第二話
十二月中旬、久賀野親弥は役場での仕事が一段落し、久々の休日を家で過ごしていた。忙しくなるこの時期は到底仕事以外のことを考えている余裕はなかった。家に帰れば布団でしばらく横になるだけで、久しく万年筆も握っていない。だがそれが苦しくもあり、楽でもあった。
親弥の書斎には、大窓から北風がすり抜けて、部屋全体が寒気に満ちていた。擦りガラスの窓はかたかたと音を立て、散った枯葉が風で張り付いていた。肌寒いだけならまだしも、沈殿した空気が否応なく足を冷やす。
「どこから漏れているんだか」
臙脂色のカーテンをぴっちりと閉め、親弥は窓を睨みつけた。今日も午前に簡単な診察があり――診察と言っても近況報告の場となりつつあるが、帰宅後井戸水で洗った手が痛くうずいている。十二月でこれほどの寒さなら、冬が本番になる頃は一体どうなってしまうのだろうか。
親弥が身を震わせていると、書斎の扉が数回、等間隔で叩かれた。返事をするとゆっくりと扉が開いて、遠慮がちに宮が入ってくる。
「どうした、宮」
親弥が優しく尋ねると、宮は細く息を吐いて微笑んだ。
「親弥様がお出かけになっている間に、田之上様がお見えになって、これを置いていかれました」
宮がそう言って、親弥の好きな銘柄の日本酒を手渡してきた。以前は「玉の泉」「鳳麟正宗」という酒銘だったが、一九〇四年に勃発した日露戦争を期に「月桂冠」へと名が変わった。親弥が酒を飲むようになってからずっと愛飲しているものだ。
紐で紙切れが瓶の首の部分に括り付けられていて、兪吉の字で「すまん。許せ」とだけ書かれてあった。
「何だってこんな……あれからもう三月近く経つんじゃないか?」
「横浜の方に行かれたそうで、そこで安く手に入ったとおっしゃっていましたよ」
つまり旅先でたまたま見つけて、ふと親弥と言い争ったことを思い出し、思い出しがてらに購入して謝罪文を付けて置いていった、ということか。これほど有り難味のない酒もないだろう。普通ならほとほと愛想が尽きそうなものだが、親弥としては兪吉の大雑把で楽天的な性格が羨ましくもあり、兪吉と友人関係を続ける理由でもあった。仕方なく、宮に酒を冷やしておくように伝える。
「それと田之上様が、二日くらいしたらまた来るから、そしたら二人でしこたまお酒を飲もう、と」
「ああ、二日もあればよく冷えていることだろうよ!」
まったく呆れてものも言えない。どっと疲れが押し寄せたような気がして、親弥の口から重い息が漏れた。部屋の寒さも相まって気分すらも沈んでいきそうだ。
親弥を苦笑しながら見つめていた宮の手が、図らずも親弥の手に触れた。宮も今の親弥と同じように冷えていて、思わず顔をしかめる。見ると、宮の細い指の節に所々あかぎれができていた。甲も痛々しく赤くなっている。
「こんなに冷たくなって」
親弥が掴もうとすると、宮は「こんなに醜い手……」と呟きながら引っ込めた。その手を、そろそろと握り込む。急に沸騰したように、親弥の掌に汗が滲み出た。
「……なあ宮。昼飯を済ませたら少し散歩に出かけないか。この家は日当たりが悪すぎる。外は寒いが、日が出ているから歩けば少しは暖かくなるだろう」
親弥の突然の誘いに、宮は軽く目を見開いた。
「まあ、散歩! 素敵ですわ。でも、家事がまだ……」
「何、少しだけだよ。それに掃除くらいやろうと思えば俺だってできる。流石に料理は手伝えないけれど、君は他人に台所に立たれるのが嫌いだろう?」
親弥が苦笑すると、宮が照れ臭そうに薄い唇を綻ばせる。宮は料理を作るのが好きだった。一人台所でせわしなく準備をしている時はとても楽しそうで、遠くの店に食材の買出しにいく時はめかしこんで出掛けるのが常だった。親弥が婚約の記念にと贈った、極々小さなべっ甲の玉に、白い造花の花びらが糸で縫われた飾りの付いた、かんざしをいつも挿していた。
「でしたら、帰り際に食材の買い物をしてもよろしいでしょうか。お夕飯の分を揃えませんと」
「夕飯か……。そうだな。献立が決まっていないなら、焼き魚が食いたい。今の時期、鰤はあるんだろうか」
脂の乗った腹を箸でほろほろ崩す様子を想像して、勝手に唾が沸いてくる。
「鰤、よろしいですわね。きっと良いものが手に入りますよ」
宮が昼食の準備をしますわと言い残し、書斎を出て行った。と、同時に肺の底から重い息を吐き出す。親弥も居間へと向かい、台所から聞こえてくる包丁がまな板を叩く音を聞きながら、同調するように親弥は自身の心臓がこつこつと小さく脈打つのを感じていた。妻を散歩に誘っただけだというのに、何をそんなに緊張する必要があるのか。親弥が宮に触れたのは果たしてどれほどぶりなのだろう。
宮によって用意された味噌汁と米、芋と根野菜の煮付けを平らげ、外行きの服に着替えて街へと出る。宮は、かんざしを挿してくれていた。やはり屋敷の中よりも外の方が暖かいように感じられた。
「散歩に出るのは、随分と久しぶりですわね」
「ああそうだな。付き合い始めの頃はよく横浜の町並みを歩いていたね。それを近所の人に見られて、からかわれたもんだよ」
会話することも久しぶりのような錯覚に囚われ、本当に他愛もないことを呟く。宮の実家である大谷禄太郎氏の邸宅は、横浜にあった。田舎から書生として大谷邸に来て、学生の身分であった親弥と宮ができることなど散歩くらいのものであった。当時は宮と並んで歩くだけでも、親弥にとっては飛び上がるほど嬉しかった。美しく品のある宮が傍にいることが、親弥の自慢だったのだ。しかも華族の令嬢ときた。兪吉に宮を紹介した時もそうだ。不意に兪吉の驚き羨望に満ちた目を思い出し、一人笑みが零れる。
「何かおかしなことでもございましたか?」
宮に顔を覗きこまれ、親弥は思わず咳払いをした。
「昔のことを思い出していただけだ。兪吉に初めて会わせた時を憶えているかい?」
宮が、長いまつげの覆う目を、軽く伏せた。
「兪吉様に、どうして出会ったのか、親弥様のどこが好きなのか、いろいろと問い詰められて、恥ずかしい思いをしましたわ。お二人して笑ってらっしゃいましたし」
「え、そうだったか?」
「嫌だわ、忘れてしまったのですか」
「はははっ、嘘だよ。そんなこともあったな」
