第八話
「はい、終わりましたよ」
晴海先生が鉛筆をカルテに走らせる音を聞きながら、親弥は頭を掻いた。やはり慣れないものはいつまで経っても慣れやしない。
横浜から東京へと戻り、親弥は晴海診療所へと久しぶりに顔を出した。診療所は相変わらずのくたびれ具合だったが、雨漏りしていたであろう天井は、板が三枚乱雑に打ち付けられていた。晴海先生の左手人差し指に包帯が巻かれているので、十中八九晴海先生の仕事だろう。
服装を正し終え、診療台に腰掛けた。
「最近いらっしゃいませんが、薬の方は大丈夫ですか」
「ええ、今はあまり使っていませんので」
「そうですか。今度はどれを試しましょうか。最近では日本製のものも作られていますので、いい薬ができればいいのですが」
晴海先生はそう言いながら、壁の引き出しの中を漁っている。また薬が変わるのかと溜息を吐いた。しかし、親弥は試せるものは全て試す心積もりだった。医学が進歩すれば、薬以外にも手術で回復が見込めるようになるかもしれない。それまでは、あまり気負わずに待ち続ければいい。
「使っていない、ということは、痛みはもうありませんか。あれは外傷に効くものですから、親弥さんの場合あまり効果は期待できませんでしたが」
親弥は袴の内側に隠れた傷を見た。春が近づき、日が照り始め随分と暖かくなったこともあってか、東京に戻ってからは一度も痛んでいない。
「はい、もうほとんどありません。それに、以前から呑んでいた痛み止めより、精神を安定させるという薬の方が、痛みに効くんです。今はそれも必要ありませんけれど」
「ああ、あれですか。あれは薬ではなくてただの乾燥させた海草の粉末ですよ」
古びた診療台が大きく軋み、親弥は危うく転落しそうになった。
「は?」
間抜けな顔をしているだろう親弥を見もせず、晴美先生は薬包紙に粉を包んでいる。
「海草の粉末です。精神を安定させる薬なんて、まだ開発されていませんよ。あったとしても麻酔のように効果が強すぎて使えません」
「じゃあどうして」
「病は気から、薬の効果も気から、ということです」
晴海先生はあっけらかんとしていた。騙したのかと声を上げそうになったが、そういえば代金を取られていないことを思い出した。
「でも、呑んだら眠くなりましたよ」
「それは疲れていたんでしょう」
「興奮が収まったのは」
「人は薬を呑むと安心するものです」
一気に力が抜け、親弥はその場に項垂れた。親弥の主治医はある意味名医なのかもしれない。もしくは自分が単純なだけなのか。
親弥は思わず笑ってしまった。
「では、これで今日の診察は終わりです。お疲れ様でした」
親弥は立ち上がって外套を羽織った。このまま雑談をしていくことも多いのだが、晴海先生に礼を述べて薬を受け取る。
「今日はお急ぎですか」
「ええ、人と会う約束をしていまして。……これはちゃんとした薬でしょうね」
「治療用のものなので心配は無用ですよ」
晴海先生の笑顔が信用ならなかったが、親弥はあえて何も言わずに診療所を出た。
外は、梅の芳醇な香りが辺りを漂っていた。診療所付近の民家の梅の木が花を咲かせ、青々とした実をつけていた。塀を越えて落ちていた実を拾い、そっと香ってみる。空は青々としていて、未だ肌寒い日は残るものの、景色はすっかり春の様相を呈していた。日も昇り始め、気温が上昇し、親弥は外套を脱いだ。
少しだけ身が軽くなって、親弥は清清しい気分になった。
カフェー・プランタンに兪吉を呼び寄せると、兪吉は眉間にこれでもかと力を入れ、親弥をゲテモノでも見るような目で見ていた。実に会うのは三ヵ月ぶりだ。
「何でお前にそんな顔をされなきゃならない」
「は、だって、だな。お前、ちょっとおかしいんじゃねえか? 自分の嫁さん襲った男を何でこんな場所に呼び出すんだよ。罵詈雑言浴びせるだとかもう一発殴らせろってんだったらわかるがな。こんな後になって……」
「殴るさ。いずれな」
親弥が鼻を鳴らすと、兪吉は踵を返して店を出て行こうとする。それを、肩を掴んで引き戻した。
「待て、今日は殴らない」
「ならなおさら帰らせてもらう。嫌な予感しかしない」
「何だ、殴られたいのか」
「……それで許しが請えるだなんて思っちゃいねえけどな」
兪吉は、罰が悪そうに口をへの字に曲げた。落ち着きなく視線が右往左往している。
先日千寿から手紙が届いた。無事に身請けの手続きが済み、楓が大谷邸で平穏に暮らしていること、そして、心中騒ぎを聞き、兪吉が慌てふためいて千寿に泣きついてきたことが書かれていた。責任の一端が兪吉にあると、兪吉自身も理解しているようだった。
「千寿さんが面白がっていたぞ。あんなに取り乱した兪吉は見たことがないと」
「一体何の話だ」
「さあな。それと、お前大阪にいたとき、楓さんに会うために遊郭に通っていたそうだな。千寿さんの店に毎日のように来ていたと聞いたぞ」
途端に兪吉が押し黙った。席にも着かず立ち尽くす兪吉を、女給が邪魔だとばかりに一瞥していった。
「まあ座れよ」
親弥が向かいの席を指差すと、兪吉は渋々といった様子で従った。大柄な体を小さくしている。どうやら文句を言われると思っているようだ。
すでに注文してあった珈琲が運ばれてきた。兪吉の分はあえて頼んでおかなかった。
