第四話

 親弥は居間で一人、原稿と設定集代わりの便箋を片手に物語の展開を模索していた。

足に負った傷はこの三日で順調に回復し、風呂に浸かっても染みることはなくなった。しかし、宮が頑固に言い張って、包帯はまだ巻かれたままだった。

玄関の扉を叩く音がし、大谷邸に来客が来たことを知らせる。旧友と会う約束をしているという宮だけでなく、禄太郎氏の診察の関係で神崎や女性の使用人も出払っている。仕方なく親弥が応対に出向くと、扉を開ける前に、つい数日前に聞いた、低く良く通る声が、親弥の耳と心臓をざわつかせた。

「どうも、千寿ですー。神崎さんいらっしゃいませんかー」

 親弥の足が止まる。まず頭に浮かんだのは疑問だった。そして居酒屋で出くわした際に、「禄太郎氏に世話になっている」と零していたのを思い出した。

 他に誰もいない時に何ということだ。それに出会って数日しか経っていないこの機会にやってきたのは偶然ではないだろう。兪吉はああ言っていたが、千寿にわざと親弥を会わせたのではないかという疑念すら浮かんでくる。

親弥は取っ手に掛けた手を引っ込めた。

「神崎は今はおりません。何の御用でしょうか」

 親弥が扉越しに問うと、声の主が誰かわかったとでもいうように、千寿は、

「先日はどうも。神崎さんおらんねやったら、中で待たせてはもらえませんやろか」

 と、張りのない声で言った。

「用件をまずお聞きしないことには、勝手に屋敷へ上げる訳にはいきません」

「困ったなぁ。そこを何とか」

「貴方が義父とどういった関わりがあるのか、わかりかねるのですが」

「あら、先日も同じようなことおっしゃってはりましたなぁ。僕と兪吉さんのこと」

「先日とは意味が大きく異なりますがね」

「はて、どうゆうことでっしゃろ。とりあえず、ここ開けるだけでもしてくださいませんか。会話しづらぁてしゃーない」

 確かにこのままでは埒が明かない。親弥がしぶしぶ開けると、千寿は薄ら笑いを浮かべてそこに立っていた。外は風が強く、時折突風が吹き荒んでいる。新聞によれば、昼を過ぎると、天候の悪化を伴って今冬一番の寒さになるのではとのことだった。空気が開通し、親弥の肌にぞぞぞと鳥肌が広がった。

「おはようございます、久賀野さん。この前は急に帰ってしもて、すんませんでしたねぇ」

「別に気にしてなんていませんよ。それより、早くご用件を」

「えらい僕に対する態度が変わったなぁ。兪吉さんから聞きました? 僕が楼主やってこと」

「ええ」

「久賀野さん、見るからに遊郭とか嫌いそうな真面目な方ですもんねぇ」

 この男は親弥を冷やかしにきたのだろうか。どうでもいいことをつらつらと述べる千寿に、苛立ちが募ってくる。

「そんな怖い顔せんといてください。用件でしたね。神崎さんに、折り入ってご相談したいことがあるんです。個人のことに関わりますので、詳しくはお話できませんが」

 詳しく話せない、という千寿がどうにも信用ならなかった。

 しかし、神崎の名前を出されている以上、ここで追い返すというのも違うのではないかという思いもあった。加えて、仮にも千寿は兪吉の知人でもあるのである。

「寒くて適いませんわ。頼みます、中に上げてくださいません?」

 千寿の吐く息が白い。迷った挙句、玄関まで招き入れると、千寿は安心したかのように肩を落とした。外気に晒されていた親弥の顔にも熱が徐々に戻ってくる。

「こんな日に来るもんじゃありませんでしたわー。ああ助かった」

「急用なのですか」

「いいえ。でも、近日中にお話したいことではありましてね」

「何時に戻ってくるかわかりませんよ。もしかしたら夜になるかもしれない」

「まあその時はその時ということで」

千寿は勝手に靴を脱いで上がり込んできた。こちらの態度もさることながら、千寿もかなり砕けた印象だった。千寿は依然も大谷邸に来たことがあるのか、居間に入るなり一人掛けのソファへと遠慮なく腰を下ろす。

