第五話
田之上兪吉は、夜も更けた永真遊郭街の中を、ふらついた足取りで歩いていた。永真遊郭街は昼間と打って変わり、華やかさと、胃もたれするような熱を帯びていた。雨脚が強まり、電灯の光がいたるところで揺れている。水分を含んだ洋服がじっとりと重い。客や客引き、通行中だった商人は皆雨宿りの為に各々店の中へと引っ込んでいた。誰も兪吉を気に掛ける人間がいないのが救いだった。赤い傘を引き摺って、結った髪が乱れるのも、小説を書いて必死に儲けた金で買った上物のジャケットが水を吸って傷んでいくのも構わず、ただ、先刻起きた出来事を反芻していた。
親弥が永真遊郭街に出向いていたのと時を同じくして、兪吉は、横浜の中心地から少し離れた居酒屋で、人を待っていた。この店は昼間から開店しているが、客の出入りはほとんどなく、今日に限っては無人に等しかった。兪吉としては、本当はもっと洒落た店で待ち合わせたかったのだが、この店は大通りから外れた日陰にあった。忍んで会うにはもってこいの場所だと言える。
程なくして、水縹色の着物に真白の袋帯をした女性――久賀野宮が、暖簾をくぐって現れた。袖の白牡丹が突風に煽られたなびいている。今日は冬一番の寒さらしかった。
「申し訳ございません、田之上様。お待たせしてしまったでしょうか」
宮は神妙な面持ちで、頭を下げた。
「いえいえ、私も今来たところなんですよ。おい、熱い茶を一杯くれないか」
兪吉が言うと、無口な店主が湯飲みを卓に運んできた。
「とりあえず一度腰を落ち着けましょう。ささ、どうぞ」
「ありがとうございます」
卓に着き、宮が茶を一口、そろそろと啜った。だがやはり、宮の表情の曇りは晴れなかった。
「今日は、親弥には何と?」
「旧友に会ってくると言いました。地元ですから、何も不思議に思わなかったようでしたわ」
「そうですか。親弥を欺き続けるのも、さぞお辛いでしょう。いい加減やめにしてはいかがです?」
兪吉が努めて明るく言った。
宮は、何も言わず憂いたように微笑んでいた。しかし、引き結ばれた薄い唇から、宮の心情が垣間見える。宮は淑やかな印象の女性だが、自分の意志を貫くしたたかな面も持ち合わせていた。決して気が強いわけではない。ただ、周りに流されることのない、信念を持っているのだ。兪吉は、そんな宮を少し離れたところで見続けていた。兪吉には、親弥に知られざる宮の一面があると思っていた。傍らに寄り添うだけではわからないことも多分にある。親弥のいない、宮と二人のこの時は、幸福で、なおかつ親弥の名を口にし、親弥を想い慕う宮に対して、苛立ちという相反する感情を持て余していた。
「心配なのはわかりますが、問題ありませんよ。それに、旧友と会うと言ってあるんだ。一寸遅くなったって平気でしょう。なんなら、泊まってくるくらい言っておけばよかったんだ。積もる話はいくらでもあるだろうに」
「でも、夜には帰りませんと」
「どうしてです?」
「父の治療の一環を兼ねて、私が料理を作っておりますの。ですから、私がいる間は、なるべく作ってあげたいのです」
「……宮さんは、本当、呆れるくれえ優しいお人だな」
兪吉は苦笑した。宮はさも当たり前のことのように言ったが、兪吉には人の為にそこまで尽くすことなど、身内や世話になっている恩師にでさえも無理だ。それはひとえに宮の性根からくるものなのだろうと兪吉は思った。
そこまで他人を思いやれるのに、何故自身に向けられている好意に気が付かないのだろうか。
いや、もしかしたら気付いているのかもしれなかった。その上で、兪吉にこうして平常通り接しているのかもしれない。
黙りこんだ兪吉の顔を、宮が覗きこんできた。罰が悪くなって、兪吉は普段使うことのない頬の筋肉を動かして微笑んだ。
「そうだ。ならお昼はどうされました?」
「用意だけはしてきたのですが、私は食べ損なってしまって」
「俺が奢りましょう。少し遅いですが、夕飯が食べられなくなるほど食べなけりゃいいんです」
