第七話


 明かりの点った居間に、親弥、千寿、楓、それから神崎が揃い、重苦しい空気が流れていた。この状況を誰が予想できただろう。つい数刻前まで川に身を投げようとしていた時には考えられないほど、気が動転していた。雨水に晒され続けた体の冷えを今になってようやく感じ始める。

宮は、体調を気遣って神崎に暖房を入れた応接室を用意され、そこで休んでいる。もし禄太郎氏がこの場に出てくるようなことがあれば、いらぬ混乱を招きかねないという神崎の配慮もあった。

神崎は、千寿のことだけでなく、楓のことも知っていたのだ。

神崎に席に座るように促され、親弥と対面するように楓が、楓の横に千寿が腰を下ろした。用意された毛布と珈琲を受け取るが、到底喉を通るはずもなかった。

しばらくの静寂の後、「いやはや、危なかったですねぇ」と千寿が口火を切った。

「来るんが遅れとったら、お二人に死なれてまうところでしたわ」

 千寿は汗を拭う振りをしながら、わざとらしく息を吐いた。

「寿命が五年は縮まりました。僕ももう若くないんで勘弁して欲しいですわ」

「どうしてあの場に? それに、楓さんまで何故いるんです」

 親弥がどうにか震える口を動かして千寿に問い掛ける。すると千寿から、

「地面で寝てはる田之上さんを拾ったから」

 と、ふざけた返答が返ってきた。

「いやね、何事や思って田之上さんを問い質してみれば、あの人もけったいなやっちゃな。久賀野さん、いや、親弥さんを挑発して殴られた言うやないですか。それで嫌な予感して家に向かっとったら案の定っちゅうわけです。楓を連れてきたんは正解でした。親弥さん、楓見て手ぇ止めたでしょ。僕一人やったら止められへんかった」

 千寿が苦笑する。

 親弥は先刻のことを振り返った。千寿の言う通りだった。あの、冷静な判断を損なった状態では、どう説得されようともそのまま宮に手を掛け、共に死んでいたに違いない。

 悪寒が走った。自身が死ぬだけでなく、宮を殺そうとしていたなんて。

 実感が沸いた途端に体が震えだした。紫に変色した唇を噛んでいると、神崎にカップを握らされる。一口飲むと、喉許に詰まっていた息が吐き出され、少し楽になった。

「それにしても大変でした。娼妓は本来身請けされるまで遊郭から出てはならへん規約になってますから、今回は特例中の特例ですよ。他の子らに知られたら一大事です」

「何故そこまでしていただけるんです? 兪吉ならともかく、俺は二度ばかり会っただけではないですか」

「そうですねぇ。正直なところ、親弥さんの為という訳ではないっちゅうことです。全ては宮さんの為ですから」

 千寿の言葉に、親弥は縮こまっていた体を無理矢理起こした。

「ま、待ってくれ。宮の為ってどういうことですか。どうして宮を」

喋りがしどろもどろになった。ただでさえ混乱した頭では、到底整理できなかった。

千寿は「どこから説明しましょうか」と顎に手を当てて、そして口を開いた。

「親弥さん。宮さんが兪吉さんと会うとったんはほんまです。けどね、兪吉さんはさも不倫のように言うたみたいですが、それは違います。宮さんが、兪吉さんに僕と楓を紹介して欲しいと頼みはったんです」

 その訳は神崎さんがよう知ってるんで、と、千寿は神崎に目配せした。

「旦那様の病気の進行についてはご存知でしょう。……旦那様は奥様を早くに亡くされ、宮お嬢様を生き甲斐に生きていらっしゃいました。ですが宮様が旦那様の下を離れられ、旦那様がお年を召された今、病の進行が進み、いずれ宮お嬢様でさえ忘れられる日が来るだろうと医者が申しておりました。一番近しい宮お嬢様が常に傍におられるのであれば、精神的支えになり病の進行は多少遅らせられるだろうとのことでしたが、それを、宮お嬢様が拒否なされました」

「え?」

 宮が禄太郎氏の介護を拒否するなど、親弥には到底考えられないことだった。

 どうして、と呟くと、神崎は力強い眼差しで、

「貴方の為です」

 と、そう告げた。

「貴方と共にこのお屋敷に住むという選択肢もありましたでしょうが、当然貴方も旦那様の介護をしなければならない立場になり、環境が変われば、貴方の作家としての仕事に影響が出るだろうからと申されておりました」