二人で懐かしみ、そして顔を見合わせて笑い合う。それからも、学生時代のこと、東京に越してきてからのこと、様々な話をしながら日和の中を歩く。話をしているだけなのに今の親弥にはこれ以上の幸福はないように思えた。宮との些細な交流の時間こそが幸せだと、親弥は忘れていたのだ。
冬にしては強い日差しが、樹木や立ち並ぶ家屋がに遮られ様々な様相の影を作り出す。学生当時と今の違いといえば、横浜と東京であることを除き、建物が高くなり道の日陰が増えたということだろうか。夏はありがたいが、この時期は肌に痛い。それでも、親弥の顔だけは酒を飲んだ時のように火照っていた。
親弥たちの脇を、詰襟の制服に帽子を被った一人の郵便集配人が急ぎ足ですり抜けて行った。危うくぶつかりそうになり、咄嗟に宮を庇うように肩を抱く。
「危ないな……」
郵便集配人が振り向きざまに謝罪を述べて、すぐに姿が見えなくなった。その間、ずっと宮の肩を抱いたままであることに気付き、親弥は反射的に身を引いた。宮の二の腕を掴んだいた手に相当な力が入っていた。
「す、すまない。痛かっただろう!」
「いえ、大丈夫ですわ。お気になさらないでください」
「でも」
「危ないところでしたから。守ってくださって感謝していますわ」
宮は顔を少し俯かせて、手で口元を覆っていた。その様子は困惑しているようにも、照れを隠しているようにも見える。
「あの……。そうですわ、よく行く八百屋がこの近くなのです。親弥様はもうお屋敷にお戻りになられてはいかがでしょう」
宮が顔を隠したまま言う。
「あ、ああ。そうしようか」
親弥としてもどうしていいかわからず、宮の進言に頷いた。宮の反応が気になるところではあったが、買出しに付き合ったところで邪魔になるだけだし、宮に何と言葉をかければいいのか、親弥にはわからなかったのである。
「それでは、ここで」
「ああ……」
先行く宮の後ろ姿に軽く手を振り、親弥は途方に暮れてしまった。親弥は宮と二人暮らしだ。屋敷に一人ということは、執筆の絶好の機会であろう。だが近頃、どうにも書く気になれないでいた。だからといって他に趣味もない。
帰路に着く足取りは重かったが、所詮は町内の一角を歩いたに過ぎず、親弥の心中とは裏腹にすぐさま屋敷に戻ってきてしまった。仕方なく、一度読み切ってしまった本でも読み直すかと思い、屋敷に入ろうとすると、そこで親弥は門横の赤い郵便受けに封筒が入っていることに気がついた。大きさからして手紙のようだ。先ほどぶつかった集配人が届けたのだろうかと考えると、確証がなくとも腹が立つ。抜き取って裏を見ると、差出人は「神崎信(かんざきしん)之助(のすけ)」となっている。宮の父親で親弥の義父にあたる大谷禄太郎氏の使用人をしている男だった。
親弥は手紙の内容に思い当たることがあった。居間に戻って封を手で切る。中には大谷家の紋が入った特注の便箋が二枚入っていた。紙からほのかに山茶花の優しい香りが鼻を覆い、肺へと吸い込まれていく。
手紙の中身はこうだ。
拝啓 師走の候、久賀野親弥様、宮お嬢様におかれましては、ますますご清祥のことと心よりお喜び申し上げます。
さて、お二方に、当主人の大谷禄太郎より言伝がございます。親弥様のお仕事の目処がつきました折には、是非大谷邸へと足をお運び頂くようお計らい下さいませ。毎年のこ とでは御座いますが、何卒宜しくお願いいたします。
ご多忙の折では御座いますが、風邪など召されませぬようご自愛下さい。
敬具
大正元年十二月十七日
要点だけを簡潔に書かれていた手紙を読み終え、親弥はすぐさま壁際に置いた洋箪笥から便箋を取り出し筆を取った。年明けには少し長い休暇をもらえるので、その折に伺うという旨を記す。相手も毎年休暇を見越して手紙を送ってくるのだから、毎年こうして同じ内容の返事を出している。休暇は家でゆったり過ごすか、親弥の実家に顔を出したいところだが、御年六二になる禄太郎氏はある病気を患っていた。顔を出さないわけにもいくまい。
親弥は手紙を認めたその足で馬車に乗り、郵便局に向かった。手紙が神奈川県横浜市に渡る間に、大谷邸に向かう準備をしなければならない。禄太郎氏は親弥の働く役場とつながりがある(役場には禄太郎氏の紹介で就いた)。休暇に入ってすぐに向かわなければどんな小言を言われるかわかったものではなかった。
帰宅後、親弥が本を読みながら居間でしばらく待っていると、宮が買い物籠を下げて帰ってきた。どうやらいい食材が手に入ったようで、表情が明るい。
「ただいま戻りました。いい鰤が手に入りましたよ」
「そうか、夕飯が楽しみだな。……宮、お義父様から手紙が来ていたよ。また顔を出しに来るようにと」
台所に荷物を置いて宮が居間に入ってくる。
「まあ、もうそのような時期なのですね……」
その瞬間、晴れていた宮の顔に、翳りが差したように親弥には見えた。親弥はまだしも、宮は帰省することを毎年心待ちにしていたはずだ。一体何故そんな顔をするのだろうか。
「きっと宮に会えるのをお義父様も楽しみにしているだろう。今年も一週間くらいの滞在で構わないかい」
「ええ、もちろんですわ」
翳りを残したまま、宮がそっと笑みを作った。そんな自分に気がついたのか、宮は親弥が口を挟む間もなく、煮物の準備をして参ります、と言って台所へと入っていく。さして思い当たる事象がないということは、よもや宮は、禄太郎氏の「病気」の進行具合を危惧しているのかもしれなかった。たまに手紙で病状についての知らせを受けるが、近頃は益々悪化していると聞く。
例年以上の杞憂を抱えながら、親弥は大谷邸へ向かう日取りの調整を始めた。
「相変わらず凄いな」
大谷邸を見上げて、親弥は苦笑交じりの溜息を漏らした。入り口の黒塗りの門を通ると大きな坂が待ち構え、大谷邸はその高台に建っていた。五〇〇坪はある土地の周りを桜や銀杏など四季折々の木が覆っている。親弥が書生として大谷邸に住まわせてもらっていた時分から、屋根瓦や木造の壁はレンガに変わり、軒下や竹の引き戸は消え失せすっかり洋館の様相を呈していた。壁に無数に空いた窓から、縁側の代わりに禄太郎氏お気に入りの日本庭園が観賞できる造りになっている。平屋だった大谷邸が二階建ての洋館に建て替えられてからも何度か足を運んでいるが、外部から隔離され、庭と建物の不調和具合が目立つこの屋敷には一向に慣れなかった。禄太郎氏曰く、「異国の庭は好かない」のだそうだ。異国の文化を愛しているくせに、そこは譲らない。禄太郎氏は、そういう頑固な面を持つ男であった。