店主に、小鉢をいくつか頼む。宮は終始遠慮をしていたが、なんとか宥めて二人で食事を取った。もちろん兪吉が押し切って宮に財布の紐を開けさせることはしなかった。
さして長くない食事中の会話はもっぱら親弥のことだ。小説を精力的に執筆しているらしいが、時間と労力に見合わず原稿は思うように進んでいないようだということだった。カフェー・プランタンで揉めた際に、書くのをやめろと進言しただろうに。兪吉は肩を竦めた。結局このままでは親弥は精神を擦り減らし、宮に気苦労を掛けるだけで何も変わりはしないのだ。
流れが速く、墨汁の染みこんだような雲が空を覆い始めていた。湿気の篭った嫌な臭いがする。
店を出て、傘を持っていなかったので、兪吉たちは付近にあった傘屋で傘を購入することにした。家に傘を取りに戻るには都合が悪く、だからといって万が一にも宮の着物を濡らすわけにはいかない。安い紅色の番傘を一張買い、傘屋の店主に「夫婦かい?」などと聞かれ、兪吉は苦笑しながら首を横に振った。夫婦に間違えられるとは思ってもみなかった。自然と気分が高揚する。宮と出会った当時の自分では、考えられないことだ。
宮との出会いは、親弥と交友を持つようになってから、一年ほど経った頃だった。当時の兪吉はまだまだ名の売れない貧乏作家であった。実家も小さな農家で決して裕福でなく、見栄を張り、服装こそ気を使い古市で比較的状態のいい着物を探し回ったが、それでも見る人間によっては兪吉の育ちが覗えただろう。
初め、親弥を見た時、やけに身形のしっかりした男だなという印象を持った。襟の立った着物を着込み、そんな男が小説の原稿を持っている。
興味本位で話し掛け、他者に心を開こうとしない親弥を、兪吉は熱心に口説き落とした。知れば知るほど面白い男だと思った。友人として親しくなってからもそれは変わらず、兪吉は愚直なまでの親弥の性格を物珍しく、そして貴重なものに感じていた。こんな男が世の中にいるのかと驚いたほどだ。
ある時、親弥の小説の話になり、そこで初めて兪吉は親弥の障害について、親弥の口から聞かされた。親弥の他者を避け不純を憎む性質はそこからきているのだと納得し、そして、妻を紹介すると言われ、親弥が兪吉を信頼していることがわかって嬉しくなったものだった。
宮を紹介された時、兪吉は強い衝撃を受けた。宮は清廉で、美しく、兪吉には持ち得ない品を兼ね備えていた。なるほど、親弥と並べば、誰もが羨むような夫婦だった。宮が華族の出身だと聞き、親弥も華族と結婚できるくらいの身分であるということを知った。全てに合点がいった。兪吉とは、そもそもの育ちが違いすぎるのだ。
宮に惹かれたのはもはや兪吉にとっては当然のことであった。
そこから、兪吉は事あるごとに親弥の家へと寄るようになった。今までは外で酒を飲んでいたが、宮の手料理を肴に飲むことが多くなった。親弥は最初渋っていたが、宮が嬉々として振舞ってくれるので、兪吉にとってこれ以上の幸福はなかった。もちろん、親弥に嫉妬することは多々あった。だが何よりも三人でいることが兪吉にとって歓びだった。思えば、親弥と宮のような生活に対する憧れもあっただろう。自分もその生活の一部を享受しているのだということに、しびれるような快感があった。
兪吉が師匠の付き添いで向かった大阪から戻り、宮にある相談を持ちかけられた。しかも、親弥には秘密にしておいて欲しいということだった。兪吉はようやく、宮の中で兪吉はただの親弥の友人ではなく、兪吉自身を見てくれるようになったのだと興奮を抑えきれなかった。自分も今や親弥や宮と同じ場所に立てるまでになったのだと充足感に浸った。例えその願いが親弥の為であってもだ。
馬車で目的地である永真遊郭街へと向かう。千寿の店が真金町遊郭にあった。だが今日は仕事で千寿は遊郭街の中にはいないということだった。宮との二人きりでの外出を、邪魔されたくなくて、この日をあえて選んだことは、兪吉以外知る由もないことだ。
