第六話

 大谷邸に帰り着くと、宮がいつかのように玄関まで迎えに出てきた。ずっと外出をしなかった親弥が無断で外に出ていたので、不審に思ったことだろう。しかも、傘を差していったにも関わらず、兪吉を殴った際に雨を被って、親弥の肩は濡れていた。

いや、もう親弥のことなど宮はどうとも思っていないのかもしれない。現に宮はおかえりなさいと言ったきり、口を開きかけては二の句が告げずにいるではないか。

 親弥は「湯浅屋」に寄り、店の主人に兪吉と宮が来店したことを確認した。兪吉の話は真実だったというわけだ。兪吉の虚言だと正面から否定し、宮を信じられたらどれほどよかったことだろう。だが、確認したことで、親弥は自身が落ち着きを取り戻していくのを感じていた。もはや兪吉に対する怒りも嫉妬も何もなかった。裏切られた衝撃は拭えないままだったが、だからといってそれ以上の感慨は沸いてこない。麻痺したように、全ての感覚が遠かった。

 だが、虚無感は絶えず親弥に付き纏う。この耐え難い空白を埋める為にはどうすべきか、親弥の中にはある一つの考えが脳を占拠していた。親弥自らの思考というよりも、悪魔に悪逆を吹き込まれ、ただそれに従わざるを得ない、支配されるに似た感覚があった。

「宮、散歩に出かけないか」

 宮が目を見開いている。それもそうだ、脈絡なく、日はすでに落ち、天候も足場も悪い中を歩こうと言い出したのだから。東京で何年かぶりに散歩に誘い、その際も同じように戸惑っていたことを思い出して、ついおかしくなる。  

しかし表情は枯渇して笑いの形にはならなかった。瞳だけは爛々としていた。

「わかりましたわ。すぐに準備いたします」

 宮は意外にもすんなりと了承した。訳を問うこともなく、身形もそこそこに、宮は用意を済ませて草履を履いた。まるで親弥の思考を読み、親弥の望んでいることがわかっているかのような素振りだった。

 親弥も宮も、しばらく無言だった。遠くに中心街の明かりが滲んでいる。この辺りに外灯はなく、親弥が手に持った石油ランプと横浜市役所や付近の家屋から漏れる光が、親弥と宮の視界の先を照らしていた。足音も僅かに漏れる民家の喧騒も掻き消され、雨音以外は何も耳に届かない。

 今や親弥の正常な思考や理性は焼き切れてしまっていた。宮が何か声を発するでもなく親弥の後ろに従って歩くのが、微かな充足感を生んだ。

 花園橋が見えてくる。昼間には一望できる野毛山は、暗闇に呑まれて消えていた。降り続いた雨の影響で氾濫している派大岡川は、怒号のような唸りを上げていた。濁流のすえたような臭いが鼻を突く。一隻取り残されていた古い小船があった。係留柱に巻きつけられたロープが外れ、沈没しながら流されていった。

 花園橋を中ほどまで渡り、親弥は足を止め下を眺め見た。目下の激流も、ただの黒い穴のように見えた。

 荒れ狂う流れに内臓を圧迫され、酸素を求める肺に否応なく水が入り込み、沈む体に岩石が鞭打つ感覚――。人生の転機となったあの日も、景色はこんな様子だった。過去の忌々しい記憶と、小説の場面が連鎖する。そうだ、「楓」は可憐な振りをして男を垂らし込む悪女だ。男を橋の上まで連れてくることなど容易だろう。訳を尋ねようとする男に甘い言葉で嘯いて、自分に身を寄せるように仕向ける。有り触れた愛の言葉を囁くのもいい。肌で触れ合って、相手の警戒心を薄れさせる。男は誘われるままに、「楓」の思惑に気付く事無く身を滅ぼすことになるのだ。