庭の白い山茶花に水をあげていた使用人の神埼に声を掛ける。
神崎は顔を上げると、燕尾服のタイをしっかりと締め直した。
「お帰りなさいませ、親弥様、宮お嬢様。ご苦労様でございました。旦那様がお待ちです」
堅苦しい口調で慇懃無礼に頭を下げ、神崎は親弥と宮の荷物を受け取り、そそくさと屋敷へと入っていった。神崎は必要最低限のことしか話さないのを承知で、親弥と宮も挨拶もそこそこに、その後をついて敷居を跨ぐ。観音開きの木製の扉は、開けると来訪を知らせる鈴がちゃりんと鳴った。
内装は、去年訪れた時とがらりと様子を変えていた。だが、装いを新たに、という訳ではないようだった。石の敷き詰められた広いエントランス、そこに飾ってあった美術品が撤去されている。壁に飾られていた絵画も、取り替えられ見るからに質が落ちていた。
茶褐色の絨毯が敷かれた長い廊下を歩き、親弥と宮はベッドとテーブル、二人がけのソファが設置された、十五畳ほどの来客室に通された。親弥達はそこに泊まることになる。 荷物を置き、休む間のなく神崎の案内で禄太郎氏の自室に挨拶に出向く。禄太郎氏の自室は二階の最奥にあったはずだった。だが神崎は渡ったばかりの廊下を戻り、途中で分かれた道を、階段がある入り口すぐの大広間とは別の方向に進んだ。
「大旦那様はこちらです」
宮と顔を見合わせると、親弥と同じく、宮も訝しげな様子で首を横に振った。
手前にあった扉の前に立ち止まり、神崎がとんとんと扉を叩いた。
「大旦那様。親弥様とお嬢様がお見えになりました」
「どうぞ」
中から響いた声は聞き慣れない若い女性のものだった。扉を開けると、イギリス製の車椅子に座る禄太郎氏と、その脇に立つ使用人の女性の姿があった。
昨年振りに会う禄太郎氏は、見るからに痩せこけてしまっていた。頬は窪み、白髪が増え、貫禄を宿していた眼光の鋭さは、すっかり成りを潜めていた。恰幅の良かった体躯ももはや仕立てのいい洋服が似合わないまでになっている。
「お父様!」
やはり対面できたのが嬉しいのか、宮が禄太郎氏に駆け寄ると、禄太郎氏は俯いていた顔を上げた。だが、天井辺りを見上げたまま、何も言葉を発しようとしない。しばらくの沈黙が訪れ、宮が困惑しているのが見て取れた。
「旦那様。宮お嬢様ですよ」
神崎が声を掛ける。すると、禄太郎氏は定まっていないかのような視線で、今ようやく宮を認識したかのように喜びの声をあげた。
「おお、おお、よく来たね」
禄太郎氏が宮の手を取り、握手を交わす。だが、親弥には禄太郎氏に対する違和感を覚えずにはいられなかった。宮に対する反応もそうだが、声音すらもやせ細って力ないものになっていた。
父親の手を握りながら固い表情を浮かべている宮に、神崎は「しばらく親子水入らずで話をしてはいかがでしょう」と勧め、親弥は神崎に部屋の外へと連れ出された。禄太郎氏に付き添っていた使用人も、大きな救急箱を手に他の部屋へと移っていった。
「初めて見る顔ですね。彼女」
どこともわからず歩いていく神崎を追いながら、親弥は禄太郎氏の病状について尋ねるきっかけを得ようと、神崎に話しかけた。以前は神崎と年配の女性の二人で仕えていた筈だ。
「彼女は西洋医学の知識があります。私では手が回らないこともございますので、大旦那様のお世話を任せております」
「そんなに悪いのですか。お義父様は」
「ええ。日に日に病状は悪化していらっしゃいます」
親弥の問いかけに、神崎は淡々と答えた。そしてある部屋の前で立ち止まり、中へと促される。そこは親弥と宮が泊まる宿泊用の客室ではなく、ソファとテーブルが設置されただけの、応接室のような部屋だった。ほとんど使われていないのか、埃こそないが、電灯が時折不安定に点滅した。
長ソファに腰かけ、神崎が対面するように向かいの席へと座った。
「旦那様の症状についてご説明いたします。お嬢様の前では心苦しかったもので」
神崎はそう前置きし、録太郎氏の近状について話し始めた。
「旦那様の記憶は、発病した三年前よりも、さらに多くの欠落が見られます。最近では、つい先刻食事をしたにも関わらず、そのことを忘れてしまうこともございます。どうやら現在から近い記憶から欠落していくようですね。私、それからお嬢様、親弥様については覚えていらっしゃいますが、学生時代のお二人ならともかく、成長されたお二人のお姿では、思い出すまでに時間がかかることもございます」
神崎は親弥が書生時代から大谷邸にいる使用人だ。学生当時の親弥や宮についてもよく知っていた。
「また、記憶喪失などとは違い、日常生活も送れないような場合もございます。食事もそうですが、風呂の入り方がわからない、屋敷の中で道に迷うなど、症状は随所に現れています」
そんな禄太郎氏を案じて、部屋を二階から移動しやすい一階へと移したのだと言う。玄関の骨董品が撤去されていたのも、誤って破損、または禄太郎氏自身が負傷してしまう可能性があるからだった。つらつらと禄太郎氏の症状について語っていたが、そこでようやく、神崎は悲しげに眉根を寄せた。その表情は悔しさを滲ませているようにも思える。普段は冷静かつ感情を露わにしない神崎の初めて見る様子に、親弥は言葉で説明される以上に、禄太郎氏の現状を思い知らされた。
「回復の見込みはないのですか」
親弥が問うと、神崎は首を横に振った。
「現代の治療では回復するどころか、悪化を抑えることも不可能だそうです。ドイツでは、『アルツハイマー症』というそうですが、一九〇六年に発表されたばかりの、まだまだ未知の病気なのです」
神崎はそう言っているが、つまるところの「痴呆」であろう。親弥にとって禄太郎氏は、尊敬し、恐れるべき存在だった。そんな男が「痴呆」などと、親弥には到底信じられなかった。だが、禄太郎氏の症状は、無視できないまでになっている。