永真遊郭街は、空の気色と打って変わって日照のように乾いていた。店から覗く女達も退屈そうに欠伸をし、気だるげだった。客の取れない時間帯はいつもそうだ。売られたばかりの若い娼妓ならまだしも、歳を重ねた女は男の手垢に汚されることに慣れきってしまっている。大概の娘は親の借金を背負い遊郭にやってくる。そして両親の生活を助けようと必死に肉体をどぶに浸け、親はそんな娘の様子を見る為に、さらに借金をこさえてやってくる。身請けされず一生廊の中で過ごすことになるやもしれない自らの身を憂いないわけがない。
果たして宮に、ここに住む女の気持ちが理解できるのだろうか。宮は、口では情けをかけることができても、本質を知ることは一生ないに違いない。宮はここにいる女共とは、比べるのもおこがましい存在なのだ。
目的の店は、真金町一丁目に位置していた。永真遊郭大門から一番遠い位置に当たるが、兪吉や宮にとっては通い慣れた道である。極力人目を避けるため、賽の目のように直角に渡る道を、大門大通りから遠ざかるように進んでいった。宮は持っていたスカーフで頭を覆い、兪吉が宮を守るように寄り添って歩く。
案の定、こちらを見ながら数人が何やらひそひそと話している。邪魔だといわんばかりに睨みつけると、そそくさと散っていった。こんな状態では宮も一人でここには来られまい。兪吉は昔、親弥が自慢げに、宮の隣を歩く優越感を語っていたことを思い出していた。状況は大きく違えど、今宮の傍にいて、宮に頼られているのは自分なのだと、確かな歓びがあった。
横浜娼妓病院に差し掛かろうと言う時、ふいに、宮の足が止まった。そこから糸が切れたように動かない。視線が前方のある一点で固定されている。異変に気付き、つられて兪吉も視力の良い目を眇めて見ると、
「……親弥?」
親弥に背格好の似た男が、通りを身を縮こませるように早足で進んでいた。距離はそんなに離れていなかったが、何分相手は遊郭を飲み込まんとする黒雲から逃れるように、兪吉たちの行き先に向かって急いていた。すぐに姿が見えなくなる。
眼鏡を掛けた顔が一瞬だけ、こちらを向いた気がした。
「どうして親弥様が……」
宮は唖然としていた。足が竦んで前に進まないといった感じだった。
そんな宮をまあまあと宥める。
「あいつがこんなところにいる筈がない。ほら、早く行きましょう。顔を見られては厄介です」
「でも、着物が親弥様と同じ物でしたわ!」
宮の聞いたこともないような甲高い悲鳴が脳に刺さる。兪吉の、宮を落ち着けようと伸ばした手が不自然な形で停止した。
宮は目に余るほど動揺していた。眼球が所在無げに彷徨し、手はわなないていた。薄く色付きのいい唇を食い千切らんばかりに噛み締めている。薄い皮が裂け、ぷくりと浮き出た鮮血が滲んだ。
やけに赤色が兪吉の目に付いた。
兪吉には到底理解できなかった。何故そこまで動揺する必要があるのか。わからない。どうして心を乱すのか。たかが遊郭で旦那を見かけただけで。それとも兪吉と隠れて会っていることを知られるかも知れないという恐怖か。どこが問題なのだ。あんたが俺に頼んでここにいるんだろう。
そこで、兪吉の中に、遊郭の空気に瓜二つな、粘着質で性質の悪い感情がむくむくと沸き起こったことを、兪吉は他人事のように感じていた。湧き出したのは、本当に、ふとした瞬間だった。この程度のことでここまで狼狽する宮に腹が立ったのだ。
親弥も親弥なら、宮も宮だ。夫婦揃って阿保らしい。相手の挙動一つでこうも感情を掻き立てられている。例え兪吉が宮に好きだと告げたところで、宮は冷静に断りの言葉を述べ、親弥との仲を壊さぬよう取り成す、普段の宮ならそうするはずなのだ。
それが、何という様なのだろう。
「すみません、大きな声を出してしまいましたわ……」
「気になるのでしょう、走り去って行ったのが本当に親弥なのか。なら確認すりゃあいい。きっと親弥じゃありません」
必要はないのに、強い口調でもう一度念を押した。友人としての勘ともいうべきか、親弥だろうという確信があった。きっと何か理由があってこの場所にいるのだろうが、今の兪吉にとってそんなことはどうでもよかった。