「久賀野さんにはご迷惑おかけします」

 そう言う千寿に悪びれている様子はなかった。

禄太郎氏が不在である為、兪吉の時のような心配事はない。とりあえず、礼儀として入れた茶とお茶請けを盆に乗せ、千寿の前に差し出した。親弥のその様を、千寿が不思議そうに眺めている。

「えっと。久賀野さん以外誰もいらっしゃらへんのですか?」

「はい。皆出払っておりますから」

 それから、部屋から財布を持ってきて、紙幣を数枚、千寿に突き出した。

「これは?」

「先日の飲み代です。奢って頂くわけにはいきませんので、自分の分は自分で支払います」

 親弥が断固たる姿勢でいると、千寿はふっと鼻を鳴らしてそれを受け取った。

「素直に奢られとけばええのに。気心が優しいのか、はたまた兪吉さんの言うように頭の固いお人なのか」

「貴方には関係のないことでしょう」

「ははは、それもそうですねぇ。……ところで、禄太郎氏はご在宅で? と言うても会われへんでしょうけども」

 そこで盆を片そうとした親弥の動きがはたと止まる。禄太郎氏の病については、知っているのは使用人と近親者だけだと聞いていただけに、千寿の発言に親弥はいささか驚いた。

ますます不信感を募らせる親弥に気づいたのか、千寿は愛想笑いとは違う、どこか悪戯めいた笑みを浮かべた。やはり親弥には来訪理由を教える気はないらしく、有田焼の湯飲みを回し眺めている。

千寿がおもむろに、親弥に向かいに座るように言った。親弥が盆を抱えたままその場に立ち尽くしていたからだった。

親弥は動かなかった。面と向かって会話をすることがはばかられた。

「参りましたねぇ。楼主と知っただけでこの拒絶よう。昔遊郭で嫌な思いでもしはったん?」

 千寿の口調には、どこか嫌味ったらしいものが含まれていた。

「そういうわけではありませんが。ただ、嫌いなんです。足を踏み入れたいとも思いません」

「行った事もないくせに毛嫌いするのはよろしないなぁ。おおよそ、久賀野さんが考えてる通りの場所やろうけど。遊郭を『歓楽街』なんて呼びますけどね。実際はそんな華やかなところやない。ぎすぎすしてぬめっとして、反吐が出るような所ですよ」

 見ると、千寿が、苦虫を噛み潰したような顔をしていた。楼主の口から出たとは到底思えなかった。千寿の声音はさらに低くなり、毒を含んでいるようだった。

千寿は何を思ったか一気に残りを飲み干して、席を立った。

「よし。今日は神崎さん帰ってこうへんっちゅうことにしましょか。親弥さん、よかったら今から僕の店に来てみませんか」

「は?」

「何事もまず体験ですよ。遊郭題材に何か書くんも面白いんとちゃいます?」

 千寿が指差す先には、親弥が先ほどまで書いていた原稿の束があった。まだ未完成の原稿である。急に羞恥が沸いて、親弥はそっと身を割り込ませて原稿を後ろに隠した。

「僕の店、『永真遊郭街』にあるんです。ここからならそう遠くありませんよ」

永真遊郭街とは、現横浜公園に位置していた「港崎遊郭」が火災による焼失、移転を繰り返し、横浜市南区東北部に再興した遊郭だった。確かに距離としては十分に向かえる範囲ではある。

「いや、しかし……」

 千寿の突然の申し出に親弥は戸惑った。千寿の誘いに対してではない。返答に迷っている自身に対してだった。よくよく考えると、千寿の話は確かに親弥の興味を惹くものがあった。自分と縁遠いと思っていた世界を、こうして垣間見れる機会に恵まれたのだ。今までは身体的なこともあり、足を踏み入れようなどと考えたこともなかった。だが、「小説の題材に」という千寿の言葉に一理あると、親弥もかねがね思っていた。千寿に対する不信感は拭えないままだが、この機会を逃していいものだろうか。

