。

僕は、今、勤めている精神病院を続けながら、金曜日だけ、研修するより、いっそのこと、月曜日から、金曜日まで、全部、帝都大学医学部で、研修したいな、と思いだすようになった。

しかし、精神病院で働き出して、まだ、二ヶ月も、経っていない。

病院の医師の募集に、応募しておきながら、二ヶ月もしないで、辞める、と言い出すのも、出来にくかった。

義理と人情を計りにかけると義理が傾くこの世の世界である。

僕は、布団の中で、そんなことを考えていた。

トルルルルッ。

その時、携帯電話の着信音が鳴った。

美奈子さんからだった。

「先生。おはようございます」

彼女が言った。

彼女は、僕の低血圧症を、知っているのか、昼過ぎなのに、そう挨拶した。

もしかすると、ベテランの医者は、多くの患者を診ているから、僕の、痩せ体質から、僕が、低血圧ぎみであると、視診だけで、ある程度、推測できるのかもしれない。

「あっ。美奈子先生。おはようございます」

僕も挨拶した。

「先生。もし、よろしかったら、月曜日から、金曜日まで、帝都大学医学部で、研修しませんか?」

彼女が聞いてきた。

僕にとっては、嬉しい誘いだった。

「ええ。でも、今、勤めている病院は、まだ、二ヶ月も、していませんし・・・。自分から、応募しておいて、すぐに、辞めるわけにも、いきにくいので・・・」

しかし、僕にとっては、嬉しい誘いだった。

「そのことで、お電話、差し上げたんです。きっと、山野さんも、迷っているだろうと思って。私。山野さんと、見合いをした翌日から、帝都大学医学部の精神科の、先生で、山野先生の、勤めている病院に、就職してくれる先生が、いたら、教えて下さい、と、精神科の教授に、頼んでおいたんです。それで、ついさっき、精神科の教授から、私に、電話があって、山野先生の勤めている病院に、常勤医として、勤務しても、いい、と、言ってくれた、精神科の先生が、見つかった、とのことです。どうでしょうか?」

彼女は、そう言った。

「そうですか。それは、願ってもないことです。とても助かります。僕もそのことで、悩んでいたんです」

僕は、ほっと、助かった思いがした。

「では、来週の月曜から、帝都大学医学部の、第一内科で、研修なさって下さい。入れ替わるように、大学の、精神科の先生が、山野先生の勤めている病院に、就職しますので」

と、彼女は言った。

「どうも、色々と、気を使って下さって、本当に有難うございます」

と、言って、僕は、電話を切った。

僕は、彼女の手回しの早さにも感謝した。

科は、違っても、同じ大学内での、教授と、医師という、関係だからこそ、出来ることである。

医学生の時に、臨床の二年間で、教授の講義を聞き、教授に質問し、臨床実習を受け、中間試験、卒業試験と、直接、話をしたりしているから、気安く、教授にも、頼むことが出来るのである。

昼食の時には、まさに、学生食堂で、同じ釜の飯を食った仲である。

部外者では、こんなことは、出来ない。

特に、女子医学生は、お喋りが、好きなので、教授とも、友達感覚で、話すのである。

教授も、生徒の、クラブ活動の、顧問をしていることが、多い。

特に、女子医学生は、顔が広くて、色々と、コネがあるのである。

そういう点、医学部は、中学校や高校的な面があるのである。

ともかく、僕は、ほっとした。

彼女には、色々と、借り、が出来てしまったな、と、僕は思った。

月曜日になった。

僕は、勤めていた精神病院を辞めた。

帝都大学医学部から、すぐに、ベテランの精神科の医師が、常勤医で来てくれることを、院長に言ったら、院長は、僕が辞めることを、快諾してくれた。

僕は、電車で帝都大学医学部に向かった。

今日から、本格的な、研修医となると、思うと、身が引き締まる思いだった。

僕の指導医は、当然のことのように、吉田美奈子先生だった。

「よろしくお願い致します」

と、僕は、あらためて挨拶した。

美奈子先生は、

「わからないことは、何でも、私に聞いて下さい。ただ、すべてのことに、答えられるか、どうかは、わかりませんが」

と、言った。

だが、吉田先生は、何でも、知っていた。

そして、何でも、教えてくれた。

まず、静脈注射の仕方から、丁寧に教えてくれた。

静脈注射は、糖尿病や高血圧の患者や、太って、皮下静脈が見えない、患者は、針を、血管に入れにくいのだが、彼女は、血管を外す、ことが、まず、なかった。

注射は、もちろん、医師より、ナースの方が、上手い。

だが、彼女は、ナースよりも、注射が、上手かった。

血管に、針を入れる、微妙なコツを、彼女は、丁寧に、教えてくれた。

僕も、何事にも、熱心なので、一生懸命、練習した。

そもそも、注射が上手い医師は、真面目で、思い遣りのある、医師の証明でもある。

針が、なかなか、血管に入らず、何ヵ所も、ブスブス、刺されれば、患者だって、痛くて、つらい。

彼女は、注射をしっかり、出来るように、ナースの仕事である採血の仕事を、ナースに代わって、率先して、やって、練習したのだと言った。

なるほど、彼女が、注射が、上手いのも、無理はないな、と、僕は、思った。

彼女は、患者の一人一人に、ついて、カルテ記載の仕方、胸部、腹部レントゲンの読影、エコー、MRI画像の読影、血算、生化、心電図の読み方、脳波の読み方、など、全てのことを、丁寧に、教えてくれた。

そして、触診、聴診、打診、の仕方から、丁寧に、教えてくれた。

それに、彼女の、カルテの字が、きれいで、読みやすかったのも、非常に助かった。

医者のカルテ記載の字は、ほとんどの医者で、崩れていて、読みにくいのである。

特に、男の医者のカルテ記載の文字は、汚いのが多いのである。

しかし、女医のカルテ記載の文字は、きれいで、読みやすいのが、多いのである。

指導医が、親切な先生か、どうかは、研修医にとって、大きなことである。

指導医が、不親切だと、研修医は、自分で、本を買って、勉強しなければならない。

しかも、医学書は、バカ高い上、本の知識からでは、実際の、医療の、知識や技術は、身につきにくい。

その点、指導医が、親切だと、バカ高い、医学書を買う必要もなく、指導医の、一言で、パッと、わかってしまう、ことが、多いのである。

わかったり、出来るようになったりすると、嬉しいものである。

こうして、僕は、毎日、彼女の指導の元で、研修に励んだ。

毎日が、充実していて、日に日に、自分の、医学・医療の、知識・技術が、身についていった。

僕も、早く、一人前の医者になりたくて、一生懸命、研修に励んだ。

入院患者の、診療が、出来るようになると、外来患者の診察もするようになった。

自動車教習所の、教官と生徒、と同じで、はじめは、吉田美奈子先生が、診察するのを、横で見学していたが、だんだん、要領が、わかってきて、吉田先生に、ついてもらいながら、僕が、診察するようになった。

彼女は、問診のコツ、も丁寧に教えてくれた。

そのおかげで、だんだん、僕も、彼女に頼らず、一人で、外来患者を診察できるようになっていった。

そんな、ある日のことである。

石田君から、電話があった。

「やあ。久しぶり」

石田君は、元気のいい声で言った。

「やあ。久しぶり」

僕も、返事した。

「ところで、君は、今、どうしてる?」

石田君が聞いた。

「今、帝都大学医学部で、研修しているんだ」

僕は答えた。

「東大医学部での、研修は、どうなったの?」

石田君が聞いた。

「あそこは、あまりにも、エリート意識が強くてね。二週間で、辞めてしまったよ。それで、研修は、あきらめて、民間の、精神病院に就職したんだ。しかし、ある事情があって、運よく、帝都大学医学部で、研修することが、出来るようになったんだ」

僕は答えた。

「そうかい。それは、よかったね」

「うん。毎日が、充実しているよ」

と、僕は言った。

「ところで、君は、小説は、書いているかい?」

石田君が聞いた。

僕は、一言で、はっと、忘れていた、初心を、思い出した。

医学の研修が、充実していたので、小説は、書いていなかった。

しかし、僕の、初心は、小説家になることで、僕の書く、作品では、筆一本では、とても、生活していけないので、臨床医学を、一年か二年、みっちり、やって、医師として、一人前になって、それで、医師の仕事は、アルバイトでして、糊口を凌ぎ、創作に、専念するつもり、だった。