 神崎はさらに続けた。

「そこで、田之上様から、お嬢様に瓜二つの娼妓がいると聞き、お嬢様は田之上様を通じて、千寿様に、楓様の身請け話をご相談されたのです」

「身請けだって!」

 思わず声を張ってしまい、親弥は浮かしかけた腰をソファに沈めた。

 身請けということは、楓の借金を返済し、楼主である千寿に身代金を支払って楓の身柄を引き取るということだ。

「どういうことです。俺には到底理解ができません」

「つまり、宮お嬢様の代わりに、楓さんにこの屋敷に住んでいただき、介護を頼むということです」

 神崎に、千寿が続く。

「楓は元々旧大名家の出で、父親の事業が失敗し破綻するまでは相応の教育を受けていますし、僕も教えうる限りの教養は身に付けさせてます。ここで生活すること自体は問題ありません。それに、禄太郎氏は今や記憶が混濁している状態がほとんどやそうですね。ようは禄太郎氏の記憶の中の宮さんが必要な訳ですから、顔さえ似てれば楓でも支えになれる筈です」

 それはつまり、楓が宮に成り代わるということか。

 親弥は呆気に取られていた。まさか、宮がそんな突飛なことをするなどとは微塵も思っていなかった。それになにより、今の話は、親弥の胸を深く抉り取るものだった。まさか宮がそこまで親弥のことを案じていたなどと、とても信じられないのだ。

 身請けするとなれば、神埼が事情を知っていることにも納得がいく。神崎は親弥の障害についても理解がある。神崎の協力無しではこの話は成り立たないことを考えると、神崎も宮や親弥のために相当尽力していたのだろう。

「じゃあどうして宮はそのことを俺に黙っていたんです」

「そんなもん、言えるわけがないやないですか。娼妓を毛嫌いしてる貴方に。それに、相談したら貴方は反対するんじゃないかと宮さんは思ってはったみたいですよ。『そんなことをするくらいなら俺が一緒に住む』と。せやから、契約が完全に終了するまでは秘密にしておきたい、とのことでした」

「兪吉に頻繁に会っていたのは」

「楓をここに連れてくるわけには行きませんから、宮さんが楓と会おう思うたら、店に来ていただくしかありません。自分の父親を預けることになるんですから、そりゃ話したいことも山ほどあるでしょうし。ですが、何せここまでそっくりやったら、顔を見られたら面倒でしょう。だから、兪吉さんが付き添いを買って出ていたんです。社交場なんて呼ばれてても、柄の悪い連中もおりますしね」

 なるほど、宮に好意を寄せていたであろう兪吉がその役を引き受けたのには、納得がいった。宮とて、千寿との間を取り持つ兪吉を頼るのは当然だろう。

「楓さんはそれでいいんですか」

 微笑みを浮かべたまましおらしく話を聞いていた楓は、はいと頷いた。

「宮様は、私の恩人でございます。宮様は、とても私に優しくしてくださいました。今では実の姉のようにお慕いしております。私は宮様のおかげで借金を返し、両親を助けることができるのです。感謝してもしきれません。宮様のお役に立てるのであれば、私にとってはこれ以上ない幸福です」

 楓は、とても娼妓とは思えない言葉を遣い、親弥に向かって頭を下げた。親弥の想像の中の「楓」は、淫乱で嫌悪すべき女だったはずだ。だが今親弥の目の前で現実を生きている楓は、それこそ宮の生き写しであるかのようだった。

 いや、これから楓は、名実共に「宮」になるのだ。

 楓は本当に宮を慕っているようだった。きっとここまでの関係になるのには相当の時間を要したはずだ。宮は親弥にそのことをひた隠しにしながら、親弥に気を使い、家事をこなし、禄太郎氏の看病をしていたことになる。

「飲み屋で千寿さんと会ったのは」

「あれは偶然ですよ。宮さんがそこまで想う相手に会うてみたいとは思てましたけどね。一応、身請け先のことは知っておく必要がありますし」

「千寿様は、不条理な借金を背負わされただけで私たちに罪はないのだと、私たちをとても大切にしてくださるお優しい方です。ですので、宮様もこのお話を進めてくださったのだと思います」

「楓。余計なことは言わんでええ」

 千寿は眉間に皺を寄せて咳払いをした。

 親弥はその後、正式な身請けの日取りなど、事務的な説明を聞いた。話に相槌を打つばかりで、親弥からは何も言葉を発することが出来なかった。親弥は今や、とても馬鹿で情けない男だった。




 千寿と楓を送り出し、親弥は宮のいる部屋の扉を叩いた。中から宮の返事が聞こえる。

 扉を開けると、宮が椅子に腰掛けていた。怯えや緊張もなく落ちついているようだった。

「話は終わったよ」

 親弥が言うと、宮は「そうですか」と静かにつぶやいた。

隣に腰を下ろし、必死に頭を働かせて言葉を選ぶ。

「どうして言わなかったんだ。あのままでは、君は死んでいたかもしれないんだぞ」

 親弥は穏やかな口調になるよう注意を払った。喉はとうに干上がっていて、少し掠れて聞き辛い声になる。

 宮は固まっていた表情を弛緩させた。親弥にはそれが微笑んでいるように見えた。

「私は、あのまま死んでも構わないと、本心でそう思っていました。今でもそう思っています」

 宮は、はっきりとそう言った。

「どうしてそんなことを言うんだい」

 親弥が目を細めると、

「私は、ただ親弥様のお傍にいたいだけなのです。それでも、私がお傍にいることで、親弥様が心を病まれるようなことがあるのなら、私は離れる覚悟はできておりました。けれど、親弥様とあの橋の上に立った時、ああ、このまま親弥様と死ねるのなら、私の望みは適うのだと、そう思ってしまったのです」