 千寿を見ると、親弥の返事を心待ちにするように、しっかりと親弥を見据えていた。親弥が断るはずがないといったような根拠のない自信も、態度から覗えた。そこで、宮が親弥を見ている時の、不安げな顔を思い出した。きっと自分は、態度や雰囲気に出てしまいやすい体質なのだろう。

親弥はしばらく逡巡して、

「見学だけ、というわけにはいきませんか。それに、夜までには帰ります」

 別に家の留守を頼まれていたわけではないのだ。夜までに帰れば問題ない。

 親弥がそう小声で告げると、千寿は親弥の顔を見たまま一瞬固まり、そして相貌を崩した。

「構いませんよ。なんなら永真の中ぜぇんぶ、僕が案内しますわ。もちろん無償でね」

 いやぁ楽しなってきましたねぇ、と陽気な声を上げて、千寿が親弥の手首を掴んだ。そして足早にくぐったばかりの玄関へと舞い戻っていく。

「今すぐにですか?」

「あははは。夜に帰るんやったら早よ行かなあきませんやろ。なぁに、取って食ったりしませんから安心してください」

「わかりましたから離してください!」

「なんやぁ、つれへんお方やわぁ」

 先ほど、遊郭のことを酷評していた様とはまるで違う千寿に、親弥は絶句した。あれは演技だったのだろうか。

 千寿に引き摺られて足が縺れそうになる。親弥は話に乗ってしまったことを早々と後悔しながら、置手紙を残す間もなく、風に攫われるように大谷邸を後にした。




 永真遊郭街とは、横浜の中心市街地に通う大通り公園に隣接した一帯のことを指し、真金町遊廓と、同様に遊郭の存在する永楽町とを併せてそう呼ばれていた。

日が落ち始めた頃。永真遊郭大門を跨ぎ、そのあまりにも閑散として寂れた遊郭の様子に、親弥は驚きを隠せなかった。永真遊郭街は飲食店も多く、横浜市民の社交場としての一面もあるとのことだった。夜になればもっと人が溢れ、電灯が爛々と店や通りが照らされる。そして昼とは違った場所へと趣を変えるのだろう。だからといって、この現状は一体なんだ。

植えられた桜並木は葉を全て落とし、肉付きの悪い枝が曇天の空に突き刺さっている。その割れ目から、今にも雨が降り出しそうだった。

 親弥の口から漏れ出た意味のない声に、千寿は苦笑した。

「どうぞ。こちらです。ささ、早よ参りましょう」

 親弥の先を歩く千寿は、この場所に店を構えるだけあって、威風堂々としていた。遊郭という、親弥にとっては浮世離れした特殊な世界にいても滲まない、存在感のようなものが千寿にはあった。

 足を進めながら、親弥は落ちつきのない視線を道のあちらこちらへと向けた。妓楼周辺の空気は、まるで泥水をぶっかけられたかのように、肌にいやらしくまとわりつく感触だった。木造座敷の、板に染み付いたすえたような臭いが鼻を突く。同時に、親弥には得も言われぬ孤独感のようなものが押し寄せてきた。 

 ここにいる娼妓達は、借金の為身売りされてきたのである。明治三三年に発布された「娼妓取締規則」により、娼妓は自らの意思で廃業できるようになった。しかし、未だにこうして栄えているのは、楼主が借金で縛り付け、身動きを取れないようにこの場所に隔離しているからだ。    

ここは、牢獄のような場所なのだ。店の壁一枚挟んだ向こう側は、永い歴史の分だけ身を裂かれた多くの人間の薄汚れた死骸が転がっている。

建ち並ぶ妓楼は、物見櫓を髣髴とさせた。下から商品である娼妓の姿が眺められるよう、一面にはそれこそ牢獄のように格子が嵌められていた。客の手の届く位置に女を並べている店もあった。垣間見える情景の中で、鮮やかなのは娼妓の着る着物だけだ。死人のような表情の女が多かった。室内のランプは消灯され、営業前で頬紅が落ちている所為だ。生気すらも削げ落ちてしまっているのかもしれない。