僕は、それを、すっかり、忘れていた。

「ところで、石田君は、小説を書いているかい?」

今度は、僕が、石田君に、聞き返した。

「うん。書いているよ。仕事にも、もう、慣れたし。仕事が終わったら、毎日、書いているし、土日は、ほとんど、創作だけの生活さ」

石田君が言った。

僕は、石田君の、創作にかける情熱に関心した。

彼は、本当に、書きたいモノをもっているから、書き続けられるのだ、と思った。

同時に、僕は、石田君に、嫉妬した。

僕も、石田君と、同じように、石田君に対しても、そして、自分自身に対しても、何が何でも、小説家になることを、誓った。

「ところで、僕が、書いて、投稿して、入選した小説が、今日、芥川賞候補に、なっている、という知らせが入ってね。驚いているんだ」○○○○○○

石田君は、言った。

「そうなの。それは、凄いじゃない」

僕は、石田君を祝福した。

が、内心では、激しく嫉妬していた。

石田君は、文学の、良き友達であると同時に、熾烈なライバルでも、あった。

僕には、石田君の書く小説の面白さ、が、わからなかった。

だが、僕は、わからないものは、否定しない主義である。

作家には、それぞれ、自分の抜けられない、気質がある。

推理小説を書くのが好きで、推理小説は、いくらでも、思いつけて、書けるが、恋愛小説は、全く興味が無い、作家など、いくらでもいる。

作家は、それぞれ、自分の、好きな、ジャンルの小説しか、書けないのである。

無理に、自分の、好きでもない、ジャンルの小説を、書いても、書けないことは、ないかもしれないが、嫌々、書いても、情熱が入らないから、面白い、良い作品とはならない。

そういう点、僕は、純文学は、書けないが、エンターテインメントの小説なら、書ける自信はあった。

さしずめ、石田君が、「芥川賞」なら、僕は、「直木賞」を、目指す、というところか。

文学は、個性の世界だから、ある作品と、ある作品の、どっちが、相対的に、優れている、ということは、言えない。

スポーツで言えば、優れた野球選手と、優れたテニス選手と、どっちが、優れているか、などということは、比較できない。のと同じである。

創作とは、つまるところ、自己表現である。

ある作家志望者が、本物であるか、どうかは、その人が、小説を書き続けたい、という情熱を持っているか、どうかに、かかっているのだ。

それを、考えると、僕は、自分を恥じた。

医療を身につけるのは、生活の資のためであり、自分の本命は、小説の創作である、と思っていた、初心を、すっかり、忘れていた自分に、恥じた。

もし、天分の作家なら、たとえ、医療の研修が、面白くても、心の中では、絶えず、創作したい、という、欲求を持ち続けているはずだ。

そちらの方に、心が引き寄せられて行くはずだ。

石田君の、芥川賞候補、の知らせを聞いて、がぜん、僕に、創作欲求が、起こり出した。

「よし。小説を書こう」

僕は、初心を思い出して、あらためて、自分に誓った。

幸い、美奈子先生の丁寧な指導と、僕の熱心な、努力によって、もう、ほとんど、内科医として、やっていける、自信が、僕には、ついていた。

医学の、習得は、やり出したら、きりがない。

上限が無いのである。内科が出来たら、外科にも、興味が出てくるし、さらには、救急科にも、そして、産婦人科にも、皮膚科にも、小児科もに、耳鼻科にも、興味が起こってしまう。

他の人は、そうでは、ないのかもしれないが、少なくとも、僕は、そういう性格だった。

何事にも、はまってしまう、のである。

医学も、パチンコや、麻雀や、競馬などの、中毒性のある、蟻地獄と似ている面がある。

パチンコや、麻雀や、競馬などは、何の価値も無い、人生を無駄に過ごす、単なる、遊びであり、全く無意味なものであり、医学は、学問であり、確かに、価値のあるものでは、あるが、中毒という点では、同じである。

僕は、医学の魅力に、ズルズルと、引きずられないように、しようと、決意した。

僕は、美奈子先生に、申し出て、そろそろ、帝都大学医学部での、研修を、終わりにしようと思った。

翌日。

僕は、決死の覚悟をもって、帝都大学医学部に行った。

「おはよう。山野先生」

医局で、彼女が、ニコッと、笑って、挨拶した。

「おはようございます。美奈子先生」

僕は、礼儀正しく挨拶した。

「先生。今まで、手取り足取り、丁寧に、医学を教えてくれて有難うございました」

僕は、彼女に恭しく言った。

「どうしたんですか。山野先生。あらたまって」

彼女は、笑顔で聞き返した。

「はい。僕は、そろそろ、この大学医学部での、研修を終わりにしたい、と思っているんです」

「ええっ。それは、また、どうしてですか?」

彼女の、驚きは、予想通りだった。

彼女は、目をパチクリさせて、僕を見て聞いた。

「最初に、お見合いした時に、言いましたよね。僕は、できれば、将来は、小説家になりたいと思っているんです。ですが、小説家として、認められ、職業作家になるまでには、並大抵のことでは、なれません。それで、僕は、まず、医学を、ちゃんと身につけて、生活費は、医師の仕事で、得て、それで、コツコツと、小説を書いて、作家になりたいと思っているんです。それで、僕も、美奈子先生の指導の、おかげで、一応、内科を身につけることが出来ました。それが理由です。先生には、感謝しても、しきれない思いです」

彼女は、しばし黙っていたが、ニコッと、笑って、顔を上げた。

「ええ。わかりました」

と、彼女は、言った。

「すみません」

と、僕が言うと。彼女は、

「山野先生。一つ、お願いがあるんです。聞いていただけないかしら」

と、言って切り出した。

「はい。何でしょうか?」

「私。一度、結婚というものをしてみたいんです。結婚って、女の憧れなんです。お願いです。山野さん。私と、結婚をして、もらえないでしょうか?」

彼女は、訴えるように言った。

「で、でも・・・」

僕は、返答に窮した。

「形だけで、いいんです。一ヶ月、したら、離婚するということで構いません」

彼女の、押しは強かった。

「で、でも・・・」

僕は、また、返答に窮した。

「山野先生には、突飛なことだと思います。でも、女には、大きなことなんです。特に、女医は、結婚できませんから。一度、結婚した、という、事実があると、これからは、ずっと、わたし、バツイチなんです、と、人に自慢することが、出来ます。それは、すごく、大きいことなんです。これから、結婚できるかどうか、わからない、私にとって。お願いです。一ヶ月したら、離婚する、という条件で。その約束は、ちゃんと守ります。結婚式を、形だけ、挙げてもらえないでしょうか。真っ白な、ウェディング・ドレス。ウェディング・ブーケ。誓いの言葉。交換し合うエンゲージ・リング。二人で入れる、ウェディング・ケーキのケーキ・カット。ああ。何て、素晴らしいんでしょう。私。子供の頃。コバルト文庫の、ティーンズハートの、恋愛小説ばかり、読みふけっていて、きっと、その悪影響だと思うんですが。ともかく、私の、憧れの夢になってしまったんです。お願いです。ダメでしょうか。決して、無理強いは、しません。山野さんが、嫌なら、ハッキリ言って下さい。私の、ワガママなんですから・・・」

彼女に、そう言われると、僕は断れなかった。

「わかりました。僕でよければ・・・。美奈子先生には、たいへん、お世話になりましたし。・・・ただ、たいへん、失礼ですし、申し訳ないですが、一ヶ月で離婚する、という約束は、守って頂けるでしょうか?」

僕は、念を押すように聞いた。

「わー。嬉しい。それは絶対、命にかけて、守ります。有難うございます。山野さん」

と、彼女は、飛び上がって喜んだ。

僕も、男にとっても、結婚は、非常に大きな経験で、それを体験しておくのは、これからの、創作においても、有利になるだろうと、考えた。

「ところで、結婚式は、どこでするんですか?」

僕は聞いた。

「それは、もちろん、町の、小さな教会です。二人きりで。どうでしょうか。山野先生?」

「ええ。そうして、もらえると、僕も助かります」

もちろん、遊びの結婚なので、誰にも知られない結婚式の方が、僕には助かった。

結婚式は、一週間後の日曜日、と、決まった。

こうして、僕は、彼女と一緒に、市役所に行って、婚姻届け、を、出した。

どうせ、結婚式の真似事、ママゴトのような、遊び、だと、思って、僕は、軽い気持ちでいた

結婚式の日曜日になった。

僕は、彼女が、レンタル・ウェディング・ショップで、借りてきた、白いタキシードを着て、待っていた。

しはしして、彼女は、タクシーで、やって来た。

彼女は、プリンセスラインの、真っ白の、ウェディングドレスを着ていた。

肩紐の無い、ビスチェ型で、肩・胸・背が大胆に露出していた。

僕は、思わず、うっ、と息を呑んだ。

彼女は、元々、綺麗だが、セクシーな、プリンセスラインの、ウェディングドレス姿の彼女に、僕は、思わず、股間が熱くなった。

「さあ。山野さん。乗って」

彼女に、言われて、僕は、タクシーに乗り込んだ。

タクシーの運転手は、嬉しそうな顔である。

僕が、乗り込むと、運転手は、車を出した。

何だか、町の教会と、行く方向が違う、ことに、僕は、途中から気づき出した。

「あ、あの。美奈子先生。これは、町の教会とは、方向が違いますが、どこへ行くんですか?」

僕は聞いた。

「あ、あの。ちょっとした事情から、結婚式は、別の所で、挙げることになってしまいまして・・・。よろしいでしょうか?」

彼女は、訥々と話した。

僕は、よく、事情が、わからなかったが、まあ、どうせ、真似事の結婚式なのだから、と、あまり気にしなかった。

タクシーは、品川の、聖マリアンナ教会に入っていった。

僕は、びっくりした。

背広姿やスーツ姿の、帝都大学医学部の第一内科の医局員達、が、わらわらと、やって来た。

「美奈子。きれいだよ」

「美奈子先生。おめでとう」

医局員たちは、口々に、祝福の言葉を、述べた。

僕は、頭が混乱した。

背広を着た、第一内科の、教授の姿まであった。

僕は、何が何やら、訳が分からないまま、タクシーを降りて、彼女と、聖マリアンナ教会の、控え室に、入った。

「あ、あの。美奈子先生。これは、一体、どういうことでしょうか?」

僕は聞いた。

「あ、あの。今朝、タクシーに乗って、山野さんのアパートに向かっていた時に、私のスマートフォンに、ヤフーメールが、届いたんです。アドレスは、知らない人なんです。これを見て下さい」

そう言って、彼女は、スマートフォンを、僕に渡した。

僕は、すぐに、スマートフォンを受けとり、彼女に来た、ヤフーメールを見た。

それには、こう書いてあった。

「美奈子先生。ご結婚、おめでとうございます。つきましては、挙式は、聖マリアンナ教会で、行う、予約をとってあります。帝都大学医学、第一内科の、医局員達、教授、および、美奈子先生の、ご両親、親戚なども、出席します。なので、どうか、そこへ行って下さい」

僕は、びっくりした。

「あ、あの。山野先生。ごめんなさい。このメールを送ったのは、医局員の誰かだと思います。私と先生の、今日の、結婚の真似事のことを、知ってしまったんでしょう。それで、医局員みんなに、話してしまったのでしょう。一体、どういう理由で、こんなことをしたのかは、わかりません。おそらく、悪いイタズラ心から、だと思います。しかし、ともかく、私は、急いで、何人かの医局員に電話して聞いてみたんです。そしたら、みんな、それを知っていて、聖マリアンナ教会に向かっている、と言ったんです。私も、大袈裟なことになってしまって、困っているんです。山野さん。どうましょう?」

