ひとひらの夜風にふかれながら

紫鳥コウ

ひとひらの夜風にふかれながら

 今年も真夏日に決行された施餓鬼の帰り道に、ホースで水をまいている仲島に、服を濡らされた。もちろん、仲島は悪びれることはなかった。ぼくも、怒る気などさらさらなかった。笑いあった。そして、ひさしぶりにふたりで夕食をともにすることに決まった。


 仲島は一年前に見たときよりも、ずっと恰幅がよくなっていた。一方で彼の批評によると、ぼくはすっかりと痩せて、生気というものが熱中症をおこしているというのだ。寿司を食いにいこうという彼の提案は、たいした言いあいもなく決定された。仲島は「4時頃になったら車で迎えにいく」と言い残して、くるくると巻いたホースを片付けて、犬が吠え立てる家のなかへと入っていった。


 手をかざして真夏の空を見上げてみると、雲ひとつなく、陽のひかりでどこか白々としていた。その蒼穹は、ぼくに恐怖に近いものを覚えさせた。後ろからついてくる自分の影が、ひどく脱水しているように感じられ、家々が落としている陰に入ることを意識しながら、ひたいの汗をぬぐい、襟をパタパタと仰ぎ、靴紐がゆるんでいるのも気にせず、熱の表面を踏んでいった。二十五歳という人生の季節にいるぼくにとっては、懐かしい暑さでもあった。


 母親から譲りうけたというベージュ色の車の助手席には、愛歌が乗っていた。後部座席の左側のシートベルトをしめていると、せっかくだから愛歌を誘ったのだと仲島は言った。「せっかくだから」という言葉の裏側に彼の計略を感じたものの、とくに異論があるわけではない。むしろ、歓迎に近いようなものを抱いた。


 みるみる涼んでいく、そして蝉の音がかまびすしくなっていく、この夕暮れどきの感傷的な雰囲気は、郷愁とロマネスクを混交したふりかけを、ぼくの心の庭に雪のように散らしていた。愛歌は、昨日帰郷したのだという。髪の色、ファッション、言葉のイントネーションなどは変化しており、都会的な香りさえも漂わせていた。


 愛歌は、高校時代まで過ごしたこの町が引いたノスタルジアの弓に打ち抜かれ、田畑を抜けていく国道の風景に、好奇と戸惑いとを覚えているようだった。


   ――――――


 大トロの値段は、壁にかけられている皿の色と照らしあわせたところ、ひとさらで時給がふっとんでしまうほどだった。新しい巣の近くのチェーン店の設定価格に慣れ親しんでいるぶん、気をつかいながら食べる必要があった。


 お盆ということもあり店内は混んでいた。四つしかないボックス席は埋まっており、ぼくたちはカウンター席で横並びになるしかなかった。ぼくを中心に、右に仲島、左に愛歌が座ったが、彼女の横に筋骨たくましい男がいることが、気にくわなかった。


 すると、左から流れてくる寿司をとる役目をしてやろうと仲島は言い、半ば強引に席をいれかえてしまった。そのとき、彼の表情のどこかに翳りのようなものがあるのを見逃すわけにはいかなかった。


 ぼくは、ふたりに均等に話題をふるようにつとめたが、どうしても愛歌と話す時間のほうが長くなってしまった。ふと、仲島はこうした役目をになうためだけに、ぼくたちを外食に誘ったのだろうかと疑問に思いはじめた。あの帰り道、仲島とわかれたあと、彼はどのような思考の変遷を体験したのだろうか。


「仲島くん」

 愛歌は、少し身体を反らしながら仲島に呼びかけた。

「あのサーモンをとればいいのか?」

「ううん。なんだか、仲島くんとはあんまり話してないなと思って」


 ぼくは、自分の傲慢さ、身勝手さ、浮かれた調子に恥を覚えてしまった。そして、愛歌にこの言葉を引きださせることが、彼の策略なのではないかと気づかされた。


 ぼくは愛歌と席をいれかわり、今度はもくもくと、水色の皿とオレンジの皿の寿司をたべることに専念した。そして、助手席に愛歌が座っていたという事実もまた、この一連の流れの伏線だったのではないかと感じはじめた。


 ぼくたちの関係はいま、このカウンター席のような線分ではなく、三角形になろうとしているのではないか。このような予感は、冷房の肌寒さが生成したうすい膜にとじこめられていった。もう飲みほしてしまったあら汁の茶碗によこたわっている魚の骨が体現している凋落と頽廃を、だれが味わうことになるのだろうか。


   ――――――


 夜空はセピア色の雲によってかげりぎみになり、半月はいままでの記憶を遡りながら自分自身の臆病さを内省しているようだった。


 母親から譲りうけたという彼のベージュ色の車を見送りながら、あのゆりかごの揺すぶりのなかで、ふたりは、どのような会話を、どのような表情で、どのような調べで営んでゆくのだろうかということを考えざるをえなかった。なだらかな坂道を通りぬけていく、ひとひらの夜風にふかれながら。

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