「お前も飲むか。酒でも構わないぞ」
「いらない」
「急にしおらしくなったな。お前らしくもない」
兪吉が小さく舌打ちする。きっと兪吉はこの状況に困惑し苛立っているに違いない。親弥にはそれが面白くて仕方がなかった。
「で、楓さんの許に通っていたのは本当なんだな」
「ああ」
「宮に似ているからか」
「……」
「兪吉。別に問い詰めているわけじゃないんだ。腹は立つし、お前のことを完全に許したわけでもない。けどな、お前を責めるつもりは俺にはない」
責めるつもりはない。その発言が意外だったのか、兪吉は目を丸くして親弥を見た。
それは、親弥の本心ではなかった。だが、宮と互いの想いを共有したことで、兪吉に対しても一つ理解したことがあった。千寿にも言われたが、親弥と兪吉は友人としては不釣合いのように思う。口喧嘩をしてばかりで、趣味も合わない。
だが、本質的な部分で、親弥と兪吉は似ているのだ。お互い文学の道に身を置き、宮に惹かれ、二人して、自分にないものに憧れている。まるで子ども同然なのだ。
きっと立場が真反対ならば、親弥も同じことをするのではという考えに至って、どうしても兪吉を責めることはできなかった。
「先に言っておくが、俺は謝る気はねえぞ。謝ってお前の気が済むとは思えないからな」
「よくわかってるじゃないか。それこそ殴り飛ばすところだよ。ああ、あと、これだ」
親弥は、兪吉の小説を鞄から引っ張り出した。
兪吉が、苦虫を噛み潰したような顔になる。
「これは一体なんだ」
「なんだと言われてもな……」
「しっかりと読ませてもらったけどな、これは、どう考えてもお前と宮と楓さんの話だよな。俺と宮は兄妹ということになっているが、想い人に似た娼妓と、想い人の間で揺れ動く男となると……」
「すまなかった親弥! 本当に申し訳ないと思っている!」
「謝っているじゃないか」
本当にもう一度殴ってやろうか、この男は。
「お前はもう読んでいないと思っていたから、つい出来心だったんだ」
「本当に呆れた男だな。宮が読んだらすぐにわかるだろうに」
「いや、宮さんにはお前が主人公だと言ってある」
「俺が?」
親弥は、自身が述べたことを反芻した。「想い人に似た娼妓と、想い人の間で揺れ動く男」。確かに、兪吉と捉えるよりも、親弥の方が当てはまるだろう。楓に対して抱いていた感情を兪吉が知る由もないはずだが。
「そうか……」
「何だ、怒らないのか」
一人笑っている親弥に、兪吉が訝しげに腕を組んだ。
「別に構わないさ。面白かったよ。やはりお前には小説家としての才能があるんだな。そんな田之上先生に、読んでもらいたいものがあるんだ」
親弥がそう言って鞄から茶封筒から取り出すと、兪吉は露骨に嫌な顔をした。
「何だそれは」
「わかるだろう。原稿だ」
「何で俺が。出版社の人間に読ませりゃあいい話じゃねえか」
「お前に真っ先に読んで欲しかったんだよ」
兪吉の表情がさらに険しくなる。
「どうして」
「いいから。軽く目を通してくれさえしたら、帰らせてやる」
だから頼むと親弥が食い下がると、兪吉はしぶしぶといった様子で封筒を受け取った。中身の原稿用紙は親弥の筆跡で黒く埋め尽くされている。
人に原稿を読まれるのはなかなか緊張するものだが、客の話し声や女給のせわしない足音に混じり、兪吉が用紙を捲る音が、親弥の耳に心地よかった。
最初はしかめ面だった兪吉の顔が、徐々に驚きへと変わっていった。
「お前さん。これ」
「いいだろう。これぞ『自然主義』じゃないか」
珈琲を啜った。芳醇な味が舌に広がる。
親弥が兪吉に渡した原稿は、大谷邸から帰宅した後、書き始めたものだった。自然主義と呼ばれる文学が、花袋のような「自分の体験、事実を描いた作品」を指すのであれば、親弥にとってはこれ以上ない話の種だった。そのことに、何故今の今まで気がつかなかったのか。
勝ち誇った笑みを浮かべる親弥に、兪吉はなおも驚いていた。
「もう諦めたのか。子どもは」
兪吉の問いに、親弥は首を横に振った。
「可能な限り病院には通い続けるつもりでいるよ。けれど、例えもう無理だったとしても、構わないとは思えるようになった」
いろいろあったからなと付け加えると、兪吉は「やっぱり責めているじゃないか」と不貞腐れたように言った。似ているとは言ったが、妻がいる分自分は兪吉より何倍も上手なように思えて、親弥は愉快な気分になった。
「まあ、お前さんが吹っ切れたんなら何でも構わねえよ。この作品なら出版社も文句は言わねえはずだ」
俺は帰る、と兪吉が席を立った。夕飯を奢ってやろうかと茶化すと、夕飯ぐらい自分の金で食えると、兪吉は自身のうねった髪を乱暴に掻いた。兪吉の子どもじみた態度にくつくつ喉を鳴らす。
「なら、今度はお前が奢れ」
兪吉の背中にそう声を掛けると、兪吉は足を止めた。そして何も言わずに店を出て行った。拒否しなかったところをみれば、どうやら兪吉の金で高い酒にありつけるかもしれない。
兪吉が帰った後も、親弥は一人でカフェー・プランタンを楽しんでいた。
楓の花 羽鳥 @enomaru
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