ふと目に留まった格子の向こうに、力なくしな垂れた女の姿が見える。その余りのだらしなさに、色香やそういったものを感じることはなく、親弥はただただ嫌悪感を覚えた。首の辺りに鬱血の跡が見えた。ほんの僅かな隙に目が合い、女のどこか濁った瞳に、次第に焦燥を煽られる。そして焦燥は肺の辺りから迫り上がってくる高揚感と吐き気へと変貌していった。

親弥の心を占めたのは両立する純粋な憎悪と好奇心だった。それは、今までに味わったことのない感覚だった。むしろ、この説明できない感覚こそが、親弥が小説を書くために求めていたものにもっとも近いような気がした。

女の目が次に前を歩く千寿へと向いた。

「千寿さあん!」

 女が千寿に向けて手を振り、千寿が立ち止まった。そこで、親弥は自分の内にある感情の渦から引き戻された。

「おお、なんやぁ由雪ちゃんやないの。久々やなぁ」

「なあ、こっち来ておくれよ。今の時間暇で仕方ないの」

 女が大げさに手招きをしている。

「ああ、ごめんなぁ。今遊んでる時間あらへんねん」

 千寿が困り顔で親弥を振り向く。だがその間にも、女の声を聞きつけたのか、人が親弥と千寿の周りに集まり始めていた。色めき立つ女もいる。たまたま通りを歩いていた男にも、千寿は声を掛けられていた。

「千寿さんって人格者なんですね」

 親弥の、楼主に対する嫌味を込めた感想に、千寿は首を振った。

「僕、楼主にしては若いんでねぇ。しかも老舗の店を継いだんでなく、他所者やから物珍しいんでしょう」

 千寿は頬を掻きながら、それでも貼り付けたような笑顔はそのままに、親弥の肩を一つ叩いた。

「すんません親弥さん。やっぱり挨拶も兼ねてあの店ちょっと寄りますわ。多分僕と居ったらまた声掛けられるやろし。この先真っ直ぐ行けば場所がわかるやろうから、先に行ってて下さい」

「え?」

「心配せんでも大丈夫ですよ。早足で歩いてたらそうそう声掛けてきませんから」

 道のりを簡潔に説明される。肘を伸ばして手を胸の前で合わせ、「それじゃあ後で」と、千寿は親弥を置いて人の輪の中へと紛れていった。それに合わせて、囲うようにいた人が、ぞろぞろとその場を離れていく。

大門大通りの真ん中、親弥は一人取り残されていた。確かに人ごみは苦手でも、知らぬ道を一人というのもなんとも心細い。

 永真遊郭街は、碁盤の目のように区切られている。千寿の話によると、千寿の店は真金町遊郭側の端にあるということだった。大門から見て、左奥に位置している。「椛楼」という店名を頼りに、仕方なく通行人や人力車を避けながら、親弥は足を進めた。状況のせいかもしれないが、親弥の暮らす東京よりも寒さが肌に刺さり、ただでさえ早い歩調をさらに早める。乾いた冬の空気とさんざめく空気とが合わさって、外套と襟巻きの裾をはためかせる。

 こんな場所にいると知ったら、宮はどう思うのだろう。今頃帰宅していれば、親弥が置手紙もなしに出かけたことを、心配するのだろうか。だが遊郭に行くなどと、果たして親弥には書き記す度量があったのか。

 誰とも目を合わさないよう俯き歩く親弥を面白がったのか、若い男が一人声を掛けてきた。どうやら酔っているようで、店先で飲んでいた酒をしきりに勧めてくる。鬱陶しくなり親弥が掴まれた手を振り払うと、男は罵声を浴びせてきた。余計に顔を隠すように体を縮込ませる。つまらねえ奴。罵声に対する恐怖心がむくむくと沸いて出て、いっそのこと道を走りぬけ引き換えそうかと親弥は思った。しかしできず、逃げるようにすぐ脇の路地へと入る。