彼女が聞いた。

「・・・・」

僕は、答えられなかった。

これは、極めて悪質なイタズラだと、僕も思った。

(アクドい、悪戯をする人もいるものだな)

僕は、心の中で、呟いた。

しかし、もう、ここまで、来てしまっては、今さら、キャンセルするわけにも、いかない。

「もう、今さら、結婚式をとりやめるわけにも、いきません。教授も来ていますし。ここで、結婚式を挙げましょう」

と、僕は、言った。

「ごめんなさい。そして、有難うございます。こんな、悪質な、悪戯をして、山野さんに、迷惑をかけた、犯人は、必ず、見つけ出して、山野さんに謝らせます」

と、彼女は、言った。

ホールでは、重厚なオルガンの音が鳴っている。

「それでは、新郎新婦の入場です」

司会者の声が聞こえた。

僕は、彼女と、手をとりあって、ホールに入っていった。

パチパチパチと、拍手が鳴り響いた。

僕と、美奈子さんは、手をとりあって、会場に入っていった。

僕は、吃驚した。

白い髭を生やした、白髪の、ローマ法王のような、牧師が、厳かに、立っていた。

僕と、美奈子さんは、牧師の前で、立ち止まった。

オルガンの音が止まった。

結婚の誓いの宣言の始まりである。

僕と美奈子さんは、牧師の方を向いた。

牧師は、まず、美奈子さんの方を見た。

「吉田美奈子。汝、この男を夫とし、その健やかなる時も、病めるときも、喜びのときも、悲しみのときも 富めるときも、貧しい時も、これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、その命ある限り真心を尽くすことを誓うか?」

牧師が言った。

「誓います」

美奈子さんが、頬を赤くして言った。

次に、牧師は、僕の方へ視線を向けた。

「山野哲也。汝、この女を妻として娶り、その健やかなる時も、病めるときも、喜びのときも、悲しみのときも 富めるときも、貧しい時も、これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、その命ある限り真心を尽くすことを誓うか?」

牧師が言った。

「誓います」

僕は、嫌々、仕方なく言った。

ここまできて、今さら、ノーコメントと、言ったり、「誓いません」などと、言えるはずがない。

僕と彼女は、エンゲージリングを交換し合った。

「では。誓いのキスを・・・」

牧師が言った。

美奈子さんは、両手を、僕の背中に廻して、僕を抱きしめ、僕の唇に、自分の唇を重ねてきた。そして目を閉じた。

美奈子さんは、僕の唇の中に、舌を伸ばしてきた。

そして、僕の舌に、絡め合わせた。

美奈子さんは、貪るように、僕の唾液を吸った。

500ccくらい、吸ったのではなかろうか。

普通、誓いのキスは、唇を、そっと触れ合わせるだけの、ソフトタッチのキスで、時間も、せいぜい、5秒ていどなのに、僕は、彼女の、ディープキスに驚いた。

「わー」

「きゃー」

と、皆が叫んだ。

誓いのキスは、10分くらい、続いた。

そして、ようやく、誓いのキスが終わると、彼女は、顔を離した。

「ごめんなさい。山野さん。つい嬉しくて・・・」

と、彼女は小声で言った。

「では、これにて、新郎、山野哲也と、新婦、吉田美奈子、の結婚の式は終わりとします」

と、牧師が閉式の辞を述べた。

僕と、美奈子さんは、腕を組んで、白いバージンロードを、おもむろに、歩いて、出ていった。

僕と美奈子さんは、教会を出た。

前には、タクシーが停めてあった。

運転手は、タクシーのドアを開けた。

「あ、あの。山野さん。お乗りになって」

戸惑っている僕に、彼女は言った。

言われて、僕は、タクシーの後部座席に、乗り込んだ。

彼女も、僕の隣りに乗った。

タクシーは、動き出した。

これで、ようやく、アパートに帰れるんだな、と、思って、僕は、ほっとした。

「あ、あの。山野さん」

「はい。何でしょうか?」

「あ、あの。つい、さっき、教会に着いた時、私のスマートフォンに、ヤフーメールが、届いたんです。アドレスは、さっきの人と、同じです。これを見て下さい」

そう言って、彼女は、スマートフォンを、僕に渡した。

僕は、すぐに、スマートフォンを受けとり、ヤフーメールを見た。

それには、こう書いてあった。

「美奈子先生。ご結婚、おめでとうございます。とても素敵でした。つきましては、この後、高輪プリンスホテルに行って下さい。会場を予約してあります。披露宴です。皆も、挙式が終わった後は、高輪プリンスホテルに向かいます。キャンセルするとなると、かなりのキャンセル料が、とられてしまいます。皆も楽しみにしています。どうか、高輪プリンスホテルに行って下さい」

「あ、あの。先生。どうしましょう?」

彼女が困惑した顔で聞いた。

げげっ、と、僕は驚いた。

しかし、もう、ホテルの会場を借り切って、いるし、皆も、高輪プリンスホテルに向かっているのである。

今さら、とりやめるわけには、いかない。

「わ、わかりました。披露宴も、しましょう」

僕は、ため息をついて言った。

「有難うございます。先生には、たいへん、ご迷惑をおかけしてしまって、申し訳ありません。私も、本意ではありませんが、こうなっては、もう、皆の用意してくれた、披露宴に出るしか道はないと思っていたんです」

と、彼女は、言った。

「でも、一体、大学病院の、誰が、こんなことを提案したのかしら?こんな悪質なイタズラをした人は、必ず、つきとめて、必ず、見つけ出し、山野さんに対する、名誉棄損として、民事訴訟します。一体、誰が・・・?。耳鼻科の、順子かしら。それとも、眼科の、久仁子かしら。ああ。でも、仲のいい友達を疑うのって、本当に、心が痛むわ」

と、彼女は、ため息をついて、独り言をいった。

こうして、僕と美奈子さんを、乗せたタクシーは、高輪プリンスホテルに着いた。

彼女は、裾がだだっ広くて、歩きにくそうな、純白の、プリンセスラインの、ウェディングドレスから、裾が、ちょうど、床に触れる程度の、Aラインの、純白のドレスに、着替えた。

しかし、ビスチェ型で、肩・胸・背は大胆に露出していた。

僕は、教会での、タキシードのままだった。

披露宴が始まった。

「では、新郎、新婦の、ご入場です。皆さま。拍手でお出迎え下さい」

司会者が言った。

僕と、美奈子さんは、手をとりあって、披露宴の会場に入った。

「わー」

「美奈子先生。ステキ」

会場にいる、人達が、拍手して、僕と彼女の、二人を出迎えた。

目の前には、大きな、バベルの塔のような、ゆうに2mを越しているほどの、ウェディング・ケーキがあった。

テーブルは、20席くらいあり、一つの、テーブルには、5~6人が座っていた。

「では。これより、新郎、山野哲也さんと、新婦、吉田美奈子さんの、披露宴を行います。では、まず、この結婚の仲人である、帝都大学医学部第一内科の、菊池泰弘教授に、祝いの言葉をお願いしたいと思います。菊池泰弘先生。よろしくお願い致します」

司会者は、そう言って、教授の方を見た。

教授は、嬉しそうな、えびす顔で立ち上がった。

僕は、びっくりした。

「な、何で、教授が、仲人なんですか?」

僕は、小さな声で、隣りの、美奈子さんに、聞いた。

「私にも、わかりません。今、知って、吃驚しています。一体、誰が、こんな提案をしたのかしら。教授も教授だわ。こんな役を、引き受けるなんて・・・」

と、美奈子さんは、言った。

僕と彼女の、驚きを余所に、教授は、コホンと、咳払いして、話し始めた。

「えー。この度は、我が、帝都大学医学部、第一内科の、吉田美奈子先生と、山野哲也先生が、結ばれることになり、たいへん、嬉しく思っています。吉田美奈子先生は、学生時代から、そして、卒業して、第一内科に入局してからも、医局員の中でも、一番、真面目で、明るく、私の、そして、帝都大学医学部の、誇りであります。山野哲也先生も、帝都大学医学部の第一内科に入局してからは、寝る間も惜しんで、一意専心、医学の研修に励んできました。医学にかける情熱は、吉田美奈子先生に、勝るとも劣りません。まさに、これ以上、相性の合う、男女は、この世に、いないと、私は、思っております。二人は、これからも、末永く、お互い、切磋琢磨して、いずれは、帝都大学医学部、第一内科を、引っ張っていって欲しいと、思っています。では。これを、もちまして、私の、祝辞の言葉と、させていただきます」

と、教授は、述べた。

パチパチパチ、と、会場に、拍手が起こった。

「それでは、新郎と新婦による、ウェディング・ケーキへの入刀をお願い致します」

司会者は、そう言って、僕たちに、ナイフを渡した。

僕と美奈子さんは、二人で、ナイフを持って、巨大な、ウェディング・ケーキに、ナイフを入れた。

パチパチパチ、と、会場に、盛大な、拍手が起こった。

「では。新婦の、吉田美奈子さんの、友人代表として、吉田美奈子さんの、お友達である、伊藤佳子さん。お祝いの言葉を、お願い致します」

司会者が言った。

言われて、第一内科の、一人の女医が立ち上がった。

「美奈子さん。山野哲也先生。ご結婚、おめでとうございます。思えば、長いようで、短い、六年間の大学生活でした。美奈子さんは、中間試験も期末試験も、難しい病理学の勉強も、何でも、丁寧に教えてくれました。私にとっては、難しい医学の、単位を取ることが出来たのも、そして、卒業できて、医師になれたのも、全て、美奈子さん。あなたのおかげです。美奈子さんには、一生、感謝しても、しきれません。もし、私と同期の生徒に、美奈子さんが、いなかったら、おそらく私は、難しい医学を理解できず、何年も留年して、結局、単位が取れなくて、大学を中退していただろうと、思っています。何の誇張も無く、美奈子さんは、私の命の恩人です。これからも、ご指導、ご鞭撻、よろしくお願い致します。それと。山野哲也先生。どうか、美奈子さんを、幸せにしてあげて下さい」