 今や親弥の頭の中では、男の姿は兪吉に重なっていた。「楓」――宮と兪吉が抱き合い、転落していく様を、親弥は物陰から眺めている。その時に感じた絶望は、誰にも計り知れないであろう。

「親弥様」

 名を呼ばれた。宮は無表情でそこに佇んでいた。宮だと認識している筈なのに、頭の鈍痛が酷く、長年連れ添った妻であるのに、まるで別の存在であるように感じた。

「今日、兪吉と会った」

 宮が息を呑んだのがわかった。右手を持ち上げ、ランプでその手を照らす。

「殴ってやったよ。人を殴ったのはこれが初めてだ」

 怪我には至らなかったが、今でも手に感触が残っていた。気持ち悪くて、ランプに腕を突き入れてしまおうかと思った。そうすればたちまち右手は使い物にならなくなるだろう。親弥は小説を生み出すこともできない、死骸同然の存在になる。

「あいつは殴られることがわかっていたみたいだった。むしろ俺に殴られることを望んでいた。何故だろうな。あいつはもっと堂々としていればよかったのに」

 黙り込んでいる宮に、そうだろう、と問い掛ける。

もう一度、目下を覗き込んだ。市役所の明かりが落ち、情景は黒さを増した。それこそ、体が吸い込まれてしまいそうなほどだった。また、空想と現在の世界とが混ざり、思考が濁っていった。

もう、今までのような生活は望めないだろう。培ってきた関係に終わりが訪れていると親弥は思わざるを得なかった。変わらないと思い込んでいたのは親弥だけで、全てが変貌を遂げていた。

「宮、出会った頃のことを憶えているか。前に散歩した時に話をした、兪吉と出会った頃より、もっともっと前だな」

 親弥は、川に向かって、まるで独り言のように滔々と語った。

「君に最初に会った時は驚いたよ。こんなに綺麗な人が現にいるのかと、本気で思ったものだった。まさか、そんな人と結婚できるなんてな。俺は……俺は、子どもも作れない欠陥品だというのに」

 宮は、黙ったままだった。着物の袖を掴み、何かに耐え忍んでいるようだった。

「初めて二人で出かけたのは、出会って二年目の頃だったか。この道を、話しながら歩いただけだったが、俺にとってはたまらなく嬉しかった。近所に住んでいた八百屋の主人に冷やかされた時も、嫌に思ったことなど一度もなかった。懐かしいな。よく、そこの子どもと花札をやっていただろう。だが、俺はどうしても、花札に参加することができなかった。一度もだ」

 感傷的になると、過去を語りたくなるものらしい。

「この前、お義父様に、孫の顔が見たいと頭を下げられたよ。承諾することも拒否することもできなかった。俺は、一体どうすればよかったんだ」

 衝動的に、宮に掴みかかろうとした。振り上げた手を、宮の肩に乗せ、爪を立てた。それでも宮は、じっと動かぬままだった。

「俺は、お前が怖かった。いつか、俺を見捨てて、誰かの元に行ってしまうんじゃないか、不安で仕方がなかった。俺と違う誰かと一緒になって、子どもを産んで、俺には絶対に手に入れられない、幸せな日々を送るんじゃないかと。それがお前の幸せなはずなのに、俺は、捨てられるのが怖かったんだ。今でも恐ろしくて仕方がない」

 結局のところ、親弥の望みは独りよがりな我侭に過ぎなかったのだろう。宮を望むあまり、触れることも、話すこともままならないとなれば、当然のことだ。一生、この恐怖は親弥に付きまとうのだろう。逃れることは適わないのだ。