「さあ、早く」
戸惑う宮の腕を取る。気が急いていた。動悸がし始める。
たまたま通りかかった娼妓が何事かとこちらを眺めている。それほど早く道を駆けていた。通行人の訝しげな視線が刺さる。それが愉快で仕方がなかった。頭の片隅で冷静に自分を鑑みる。自分は気が狂ってしまったのか。
腕を鷲掴みにしたまま宮を引っ張っていくと、案の定、血と同じ色をした格子に縋り付いている親弥の姿があった。おそらく「椛楼」の前だ。四軒離れたここからでは親弥の向かいにいるであろう娼妓が誰かわからないが、おおよそ検討がついた。宮は気付いているのだろうか。いや、きっとそれどころではないはずだ。思わず乾いた笑いが漏れる。
「はははっ、何だ、親弥だったか」
嫌味を含んだ物言いになっていた。宮を見ると、化け物や幽霊の類を見たような、青い顔をしていた。その様にまた笑いが零れる。兪吉自身何故こうも苛立ち、高揚しているのかわからなかった。
「別に親弥が遊郭にいてもどうということはないでしょう。遊女と何をしようと浮気になんてなりませんよ。それに、あいつはどうせ何にもできやしねえんだから」
堰を切ったように、次々悪口雑言を吐き散らす。胃から食道が焼け爛れていくようだった。
「にしても、親弥があんなに見惚れるなんて、一体どんないい女なんだか。あの堅物も人の子ってことか」
宮は何も言おうとしなかった。さらに兪吉は不愉快になった。
「気にすることありませんよ。男なんてのはどうせ、欲望に忠実なのは誰でも一緒なんですよ。まあ、あんたは処女だからわからねえだろうけど――」
その瞬間、空気を割く破裂に似た音が耳の奥でした。一拍遅れて、兪吉の左頬に痛烈な衝撃が走った。見ると、宮が右手を振り上げていた。宮の手の平が頬を打ったのだとわかった。
さっと、周りの喧騒が遠ざかった。痛みが、兪吉の目も耳も鼻も口も、機能を停止させたようだった。完全に頭が焼き切れてしまったのだ。
宮の払われた手の手首を潰さんばかりに握り、強引に体を引き摺った。思考することを放棄していた。これは理性を取り払った純粋な本能だった。抵抗する宮を無視して店と店の路地裏へと身を滑らせ、人目につかないところまで連れ込んだ。
そして、壁に押さえつけた宮の、血で濡れた口にためらいなく噛み付いた。
歯が軟い肉を抉り、鉄の味が広がった。漏れた血液が口角を伝い流れる。宮が声を発する前に、舌を捻じ込んで息を継げなくする。不慣れな宮の反応が腹の底から面白かった。舌の表面の粘膜を嬲る。なんと親弥は愚かなのだろう。どうせあいつのことだ、宮に触れることすらままならないに違いない。宮は抵抗の仕方すら知らないのだ。
服を手荒に扱うことだけはしなかった。正常な判断などとうにできなくなっているというのに、宮の高価な着物だけは認識しているのが馬鹿らしかった。襟の合わせを開き、宮の喉元を前腕で圧迫し、宮がひゅっと息を呑んだ。
宮の右の乳房に手を這わそうとした時、通りから聞き慣れた声がした。複数人と挨拶交じりの会話をしている。千寿の声だった。刹那、兪吉の意識が千寿の方へと向く。
その隙に、宮に思い切り胸を突かれ、兪吉はそのまま狭い路地の壁に強かに背中を打ちつけた。肺に振動が伝わり呼吸が詰まる。反射的に俯いた顔を上げると、宮が目を腫らし悲痛な表情で兪吉を見ていた。そのまま何も言葉を発することなく、宮は身を翻した。
走り去る宮を視線で追いながら、自律神経がおかしくなったのか、引き笑いが兪吉の口を突いて出た。止めようにも収まりようがなかった。そのままずるずると壁を擦り、その場に座り込んだ。愉快で仕方なかった。唯一、宮が涙を見せなかったのが心にわだかまる。そこで、兪吉は滔滔とした自身の衝動の意味を理解した。破壊してしまいたかったのだ。入り込む隙のない宮と親弥の間柄も、親弥の友人と妻という間柄も、兪吉に感情の一片すら見せようとしない宮も、そして全てわかっていながら知らぬ振りをし、驕っていた自分自身もだ。