彼女は、涙をボロボロ流しながら言って、着席した。

「では。乾杯の音頭を、帝都大学医学部の、第一内科の、菊池泰弘教授にお願いしたいと思います」

司会者が言った。

教授が、立ち上がった。

ワイングラスを、持って。

「では、山野哲也先生と、美奈子さんの、末永い幸せを、祝って・・・カンパーイ」

そう言うや、会場にいる、皆は、手に持った、ワイングラスを、カチン、カチンと、触れ合わせた。

無数の、ワイングラスが、触れ合う、乾いた音が、会場に響いた。

「では。皆さま。教会での、結婚式から、何も食べずに、お腹が、減っていることと、思います。どうぞ、お食事を召し上がって下さい」

そう司会者が言った。

各テーブルに、豪華な、フランス料理のフルコースが、次々と、運ばれてきた。

「うわー。美味しそうー」

「お腹、ペコペコだよ」

「それでは、頂きます」

そう言って、賓客たちは、料理を食べ始めた。

美奈子さんは、司会者に、目配せされて、そっと、席を立ちあがった。

「あっ。美奈子さん。どこへ行くんですか?」

僕は、彼女に聞いた。

「あ。あの。お色直し、です」

彼女は、顔を赤らめて、恥ずかしそうに言った。

美奈子さんが、いなくなった、中座の時間に、大きなスクリーンに、映像が、映し出された。

美奈子さんの、生まれた時の写真、から、小学生の時の運動会、高校の時の入学式や、卒業式、医学部での、卒業式、などの、写真が、次々と、スクリーンに、映し出された。

皆は、食事をしながら、スクリーンを見て、

「へー。美奈子の子供の時の写真、はじめて見たよ」

とか、

「子供の時にも、今の、面影が感じられるな」

とか、

「海水浴に行った時の、ビキニ姿が無いのが、残念だな」

とか、様々なことを、語り合っていた。

10分ほどして、美奈子さんが、戻ってきた。

ピンク色の、ドレスを着て。

これも、ビスチェ型で、肩・胸・背は大胆に露出していた。

「きれいだよ。美奈子。優秀な女医とだけ、いつも見えていたけれど、やっぱり女なんだな」

男の同僚が言った。

「ステキだわ。美奈子さん」

女の同僚が言った。

色直しをして、ピンクのドレスを着た、彼女が、僕の隣りに座った。

やがて、皆、フルコースのフランス料理も、食べ終わった。

披露宴も、終わりに近づいた。

「では。美奈子さん。お父様と、お母様に、何か、お言葉を、お願い致します」

司会者が言った。

美奈子さんは、立ち上がった。

「お父さん。お母さん。今まで、私を育てて下さって、有難うございます。私は、子供の頃から、毎日、真剣に、患者の診療に取り組む、お父さんの姿を見て、自分も、医師になろうと思いました。今日、このような、嬉しい日を迎えることが出来て、何と言っていいのか、お礼の言葉が見つかりません。本当に、今まで、有難うございました」

と、美奈子さんは言って、深く頭を下げた。

彼女の、目には、涙が光っていた。

「ばか。美奈子。つまらんことを言うな。親が子供を育てるのは、当たり前のことだ」

彼女の父親が、即座に言った。

父親も、涙を流していた。

「では。これにて、新郎、山野哲也さんと、新婦、山野美奈子さんの、披露宴を、終わりと致します」

司会者が言った。

僕と、彼女は、式場の出口に並んで立った。

招待客が、一列に並んで、式場を出て行った。

「きれいだよ。美奈子。嬉しいよ。わしゃ」

彼女の、祖父母が、言った。

「山野さん。ふつつかな、娘じゃが、どうか、よろしゅう、お願いします」

と、禿げ頭の、彼女の父親が、僕に言った。

「美奈子。おめでとう」

「幸せになってね」

と、彼女の手を握って。

美奈子は、一人一人に、

「有難う」

と、握手した。

こうして、招待客の全員が、式場を出た。

やっと、披露宴が終わって、僕は、ほっとした。

不本意な、成り行き上ではあるが、披露宴なので、披露宴らしく、振舞うのは、仕方がないと、僕は、じっと、我慢していたが、内心では、困りはてていた、というか、ここまで悪質なイタズラをした、誰かに、いいかげん、頭にきていた。

「ごめんなさい。山野さん。さぞ、不快でしたでしょう。イタズラをした人は、私の、両親や、親戚にまで、告げていたんですね。私も、焦りました。しかし、こうなっては、もう、乗りかかった船で、仕方がない、と思い、披露宴は、披露宴らしく振舞おうと、思ったんです。こんな、イタズラをした人は、必ず、見つけ出し、民事訴訟で訴えます」

僕の心を推し量ってか、彼女は、そう言った。

「いえ。そこまで、しなくてもいいですが・・・。美奈子さんは、困らないのですか?だって、一ヶ月したら、離婚する、真似事の結婚式ですよ。離婚した後、皆との、関係が、気まずくなってしまうんじゃありませんか?」

僕は聞いた。

「私は、構いません。大丈夫です。山野さんは、男だから、わからないかもしれませんが。女って、結構、我慢強いんですよ。女は、月に一度の、つらい生理に、耐えて、生きていますから。それが、女の生きる宿命なんです。それに、出産の時にも、女は、苦しんで、子供を産まなくてはなりません。そのことも、いつも、女の、潜在意識に、根を張っているんです。ですから、一ヶ月後に、離婚しても、皆との、関係が、気まずくなることは、ありませんし、かりに、気まずくなっても、女は、我慢強いから、それくらいのことは、耐えられます。それに、山野先生は、私との結婚を望んでいませんが、私は、出来ることなら、山野先生と本当に結婚したいと、望んでいますので、真似事でも、こうして、山野先生と、結婚式を挙げることが、できたことは、私の、一生の、素晴らしい思い出となります。イタズラされたのは、私も、不快でしたが、今日は、本当に、楽しかったです。今日は、悪質な、イタズラをされた不快感と、でも、結果として、真似事でも、山野先生と結婚できた喜びと、そして、一体、誰が、こんな悪質な、イタズラをしたのかという、犯人の顔が、次から次へと、頭をよぎり続けた、猜疑心の、三つの思いが、頭の中でグルグルと、回り続けた、本当に、複雑な思いでした」

彼女は、言った。

「そうですか」

僕は、わかったような、わからないような、あやふやな返事をした。

「でも、山野先生にとっては、本当に、迷惑ですよね。どうして、こういうイタズラをしたら、山野先生が困る、ということを、慮ることが出来ないのかしら?一体、誰が、皆に、言いふらしたのかしら。順子かしら。久仁子かしら。それとも青木君かしら。青木君は、学生時代から、度の過ぎた、イタズラをしていましたから・・・。ああ。でも、人を疑うのって、本当に、心が痛みますわ」

そう彼女は、嘆息した。

その時、彼女のスマートフォンが、ピピピッと、鳴った。

彼女は、スマートフォンを取り出した。

「あっ。また、イタズラをした人のヤフーメールだわ」

彼女は、そう言って、メールを読んだ。

彼女は、黙って、一心にメールを読んでいた。

「ああ。そういう理由から、だったのね」

しばし、してから、彼女は、深く、ため息をついた。

「どうしたんですか。美奈子さん。今度は、どんな要求ですか?」

僕は聞いた。

彼女は、答えず、

「先生。見て下さい」

と言って、スマートフォンを、僕に渡した。

僕は、すぐに、スマートフォンを受けとり、彼女に来た、ヤフーメールを見た。

それには、こう書かれてあった。

「美奈子。ごめんなさい。あなたが、山野先生と、結婚の真似事をして、一ヶ月間だけ、夫婦になる、という噂を、聞いて知ったのは私です。それを、山野先生と、美奈子は、本当に結婚する、から、立派な、教会と、ホテルで、やって、皆で祝福してやろうと、第一内科の、医局員の数人に、メールを出したのは、私です。町の小さな教会で、二人だけで、結婚式を挙げる、のではなく、皆で、立派な所で、祝福してやろう、と、皆に、メールを送ったのは、私です。本当なら、ちゃんと、名乗り出て、言うべきですが、匿名のメールで、伝えることしか出来ない、私の憶病さを、許して下さい。私の本心を言います。私は、決して、ふざけ半分の、イタズラが動機で、こんなことをしたのでは、ありません。私は、美奈子が、山野先生と、本気で結婚したがっている、ことを、知っていました。私は、美奈子先生に幸せになって、欲しいので、もしかしたら、これが、きっかけで、山野先生の心が、美奈子に動いて、二人が本当に、結婚することに、なってくれは、しないかと、望みを託して、皆に、メールで、送ったのです。皆には、山野先生と、美奈子は、本当に結婚する、と、ウソを告げました。また、山野先生の心が、美奈子に動かなくて、一ヶ月で、別れることになっても、こうすれば、きっと、美奈子も、喜ぶと、思ったからです。美奈子。一ヶ月でも、結婚は結婚です。一ヶ月間の、結婚生活を楽しんで下さい。それと。山野先生。申し訳ありません。心より、お詫び致します。一ヶ月して、別れたら、皆に、二人の結婚の真似事を、知っていながら、あたかも、本当に、二人が、愛しあって、結婚を決めた、と、私が、ウソのメールを、皆に、送った、という、真実を全て、皆のメールに送ります。これも、匿名メールでします。ごめんなさい。離婚後、美奈子と山野先生が、医局で、気まずい仲に、ならないよう、悪いようには、しません。全て、匿名で行なう、憶病な私を許して下さい。美奈子さんの、了解もとらずに悪いことを、してしまいました。言い訳がましいですが、決して、悪意からではなく、美奈子が、幸せになって欲しいという、私の、心からの思いからしたことです」