「親弥様」

 もう一度名を呼ばれた。今度は返事をした。宮はそのことに安堵したのか、足元を見ていた目線を少しだけ上げた。

「私は、親弥様のお傍にいられて、とても幸せでしたわ」

 宮は、穏やかな口調で言った。緊張はしているようだったが、怯えの色は見えなかった。

 それは親弥とて同じことだ。宮を愛している。宮と生涯を添い遂げるのは親弥でなければならない。

 俺でなくてはならないのだ。

 親弥は石油ランプを、欄干の外に翳した。叩きつける様な雨に煽られてランプがかたかたと揺れる。手放せばたちどころに親弥と宮を照らしていた灯が消え失せる。

 灯がなくなれば、帰る場所すらわからず、このまま沈んでいくしかない。それはとても甘美な誘惑だった。

 親弥の内に躊躇はなかった。ゆっくりと力を抜き、指先から離れてランプは音もなく溶けてなくなっていった。宮はそれでも何も言わない。傘もそのまま川へ投げ捨てると、宮が傘を畳むのが気配でわかった。

 辺りが何も見えなくなった。暗闇に慣れ、ようやく宮の輪郭が薄ぼんやり視認できる。宮が何を思い、何を望んでいるのかは親弥にわかる筈もないことだ。頭痛が酷くなる。親弥は早くこの絶望から解放されることだけを考えていた。

ふいに頬に暖かいものが触れた。宮の手に、自らの手を重ねる。親弥は不思議な気持ちになった。親弥からではなく、また治療の為でもなく、宮の方から触れられたことが、記憶に遠いのだ。現実味がさらになくなる。

 指に唇を這わせ、伸ばした腕で宮の体を抱き込んだ。どちらともなく、ゆっくりと口付けて、お互いの息を吸い合った。宮の腕が首に回される。歯を立てて黒い血を啜り、舌に広がる味に酔い痴れる。頭の芯が痺れ、心の虚無感を埋めようと必死だった。

 どれだけの間そうしていたのか。欄干に体が僅かに凭れかかる。そのまま体を浮かせ、体重を掛ければ間違いなく死へと落ちていくことができる。

 すでに死んだかのように静まっていた心臓が激しく鼓動し始める。宮の首に手を掛けた。苦しめたくはなかったので、力を入れて締めることはしない。ただ、布越しでなく、宮の皮膚の感触を手に残しておきたかった。宮を追いやっているのは兪吉でも、小説の中の男でもなく、親弥なのであると、実感したかった。

指を添えて、宮の足の間に体を割り込ませ――。

 そこで、宮が何かを言おうと口を開いた。

「親弥様!」

 その、空を割くような凛として、それでいて悲痛な叫び声に、親弥は驚いて宮の体を咄嗟に引き戻した。それは宮の声であるように親弥には聞こえたが、目の前の宮は何も声を発していない。それに、声が左耳に刺さるような感覚であった。

 反射的に首を曲げると、眩しさに一瞬目が眩んだ。次第に状況を把握する。そこには千寿と、そして。

「楓……さん?」

 赤格子の中の存在だった楓が、何の隔たりもなく親弥の前に立っていた。二人分の石油ランプの光に、宮と瓜二つの顔と、遊郭で見たときとは違う、落ち着いた色合いに安い生地の着物が映し出されている。

「久賀野さん、しっかりしてください」

 千寿の声にようやく我に返り、抱かかえるようにしていた宮の体を離した。宮は、唐突に現れた千寿たちよりも、親弥ばかりを呆然として見つめていた。

 駆け寄ろうとする楓を押さえ、千寿が近づいてくる。肩を宥めるように叩かれ、がっくりと膝から力が抜けた。雨が額や髪を伝い落ちていく触感が蘇る。

 千寿は宮に傘を手渡して、自身が濡れるのも構わず親弥の崩折れた体を支え起こした。

「どうして……」

「話は後です。近くに馬車を乗り付けてありますから、それに乗って屋敷まで戻りますよ」

 馬車が、花園橋の傍までゆっくりと姿を現した。

これが、現れたのが千寿だけだったのならば、親弥は制止を振り切って身を投げていた筈だ。だが、楓の咎めるような視線に晒され、親弥は動くことができなかった。

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