禄太郎氏の部屋へと戻ると、宮が禄太郎氏の肩を揉んであげているところだった。二人を見るからには、親子としてちゃんと意思疎通が図れているようだった。宮は、禄太郎氏の前だからか、それとも禄太郎氏との会話で思うところがあったのか、自身の父親について、神崎にも親弥にも尋ねることはなかった。
部屋に戻り宮と荷解きをしている間、親弥ふと便りが届いた時の宮の反応を思い出した。宮の物憂げな表情は例年にないものだった。だが、先ほどの様子を見る限り、禄太郎氏の容態の悪化について、詳しくは知らないようだった。
「お義父様の具合は、どうだった」
親弥が訊ねると、宮が手を止めて、
「……具合は、いいみたいですわ。足が少し弱っているようでしたが」
と、抑揚を抑えた声音で答えた。
「それでは、体調以外に問題があると言っているようなものじゃないか」
宮が、手を止める。
「……私としても、よくわからないのです。お父様は、厳格で気難しいと、よく屋敷を訪れていた方々はおっしゃっていました。ですが、私に対するお父様は、とても優しい父でしたわ。今のお父様を見て、まるで昔に戻ったような錯覚に囚われました。でも、親弥様から見た今のお父様は、やはりおかしいのでしょう」
「それは……。お義父様は、屋敷でお世話になっていた俺にも優しかったよ」
親弥がそう濁すと、宮は少し俯き、何も言わなくなってしまった。少しの間沈黙が続く。親弥とて、嘘を吐いている訳ではなかったが、禄太郎氏の異常は認めざるを得ない。
宮は戸惑う親弥を見、切なそうに口元を歪めて「手が止まってしまっていましたわ」と言って作業を再開した。
時刻が十二時となり、一年ぶりに家族が集まったということで、昼食は禄太郎氏も含めた全員で取ることになった。
親弥と宮が居間へと向かうと、禄太郎氏が神崎に対し、怒鳴り声を上げていた。
「宮。宮はどうした。どこへ行った! 部屋にはいなかったぞ」
今にも持った杖で神崎に殴りかかりそうな禄太郎氏の様相に、その場が凍る。
「旦那様。宮お嬢様はご結婚されて、家を出られたではありませんか。お嬢様の部屋は現在使われておりません」
「結婚だと? 何を馬鹿げたことを。まだ学生の身分だろう」
「お嬢様は今親弥様と一時お戻りになられているだけです」
神崎が必死に宥めているが、禄太郎氏は聞き耳を持ちそうになかった。慌てて親弥も駆け寄ろうとしたが、神崎に目線で制止される。
そして禄太郎氏は宮を見るや否や、しっかりと組まれていた腕を広げた。
「おお、宮。どこに行っていたんだ。早く席に着きなさい。食事の時間だ。久賀野君も何を呆っとしているんだね」
禄太郎氏は車椅子から立ち上がると、テーブルを支えにして歩き、自らの思うとおりに動かない体に苛立ちを隠しきれないようだった。神崎に椅子を引くように指示し、神崎が無言でその指示に従っていた。
父親の正気ではない言動を目の当たりにして、宮は少なからず衝撃を受けたようだった。昼食の間中、相槌は打つものの宮は終始顔を伏せていた。禄太郎氏は落ち着きを取り戻したが、やはり禄太郎氏の認識している親弥と宮は、まだ親弥が書生だった頃のまま、変わることはなかった。
部屋に戻るために廊下を歩いていると、着物の袖を宮にぐいっと引かれた。
「どうした、宮」
理由はわかっていたのだが、なんとなくいたたまれなくなって、そう問いかけた。
「親弥様。申し訳ございません。滞在期間を一週間、延ばしてはいただけないでしょうか」
「え?」
予想外の申し出に、親弥は面食らった。毎年大谷邸に来ているにも関わらず、宮がこんなことを願い出ることなど、今まで一度たりともなかったからだ。
「いいのかい? 傍にいたい気持ちはわかるが、お義父様の、その……病魔に侵されたお義父様を、見なくてはならなくなるぞ」
「はい。それでも、傍にいたいのです。今だけは……」
宮は、苦痛を堪えているような表情だった。よほど、衝撃が大きかったのだろう。
親弥は、躊躇いがちに、宮の頭を撫でた。
「わかった。仕事のことは心配しなくて構わないから、宮はお義父様のことだけ考えるといい」
親弥とて、目の前で起こった出来事について知らぬ振りをすることもできない。親弥は禄太郎氏の介護という名目で役場に休暇延長の要請をすることにした。大谷邸近くのレストランに電話を借りに行き、上司と連絡を取る。役場としても、禄太郎氏の名を出せば許可をせざるを得なかったのだろう。延長の旨はすぐに聞き届けられた。
親弥に深々と頭を下げる宮は、心底安心しているように見えた。親弥に何度も礼を言い、今は、禄太郎氏の介護について、神崎と話をしている。
宮が禄太郎氏の部屋へと向かい、一人になった部屋で親弥は頭を乱暴に掻き毟った。
「参ったな……」
宮を思って仕方なくそうしたが、滞在期間の延期は、親弥にとっては二つ問題があった。禄太郎氏の介護と言っても、身の回りのことは神崎や他の使用人がしているし、宮のように手製の料理を作ったり話し相手になったりといった心の援助を、親弥は苦手としているのだった。そもそも、親弥は人と接することを嫌う節があった。自身の欠陥を知る人間はともかく、禄太郎氏はそのことを知らない。その上、禄太郎氏は親弥と宮の間に子がいないことを憂いていたのだ。病にかかってからはあまりその話題に触れられなくなったが、禄太郎氏を前にした時の鬱々とした気持ちが晴れることはない。つまり、親弥にとって禄太郎氏の介護は、苦痛でしかないのである。だからといって何もしないわけにはいかず、よって親弥は二週間という決して短くはない時間を、どのように過ごすかという課題を突き付けられることとなった。
もう一つの理由は、夫婦で同室だという点である。普段は、作家という仕事を理由に寝室を別にしてあった。それが、二週間もの間、宮と寝床を同じくしなければならないのだ。部屋に備わっているベッドは二つだが、隣り合っているだけでも、親弥が安眠できるはずがなかった。焦りと動機に襲われ、意識が過去の事故、現在の自分の体、子どもの事、今後の事。あらゆる不安が押し寄せてくる。情けなくも、こればかりはどうしようもできなかった。