 宮は淡々と語った。眉は物憂げに潜められていたが、悲観している訳でなく、宮はただ死を受け入れていた。同時に強い意志が感じられる。

「どうして……」

「親弥様は、私にはもったいないほどの方ですわ。これほど優しくて純粋な方を、私は他に知りません。親弥様は子どもがいないことに自責の念を感じていらっしゃるようでしたが、私にとって、そんなことはどうだっていいのです。私にとって、心の拠り所は、親弥様ただお一人だけなのです」

 そこで、親弥はようやく気がついた。親弥が宮に一種の執着を持っていたように、宮もまた親弥に執着しているのだ。体の接触がない分、精神面により深く依存するのは何も不思議なことではない。それを、親弥は自分だけが持つ感情だと思い込んでいた。しかしそうではなかった。ともすれば、親弥が宮に対して不安に感じていたことは、宮にとっても悩みの要因だったはずだ。

 そして、精神の更なる繋がりを求めて、死を選んだ。親弥と同じように。

 何故そのことに今の今まで気づかなかったのか、親弥は自分を責める他なかった。もっと宮に寄りそう覚悟を持って接していれば、わかっていた筈だ。

「全て真実をお話して、親弥様に嫌われるのが怖かった。今回の件は、私の浅慮の致すところです」

 宮の目じりを流れた涙を、親弥はそっと指先で拭った。宮に酷な選択をさせてしまった自分を恥じた。

それでも、こんなに心が安らいでいることなど、傷を負ってからは一度もないのではないだろうか。今なら臆する事なく宮に触れることができた。宮の肩に手を添える。宮は一瞬体を跳ねさせたが、そのまま親弥の腕の中に納まった。

冷静だと思っていた宮の体は小さく震えていた。

「不安にさせて悪かった。情けないが、自分が弱くて落ちぶれた人間だと卑下して、閉じこもってばかりだった。お前のことを信じればよかったのに。いや、自分自身すら信用していない俺には、無理だったのかもしれないな」

 親弥は自嘲気味に笑った。これからも、親弥は己を許せぬまま余生を終えることになるかもしれない。

「どうしてあの日、俺が遊郭にいたのか、聞かないのかい」

 親弥が問うと、宮は首を横に振った。

「暮れに親弥様をお見かけした後、私は帰宅せずに千寿様にお会いしました。その際に、お話は伺いましたわ。千寿様いわく、楓さんにお会いした時の親弥様の反応を知りたかったのだそうです。好奇心で親弥様を連れてきたことを謝罪してくださいました。ですが、私は嬉しかったのです。親弥様は、楓さんに見惚れているようだとおっしゃっていましたわ」

 親弥は、頭を抱えた。親弥が楓と対面した瞬間、千寿はその場にいなかったはずだ。にも関わらず様子を知っていたとなれば、遅れて行くと嘘を吐き、隠れて観察していたに違いない。

「楓さんは、私でも驚くほど、私に瓜二つです。ですから、親弥様が楓さんに惹かれたのであれば、私もまだ愛されているのかもしれないと、思うことができました。でも……」

 宮の体の震えが激しくなる。

「いい、言わなくて構わない。君が自責の念に囚われる必要はない」

 むしろ、悔い改めなくてはならないのは親弥の方だ。小説の上とはいえ、宮や楓を汚してしまったことに変わりはない。

 親弥は、宮の顔を見据えた。

「宮、もう子どもは授かれないと思う」

 ふいに零した親弥に、宮は首を小さく傾げた。

「楓さんがこの屋敷に残るということは、君はもう、お義父様に会うことも少なくなるだろう。それでも、俺と一緒にいてくれるか?」

 宮を正面から見据えて、真摯に問いかける。宮に伝えなければと思った。お互いに言葉が少なすぎる。それでも照れくささは拭いきれず、親弥は苦笑した。

 宮は、ようやく親弥の言葉の真意がわかったのか、呆気に取られた顔で「あっ」と声を漏らした。次第に頬が赤くなっていく。

そして、花が綻ぶような笑顔を見せた。

「ずっとお傍におります、親弥様」




 親弥は客間に戻り、身をやつしてまで書いていた原稿に、そっと触れた。何十枚にも重なったそれを、親弥は一枚一枚静かに握り潰した。親弥の思いの丈だけ、原稿は皺を刻んでいった。

「こんな『妄想の産物』とはおさらばだ」

涙が溢れてくるのを、親弥は決して止めようとはしなかった。親弥は「宮」を想って静かに泣いていた。

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