第三話

 親弥は禄太郎氏に呼ばれ、禄太郎氏の自室に向かって進んでいた。到底個人の屋敷だとは思えない長い廊下は、朝日をこれほどかと取り込んで、目を細めるほど眩しい。扉の前で立ち止まり、そして親弥は入室を躊躇した。どうにか生唾を飲み込んで、数回手の甲で扉を叩く。

「親弥です。お呼びでしょうか」

 親弥が丁寧に言うと、中から神崎の招き入れる声がした。

「失礼いたします」

 ゆっくりと取っ手を捻り、部屋の中へと入った。禄太郎氏はベッドに腰掛け、窓から庭を眺めていた。多くの山茶花が白い花弁に霜を纏って庭を彩っている。奥の池で鯉が跳ねていた。

書生として世話になっていた時代も、禄太郎氏は同じように庭を見ていた。昔の風格が禄太郎氏に現れていた。

 脇に控える神崎から、体を支える為の杖を受け取り、ゆっくりと体勢を変える。

 禄太郎氏は親弥を振り向き、相好を崩した。

「親弥君。急に呼び出してすまなかった」

 禄太郎氏の声音は落ち着いていたが、はっきりと芯の通ったものだった。親弥達が大谷邸に来た日とも、その日の昼食で見せた狂気染みた様とも違い、体躯の衰えを除けば親弥の記憶の中の禄太郎氏その人だった。神崎の話では一時だが正気に戻ることもあるという。今がその時なのかもしれない。

「いえ、私の方こそ申し訳ございません。全て宮に任せきりとなってしまい」

「今は小説を書いているんだったな。役場の仕事は続けておるようだし、休みの間に副業をするのも結構だろう。宮は久賀野に嫁いだのだ、遠慮することはない。ところで、お父上は元気かね」

 父親の話を出され、親弥は表情が歪むのをどうにか堪えた。

「ええ。兄が支えているので、事業の方も順調なようです」

「一度、挨拶に来ると連絡をもらったんだがね、生憎こんな状態で会うわけにもいくまい。今度、知り合いの婦人の誕生パーティがあるのだが、そこにご招待しよう」

 禄太郎氏は「忘れない内に手配してくれ」と神崎に頼んでいる。どうして知りもしない婦人のパーティに参加しなければならないのかと親弥なら思うところだが、大事な社交の場を提供しているという面では、父のような立場の人間ならありがたいことなのだろう。

 親弥の父は貿易業で成り上がった男だった。大谷には到底及ばないが、親弥の地元である長崎では、久賀野は名の知れた家だ。宮との結婚を認められたのは親弥自身の努力と、宮の意志を汲んでのことだろうと思うが、久賀野と関わりを持つのは大谷にとっても多少なりともうまみがあるのだと、親弥でも知っていた。もちろん久賀野にとってはこれ以上ない縁談だった。親弥が家業に携わらずに済んでいるのはそのおかげあってこそだ。

 だが、親弥の父は、宮との結婚を喜びつつも、親弥を大谷家に婿入りさせることはしなかった。

子孫も残せない息子を他所へ出すのを恥じたのだろう。母も兄の方を可愛がっており、見てみぬ振りをすることが多かった。

心臓付近にざわざわとした不快感を覚えた。酒を飲み過ぎた時のような胸の重みを感じる。親弥が禄太郎氏を苦手としているのは、何も人嫌いだからという理由だけではないのかもしれない。