とりあえず、客間の机を執筆用に借り、親弥は持ってきていた原稿用紙を広げた。執筆に専念すれば、仕事だと言い張って面倒ごとを避けられるのではという安直な考えだった。 だが、日に焼けて黄ばんだ紙を睨み付けてみるが、先日の兪吉との一件以来、親弥の頭に話が思い浮かんだ試しがなかった。書き留めの為に、かの大谷邸の紋が入った便箋を数枚もらい、登場人物の設定を適当に書き記していくが、人物像が一向にできあがらない。仕方なく執筆の感覚を取り戻すつもりで、主人公は親弥と同じくらいの年齢の男にした。主人公と恋仲になる女の設定を詰めたところで、ようやく物語の片鱗が、僅かばかり浮き上がってくる。その女には宮を投影させた。気心の優しい、美しい女性。そんな彼女と冴えない男の話。まるで親弥そのもののようだったが、物語の中の男は、親弥のような身体的障害は与えなかった。親弥自身、この主人公がどういう悩みを抱え、どういった顛末を迎えるのかわからないままだ。仕方なく、親弥の琴線に触れる何かがあれば、自ずと書けるだろうくらいに構えていることにした。
しばらく原稿に向かっていると、宮が部屋へと入ってきた。外出用の着物を着ていたので買い物にでも出かけていたのだろう。小窓の外を見ると、太陽がすでに落ちかけていた。
「遅かったな。いい食材でも手に入ったかい」
「ええ……」
宮は、酷く疲れているようだった。額にうっすらと汗を掻いている。
親弥はそこで、あることに気がついた。
「宮、かんざしの花飾りがないようだが、どうしたんだ」
宮の結い上げた髪に揺れる、花の飾りがない。べっこうの玉だけが黄褐色の光を鈍く放っている。口を開きかけた宮が、そのまま固まっていた。目がゆっくりと見開かれていく。
そして、宮が細く息を吐いた。
「申し訳ございません。どこかに引っ掛けて落としてしまったのかしら……。もしかしたら、市場の方が拾ってくださっているかもしれませんわ。すぐ探しに行って参ります」
「いや、今日はもうやめておきなさい。大丈夫だから」
「でも」
「もう外も暗い。視界が悪ければ見つかるものも見つからないだろう」
もう一度大丈夫だと告げると、宮は、所在無げに視線を動かしていた。動揺が見て取れる。
立ち尽くす宮に、親弥は微笑みかけた。
「着替えるだろう? 俺は外に出ているよ」
腰を上げ、客間を後にする。宮の様子に、何かが親弥の中で引っ掛かかっていた。そもそも、宮は何時出かけたのだろう。髪が多少乱れていたから、遠出していたようだったが。それに、普段は食事の準備に余裕を持って帰宅するのに、今日はやけに遅いのではないか。
「馬鹿らしいな」
深く考える前に、親弥は頭を掻いて意識を霧散させた。悩み過ぎるのが作家の職業病のようなものだ。きっと行き着く先は妄想の延長に過ぎないだろう。親弥はそう自身に言い聞かせた。
大谷邸を訪れてから五日目のこと。親弥は机に突っ伏していた顔をそろそろと上げた。口元を手の甲で拭うと、涎の跡が頬へと伸び、視界が何の輪郭も捉えられないほどぼやけている。
額までずれ上がっていた眼鏡を目の位置に戻し、何度か瞬きをするとようやく現状が把握できた。下敷きになっていた原稿用紙は無数の皺を刻んでいる。白のチェストの隣に構えている柱時計を見ると、午後五時近くだった。紛れもなく執筆中に眠りこけてしまったようだ。そのまま立ち上がり背筋を伸ばす。体が凝り固まっていた。
「……っ!」
突然襲った感覚に、親弥は細く息を吐いた。下腹部から大腿がじくじくと、かつ鋭く親弥の神経を痛めつける。古傷が痛むのだ。冬場の部屋で何も上掛けなしに寝ていればそれも頷ける。体が凍えるほど冷えていた。午後から急に気温が下がったのだろう。
実際のところ、障害が残っているもの、傷口自体は寛解している。だがやはり親弥の心的要因が関係しているのか、たまに神経が激痛やかゆみを引き起こすことがあった。それは、冷えなどの原因で起こることもあれば、何気ない拍子に突発的に起こることもある。
痛む感覚が過ぎ、その余韻が形を潜め、親弥は再度その場に腰を下ろした。寝具の上に放られていた厚手の丹前を羽織る。薪ストーブを焚こうとしたが、生憎全ての薪を使い果たしてしまった後だった。
体の冷えが取れず、親弥は居間へと移動した。居間には廊下へと続く扉の脇に暖炉があった。木材が炭になり灰になり、火花を散らしながら、柔らかく熱を発している。音が耳に心地良い。普段執筆している時と変わらず部屋に引き篭もり続けていたため、疲労もかなり溜まっていたようだ。
宮に茶を入れてくれと頼もうとして、親弥の動きがはたと止まった。
宮の姿が、台所も、他の部屋も探してみるが見つからない。もちろん買い物に出ている可能性はある。しかし、居間で仕事をしていた神崎に宮の所在を尋ねても知らないということだった。宮が黙って外出することなど考えられないのだが、他の使用人も同じく何も聞いていないと言う。
「急用か……? だが、こんなところで用なんて……」
ここは宮の地元だ。旧友でも訪ねてきたのだろうか。
妙な胸騒ぎが親弥の体を僅かに刺激する。「またか」。そう思った。親弥自身、神経質過ぎると思いつつも、宮に対する心配や不安はいつまで経っても親弥に住み着いて離れたことがない。親弥の自己評価の低さから、宮はいつか自分の元から離れていくのではないかという疑念が親弥の根底に常にあった。それが、ふとした瞬間に顔を出す。
それに、先日宮の外出について気を揉んだばかりだ。
親弥は部屋に戻り、外出時に持ち運んでいる薬箱から、白い粉末状の薬が入った紙包みを取り出した。晴海先生が処方してくれた、精神を落ち着かせるという薬だった。小説が書けなくなってからというもの、昔よりも古傷の痛みが増していた。痛み止めよりも、この薬の方が効果が高いのだ。精神が落ち着けば、不安も軽減し痛みも引く。
宮は、薬に頼る親弥を気に病んでいるようだった。大谷邸に来てからは、より飲む回数が増えていた。心配せずとも平気だと宥めたのだが、宮が親弥と同じように、治療用の分も含め日に五錠も様々な薬を服用しているところを想像したら、宮の心境にも納得がいった。わかっていても、今は拠り所がないのだ。
そこでふと、宮は何を拠り所にしているのだろうと気になった。やはり料理だろうか。病気の父の看病をし、宮も少なからず心身ともに疲弊しているはずだ。親弥にも気を使っているに違いない。