 たかが遊郭だ。何をそんなに怯える必要がある。親弥は自身に言い聞かせた。ここは法的には存在を認められている場所だ。犯罪の温床に足を突きこんでいるわけではない。それなのに、親弥は薬を飲んでくればよかったと後悔していた。動悸で胸が痛み出す。

 真金町遊郭は、一八九六年に埋め立てられた富士見川を境に、南に位置していた。方角的には間違いないので、親弥は大通りを避けて進んでいくことにした。大通りは徐々に商人や客が増えつつあった。親弥には人の多いところより、幾分も息がし易い。

次第に、横浜娼妓病院が見えてきた。この病院は、娼妓が花柳病(梅毒、淋病、軟性下疳、鼠径リンパ肉芽腫の四つの性病)に感染しているかどうか、健康状態を知るために作られたものである。中から女が数人、一人を支えるように出てきた。一人は腹が膨らみ妊娠しているようだった。親弥は到底直視できず、頭をできる限り俯かせて、その脇を通り過ぎた。さらに歩調が早まった。横浜娼妓病院があるということは、真金町の端に来たということだ。辺りを探せば、千寿の店があるはずである。

 ふと、親弥の鼻先を山茶花に似た香りが掠めた。親弥にとっては嗅ぎ慣れた、心を落ち着かせる匂いだった。大谷邸に来てからは毎日のように香っている匂いだ。顔を上げ歩調を緩めると、濃密なそれが肺に入り込んでくる。きっと、今までは飲食店の雑多な臭いに紛れていたのだろう。入り口である永真遊郭大門付近とは違い、この辺りは日の傾きに合わせて、社交場としての趣が多少落ち着きつつあった。黒雲が立ち込め遊郭は夜の皮を被ったようだった。張り巡らされた電灯がばっと点灯し、強烈なまでに、親弥と冬の花の香りを照らしている。

気付けば大門通りまで出てきていた。

一人の娼妓が、真新しい紅色の格子の間から、永真遊郭街を眺めていた。親弥がその前を通りかかり、そして、誰に引き止められたというわけでもないのに、親弥はその場から身動きが取れなくなった。思考と体とが、一緒に停止したようだった。手にはじっとりと汗が滲み、口からは細く生温い息が音もなく漏れている。

 親弥は覚束ない足で駆け出して、店の赤格子を引っつかみ、その娼妓の顔をよく見ようと、開いた目を瞬きで閉じることもしなかった。

「……宮?」

 自然と妻の名が零れ出る。違うとわかっていながらも、尋ねずにはいられなかった。その娼妓は驚かず、そして折り畳んだ足を一切崩さず、自身を見つめる親弥に、流れるような動きで頭を下げた。

 娼妓は宮に瓜二つの顔をしていた。歳は一〇は若いだろうか。ちょうど、親弥と結婚した頃の宮といったところか。肌のしなやかな白さまで、全てが似通っていた。赤い血のような色をした着物を羽織り、同じ色の紅を薄い唇に差している。節目がちな瞳を睫が覆い、瞬きするたびにしなやかに揺れる。鬢のほつれ毛が、奇妙なほど艶かしかった。

座敷に飾られた桃色の山茶花が、格子の合間を吹き抜けるように、冬の匂いを漂わせる。

 どれだけの間、そうしていたのだろう。木の筒を握り締めた両手の平が痛み出した頃、奥から老婆が現れ、妻に瓜二つの娼妓に「仕事だよ」と声を掛けた。

「楓。早くおしよ」

「はい。只今」

 娼妓は着物の裾を押さえて立ち、もう一度親弥に頭を下げると、老婆に連れられて店の奥へと消えていった。その艶やかな項を、後姿を、名残惜しむように、無意識に視線が追った。耳の奥ではある言葉が反芻していた。