禄太郎氏は眼光鋭く親弥を眺めていた。視線に気付き、顔を上げた。

「ところで、夫婦仲はどうなのだね。うまくいっているのか」

「はい、それはもう」

 親弥はそう答える他なかった。

「本当かね。いつも夫婦でどのような話をしているんだ」

「大したことは何も。仕事のことが多いですが」

「そんなことでは駄目だろう。もっと交流が必要なのではないのかね」

 親弥は頷いた。一体、禄太郎氏は親弥に何を求めているのだろうか。

「わしは、妻を大事にしてこなかった。仕事ばかりにかまけ、結局妻は心労で病気になって死んだ。宮には、同じ思いをさせたくないと思っている。それはわかるね」

「はい」

 暗に、宮との接触のなさを責められているのだろうか。

 禄太郎氏は、杖を器用に使って立ち上がった。

「親弥君。君に言っておきたいことがある」

 禄太郎氏は言うと、自嘲気味に鼻を掻いた。親弥が身構えると、「そんなに固くならんでいい」と諭された。

「情けない話だが、儂の病はもうどうすることもできん。だから、完全な阿呆になる前に、爵位を返上しようと思っとるんだ」

「返上、ですか」

 それは、さして意外でもない話だった。公家や藩主に由来する華族でなく、国家への勲功による華族、いわゆる「新華族」は、一代で爵位を国に返上することは珍しくない。

「元々そのつもりではいたんだがね。だから君を婿養子に取ることもしなかった。だが、一つ気がかりなのは、孫のことだ」

 居心地の悪さと緊張から首から上に集まっていた血液が、さっと引いたのがわかった。孫。親弥にとっては嫌な響きだ。

「儂ももう歳だ。妻が死んだ後、一人でどうともやっていけると思っておったが、結局この有様だ。考えも変わる。親弥君、儂はな、了解を得られれば、返上せず、孫を養子に取って爵位を譲ることも考えておる」

「それは……」

「儂に、孫の顔を見せてはくれんか。頼む」

 禄太郎氏は、初めてだろう、親弥に深々と頭を下げた。

 返答しなければならないと思い口を開くが、続く言葉が出てこなかった。今までも孫はまだかと話に出ることはあっても、こうして頭を下げられるとは思ってもみなかった。結局、一代で成り上がった、そのことに満足していたが、自身の終わりを感じて跡取りが欲しくなったのだろう。

ここで、「無理です。孫は諦めてください」と言えればどれだけ楽かと考える反面、希望がないと自ら認めることはしたくなかった。

「急な話だということは重々承知している。しかし、例え養子にせんでも、孫は誰だって見たいものじゃないか。君だって、君の血を引いた子どもが欲しいだろう」

 もどかしい気分になる。親弥がどれほど苦悩しどれほど子どもを欲しているかなどこの男には計り知れない。だが反論することは適わない。

「考えておいてくれ」と念を押され、親弥は禄太郎氏の自室を出た。廊下で立ち尽くす。下唇を噛み、頭を掻き乱す。胸の辺りにわだかまる不快感を消そうと、袖に潜ませておいた薬に手を伸ばした。

 居間で水と共に喉奥に流し込んでいると、その様子を見た宮がその場で足を止めた。

「親弥様、またそのお薬を」

「君が気を病むようなことではないよ」

「父に、何か言われたのではありませんか」

 心臓が一度大きく跳ねた。それでもおくびにも出さず、「違うよ」と否定する。

「でも、先ほど、父の部屋に行かれていたのではないのですか」

「よく見ているね。さすがだよ。でも、世間話をしただけさ。いくら仕事があるとはいえ、一切顔を合わせない訳にはいかないだろう」

 嘘に嘘を重ねる。いつからか、小さな嘘を吐くことに抵抗がなくなっていた。最初の頃は、宮の気を煩わせたくない一心だったが、今はなるべく面倒ごとを避けたかった。宮に本音を言うことなどほとんどなくなっていた。

「また部屋に戻るから。ちょうど、筆が進み始めたところなんだ」

 宮に微笑みかけて、親弥は居間を出た。最近は宮の言葉数が減っているように感じた。書斎と成り果てている部屋にも、就寝の時以外は立ち入ろうとしない。そしてそれを好都合だと感じている親弥の何と酷いことだろう。親弥は自らを卑下していた。自分の都合で宮を遠ざけているに過ぎない。

 そのまま客間に戻ろうとすると、廊下で神崎に声を掛けられた。

 神崎は周りに誰もいないことを確認し、親弥に「申し訳ございませんでした」と謝罪した。

「旦那様がおっしゃったことでお気を悪くされているのではないかと」

「ああ、そんなこと。別に平気ですから」

 神崎は表情を変えぬまま、首を振った。

「実は私は、親弥様のお体のことについて、お父上からお伺いしているのです」

 意外な事実に、親弥は、え、と聞き返した。

「書生として親弥様が屋敷に来られた際に、ご挨拶に付き添われていたお父上に、障害のことをもし他所に知られるようなことがあれば、隠す手伝いをしてほしいと、お願いをされたことがございました。親弥様の身を案じてのことだと思いますが」

 神崎が不自然に言葉を濁す。

 神崎はそう言ったが、おそらく違うだろうと、親弥は胃が焼ける思いだった。縁談に支障が出るからだ。宮との結婚までは想定していなかっただろうが、禄太郎氏の紹介で良家との縁談が持ち込まれることもあるだろうと予期して、使用人の神崎を使って禄太郎氏に知られないよう釘を打ったのだ。