その時、大谷邸に来客を知らせる鈴が鳴った。神崎が応対に出ると、すぐさま親弥を呼ぶ声がする。
何事かと玄関に向かうと、そこにはハットに派手な青紫のネクタイをした兪吉の姿があった。よくのりの効いたシャツを着ている。
「兪吉! 何でこんなところに……」
親弥が声を上げると、兪吉はいつものように大口を開けた。
「はっはっは! 何もそんなに驚くことないだろう」
「驚くに決まっているだろう! 広い世間のどこに友人の妻の実家に顔を出す人間がいるんだ」
「いやあ、宮さんと会ったもんだからな。あがって行くように言われたんだ」
親弥が身を乗り出すと、兪吉の影に隠れるように宮の姿があった。表情はどこか引きつっているように思える。安心したと同時に、疑念が浮かんだ。
「せっかくお会いしたのでお誘いした方がいいかと……。申し訳ございません」
「宮さん。貴方が謝るこたあないですよ。親弥、悪いな。今小説を書いているんだって?」
「ああ……」
「原稿に向かってるだけじゃつまらねえ。一緒に酒でも飲まないか」
兪吉は宮の様子の異変に気付いていないように、強引に敷居の中へと踏み込んできた。身形の軽さから考えて、今日横浜にやってきたというわけではなさそうだった。
「お前はそう言って俺の邪魔ばかりするじゃないか」
「迷惑だったか?」
「まあ、少しくらいはいいだろう。結局、準備やなにやらでお前にもらった酒も飲めなかったからな」
親弥の言葉に、兪吉が嬉々として「そうじゃなけりゃあな」と親弥の腹をどんと叩いた。そのまま履いた革靴を脱ごうとする兪吉を制する。
「だが、飲むのは外でだ」
「何だって?」
「屋敷の人達にいらない気を使わせる気か。俺の実家ならまだしも、お前はこの家に関係ないだろう」
あえて強い口調で言う。
親弥が神崎の方を向くと、神崎は親弥にだけわかる程度に頭を下げた。禄太郎氏の介護をしている以上、他人を屋敷に招くのは避けるべきだと考えたからだった。
「そうか、それもそうだ。じゃあ親弥、近くにいい店があるんだ。そこに行こう」
「ああ。すまない宮、俺の分の夕飯は用意しなくていい」
兪吉はこう見えて察しが良い。引いてくれたことに安堵しつつ、急いで部屋から外套、襟巻き、手袋を引っ掴んで玄関の外へと出る。宮は終始申し訳なさそうに、手にしたべっ甲飾りのかんざしを握り締めていた。そういえば、花飾りをなくしたのだったか。それを探していて兪吉に会ったのだろうか。
「宮さんも一緒にどうです? 三人で飲むのも悪くないでしょう」
「いえ、私は家の仕事がありますので……」
「そうですか、それは残念だ」
兪吉は断られるのがわかっていたかのように、平坦な声音で呟いた。
大谷邸の門を出、先をずんずんと歩いていく兪吉に、親弥は苦言を呈した。
「少し前までは何の音沙汰もなかった癖して、こんなところまで会いにくるなんてどういう了見だ」
「何だよ、ちっとは喜べよ」
「喜べる筈がないだろう。そもそも、何でお前が横浜にいるんだ」
親弥が怒気交じりに尋ねると、兪吉は少し歩調を緩めた。
「何だ、宮さんから聞いてないのか?」
「何で宮が出てくるんだ」
「お前に謝罪がてら酒をやった時に、最近横浜の街を気に入っているってえ話をしたんだ。そしたら何だ、宮さんの地元だっていうじゃねえか」
「ああ、あの時か」
「お前から宮さんの実家に行くって聞いていたし、折角だから大谷禄太郎氏の屋敷、見てみたいじゃねえか。だから来たんだ」
「おいちょっと待て」
つまりそもそも宮と街中で会わずとも大谷邸に来る腹積もりだったということか。
「ああ、勘違いするなよ。来る機会をお前たちと合わせただけで、今回は仕事も一寸兼ねてるからな」
「仕事ったってどうせ、取材と名ばかりの観光だろう」
「まあ似たようなもんだな。なんせ面白いところじゃねえか、ここは」
兪吉が両手を広げて辺りに漂う空気を吸い込む。目下に派大岡川が流れていた。派大岡川には多くの船が停泊しており、商人たちが賑わいをみせていた。親弥と兪吉が立っている花園橋から北東に港橋が見え、その更に向こう側には横浜市役所がある。市役所は煉瓦と白石のラインが特徴的なルネサンス様式の建造物で、欧州の巨大な城のようだった。城と相対する場所に、緑豊かな横浜公園。後方に野毛山が望める。景色としては悪くない。
この一帯は親弥達が生まれるもっと昔、派大岡川に出る小松川と悪水堀から立ち込める悪臭被害が耐えられないまでになっていたそうだ。小松川、悪水堀を高島嘉右衛門が埋め立てたことにより被害が大幅に減少したと、親弥は近代歴史の書物で学んだが、外交の枢軸を担う独特の雰囲気からか、それとも残った汚水の影響か、空気の濁りはいまだ感じられる。
それに、横浜公園には昔、「港崎遊郭」という遊郭街があったそうだ。開国間もない幕末の頃の話であるが、その後港崎遊郭は名を変え土地を変え今も横浜に存在している。
親弥にとって、遊郭ほど毛嫌いしている場所はなかった。
どうにも横浜全体を支配するずっしりとした空気が、親弥は苦手だった。だが兪吉は、そこが好きなのだという。
「つくづく変わった奴だなお前は」
「お前が堅物なだけだ。ほら、見えてきたぞ」
兪吉の指差す方に、一軒の店があった。名を「はまゑ」という。兪吉が選ぶだけあってかなり騒がしい店だったが、付き合うと言った以上仕方がないと、中に入る。
古くからある居酒屋のようで、土間に卓が並べられ、酒樽に腰掛けた人々が皆、魚やおでんを肴に酒を飲んでいた。
すると、兪吉がはっとした声を出した。
「ああ、なんや田之上さんやないですか。こないな半端な時間にお会いするなんて、思ってもみませんでしたわ」
店の入り口付近に座っていた男が、こちらを向いて会釈をした。
四〇代半ばくらいの、品のある顔つきをした男だった。老緑色の着流しに錆浅葱の羽織を着た純和風のいでたちで、仕立てはかなりいいものだ。口調に独特の訛りがある。多分関西方面だろう。会釈の仕方、しゃべり口、どちらもどことなく上品さが漂い、店の喧騒からかなり浮いていた。声も低く落ち着いてよく通るのだ。宮の親戚に当たる華族の中にこういった雰囲気の人間が少なからずいる。