 今確かに、老婆は娼妓のことを楓と呼んでいた。彼女の名は楓というのか。

 中を覗いている親弥を不審がるように、屋敷内の用心棒らしき男たちが近づいてくる。慌てて後ずさり、乾いた唇を舐めた。唇だけでなく、喉も干からびたようだった。

親弥が顔を天へと向けると、そこには「椛楼」の字が掲げられていた。江戸、明治初期の古民家を思わせる風情ある建物に、格子の赤が映える、他の店とは一線を画す雰囲気を持った店だった。客引きも見当たらない。その佇まいは、どこか格式めいたものまで感じさせる。千寿は遊郭のことを「ぎすぎすしてぬめっとして、反吐が出るような所」と評していた。確かにこの店の主人から言わせれば、他など見るに耐えない。

独特の話し口調に振り向くと、千寿が陽気に挨拶を交わしながら、こちらに向かっていた。親弥に気づいて手を振っている。

「いやぁ、お待たせしてもうてすんませんねぇ」

 親弥と肩を並べ、千寿は自らの店の前で、眩しいものでも見るかのように目を眇めた。

「どないです? 僕の店。なかなかええでしょう」

 誰か好みの女はおりましたかと問う千寿に、親弥は真っ先に先ほどの娼妓の、折れてしまいそうな白い項を思い出していた。

「楓……」

「え?」

「楓という人がいるでしょう?」

「ええ。彼女はうちの看板ですよ。さすが大谷禄太郎氏の義理の息子、お目が高いですわぁ」

「彼女……妻に。妻によく似ているんです。鏡みたいだ」

 親弥がそう告げると、千寿はほう、と感嘆の声を上げた。

「それはそれは。そないに奇遇なことも世の中にはあるんですねぇ……。ああ、なるほど」

 千寿は一しきりにやつき、勝手に頷いている。

「いえね、大阪におった時代に、楓のところに毎日のように通っていた男がいたんですけど、今の親弥さんとおんなじような心境やったんかなぁと思いましてね」

「どういうことですか」

「今の親弥さん、魂抜かれたみたいな顔してはるから」

 千寿の言葉に、親弥は何か返そうと思い、結局考えることをやめた。頭がしびれて動かなかったのだ。

「楓を呼びましょか?」

「いえ。もう帰ります。置手紙なしで家を出てきてしまったのが気がかりです」

「それは残念。中も見て頂きたかったのに」

 千寿が肩をすくめる。

「後日、今度は一人でお伺いします」

 親弥は何のためらいもなく言った。親弥の意外な発言に、さすがの千寿も驚いたようだった。だが、親弥の視線がずっと赤格子に向いていると知り、千寿は仕方がないとばかりに溜息を吐いて、親弥を家まで送り届けると申し出た。雨がぽつりぽつりと地面と親弥を濡らし始めていた。千寿の手配した馬車に、親弥はどこか夢現のまま乗り込む。

 親弥の心臓は、楓を視界に捕らえたあの瞬間から、早鐘を打ち続けていた。娼妓は、目も、鼻も、薄く引き結ばれた口元も、宮そのものなのだ。肩口の肌蹴た着物から、その内に秘める体のしなやかさたるや、想像するに難くない。だが、宮の顔をしたあの女は、あの薄汚い女は! 数々の男に自由を奪われ慰み者にされ手垢をつけられ、今もなお顔と名しかわからぬような男の腕に抱かれているのだ。

なんと憎らしいことだろう。先ほど感じた孤独感、吐き気が再び鎌首をもたげるのを、親弥は親指の付け根を噛み締め押さえつけた。喉が渇いていて、僅かに舌の上に乗った唾液を必死に嚥下する。しかし、親弥が喉を鳴らす度、寧ろ水分が失われていくような錯覚に陥った。親弥の脳は、小説を書き連ねるがごとく、自身の妻と、顔のぼやけた男とが情事に耽る映像を親弥の意思と関係なく再生し続けていた。違う、あれは別の人間なのだと、否定の言葉が反芻するが、妻が寝取られんとする様に、そして、唯一決定的な違いである、清純な宮の有しない色香を纏った楓に対し、親弥は狂うまでの嫉妬と興奮を確かに感じていたのである。