僕は読み終えて、ため息をついた。

「そうだったのか。そういう理由からだったのか」

僕の、苛立ちは、なくなった。

「ところで。美奈子さん」

「はい。何でしょうか?」

「決めつけるべきでは、ないですけど。もしかして、ヤフーメールを、送ったのは、さっき、友人代表として、祝辞をのべた、伊藤佳子さん、では、ないでしょうか。彼女は、あなたを、すごく敬愛していますから」

「いえ。それは違うと思います。山野さんが、そう考えるのは、無理ないと思いますが。彼女は、そういうことをする性格ではありません。私は、彼女と、六年間、一緒に、大学生活をしてきたから、わかるんです。それに、もし、彼女が、ヤフーメールの、送り主であるのなら、ああいう祝辞は、述べないでしょう。だって、ああいう祝辞を、述べたら、ヤフーメールの、送り主ではないかと、疑われるのは、明らかですから」

「なるほど。確かに、そうですね。では、一体、誰が、送ったのでしょう?」

「それは、わかりません」

「ところで、山野先生。こうと、わかった以上、これから、一ヶ月は、皆の前で、新婚らしく、振舞いませんか。一ヶ月した後、離婚しても、ヤフーメールを送っている人が、本当の事を、皆に告げるのですから」

彼女は、そんな提案をした。

「そうですね。いきなり、昨日の、結婚は、ウソです、などと、皆に言ったら、皆、混乱して、不快になるでしょうし、医局が険悪な雰囲気になってしまうでしょうから。出来るだけ、穏便に、対処しましょう。」

「では。先生は、不本意でしょうが、一ヵ月間は、新婚らしく振舞って下さい。私も、そうします」

「ええ。わかりました」

こんな会話をして、僕と、彼女は、別れた。

僕が、気前よく、彼女の提案に同意したのは、もちろん、彼女の言うように、医局の雰囲気を険悪にしないためには、それが、一番いい、と思ったからだ。

翌日は、日曜日だった。

昨日の、緊張と、疲れから、僕は、一日中、寝て過ごした。

月曜日になった。

僕は、帝都大学医学部の第一内科に行った。

とても、緊張していた。

僕が、医局室に入ると、皆が、一斉に、僕を見た。

「あっ。山野先生。おはようございます」

皆は、嬉しそうに、挨拶した。

「おはようございます」

僕は、照れくさくて、小さな声で、挨拶を返した。

「先生。一昨日の、結婚式は、素晴らしかったですよ」

「先生。やっぱり結婚式は、町の小さな教会で、するよりも、盛大にやった方が、よかったでしょう?」

「ハネムーンは、どこへ行くんですか?」

「先生が、美奈子先生と、結婚を考えていたなんて、まったく気づきませんでした」

医局員たちは、それぞれに、勝手なことを言った。

僕は、何と言っていいか、わからず、返答に窮した。

その時。

ガチャリと、医局室の戸が開いた。

「みんな。おはよー」

美奈子さんが、元気な声で、入って来た。

「あっ。先生。おはようございます」

「おはよう。美奈子」

皆の関心が、彼女に、移ってくれて、僕は、助かった、思いだった。

「ところで、これからは、姓が、変わって、山野美奈子先生となるんですか。それとも、今まで通り、吉田美奈子先生なのですか?」

一人の医局員が聞いた。

「それは、もちろん、山野美奈子よ」

彼女は、嬉しそうに言った。

「じゃあ、これからは、山野先生は、山野哲也先生と、名前まで、入れて呼ばないとね」

と、医局員が言った。

第一内科の、医局の中で、「山野」の、姓は、僕一人だった。

なので、今までは、僕は、「山野先生」と、苗字だけで呼ばれていた。

でも、これからは、美奈子先生も、「山野」の姓になるので、「山野先生」と、苗字だけで呼ぶことが、出来なくなってしまう。

名前まで、入れられて、呼ばれるとなると、少し、照れくさいな、と僕は思った。

「美奈子先生と、名前で、呼んでもいいんじゃない?」

一人の女医が言った。

「そうね。その方が、呼びやすいかもね」

と、医局員が言った。

「美奈子」の、名前も、医局で、彼女一人だった。

「ところで、美奈子。ハネムーンは、どこへ行くの?」

一人の女医が聞いた。

「そうねえ・・・」

と、彼女は、上を向いて、少し考え込んだ。

その時、医局室の戸が、ガチャリと開いて、第一内科の教授が入って来た。

「おい。お前達。午前の診療は始まっているぞ。早く、外来や病棟へ行け」

と、教授は、急かすように言った。

「はーい」

皆は、ちょっと、残念そうな、口調で、答えた。

「美奈子。じゃあ、また、あとで、哲也先生と、結婚に至った経緯を色々と聞かせてね」

と言いながら。

「じゃあ、みんな。昼休みに、私と哲也さんの、結婚について、記者会見をするわ」

美奈子先生が嬉しそうに言った。

「うわー。ホント。楽しみだわ」

みなは、そう言って、嬉しそうな顔で立ち上がって、医局室を出て行った。

僕も、美奈子先生も、病棟に行った。

「あなた。予想以上の、反響ね。じゃあ、私、記者会見で、聞かれそうな、質問と、その答えを、今から、考えるわ。それを、スマートフォンで、送るから、あなたは、それを答えるだけでいいわ」

彼女は、そう言って、カンファレンス・ルームへ行った。

僕は、助かった思いがした。

所詮は、結婚の、真似事なので、僕には実感が無く、何を聞かれるかも、わからないし、また、聞かれた質問に対し、どう答えればいいのかも、わからない。

彼女は、頭が良いから、適切な、問答集を、つくってくれるだろうと、思った。

僕は、ナースセンターで、患者の病状に変化はないかを、聞いてから、病棟に行って、受け持ち患者を診察し、ナースに、指示を出した。

もう、僕は、ほとんど、一人で、内科患者は、診療できるようになっていた。

しかし、彼女に、「あなた」と呼ばれたのには、何だか、違和感を感じていた。

午前中の診療時間が、終わりに近づいてきた。

僕は、彼女の、結婚の問答集、を早く欲しくて、カンファレンス・ルームに行った。

「美奈子先生。問答集は、出来ましたか?」

僕は聞いた。

「ちょっと、待ってて。理絵がメールを送ってきて、理絵が、クラスを代表して、質問するから、と言って、質問集を、送って来たの。だから、その、答えを、考えているの」

そう言って、彼女は、スマートフォンを、カチャカチャ、操作していた。

昼休みになった。

僕と、彼女は、医局室にもどった。

ちょうど、記者会見のように、医局の机が、準備されていた。

「さあ。あなた。座りましょう」

彼女に、言われて、僕と、彼女は、記者会見のように、隣り合わせに、座って、皆と、向き合った。

皆は、もう、席に着いていた。

質問したくて、ウズウズしている、といった様子だった。

「では、これから、哲也先生と、美奈子先生の、結婚記者会見をします」

真ん前に座っている理絵が言った。

「みんなー。勝手に、質問すると、二人も答えにくいわ。ここは、私が、代表して、質問するわ。ねっ。いいでしょ?」

理絵は、後ろを、振り返って、医局員たちに聞いた。

「ああ。いいよ」

皆は、快く答えた。

理絵は、帝都大学医学部の、美奈子のクラスに、美奈子先生に次ぐ二番の成績で入学して、六年間、クラス委員長をしてきたのだった。クラスの、まとめ役だった。

美奈子先生の次に、頭も良かった。

「では、僭越ながら、皆を、代表して私が質問します」

理絵が言った。

その時、僕の、ポケットの中の、スマートフォンが、ピピピッっと、鳴った。

僕は、急いで、スマートフォンを、取り出した。

美奈子が、作ってくれた、結婚問答集だった。

ギリギリで、間に合って、僕は、ほっとした。

僕は、何も考えず、彼女の考えてくれた、答えを言えば、いいだけなのだから。

さっそく、理絵は、僕に質問してきた。

「山野先生。どうして、スマートフォンを、見ているんですか?」

僕は、美奈子先生が、書いた、その質問に対する答えを、見て、赤面した。

しかし、答えないわけには、いかないし、僕には、何と答えていいか、わからなかった。

なので、美奈子先生が書いた、答えを赤面しながら読んだ。

「それは、結婚式の時の、美奈子のウェディング・ドレス姿が、あまりにも美しいので、一刻たりとも、目が離せないからです」

うわー、すごーい、アツアツなのね、などと、皆が言った。

「ハネムーンは、どこへ行く予定ですか?」

理絵が聞いた。

僕は、また、美奈子先生が、書いた、その質問に対する答えを、赤面しながら、言った。

「すべて美奈子に任せてあります。美奈子が望むのなら、北極でも南極でも、アマゾンのジャングルへでも、構いません」

また。うわー、すごーい、アツアツなのね、などと、皆が言った。

「プロポーズの言葉は何ですか?」

理絵が聞いた。

僕は、また、美奈子先生が、書いた、その質問に対する答えを、赤面しながら、言った。

「美奈子さま。あなたは、僕の女神さまです。どうか、僕と結婚して下さい。ダメと、言われたら僕は、間違いなく、今すぐ、高層ビルから飛び降りて死にます」

また、うわー、すごーい、と、歓声が起こった。

「美奈子先生の、チャームポイントはどこですか?」

理絵が聞いた。

僕は、また、美奈子先生が、書いた、その質問に対する答えを、赤面しながら、言った。

「ふっくらした大きな胸です。太腿です。黒目がちな、つぶらな目です。お尻です。耳です。鼻です。可愛らしく、窪んだ、おヘソです。髪の毛です。首です。つまり、すべてが、好きです」