「そうでしたか、すみません、気を使っていただいて」

「旦那様のお話は忘れてください。きっと、旦那様もお忘れになるでしょう」

 神崎は頭を下げ、二階へと昇っていった。

 まさか、神崎に知られていたとは。親弥は顔を覆った。

 客間に戻ると、ふと、チェストに飾られている写真が目に入った。今まで気にしたことがなかったが、よく見ると、宮の小さな頃の写真や、親谷の書生時代に撮った、禄太郎氏、宮、親弥、神崎の写ったものもあった。

「懐かしいな……」

 あの頃は、子どもがいなくても、宮が傍にいてくれるだけでいいと思っていた。だからこそ、将来に希望もあり、自分は何かやりたいことを見つけて、親の束縛にも囚われず、自由に生きていくのだと信じて疑わなかった。

 そもそもの間違いが、宮も親弥と同じ気持ちであると、心のどこかで決め付けていたことだった。親弥が、子どもが作れないと宮に告げた時、宮は微笑んで、「それでも構いません」と言った。子どもよりも親弥自身を選んでくれたのだと、親弥は心から喜んだが、今思えば宮が本心からそう考えているとは限らないではないか。それに、結婚してもう一〇年以上経つ。その間に気が変わることもありえるだろう。むしろ、変わっている方が自然とすら思える。あの頑固者の禄太郎氏でさえ、孫に爵位を譲ると言い出すほどなのだから。

 禄太郎氏は、宮にも同じ話をしたのだろうか。孫が欲しいと。その時宮は、一体何と答えるのだろう。やはり、親弥のように言葉を濁すのだろうか。

 いつの間にか、写真を硬く握り締めていた。力の入りすぎた指先が白く濁っている。力を抜いた瞬間、写真立てはするりと滑り落ちて、親弥の右足の甲に当たった。木製の単調なデザインの写真立てだったが、四隅は鋭利に尖っている。当たり所が悪かったようで、太い血管が裂け、血が溢れてきた。鬱血した箇所が青黒くなっている。

「これが俺の望んでいた将来への答えなのか」

 写真立てを拾い上げ、救急箱を探す。しかし見当たらず、そういえば居間にあったことを思い出した。

 居間に舞い戻ると、宮がシャツのボタンを付けているところだった。大きさからして禄太郎氏のものらしい。

 宮は親弥に気づくなり、手を止めた。

「すまない。足を怪我してしまってね。救急箱がどこにあるかわかるかい」

 先ほどのこともあって、今はあまり顔を合わせたくなかったのだが、ここで宮に「なんでもない」と言うのも不自然かと思い、親弥は苦笑した。

 すると、宮の顔色がさっと青ざめる。

「一体どこをお怪我なさったのですか!」

 宮は、手にしていた裁縫道具を置き、親弥の傍に飛んできた。足の怪我を見るなり、さらに血色の失せた顔となり、怪我をしている当人の親弥が戸惑うほどに狼狽している。

「早く手当てをしないと!」

「宮、落ち着きなさい」

「でも……」

「君は心配性すぎるんだ」

 宮をどうにか宥めると、宮は居間にある棚の中から救急箱を持ってきて、親弥の足の手当てを始めた。血を拭い、消毒をして、いらないといった親弥の言葉を無視して、包帯を巻きつける。その間、宮の手は、微かに震えを伴っていた。血が苦手だっただろうかと過去を思い返してみたが、そのような記憶はどこにもなかった。

「これで大丈夫ですわ。でも、歩く際もお気をつけくださいませ。また傷口が開いてしまうかもしれません」

「ああ、ありがとう」

 親弥が礼を述べると、宮は微笑んだ。宮の笑顔を、久方ぶりに見た気がする。

「あっ」

 顔を上げた宮が、声を漏らした。宮の視線の先を追うと、窓の外に、まるで迷子のような頼りない足取りで玄関口へと向かってくる少年の姿があった。紙袋を抱えているので、使いに来たのだろうか。

 近くに神崎の姿はない。

「私が出て参りますわ」

 宮はそう言って、小走りに玄関へと向かった。居間は玄関と隣接しているので、神崎がいない以上、宮か親弥が出る他ない。

 窓越しで声は聞こえなかったが、宮は屈んで少年と向き合い、なにやら笑顔で話をしていた。緊張している面持ちだった少年も次第と笑顔になり、朗らかな様子でいる。

 先ほど、懐かしい写真を見たからだろうか。過去の宮の姿と今が重なる。大谷邸の近所に住む子どもたちと、宮はよく花札をして遊んでいた。その時の宮の楽しげな表情は、親弥にとっては忘れられないものだった。