 雨が強さを増してくる。地を水滴が跳ね返る音が、さらに親弥の焦燥を煽った。

 馬車が到着し、高揚し尚且つ枯渇した心が宮を求めて、大谷邸への坂道を駆け上がらせる。息が切れることも、体が濡れることもお構い無しだった。

だが、開けた扉の先に宮の姿はなく、親弥達が来てからは珍しく、神崎が夕飯の下準備をしているところだった。居間の柱時計は四時を回っている。食事の用意を怠らなかったはずの宮が帰宅していないことに、親弥は気づく余裕がなかった。ただ、宮が不在ということだけを認識して、力が抜け落ちたようにその場に棒立ちになる。

 机に置きっぱなしになっていた原稿が、親弥の目に入った。

「神崎さん。夕飯、遅くなっても構いませんか」

「ええ、結構ですが」

 神崎が何事かとこちらを見る。親弥は通り過ぎ様に神崎に謝罪し、その足で寝泊りしている客室へ廊下を駆けた。机の上に置かれていた残りの原稿を払い除け、白紙の用紙に急いでインクにつけた万年筆を走らせる。宮を投影させた女を「楓」と名付け直す。そして、道中の馬車で、そして今なお紡ぎ出される頭の中の映像を、親弥は自らが持つありったけの言葉を用いて書き記していった。今まさに、親弥が望んでいた、艶があり、読んだ人間を惹きつけられるような、そしておどろおどろしいまでの感じ入る描写ができると思った。やはり遊郭で親弥の感じた感覚こそが、親弥が求めていたものだったのだ。 


《――椿は、こびりついた腐臭の漂う屋敷の中で、稀有な存在であった。その色香足るや、棘を持つ欧州の薔薇の如く、美しく芳香であった。――》


 ああそうだ。「楓」などという花の咲かない植物は、彼女には似合わない。もっと実りある表現こそ相応しい。


《――肌蹴た着衣から露呈した乳房には、先日渠の付けた痣が手形の様に残っていた。其れは女が渠の物である刻銘であった。渠は見る度に悶え烈しく戦えた。他の男が椿を抱くという時、厭でも渠の刻銘が晒されるのである。――》


 男は椿に暴行を振るうようになる。そうして椿の体に刻まれた所有の証に、優越感が生まれる。次第に男は、自らの感情を制御できなくなる。


《――なんて酷いお人なの! 私はこんなにも渠に恋焦がれているのに、貴方は私だけを見ようとはして下さらない――》


 そして椿は男に恋をする。内に燻る欲に溺れる。他人に抱かれながら、一人の男を想い続ける。


得も言えぬ高揚感と内臓を抉られるような激情に身を浸しながら、椿という名の「楓」を欲望のまま小説の中でいたぶり迫害することに、親弥は夢中になっていた。自分の身の内に、こんなにも耐え難い衝動があったと、今まで知る由もなかったのだ。

人間の欲に際限はないと言ったものだが、まさしく今の親弥は己を止める術を知らなかった。

 左手に、原稿用紙とは違う紙の感触があった。力任せにその紙を握り締め、あることに気づいてそっと鼻を近づける。

 紙は、日中に使用していた便箋だった。紙に香の匂いを染みこませた物で、大谷邸の便箋は、家紋と共に季節の花の香りがするよう、禄太郎氏の特注で作られているのである。大谷邸から来訪の誘いの手紙が来た時にも感じた山茶花の匂いを、親弥は思いきり吸い込んだ。匂いが親弥の中の楓をより鮮明なものへと変えてゆく。

 親弥は宮が帰宅するその時まで、ひたすらに小説を書き連ねていった。




 客間の扉が開き、親弥が執筆の手を止めたのは八時を大きく過ぎた頃だった。宮の姿を見、親弥はようやく我に返った。宮は、用紙の散らばった客間の雑然とした様子に驚いたようだった。