うわー、すごーい。山野先生って、見かけによらす、大胆で凄いことを言うのね、と、皆が言った。

「初夜は、どんな雰囲気でしたか?」

理絵が聞いた。

僕は、また、美奈子先生が、書いた、その質問に対する答えを、赤面しながら、言った。

「それはもう、夜が明けるまで、一時たりとも、休むことなく、激しく、燃えつづけました」

うわー、すごーい。山野先生って、見かけによらす、凄いことを言うのね、と、皆が言った。

「出産に関する計画があったら、教えて下さい」

理絵が聞いた。

僕は、また、美奈子先生が、書いた、その質問に対する答えを、赤面しながら、言った。

「一姫二太郎が、欲しいです。もしかすると、初夜に、新しい命が授かったかもしれません」

うわー、山野哲也って、凄いことを、平気で言うのね、と皆が言った。

それ以外にも、理絵の質問と、その答えは、赤面せずには、言えない答え、ばかりだった。

記者会見は、30分くらいで、あらゆることを、根掘り葉掘り、聞かれた。

「では、これで、哲也先生と、美奈子先生の、結婚記者会見を終了します」

真ん前に座っている理絵が言った。

パチパチパチと拍手が起こった。

「じゃあ、みんな。職員食堂に行きましょう。午後の診療に、遅れちゃうわ」

医局員の一人が言った。

「ああ。そうだね」

皆は、席を立ち上がって、職員食堂に向かった。

医局室には、僕と美奈子さんの二人になった。

「美奈子さん。これは、ちょっと、行き過ぎなのでは、ないでしょうか?」

僕は彼女に、聞いた。

「ごめんなさい。私も、今、考えると、熟慮が足りず、一部、不適切な所があったと、反省しています」

彼女は、そう言って、殊勝に、ペコリと頭を下げた。

(一部、不適切、なのではなく、全部、不適切だ)

と、僕は、言いたかったが、彼女に、殊勝に、謝られると、気の小さい僕は、強気に、本心を言うことは、出来なかった。

こうして僕は、あと一ヵ月間、彼女と離婚する日まで、帝都大学医学部の第一内科で、研修を続けることになった。

僕の計画では、内科が、しっかり出来れば、それで、アルバイトでの代診や、当直や、どこかの病院で、週一日の、非常勤医師として、やっていけるので、それでいい、と、思っていた。

医師の、アルバイトは、給料が、すごく、いいのである。

それで、アルバイトで、生活費を稼ぎながら、小説を書き、小説家を目指そうと、思った。

というか、小説を書きながら、医師のアルバイトで、生活費を稼いで、小説家を目指そうと、思った。

僕は、後、一ヶ月の、我慢だ、と、自分に言い聞かせながら、研修を、続けた。

医学という、学問は、無限の世界だが、町医者として、患者を、ちゃんと、診療できるようになるには、一年間、否、半年程度の、研修を、みっちり、やれば、出来るようになるのである。

彼女と、結婚して、二日くらいした日に、石田君から、電話が来た。

「やあ。久しぶり」

石田君は、元気のいい声で言った。

「やあ。久しぶり」

僕も、返事した。

石田君の声は、やけに嬉しそうだった。

「ところで、電話をかけてきた用は何?」

僕は聞いた。

「いや。どうでも、いいことなんだけれどね。この前の作品とは、別の作品を、集英社に投稿したら、すばる文学賞の、第一次選考に通ってね。それで、つい、嬉しくて、電話したんだ」

と、彼は言った。

「ええっ。ホント。それは、すごいじゃない。おめでとう」

「いや。まだ、第一次選考に、通った、というだけで、受賞したわけでも、ないんだけれど。つい、嬉しくてね」

「いやー。一次選考に、通った、というだけでも、すごいよ」

「山野君。ところで、君は、今、どうしてる?」

石田君が聞いた。

「今、まだ、帝都大学医学部で、毎日、研修をしているんだ。だけど、もう、医者として、一人でやっていける、自信も、ついたし、あと、一ヶ月で、辞めるつもりさ。そうしたら、創作一筋の生活に入るつもりさ」

僕は言った。

「そうかい。それは、よかったね。君も、早く、作家として、世に認められることを、僕も切に願っているよ」

そう言って、石田君は、電話を切った。

おめでとう、とは、社交辞令上、言ったものの、僕は、かなり、石田君に嫉妬していた。

芥川賞に、つづき、今度は、三島由紀夫賞か、と、僕は、石田君を嫉妬した。

着実に、作家としての道を歩んでいる、石田君を、僕は、嫉妬した。

石田君は、文学の、友人であると、同時に、ライバルでも、あった。

正直に言うと、僕は、石田君に対して、文学の、ライバルとして、敵意さえ持った。

もっと、本音を言うと。

(ちくしょう。石田のヤツめ。これみよがしに、自慢してきやがって。鼻持ちならんヤツだ)

と、僕は、石田を憎んだ。

しかし、石田君の、受賞や、第一次選考通過、の、知らせ、というか、事実は、僕の気持ちを、創作へ駆り立てた。

忘れていた、創作へのファイトが、再び、炎のように、僕の心の中で、メラメラと燃え盛ってきた。

僕も、早く、研修医を、辞めて、小説を書かねば、と、僕は、焦った。

(あと、一ヶ月の我慢だ)

と、僕は、自分に言い聞かせた。

僕の、石田に対する、嫉妬が、その日の内に、だんだん憎しみに変わっていった。

(無神経なヤツだ。これみよがしに、自慢してきやがって。鼻持ちならんヤツだ)

という思いが、激しくなっていった。

(あんなイヤミなヤツ、死ねばいいんだ。そうすれば、小説も書けなくなる)

と、僕は思った。

僕は、その夜、丑の刻を待った。

僕は、夕食の後、白装束に身をつつみ、顔も白粉で真っ白にした。

頭にはめる鉄輪と、蝋燭を三本用意した。

そして、藁人形を作って、それに、「石田」とマジックで書き、五寸釘と、金槌を用意した。

僕は、深夜1時に家を出た。

僕のアパートの近くには、神社があった。

僕は、車で、その神社に行った。

神社には御神木が、あった。

僕は、パトカーに、怪しまれないよう、スピードを落として行った。

丑の刻参りの、藁人形の、呪いは、不能犯であって、警察に逮捕されることはないが、職務質問で見つかると、注意され、その後、出来にくくなるからだ。

僕は、白装束に身をつつみ、顔も白粉で真っ白にした。

そして鉄輪を頭にはめると、三本の蝋燭を用意した。

僕は、御神木に、「石田」と書いた、藁人形を押し当てた。

そして、藁人形に五寸釘を垂直に当てて、

「死ねー。死ねー。石田のクソ野郎、死ねー。死ねば、小説も書けないし、小説家にもなれない」

と、憎しみを込めて、金槌で、五寸釘を、何回も、打ち込んだ。

カーン。カーン、という、呪いの音が、しんとした、森の中に響いた。

翌日。

僕が、不快な気分で、帝都大学医学部へ行くと。

美奈子先生が、僕を見つけると、血相を変えて、駆け足で、やって来た。

「山野さん。たいへん、申し訳ないのですが、父が、軽い、心筋梗塞で、倒れてしまいました。すぐ、救急車で市民病院に入院しました。医師の話によると、一週間くらいで、退院でき、仕事にも復帰できる、らしいんです。父が退院する、までの、一週間くらいだけ、うちのクリニックで、診療して、頂けないでしょうか。お礼は、はずみます」

と、彼女は、言った。

「そうですか。でも・・・。美奈子先生。あなたが、やっては、どうなんでしょうか?それが一番、いいと思うんですが・・・」

僕は聞いた。

「ええ。もちろん、それが一番、いいんですが・・・。私も、大学病院で、私の、受け持ちの患者の中で、重症患者が、何人もいます。いつ、病状が急変するか、わかりません。患者さん達は、私を頼ってくれているので、昼の診療は、もちろんのこと、ですが。患者さん達は、死ぬ時は、当直医ではなく、私に看取られて死にたい、とまで、言ってくれているんです。ですから、私は、夜も、患者さんの達の病状が悪化した時、急いで、大学病院に駆けつけられるように、大学の近くの、アパートに、引っ越したのです」

と、彼女は、力説した。

彼女の育った実家は、千葉県の市川市にある、彼女の、父親の、吉田内科医院に隣接している、彼女の家、である。

彼女は、そこから、近くの小学校、中学校、高校、大学へと、通った。

しかし、医学部を卒業して、研修医になってからは、彼女は、大学付属病院の近くにある、アパートに、引っ越したのである。

大学付属病院は、東京の都心にあり、彼女の実家の、吉田内科医院は、千葉県の市川市なので、実家から、通おうと思えば、通えないことはない。

しかし、実家から大学付属病院には、1時間30分、かかり、アパートから、大学付属病院までは10分で行ける、のである。

「そうですか」

僕は、腕組みして、考え込んだ。

僕は、彼女の頼みを、断ることが、出来なかった。

なにせ、彼女は、僕に、帝都大学医学部、第一内科への、入局の面倒を見てくれた上、手取り足取り、僕の指導医として、丁寧に、臨床医学を指導してくれて、僕を、一人前の、臨床医にしてくれたのである。

こんな、親切なことをしてくれる人は、彼女の他には、いないだろう。

「わかりました。では、僕は、どうすれば、いいのでしょうか?」

僕は、彼女に聞いた。

「本日の午前中は、休診と、クリニックの前に、貼り紙を、貼っておきました。でも、うちは、田舎な上、うちのクリニックの近くに、別の内科医院は無くて。うちの医院に通っている患者は、多くて、患者さん達が、困ってしまうと思うんです。できれば、今日の午後から、診療して頂けると、助かります」

と、彼女は言った。

「わかりました。では、今から、急いで、吉田内科医院に行きます。そして、お父さんの病状が回復するまで、一週間くらい、代診をします」

と、僕は、答えた。

「わー。助かります。有難うございます。哲也さん」

と、彼女は、言って、嬉しそうに、僕の両手を握った。

「それと、よろしかったら、医院の隣りの私の家に泊まって下さい。藤沢から、市川へ通うのは、たいへんでしょうから」

と、彼女は言った。

「わかりました」

と、僕は答えた。

僕は、急いで、総武線に乗って、市川市の、彼女の、父親の、吉田内科医院に行った。

そして、午後から、僕が、代診ということで、患者を診療した。

午前中、来れなかった患者も来て、その日の、午後は、100人くらい、患者を診察した。

翌日も、午前の診療は、9時から、始まるので、僕は、彼女の言う通り、彼女の実家に泊まることにした。

診療は、午後7時に終わった。

僕は白衣を脱いだ。

腹が減ってきて、

(さあて。夕食は何を食べようかな)