 しばらくして、宮は少年が抱えていた紙袋を持って戻ってくる。

「それは?」

 親弥が紙袋を指して問うと、

「花の種ですわ。近くの方に譲っていただいているそうで、届けてくれたのです。これは、冬から春に掛けて巻く種だそうです」

 大谷邸には、多くの花が咲いている。今の時期は、白の山茶花だった。便箋の香りも、確か山茶花を使用していた。便箋は、季節折々の花の香を染み込ませてあった。花好きの禄太郎氏のこだわりなのだろう。

「せっかく届けてきてくれたんだ。何か彼にお礼をしたほうがいいんじゃないか?」

 親弥の言葉に、宮がはっとしたように息を呑んだ。

「そうですわね……何がいいかしら」

「確か、みかんがあっただろう。神崎さんが好きに食べろと言っていたから、問題ないはずだ」

 宮は、台所に飛んでいき、みかんを数個風呂敷に包んで、小さい彼を追いかけていった。

その時目にした宮の顔は、綻んでいた。それこそ、宮の美しさの引き立つ、心からの喜びの表情だった。

 もう一度薬に手を伸ばしそうになり、親弥は頭を掻き毟って耐え忍んだ。最近、薬に頼りすぎている節があることを、親弥自身も自覚していた。精神的に、めっぽう弱くなっているのである。




 悩んだ末、親弥は気晴らしに、禄太郎氏に許可を取り(正確には神崎にだが)、禄太郎氏の書庫から本を何冊か引っ張り出してきた。別のことに精神を集中させたかった。中には、かの田山花袋の『蒲団』が収録された、易風社刊行の『花袋集』も含まれている。少年にみかんを渡して戻ってきた宮に、客間に戻ると告げ、客間の椅子に座って花袋集を広げた。

『蒲団』は、主人公の名を「竹中時雄」としているが、実際のところはほとんど田山花袋本人である。妻子ある身でありながら女弟子に片思いし、女弟子に対する性的欲求を露悪的に描いた作品だが、その生々しさたるや、他の作品に追随するものはないと、親弥は思っていた。特に、女弟子が着ていた夜着の匂いを嗅ぐ場面は、女性との性交が適わない親弥にとって、身悶えするほどの衝撃だった。それは、何度読み返しても、薄れることはない。

 しかし、違和感が拭えないこともまた事実だった。 

禄太郎氏の所蔵には、異国の文学作品も数多く(禄太郎氏が異国かぶれになったのはこの為だと思われる)、自然主義文学が提唱されたフランスの作品もあり、親弥は例外なく、あらゆる作品に触れていた。

 自然主義文学は、エミール・ゾラにより定義された学説に基づいている。それによれば、あくまで「客観的に」自然の事象や真実を描くこととされている。つまり、『蒲団』のように、花袋の主体性を持った作品は、自然主義とはいえないということになる。もちろん、エミール・ゾラの『ナナ』も拝読したが、違いは明らかだ。

 しかし、日本における自然主義が、島崎藤村の『破戒』や、『蒲団』のような、いわゆる私小説的な作品であると定義されているのもまた事実である。この認識の違いが、親弥と出版社との大きな隔たりとなっているのだ。

 親弥としては、どちらの定義も否定するつもりはない。だからこそ、不倫などの不貞をあくまで「客観的に」描くことに親弥は熱を注いできたのである。しかし、出版社はあくまで流行りの「私小説」を求めている。その齟齬があるかぎり、親弥は文学においても、満たされることはないのかもしれない。

 親弥は、しばらく熱心に読みふけっていた。作家にとって、他の作家の作品を読むことはいい刺激になる。一通り持ってきた本を読み終わり、それでも物足りなさを感じて、新たな本を探しに本屋へと出向いた。やはり、書庫は病気を気に更新されておらず、五度以上読んだ作品ばかりだったからだった。

 古びて建てつけの悪い、極小さな本屋を時間を掛けて回り、はたと、兪吉の作品に目が留まった。無視できず、手にとってみる。知らない作品名なので、一体どういった内容なのかさっぱりわからない。カフェー・プランタンで兪吉が売り上げを更新したという話をしていたのは、この本だろうか。