すでに大方の酒や食事は済ませているようだった。
「この店で会うんは三回目くらいやったかなぁ」
「俺としても驚きですよ。千寿殿」
千寿と呼ばれた男が立ち上がり、兪吉と、それから一緒に入ってきた親弥に、改めて頭を下げた。兪吉と親しげに会話をしているということは、間違いなく兪吉の知人ないし友人であるはずなのだが、傍から見たらどうにも二人は不釣合いだった。
親弥も一礼すると、男は口角を上げた。差し出された手を取る。
「どうも、僕は千寿喜明と申します。すんませんねえ、突然声かけてしまいまして」
「ご丁寧にすみません。田之上の知人の久賀野親弥と申します」
「そこは友人って言えよ」
「では友人です」
「ではって何だ」
いつものように兪吉が呆れながら言った。
千寿は一頻り笑った後、卓の空いた席を親弥と兪吉に勧めてきた。そのまま座ろうとする兪吉を、思わず呼び止める。
「おい」
小声で苛立ち露に言うと、兪吉は親弥の内心を理解したのかしていないのか、肩をどんと叩かれた。
「大丈夫だ。千寿殿は話しやすくていい人だ」
「そういう問題じゃない!」
「仕方ねえだろう。ここで断れば俺の沽券に関わる」
「お前が沽券なんてものを気にするたまか。お前が気にするのは服装と女からどう見られるかだけだろう」
不機嫌になった兪吉に無理矢理座らされる。兪吉が千寿の真向かいに腰を落ち着け、どうにも逃げられない状況となってしまった。唯でさえ気が乗らない付き合いだというのに、親弥は殊更後悔した。
「すみませんね、千寿さん。こいつ、初対面の相手が苦手なもんで」
親弥が繕った顔でもう一度頭を下げる。
「ああ、田之上さんからお話は伺ってますんで」
「話って……。お前一体何を言ったんだよ」
「そんな大した話じゃあない」
そもそも何故千寿と兪吉の間に、親弥の話題が出たのかが気になったが、兪吉がこれ以上訊くなと言わんばかりの態度で、新たに酒を注文した。いくつかの肴も追加し、どうやらこのまま三人でいることになりそうだ。
「何、作家仲間のご友人がいると聞いただけですよ。ところで、久賀野さんは何で横浜に? こちらの方なんですか」
千寿が徳利に残っていた酒を新しいお猪口に注ぎ、それを親弥に渡しながら言った。
「長期の休みに入ったので、妻の実家に顔を出しに」
「そういえば、あの大谷禄太郎氏のお嬢様とご夫婦なんでしょう? 羨ましいわぁ」
「義父をご存知なのですか」
「ええ。大変お世話になっているもので」
千寿は、本当に華族の人間なのかもしれない。
「兪吉とは古い知り合いなのですか」
「いいえ。僕大阪出身なんですがね、大阪にいた頃からですから、二年程にはなるんちゃうかな」
「大阪にしばらく滞在していてな。その時に縁あって、それから親しくさせてもらってる」
「……お前本当に仕事してるのか?」
「俺はお前と違って師匠がいるから、付き合いで行くことも多いのさ」
兪吉には、師事している半田勇助という作家がいた。兪吉は書生として未だ屋敷に住み込んでいる(ほとんど無償で間借りをしているので出て行く気がないのだろう)。半田は豪遊好きで、女遊びも激しく金遣いも荒い。言動も粗暴。作品は別として、作家の中では嫌われている男だった。親弥も兪吉の紹介で一度会ったことがあるが、この世で一番苦手な男だと言っても過言ではない。
「弟子は師匠に似るのだな」
「俺はあそこまでじゃあねえよ」
親弥の棘のある物言いに、兪吉が苦笑する。それを、千寿はおかしそうに見ていた。
「僕から言わしたら田之上さんも大概や思いますけどねぇ。よう来てたでしょう。『松島新地』に」
「松島新地?」
大阪に「松島新地」という地名はあっただろうか。
「遊郭ですよ。『松島遊郭』。松島新地は通称なんです。木津川と尻無川の間にある、大阪では有名な歓楽街なんですわ」
そこで、新しい徳利が二つ運ばれてきた。酌をしようとする千寿を制し、親弥が全員分の酌を受け持った。
兪吉が気まずそうにわざと咳払いをしている。
「兪吉とは遊郭で?」
「ええ、僕も仕事で松原新地にいたんで。ほぼ毎日会うてましたよ」
「いやあ、それは……」
「お前は……。嫁さんも探さず一体何をしてるんだ!」
「なっ、馬鹿野郎、嫁さんがいないから通うんだろうが! 何でお前にそんなこと言われなきゃなんねえんだ。お前はお袋か」
「ただの知人だ」
兪吉が罰が悪い時によくする、眉間に皺を寄せ、片頬を上げて口をへの字に曲げる独特の顔をしている。
「だから何度も言ってるがな。お前は頭が硬すぎるんだよ。お前の遊郭嫌いは知ってるが、俺にまで押し付けるんじゃねえ」
「そんなつもりはないが、俺が役場の同僚に頼んで紹介した見合い相手との約束、何度もすっぽかしたのは、まさか遊びたいからじゃないだろうな。俺の立場にもなってみろ。お前のご両親に何度も謝られたぞ」
「それは……。好きな相手と結婚したお前にはわからんだろうよ……」
兪吉の声音が小さくなる。兪吉が千寿に目で助けを求めていたが、千寿は意地悪く笑っているだけだった。
「僕は事実を言うたまでですよ。他にも、半田さんと一緒に酒屋の酒樽一個分飲み尽くしただとか、飲み屋の看板娘は皆知り合いやとか、数々の武勇伝が飛び交ってましたで」
「それは師匠が酔って言い触らしていただけですよ!」
「他にもまだあるんですか」
「そうやなぁ。女がらみの話となると……」
「いやあ、本当、それ以上は勘弁願いたい」
兪吉がしおれた声で制止すると、千寿は、「それは残念」と、注がれた酒をぐいっと飲み干した。
ますます千寿という人物が計り知れない。松原新地に仕事でいたとはどういうことなのか。遊郭に足を踏み入れたことのない親弥には想像することしかできないが、遊郭とも不釣合いな男のように感じる。遊郭は、借金の形に売られた女を、醜悪な男たちが一夜の情事の為だけに大金をばら撒く、即物的且つ退廃した場所であるという認識だった。それこそ、親弥の忌み嫌う人間の業の吹き溜まりだ。親弥が遊郭を嫌う理由はそこにあった。