と、思っていた時である。

美奈子先生が、やって来た。

僕はおどろいた。

「山野先生。あの。先生が、一人で、何か困っていることが、ないか、ちょっと、心配になって。来てしまいました。突然、来て、ごめんなさい。夕食も、コンビニ弁当で、済ましてしまうんではないかと、思って・・・。冷凍食品では、体力がつかないと思って、すき焼き、の具材を買ってきました。今すぐ、料理します」

と、彼女は言った。

「あ、あの。美奈子先生。大学病院の、先生の、受け持ちの、患者さんは、大丈夫なんですか?」

僕は聞いた。

「ええ。今のところ、危篤になりそうな、患者さんは、いませんし。当直医を信頼することも、大切だと思ったので・・・」

「そうですか」

「では、腕によりをかけて、すき焼きを、作ります」

そう言って、彼女は、具材の入った、バッグを持って、台所に向かった。

すぐに、ぐつぐつ、具材が煮える音がし出した。

「哲也さん。すき焼き、が、出来ました。どうぞ、召し上がって下さい」

彼女の声が、聞こえてきた。

僕は、食卓に行った。

鍋の上に、すき焼き、が、グツグツ煮えていた。

僕も、腹が減っていたので、腹が、グーと鳴って、鍋を見ると、思わず、ゴクリと、生唾が出てきた。

「さあ。山野先生。お腹が減ったでしょう。すき焼き、を、一緒に食べましょう」

彼女は、僕を見ると、嬉しそうに、そう言った。

照れくさかったが、仕方なく、僕は、食卓についた。

「さあ。山野先生。すき焼き、を、うんと食べて、スタミナをつけて下さい」

そう言って、彼女は、すき焼き、の、具を、どんどん、鍋の中に入れていった。

照れくさかったが、僕は、料理が出来ない。

なので、食事は、いつも、コンビニ弁当だった。

「では。いただきます」

そう言って、僕は、すき焼き、を、食べ始めた。

久しぶりの、手料理は、冷凍食品を、レンジで温めただけの、コンビニ弁当より、確かに、美味かった。

彼女も、僕と向かい合わせに、座って、食べ始めた。

「さあ。お肉を、たくさん、召し上がって下さい」

彼女は、ほとんど、肉を食べず、シラタキや、ネギなど、野菜しか食べなかった。

なので、僕が、肉を、ほとんど一人で食べることになった。

「あなた。美味しいですか?」

と、彼女が聞いたので、僕は、仕方なく、

「ええ」

と、答えた。

「哲也さん。何だか、私たち、本当の夫婦みたいね」

と、言って、彼女は、嬉しそうに微笑んだ。

「あっと。一ヶ月間だけだけど、今は、本当に、籍を入れているんだから、本当の夫婦なのね」

と、言って、彼女は、また、クスッと、微笑んだ。

「美奈子先生。ごちそうさまでした。美味しかったです」

すき焼き、を、食べ終わると、僕は、立ち上がった。

僕は、その夜、彼女の、父親の部屋で寝た。

美奈子先生が、同じ家の中の彼女の部屋にいるので、僕は、緊張して、なかなか寝つけなかった。

夜中の11時を過ぎた頃だった。

僕が、寝室で、ベッドの上に仰向けに寝ていると、戸が、スーと開いた。

バスタオルを一枚だけ、巻いた、彼女が立っていた。

僕は、吃驚した。

彼女は、僕の前にやって来た。

そして、胸の所の、タオルの、結びを、ほどいた。

タオルが、パサリと床に落ちた。

彼女は、全裸だった。

「な、何をするんですか?」

僕は、声を震わせながら聞いた。

「あ、あの。山野さん。私、一度でいいから、初夜というものを体験してみたかったんです。ダメでしょうか?」

彼女が聞いた。

「い、いえ。あ、あの。その。ちょっと。そんな。無茶な。困ったなあ」

「私、みたいな、女じゃダメですよね。無理強いして、ごめんなさい」

そう言って、彼女は、深々と頭を下げた。

「い、いえ。あの。そういうことじゃないんです」

「では、いいんでしょうか?」

彼女が聞いた。

僕は、あまりにも、人間離れして、優しかったので、女に、恥をかかしたり、女の頼みを、キッパリと、断ることが出来なかった。

「い、いえ。つまりですね。あのですね。何というか・・・」

僕は、何と言って、いいか、わからず、返答に窮した。

「では、いいんですね。嬉しいわ」

僕が、へどもどして、キッパリと、拒否のコトバを口に出せないので、彼女は、僕の、布団の中に、入ってきた。

「嬉しいわ。山野さん。抱いて」

そう言って、彼女は、僕に抱きついてきた。

僕は、やむを得ず、彼女を抱いた。彼女は、

「ああ。夢、実現だわ」

とか、

「ああ。何てロマンチックなのかしら」

とか、

「今日は最高の日だわ」

とか、言いながら。

そんなことで、その夜は、更けていった。

翌日、彼女は、

「あなた。病院に、行ってくるわ」

と、言って、家を出て、帝都大学医学部付属病院に行った。

僕は、9時から、吉田内科医院の診療を始めた。

その日の午後の診療が終わって、ほっと一息ついている時、彼女の父親が、やって来た。

「やあ。山野君。代診を有難う。病院で検査した、結果、何も異常がない、ということで、退院になったよ。代診、ありがとう」

そう言って、彼女の父親は、僕に、かなりの多額の謝礼をくれた。

僕は、また、翌日から、帝都大学医学部付属病院に行くようになった。

僕は、また研修を熱心にやった。

町医者をやっていける程度の、医療技術や知識なら、一年くらいやれば、もう頭打ちになって、もう、それ以上は、何の進歩も、発見もない、同じ事の繰り返しの毎日になる。

つまり、つまらなくなる。

しかし、大学病院は違う。大学病院には、医療器材も、最先端の物ばかりだし、入院してくる患者も、10万人に1とかの、珍しい難病の患者ばかりである。

また、大学病院では、内科だけではなく、外科は、もちろんのこと、眼科、耳鼻科、泌尿器科、麻酔科、救急、など、つまり、医療の、あらゆる科が、そろっている。

僕は、第一内科は、それなりにマスターしたと思っていたので。美奈子先生に、頼んで、救急科を、やりたい旨を伝えた。

「あの。美奈子先生。救急科をやってみたいんですが」

僕は、彼女に言った。

「わかりました。救急科の教授に頼んで、山野先生が、救急科の研修を出来るように頼んでみます」

彼女は、快く、そう答えてくれた。

彼女は、救急科の教授に頼んでくれた。

そのおかげで、僕は、救急科の研修が出来るようになった。

やりだすと面白いのである。

なにせ、新しいことだからである。

それに、救急科が出来ると、アルバイトでも、救急科は、すごく割がよく高収入なのである。

救急科が出来ると、救急病院の当直のアルバイトも出来るようになる。

救急病院の当直のアルバイトも、ものすごく、高収入なのである。

なので身につけておくと、後々、有利なのである。

僕は、一ヶ月で、救急科を、身につけてやろうと思って、入院している、全ての患者を診て、夜、遅くまで、救急医療を勉強した。

もちろん、一ヶ月で、救急科を、完全に、マスターすることは、無理だが、熱心にやれば、かなりの知識や技術は、身につくのである。

医学は無限の世界であり、僕は、勉強好きなので、つい、あれも、やりたい、これも、やりたい、と、医学にハマってしまいそうな誘惑が起こった。

しかし、僕は、「僕の本命は、小説家だ」と、自分に言い聞かせて、面白いからといって、医学に、あまり、深くハマらないように、と、自分を自制した。

そして。ようやく、待ちに待った、一ヶ月が経った。

その日。

「美奈子先生。ちょっと、お話しがあるので、午後の診療が終わったら、医局に残って頂けないでしょうか?」

と、僕は言った。

「はい。わかりました」

と、元気よく言った。

午前の診療が終わり、午後の診察も終わった。

医局室は、僕と彼女だけの二人になった。

「山野先生。用は何でしょうか?」

彼女は、陽気な様子で聞いた。

まるで、明日が、約束した、離婚一ヶ月目の日であることなど、知らないような感じだった。

「あ、あの。美奈子さん。たいへん、申し上げにくいんですけど・・・」

「は、はい。なんでしょうか?」

「あ、あの。今日で、結婚して、籍を入れて、ちょうど、一ヶ月になります。たいへん、申し上げにくいんですけど、明日、市役所に、離婚届を出そうと思いますが、いいですね?」

言いにくいことを、僕は、キッパリ言った。

「ああ。そうでしたか。今日で、ちょうど、一ヶ月でしたか。忘れていました。夢のような楽しい日々を、有難うございました。わかりました。約束です。離婚届け、を市役所に提出して下さい。でも・・・はあ・・・山野さんがいなくなると、さびしくなってしまいますね」

と、言って、彼女は、ため息をついた。

「すみません。僕も楽しかったです。また。とても、勉強になりました。どうも、本当に、有難うございました」

「ところで、山野さん。一つ、お聞きしてもよろしいでしょうか?」

「はい。何でも」

「山野さんは、一日でも、早く、私と、離婚したがっているように、見受けられますが・・・その理由を、教えていただけないでしょうか?」

彼女が聞いてきた。

「はい。それは、あなたとお会いした時、はっきり、言った通りです。僕の本命は、小説を書きたい、できれば、小説家になりたい、ということです。そして、僕は、医局との、つながりも、なければ、医師の友人も、いません。ですから、医学の世界と、関わりを持った、あなたに、医療に関することを、お聞きしたかった。それが、理由です。医療に関することは、ちょっと、聞くだけでよかったんですが、成り行きで、随分、長く、深くなってしまいました。あなたには、本当に、感謝しています。今回、あなたと、生きた人間関係を、持てたことは、今後、小説を書く上でも、とても、役に立つと思っています。本当に、どうも、有難うございました」