自分の犯した愚行を認識した頃には雨で頭も体も冷え切っていた。兪吉は体を起こして、宮が手放し置いていった傘を引き摺ってふらふらと歩き始めた。これで全て終わりだ。弁明する気はなかった。目を逸らしていただけで、いずれこうなる気がしていた。結局のところ、自分は薄汚れた下級階級の人間なのだという、ただそれだけのことだった。それが兪吉の本性なのだ。
永真楽遊郭の大通りを出口に向かって足を擦るように進んでいると、一人の男が声を掛けてきた。辺りに他に人影はない。袖の煤けた、何度も修繕を加えられた着流しを着ていた。挑発的で相手を卑下するような表情を浮かべている。 面倒に思い先を行こうとしたが、腕を掴まれて後ろに引かれた。
沈下したと思っていた火種が、じりっと音を立てて火花を散らした。
「あんた、よく『はまゑ』で千寿ってえ楼主と飲んでる奴だよな」
「さあな、知らねえが」
「あんた、いくら払ってんだ」
「なんだと」
「千寿の野郎にだよ。あの野郎、俺みたいな男は店に入れないなんて言いやがる。あんたのような金持ちしか相手にしないって腹積もりか知らねえけどな、苛立つなってえ方が無理だよな」
胸倉を掴み上げられた。爪の間に垢の詰まった手が首元にある。
「やめろ」
「ああ? 何だあんた、俺を馬鹿にしてるのか。ご大層な服着やがって」
男の手がネクタイを引っ張った。ささくれ立った指が汚らわしかった。
気づいた時には、傘を振り上げ男の腕に叩きつけていた。特に罪悪感は覚えなかった。自棄になっていたのもあるだろう。何度も振り上げ、ついには番傘は骨が四方八方に枝分かれし、持ち手の竹筒は幾重にも折れ曲がっていた。所詮安い傘だ、深手を負わせるまでもなく使い物にならなくなり、兪吉は男が起き上がるよりも早く、その場を走り去った。
いっそうこのまま全てを壊してしまおうか。兪吉は熱を持ったままの頭で、ある考えを巡らせていた。落ちるなら親弥を巻き込んでやろうと思った。どうせなら、この傘のように修復できないところまで毀損すればいい。
楓の存在を知ってから、親弥は現実から逃げるかのごとく執筆に没頭し始めた。今までも、寝る間も惜しんで書き続けたことは何度かあった。締め切り前ともなったら風呂にすら入らない始末だ。しかし、今の親弥は明らかに以前までと異なっていた。他の人間を、あからさまに避けているのだ。必ず居間で食事を取っていたが、今では神崎に客間へと運んでもらい、一人で食事をし、日が暮れればいそいそと風呂に入った。そして、宮が部屋に戻ってくる前にさっさと眠りに就くのである。そして深夜に起き出してまた原稿に向かった。小まめに読むようにしていた新聞や本さえも、親弥の気を引くことはなかった。
親弥は本能のまま作中の「楓」となる椿を犯し続けた。時に花をめでる様に、時に絶望するほど残虐に、親弥の想像し得るありとあらゆる手段を使って、椿を悲惨で可憐な娼妓へと仕立て上げた。
物語はこうだ。幼少の頃から妓楼で生活していた椿は妻子ある客の男と恋仲になる。男は独占欲が強く暴力を振るう男だった。しかし男はうつけ者で、椿とは違う娼妓を一夜の情事で妊娠させ――その場面で、遊郭の横浜娼妓病院前で見かけた、腹を膨らませた娼妓が思い出されて、ここのところ慢性的にあった胸焼けも相まって、胃の内容物を嘔吐した。吐いたのは昼にどうにか食した少しのさわらとはじかみだけで、あとは胃酸だけだった。最近はあまり食べ物が喉を通らなかった。酸が舌に広がり、薬と一緒に茶で飲み込んだ――娼妓に子どもを生ませ、男はその子を妓楼へ売る算段を立てていた。椿は失うまいと必死に留めていた純真な心で、男と結ばれることを望んでいた。しかし男の本懐を知り、また娼妓に同情し、それでも男のことを愛していた椿は、男が子を売る前に、無理心中を図る。結果男は死に、椿は命を取りとめ、その後も妓楼から出る事無く、全てを悲観しながら一生を終える。