おでんと鯵の干物、冷奴、きんぴらごぼうなど、次々と料理が運ばれてきた。食べ物があれば間を持たせるのに一役買ってくれるだろう。それに、横浜に来てからというもの、宮は禄太郎氏の体調を気にして、味付けをかなり薄くしていた。鯵の干物を抓み、舌に広がる濃いぐらいの塩味が親弥にはありがたかった。
「にしても、お二人って対照的やと思うんですけど、どうして仲がよろしいんです?」
「それはこちらがお訊きしたいところですよ。千寿さんはどうにも、私達庶民とは似つかわしくないお方のように思いますが」
親弥は大谷の名を継いでいないので、華族の人間ではない。親弥が切り返すと、千寿は緩慢な動きで首を振った。
「何、服だけが上物で、僕自身は生まれも育ちもええもんじゃありませんよ。なんとか自力で教養は身に着けたつもりですが、なかなか内面は隠し切れないものです」
「あの、千寿さんのご職業は」
そこで、千寿が親弥の言葉尻を剥ぎ取るように、おもむろに懐から何かを取り出した。細い鎖に繋がれた円盤型のそれは、年季の入った懐中時計だった。
「おっと。残念ですがもう時間ですわ。この後約束がありますもんで。お先に失礼さしてもらいます」
千寿がさっと机上に置かれていた財布を取り、席を立った。紙幣を数枚徳利の下に挟む。所作からは急いでいるように窺えなかったが、千寿がこれ以上ここに留まる気はないという空気が感じられた。
「すんませんねぇ。もっとお話したかったんですが。それでは」
引き留める間もなく、千寿は手を振りながら卓や人の間をすり抜け店の外へと出て行ってしまった。
親弥は拍子抜けした。長丁場を見込んで気を重くしていたというのに、千寿はあまりにもあっけなくいなくなったものだ。
親弥も自らの懐中時計を見、現在の時刻が七時を回っていないことを確認する。
「こりゃ相当な金額だな。まだまだ飲めるぞ、親弥」
兪吉が千寿の残していった札を数えながら言った。
「ああ……」
千寿は、親弥に気を使ったのかもしれなかった。正直親弥としても、話が長引けば長引くほど負担になる。
それからしばらくの間、ある程度腹が満たされるまで肴と酒を煽り、親弥と兪吉は店を出た。初対面の相手に奢らせるのは憚られるということで、親弥は反対したのだが、兪吉は全ての会計を千寿の金で済ませてしまった。
「いやあ、千寿殿のお陰で良い酒が飲めた」
夜道、大谷邸まで歩きながら、兪吉は顔を赤らめて上機嫌だった。足取りも軽く、いかにも酔っているようだった。親弥自身も、靄が掛かったように思考の一部が働いていない。だが親弥の中でわだかまりがあり、兪吉のように良い酒だとは言い難かった。
親弥は千寿本人に聞きそびれたことを兪吉に尋ねた。
「兪吉。千寿さんって一体何者なんだ? まさかやくざ者じゃないだろうな」
親弥が冗談を交えると、鼻歌でも歌いだしそうな様子の兪吉が、どこか挑発的に鼻を鳴らす。
「ああ。あの人はな、楼主だよ。『椛楼』っていう店のな」
「妓楼の主人か!」
親弥の酔いが一瞬にして醒め、まじまじと兪吉を見つめた。楼主とは、妓楼と呼ばれる、娼妓を置いて客を取る店の主人のことを言う。つまり、遊郭で女を売り物にして金を稼いでいる諸悪の根源であるのだ。
親弥の反応が面白いのか、兪吉はなおも機嫌よく続ける。
「そうだ。言っていただろう。松島新地で会ったってな。千寿殿は、元々はそこで商いをしてたんだが、関東に店を出したいってんで移ってきたんだそうだ」
「そんな風には到底見えなかったが……楼主だなんて」
「お前がどんな妄想をしてるのか知らねえがな。楼主たって絵面の薄汚い輩ばかりじゃねえってことだ。まあでも、千寿殿も千寿殿の店も、他と比べりゃちょっと雰囲気違うけどな」
だがどっちにしろ、お前の一番嫌いな人種だろう。兪吉はそう最後に付け足して、すっかり夜の帳の下りた横浜の街を、勝手気ままに歩いていく。
「千寿殿に会わせて悪かったな。だが偶然だったもんはしょうがねえ。本当だぞ……。おっと、花園橋だ。お前とはここでお別れといこう。宿が向こうにあるんだ」
兪吉が電灯の煌く先を指差す。
「わかった。じゃあな兪吉。もう横浜にいる間、お前に会うことはないだろうが」
「友人にはつれないことを言うもんじゃねえぞ親弥」
兪吉は「宮さんによろしく」と告げ、次第にその姿は闇に溶けていった。兪吉が一緒だったとはいえ、初対面の人間を相手にしていた緊張感がようやく解れ、体が弛緩していく。同時に、千寿に対する嫌悪感や拒絶反応で、表情が歪むのを親弥は止めることができなかった。
鬱然としたまま帰宅すると、宮が玄関まで出迎えにきていた。
「親弥様。お帰りなさいませ」
「宮。顔色が少し悪いようだが」
宮の色白の肌が、血色が失せ少し青くなっている。体調が悪いのかと心配になり暖かい中へと入るよう言ったが、宮は首を横に振った。
「親弥様こそ、疲れたお顔をしていらっしゃいます」
「飲み屋で兪吉の知り合いに会ってな。相手が相手だけに気分が悪い」
「田之上様のお知り合い、ですか」
「ああ。遊郭の楼主をしている男だそうだ。品の良い振りをして、とんだ輩だったというわけだ。まったく腹立たしい」
独り言のように呟いて、宮の脇を通り過ぎる。僅かに宮の息遣いが聞こえた。宮がそのままついて来るかと思ったが、宮は一向にその場を動こうとしなかった。兪吉が大谷邸に来た先刻と同じように、胸の辺りで手を固く握り締めている。
「どうしたんだ、一体」
最初は、兪吉に頼まれたからとはいえ、外部の人間を家に招き、執筆で忙しいはずの親弥に気を使わせてしまったと、負い目を感じているのではないかと親弥は思っていた。しかし、今の宮は何かに怯えているようにも取れる。
問い質すことが、親弥には憚られた。先日のことが頭を過ぎる。明らかに、ここ最近の宮の様子は不審な点が多かった。
「何かあるのなら正直に言え」と、たったそれだけを口にすればいいだけだ。であるにも関わらず、宮から良からぬ要因を聞き出すことになるのが、親弥には怖かった。
結局宮は何も語ろうとせず、お風呂の用意をして参りますと、先を歩いていってしまった。
親弥の中に、燃える薪のように燻り焦げ付いていく不安は、どんどんと勢いを増すばかりだった。
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