と、僕は、言った。

美奈子は、しばし黙っていたが。

ハア、と、ため息をついた。

「そうですか。山野さんは、優しいから、婉曲な言い方をなされますが・・・本当の理由は・・・私みたいな、ブスで、医学しか、取り得のない女は、嫌だ、ということですよね。わかりました。でも。さびしいですわ。何だか、あまりにも悲しくて、涙が出てきたわ。ごめんなさい」

そう言って、彼女は、ハンカチを取り出して、眼頭の涙を拭いた。

「い、いえ。とんでもありません。決して、そんなことは、ありません。それは、とんでもない誤解です。あなたほど、美しい方が、何で、ブスなんですか?」

僕は、必死に訴えた。

「だって、離婚の日を、はっきり、覚えていて、それを、心待ちにして、約束の日が来たら、即、離婚したい、と言うのは、私のような、女は、身の毛がよだつほど、嫌いで、一刻も早く、別れたい、という、理由いがいに、何があるというのですか。普通の人だったら、約束の日から、一週間か、10日くらい後、に、別れるものですわ。何だか、利用されて、用が済んだら、捨てられる女の気持ち、というものが、よく、わかるような気がします」

そう言って、彼女は、ハンカチを取り出して、とめどなく、溢れ出る涙を、拭いた。

「女って、こういう、つらい、悲しい、経験をすると、それが、一生の、トラウマになってしまうんです。女って、そういう、やりきれない、つらい、悲しい、経験から、一生、男性拒絶症になってしまうんです。あっ。ごめんなさい。つい、愚痴を言ってしまって・・・」

そう言って、彼女は、ハンカチを取り出して、とめどなく、溢れ出る涙を、嗚咽しながら、拭いた。

僕は困った。

「美奈子さん。わ、わかりました。では、離婚の届け出は、もう少し、先に延ばします」

仕方なく、僕は、そう言った。

「本当ですか。嬉しいわ。女って、男の人に、そう言ってもらえる、ことが、何より、嬉しいんです」

「では、あと、何日後なら、よろしいでしょうか?」

「はあ。すぐに、離婚の、日にちの、取り決めですか。悲しいわ。やっぱり、私は、山野さんに、嫌われているんですね」

彼女は、憔悴した表情で言った。

あたかも、人生に、疲れ果てた人間のように。

「み、美奈子さん。わ、わかりました。では、届け出の日は、美奈子さんに、おまかせします」

「有難うございます。女って、男の人に、そう言って、いただけることが、最高に嬉しいんです」

「あ、あの。美奈子さん。たいへん、申し訳なく、言いにくいのですが、大体、大まかな、目安として、どのくらい、先でしょうか?」

「もう、一ヶ月、先、というのは、ダメでしょうか。山野さんに、ご迷惑が、かかるのであれば、もっと、短くても、一週間、でも、かまいません」

「わ、わかりました。一ヶ月、先で、かまいません」

「本当ですか。嬉しいわ。有難う。山野さん」

こうして、離婚の、日にちは、もう、1ヶ月、先に延ばされることになった。

僕は、伸びた、一ヶ月を、無駄にしないように、僕は、救急科の研修を、熱心にやった。

しかし、僕は、「僕の本命は、小説家だ」と、自分に言い聞かせて、面白いからといって、医学に、あまり、深くハマらないように、と、自分を自制した。

そうして、一ヶ月して、僕が、おそるおそる、彼女に、離婚の話を持ち出すと、彼女は、また、ため息をついて、同じようなことを言った。

僕は、仕方なく、もう一ヶ月、離婚を先延ばしすることにした。

それに、やり始めた救急科の実力も、日に日に身についてきて、救急科を、もう少し、本格的に身につけたいという、思いも僕にはあった。

こうして、僕は、ズルズルと、医学の面白さに、ハマっていった。

医学の面白さに、ハマると、創作したい、欲求は、薄れていってしまった。

これは、僕にだけ、当てはまる法則ではなく、人間の心理、一般に、当てはまる法則だと、思う。

スポーツとか、将棋や碁などでも、毎日、熱心にやって、日に日に、自分の技術が上手くなっていくと、その面白さに、ハマって、しまって、他の事は、考えられなくなってしまうものである。

そうして、僕は、ズルズルと、医学の面白さに、ハマっていってしまった。

そうして、ズルズルと、二年が過ぎてしまった。

ある日の様子である。

いつの間にか、僕は、吉田内科医院の院長となっていた。

僕は、彼女と、本当に結婚して、しまっていた。

彼女は、生後、三ヶ月になる、男の赤ん坊を、抱いて、幸せそうに、乳をやっている。

彼女が、初夜を求めてきた時、断らなかったのが、失敗だったのだ。

あの時、彼女は、妊娠したのである。

それから、彼女は、しばし、大学病院に近いアパートから、大学付属病院に来ていた。

しかし、しばしして、彼女は、体調が、悪くなったので、休みます、と言って、大学病院に来なくなったのである。

彼女は、アパートで、病気療養のため、休養するようになった。

医師の仕事は、激務なので、結構、体調を崩す人は、いるのである。

病気療養している、彼女に、離婚を要求するのは、可哀想な気がして、僕は、彼女との離婚は、彼女の体調が回復してから、言い出そうと、彼女に気を使ったのである。

病気で、落ちこんでいる人に、嫌なことを、要求すると、精神的に、落ちこんで、ますます、病気が悪化するからだ。

しかし、それが、まずかった。

彼女の病気は、悪化して、彼女は、近くの市民病院に入院するようになった。

入院するほどだから、かなりの病気だと思った。

何の病気かは、わからなかったが。

ある時、彼女から、「あなた。来て」、という電話があった。

僕は、もしかすると、彼女が危篤になったのでは、ないかと思って、急いで、市民病院に行った。

てっきり、内科病棟かと、思ったが、僕は、ナースに、産婦人科に案内された。

彼女は、ベッドの中で、生まれたての、男の、赤ん坊を抱いていた。

何でも、妊娠中毒症で、生命の危機のある難産だったらしい。

「あなた。見て。私と、あなたの子よ」

と、彼女は言った。

僕は、ガーンと、頭を金槌で打たれたような、ショックを受けた。

子は、男と女の、かすがい、である。

子供が、いないのなら、離婚は、難しくない。

しかし、子供が出来てしまった以上、離婚は難しい。

世間の人は、そう思わない人もいるが、僕は、そうではない。

子供が産まれてしまった以上、親が離婚したら、子供が、可哀想である。

それに、生まれた、赤ん坊は、紛れもなく、僕の子なのである。

僕は、ショックで、病院を出て、町を彷徨った。

気づくと、僕は、結局、とうとう、彼女のクリニックである、吉田内科医院に住み、クリニックの院長になっていた。

結局、僕は、彼女を孕ませ、彼女に子供を産ませてしまった責任から、彼女と本当に結婚することになってしまったのだ。

彼女も、大学病院の勤務を辞めて、育児に専念することになった。

育児が、一段落したら、吉田内科医院の仕事を一緒にやります、と、彼女は、言っている。

しかし、それも、本当かどうかは、わからない。

僕は、吉田内科医院の、毎日の、超多忙の、患者の診療に煩殺されて、毎日、疲れ果て、とても、小説を書く気力など、なくなっていた。

僕は、この頃、ヤフーメールを送って、美奈子さんと僕の結婚を、言いふらしたのは、実は、医局員の誰か、ではなく、もしかすると、美奈子さん自身なのかもとしれない、と疑うようになった。

しかし、僕が、彼女に、それを聞いても、

「なぜ、そんな荒唐無稽なことを考えるんですか?」

と即座に、眉を吊り上げ、鬼面のようになって、怒って言う。彼女は、

「私が、愛する、大切な、哲也さんに、そんなことを、言いふらして、哲也さんに迷惑をかけて、私に何の得にあるんですか?」

と彼女は、ヒステリックに怒鳴りつける。

そう怒鳴られると、気の小さい僕は、黙ってしまう。

しかし、まあ、それも、もう、どうでも、よくなってしまった。

僕は、いつか、石田君が言った、「死ぬまで、小説を書く、情熱をもっている人間だけが本当の作家だ」という言葉の真実さ、を実感している。

詩人の、ライナ・マアリ・リルケも、「もし、あなたが、書くことを、とめられたら、死ななくてはならないか、どうか、よく考えてごらんなさい」と言っている。

至言であり、石田の、言っていることと、意味は、同じである。

何と弁解しようが、僕は、小説を書かなくても、生きていけるのだ。

所詮は、僕には、死ぬ気で、小説を書こうという、情熱がなかったのだ。

小説を書くことが、僕の使命だ、と、僕は、思っていたが、それは、若者が、誰でも、一度くらいは、かかる、麻疹のようなものに、過ぎなかったのだ。

僕はこの間、ヴェルレーヌの伝記を読んでいると、あのデカダンの詩人が晩年に「平凡人としての平和な生活」を痛切に望んだという事実を知って、僕はかなり心を打たれた。

僕のように天分の薄いものは「平凡人としての平和な生活」が、格好の安住地だ。

流行作家! 新進作家! 僕は、そんな空虚の名称に憧れていたのが、この頃では、少し恥かしい。

昭和、平成の文壇で名作クラシックスとして残るものが、一体いくらあると思うのだ。

僕は、いつかアナトール・フランスの作品を読んでいると、こんなことを書いてあるのを見出した。

(太陽の熱がだんだん冷却すると、地球も従って冷却し、ついには人間が死に絶えてしまう。が、地中に住んでいるミミズは、案外生き延びるかも知れない。そうするとシェークスピアの戯曲や、ミケランジェロの彫刻はミミズにわらわれるかも知れない)

なんという痛快な皮肉だろう。

天才の作品だっていつかは蚯蚓にわらわれるのだ。

ましてや石田なんかの作品は今十年もすれば、ミミズにだって笑われなくなるんだ。



平成28年8月5日(金)擱筆

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無名作家の一生 浅野浩二 @daitou8

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