心中の方法はあえて、共に川へと身を投げるというものにした。荒れ狂う流れに内臓を圧迫され、酸素を求める肺に否応なく水が入り込み、沈む体に岩石が鞭打つ感覚。過去の自身の経験を思い出し親弥の空っぽの胃を苦汁が満たしたが、これこそが相応しい最後だと、親弥には確信があった。自信が持てると、筆が進んだ。次から次へと表現が、言葉が親弥の内に溢れ、小説の中で意味と色とを持って形を成していく。
これこそが自然主義作家「久賀野有座」の最高傑作になるはずだ。親弥の全てがこの作品には表れていると、信じて疑わなかった。
大谷邸に来て十一日、一心に書き続けた小説は終盤の心中の場面に差し掛かっていた。出版社に見せたい原稿があると電話を借りて連絡すると、担当の男は驚いたようだった。親弥にしてはかなり速い速度で原稿を書いていた。
「あと三日で東京に戻るから。それまでにはなんとか書き上げるよ」
『はあ……。でも、こちらからお願いしていた原稿ではないんですかね』
雑音交じりの編集者の声が、ずっと篭って聞こえる。
「それもちゃんと書くよ。今は調子を取り戻そうとしているだけだから」
そう言って受話器を置き、親弥は編集者の男を馬鹿にした。お前の持ってくる話なんかより、俺の作品の方がいいに決まっている。親弥は本心からそう思っていた。毎日力を入れて万年筆を握る手は肉刺が固くなり姿を変え、親弥の痩躯はさらに肉を落とし、内臓は傷んで様々な異常を来していた。しかし、親弥は一つも苦に思わなかった。仕方がないことだ、良い物を生み出すには少しの才能と、あとは努力と労力しかない。
時折視線を感じるものの、宮は親弥に話し掛けることをしなくなった。親弥から声を掛けることもない。部屋は、「執筆に専念するから」といつものように言い訳して、宮に別の部屋を用意してもらった。到底同じ部屋で就寝することなど不可能だった。宮に、以前のように接することができなくなっていた。宮を見ると、罪悪感で埋め尽くされ、宮と「楓」が重なり劣情を催しては、身の竦む思いがした。宮が何やら塞ぎこみがちであることにも気付いていたが、親弥は見て見ぬ振りをするのに精一杯であった。でなければ、頭の割れるような嫌な妄想ばかりが浮かんで気が狂ってしまいそうなのだ。
もはや手遅れだったのかもしれない。
空は、連日の記録的豪雨だった。馬車が泥水に浸った道を、飛沫を跳ね上げながら駆けて行く。親弥は永真遊郭街へと向かっていた。勝手に足が運んでいた。もう一度楓に会いに行くことはすでに決めていたことで、原稿を完全な形で仕上げるためにも必要なことであった。それが上面の理由だと理解していても、いてもたってもいられなかった。
日はとうに暮れている。椛楼への道すがら、親弥の前に立ち塞がろうとする人影があった。
「よお、親弥。やっと来たか」
親弥は目を見張った。薬の作用で幻覚でも見えているのかと疑うほど、現実から遠い景色のように親弥には見えた。
幾分かやつれた様子の兪吉が、そこにいた。目元が隈取りしたように落ち窪んで、長髪が頬や額に張り付き、人相が変わっているのだ。身形や立ち振る舞いは普段通りであるのに、醸し出される雰囲気には親弥に対する敵意が感じられた。それにこの雨の中傘も差していないのだ。
ざわりと肌が粟立った。無意識に薬の所在を探していた。薬入れは机の上だ。
「数日振りだな。家に行くわけにいかねえからな、ここにいればいずれ来るだろうと思っていたぜ」
「……何だ、ずっと俺を待っていたとでもいうのか」
「ああ」
兪吉は平然と言い切った。兪吉の声には抑揚がまるでなかった。いつも溌剌としている兪吉からは想像もできない有様だった。
「何があったか知らないが、ご苦労なことだな」
親弥には軽口を叩くことしかできなかった。袴を握り締め、どうにか平常を保つ。
「死神みたいな顔してやがるな。どうした、宮さんと揉めでもしたのか?」
兪吉がようやく笑みを浮かべた。
「お前こそ、少し見ぬ間に随分雰囲気が変わったな」
「ああ、そうだろうとも。何せ人生が変わったんだからな」
兪吉は今にも高笑いをせんばかりに、頬を引き攣らせた。人生が変わったとはどういうことだ。兪吉の敵意が増したように思えて、親弥は一歩後ずさった。