出会った当初は、兪吉の作品は欠かさず目を通していたのだが、最近はめっきり読まなくなっていた。親弥にとっては別の意味で面白くないからである。

 親弥は持ち銭を確認し、気まぐれで兪吉の本を購入することにした。貸本屋で借りることも考えた末、そこまでわざわざ出向く気にはなれなかった。

 屋敷で腰を落ち着け、数頁読んだところで、親弥は険しい形相になった。

「なんだ、これは……」

 本の著名を確認する。間違いなく兪吉が書いた作品であるにも関わらず、親弥にはにわかに信じ難かった。

 文章自体は、今までの兪吉の文体と変わらないのだが(繊細さに欠けるが、感情の波や人物描写に定評があり、大胆なまでの言葉選びが特徴である)、内容が大きく異なっていた。兪吉の作品は、自然主義の中でも、自身の女遊びやすさんだ恋愛観をひけらかしつつ、どちらかといえば娯楽性の高いものが大半であった。それが、主人公が一人の女に心奪われ、関係の深い娼妓との間で揺れ動く恋愛譚へと様変わりしているのである。作品としての完成度は非常に高いが、これが日本文学における「自然主義」とは到底言い難いだろう。しかし、妙に写実的であるというのもまた、親弥の持った感想だった。

「なんだ、俺の知らぬ間に好きな女でも作っていたのか?」

 遊び人の印象が強い兪吉がこのような作品を書けば、世間が沸くのも頷ける。

「一体どういった風の吹き回しなのか」

 親弥が読まなくなったここ数年で、作風を変えたのだろうか。確かに、反自然主義の運動も盛んであり、衰退しつつある様式であるといえるが、それにしても、変化が露骨である。

「これは問い質さずにはいられないな」

 兪吉は、こと恋愛に関しては、口を閉ざす傾向にあった。これを気に、すべて洗いざらい吐いてもらおうではないか。




 田之上兪吉は、「はまゑ」で千寿と酒を酌み交わしていた。先日と同じように店は賑わいをみせており、兪吉と千寿の会話も喧騒に紛れていた。あまり他人に聞かれたくない話をするのには、こういった場所の方が好都合のことが多かった。といっても、今は深刻な話をしているわけでもないのだが。

「今日は久賀野さんいらっしゃらへんのですね。呼んでもよろしかったのに」

 つまらない、と言わんばかりの千寿に、兪吉は溜息を吐いた。

「何を言っているんです。あいつがいるとできない話をにし来てるんでしょう。何のために前回出くわした時、さっさと席を立ったんです?」

「ああ、そうでしたそうでした」

 千寿は笑いながら冷奴を摘んでいる。親弥は千寿を身分の高い人物に勘違いしていたようだったが、千寿は人を冷やかすことを好み、それでいて庶民的感覚を持った男だ。こうして二人で飲んでいる時は、兪吉や親弥となんら変わりない。むしろ身分からすれば親弥の方が高い位置にいる。

「それにしても、聞いた通りの堅物さんみたいやったけど、今時珍しい人ですねぇ。それこそ武士みたいやわ」

「あいつは一寸特殊ですから」

「はて、何か理由でもあるんやろか」

 興味深々といった様子の千寿に、兪吉は腕を組んだ。

「それはいくら千寿殿でも言えないな」

「なんや、いけず」

「いけずも何も、人には言えないことの一つや二つあるでしょう」

「そないに重い話やったら、しつこく聞きませんけどね」

 千寿は、益々興味沸いたわぁ、と零す。

「田之上さんにもありますのん? 人に言えないこと」

「別に俺の話は構わないでしょう」

 兪吉は、大仰に咳払いをした。

「今度はいつ来られはるんですか」

 千寿は、興味が失せたとばかりに徳利を煽った。

「それが、まだいつになるか」

「僕も仕事でおらん日があるんで、早めに教えていただけるとありがたいんですがねぇ」

「大丈夫ですよ。俺がいりゃ問題ないでしょう」

 兪吉の発言に、千寿は箸を止め、そのまま何事もなかったように味噌田楽に箸を伸ばした。千寿は先ほどから豆腐料理ばかり口にしている。

「まったく、兪吉さんも人がよろしいやらよろしくないやら」

「どういうことです?」

「いいえ、何も。いずれにしても、来ていただけるとありがたいですわ。やはり当人がおらんことにはねぇ」

 千寿が咀嚼しながら、旨いと唸った。兪吉も一口田楽を噛み切り、そして酒を流し込んだ。

「俺には理解できませんけどね。何故そこまでするのか」

「そんなん僕にもわかりません。そこは個人的な問題でしょうから。けど、僕としてもありがたい話です。このまま何も問題なく進むことを願うばかりですよ」

「だから邪魔だけはしないで下さい」と千寿は言葉を付け足した。

「どういう意味です」

 兪吉が眉間に皺を寄せて問うと、千寿は笑いながら手を左右にひらひらと振った。

「そないに怖い顔せんといてください。冗談ですよ、冗談」

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