「どうなさったのですか? 親弥様」

 宮の少し怯えたような声音を打ち消すほどの大声を、親弥は出した。

「それは俺が訊きたい。こんな時間までお前は一体何をしていたんだ!」

「も、申し訳ございません。 話が長引いてしまい、その……」

 宮が深々と頭を下げて肩を震わせている。親弥は激情に流され自身を棚に上げて怒鳴っていることに気がついていたが、今の今まで、宮が帰宅していないことに意識が回らないほど執筆に没頭していたことに動揺を隠し切れなかったのだ。

 頭を掻き毟る。動悸が治まりそうもなかった。怒りと自己嫌悪とで潰れそうになる。急いで薬箱を震える手で鷲掴みし、紙の包みを開いて粉末を口に流し込んだ。唾液で無理矢理嚥下し、気管に入り込んだ分を咳と共に吐き出した。それでもどうにか呼吸を整え、何度も何度も唾を飲む。

 後ろに佇む宮の顔を見られなかった。きっと夫のこんな姿を見て、呆然としているに違いない。親弥自身も、自分の異常を感じ始めていた。

 ようやく振り返ると、はっとした宮が必死に何かを告げようとした。その言葉を遮るように、親弥は半ば強引に腕に抱き込んだ。今は宮の口から余計なことなど何も聞きたくはなかった。

「すまない。いきなり怒鳴って悪かった」

 強張っている宮の背を、力の抜け切らないぎこちない仕草で撫で擦る。宮に触れるのは親弥の家に大谷邸から手紙が届いた日以来だった。身体的接触は親弥にとって恐怖でしかない。それでも今は、状況からしても、そして親弥の心境からしてもそうせざるを得なかった。

 雨は大降りとなっていた。宮の滑らかな長い漆黒の毛先が少し濡れていて、雫が肌蹴た着物の襟と鎖骨を這うように垂れ、胸元へ染みていった。宮の手が縋る様に親弥の背に添えられたのを感じて、親弥は宮のほんの少し肌蹴て露になった首筋に顔を寄せた。そのまま白い肉に歯を立ててしまいたい欲に駆られ、慌てて宮から身を離した。宮の唇の皮膚が裂け、口角に血の跡があった。そこを親指で拭って、誤魔化した。

「風呂に、入ってきなさい。神崎さんが湯を沸かしてくれているはずだ。俺は疲れているから、もう寝ることにするよ。君も疲れただろう」

 親弥の内心を悟られまいと乾いた喉と口蓋を無理に動かした。宮の表情は硬直していたままだった。怯えが手の震えから伝わってくる。

「本当に、申し訳ありませんでした。本当に……。では、お休みなさいませ」

 宮は着替えを持って、逃げるように客間を後にした。客間の戸が完全に閉まったのを音で確認し、親弥はその場に力なく崩折れた。すでに敷かれていた布団へと這いより、枕を握り締め床に何度も叩きつける。宮を腕に抱き、親弥は欲を確かに感じていた。怯え震える宮に対してだ。なんて自分は醜く非道な男なのかと責め立てた。しかし戒めはすぐにやってきた。自身の身体的欠陥がもう手の施しようのないものだと、親弥は今この瞬間思い知らされたのだ。

兪吉とのカフェー・プランタンでの会話が思い出された。兪吉は「宮を恐れている」と言っていた。その通りなのだ。親弥は宮を傷つけることを恐れ、宮に裏切られ自身が傷つけられることを何よりも恐れている。

 しばらくして、薬が効き始めた。跳ね上がった心拍が徐々に落ち着き、頭に微かに靄が掛かってくる。体が脱力していった。このまま眠りにつこうとして、夕食をまだ取っていないことを思い出した。食事もせず薬だけ服用していては、危険だと理解はしていても、今の親弥にはどうすることもできなかった。

 手を伸ばし原稿を掴んだ。書いた文章を読み返し、痺れのようなものを感じて身を竦ませた。この小説があればきっと自分は立ち直れるのだと信じて疑わなかった。欲望が底のない沼へと変貌し、引きずり込まれそうになるのをどうにか堪えた。

だからこそ、親弥は内に蔓延る激情の捌け口として、宮ではない「楓」を必要としているのだ。

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