「親弥。俺はずっとお前を待ってたんだ。この雨の中をだぞ。お前に渡さなきゃならないもんがある」
兪吉が手を差し入れ、ごそごそと懐から何かを取り出した。それを指先で摘んで、体三つ分離れた位置にいる親弥によく見えるように腕を伸ばす。
それは、宮のかんざしの花飾りだった。親弥が贈ったものだ、間違いようもない。
親弥は一瞬言葉に詰まった。そして、早まる動悸の所為でうまく息が吸えなくなった。
「これ、宮さんのだろう? 外に出る時はいつも差してたもんなあ」
兪吉と宮が外で会ったことなど、本当に数えるほどしかないはずだ。
「何で、それを」
「お前等が横浜に来てすぐくらいの時か、宮さんと一緒にいたんだが、その時に落としてな。拾ったまま返すのを忘れていた」
雨風で、花飾りが兪吉の手の内でのたうっていた。それに煽られるように、背中に玉の汗が噴き出してきた。どろりとした嫌な汗だ。
「その後、宮さんがこの花飾りが落ちていなかったか、俺が泊まっていた宿まで尋ねてきたんだがな、その時はすっかり失念していたんだよ。あれは確かお前と千寿殿と飲んだ日だった」
兪吉が愉快そうに、声を上げた。兪吉の大きな手が花飾りを握る。力を入れて掴まれた飾りは千切れてしまうのではないか。
酷い胸焼けが襲ってきた。一体こいつは何を言っているんだ。耐えられず、黙れ、と叫んだつもりだったが、息が喉に絡まって音にならなかった。
「お前は知らなかったんだろう。俺と宮さんが会っていることを。そうだろうな、お前は宮さんのことを何にもわかっちゃいない。話すらまともにしていないんじゃないか? ああ、それと、何日前だったか。親弥、お前さんどうしてこんなところにいたんだ? あの日も宮さんと一緒だったんだがな、お前を見つけて宮さん驚いてたぞ『どうして親弥様が』ってな」
「や、やめろ……」
ようやく出た声だったが、か細く消え入りそうだった。心臓の鼓動が煩わしくて自分の声も周りの音も何も聞こえない。だが、兪吉の言葉だけは何故かはっきりと親弥の中で反響していた。
兪吉がとうとう声を上げて笑い出した。乾ききった笑いだった。
「何だ、俺は事実を語ってるまでだぞ。俺は宮さんに会いたいと言われてわざわざ会ってたんだ。なんなら確認したっていい。宮さんをこの場に呼び出して訊いてみるか。それとも、俺と宮さんが傘を買った『湯浅屋』の店主に尋ねてもいいぞ。夫婦だなんて言われたもんだからなあ」
兪吉の声が一回り大きくなった。眼光鋭く、親弥を挑発する意図が見えた。
全身が痙攣する。まさか、そんなはずはないと必死に否定してみても無駄だった。あの時感じた不安や違和感は全て親弥の妄想ではなかったのだ。耳鳴りがしてどうしようもなくなった。
動こうともせず黙る親弥に、兪吉がぐっと詰め寄った。
「何が夫婦だ、接吻もろくにしたこともないんだろう。笑わせるな。宮さんは俺が舌を入れても嫌がらなかったぞ。案外他所で男と寝てたりするんじゃないのか。お前さんと違って、宮さんの体は正常なんだからな!」
血の滲んだ宮の唇が事実だと物語っていた。兪吉の強い口調に後押しされるように、親弥は兪吉を黙らせようと握った拳で兪吉の頬を殴りつけた。頬骨に当たった指に鈍痛があった。手首が反り返り、みしっと骨が鳴った。傘が転げ落ちる。筋肉の削げた腕で、体重も乗っていないひ弱な打撃だったが、兪吉はそれでも後ろに倒れこんだ。
親弥も両膝を付いた。ばしゃりと水音と泥を飛び散らして、無造作な髪に掛かった。親弥の息は切れ、内臓が競り上がってくる感覚に呻く。目の奥が熱くなった。親弥は色をなした。得も言えぬやるせなさで、目頭に涙が滲んだ。
親弥はゆっくりと立ち上がると、兪吉の握っていた花飾りを奪い取り、来た道を引き返した。穴が開き、血が全て体外に流れ出たかのような虚無感が親弥を苛んだ。
兪吉は自らの腕で両目を覆ったまま、何もしようとしなかった。
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