第8話 エリツインの10年
ゴルバチョフのペレストロイカ(改革)が始まったのは1985年からである。ペレストロイカが始まると、リトアニアでも自由化の機運が生じた。初めはペレストロイカを支持する運動であった。89年のベルリンの壁崩壊から始まる東欧革命は、ソ連邦からの独立要求に転じ、ラトビア、エストニアにも波及した。ソ連連邦軍が派遣され(ゴルバチョフの唯一の派兵)軍事介入に踏み切ったが、西側諸国の反発にゴルバチョフは厳しい立場に立たされ、撤兵を余儀なくされた。2月9日に行われた独立の是非を問う住民投票では、9割が独立に賛成した。欧米諸国は軒並み承認。1991年9月ソ連国家評議会もバルト3国の独立を正式承認した。もはや連邦の崩壊は決定的になった。
因みに1991年11月、ソビエト連邦の崩壊の直前であるが、チェチェンでは元ソ連軍の空軍少将であるジョハル・ドゥダエフを大統領に選出。連邦離脱法を基に、独立を宣言した。そのドゥダエフの最後の任地はエストニアであった。エストニア語を学び、エストニア人のナショナリズムに寛大で、エストニアのテレビ局と議会の封鎖命令を拒否したことから、エストニア人からは「反乱将軍」と評された。1990年5月、チェチェン人の要請を受けて退役し、野党チェチェン人民全民族会議執行委員会を率いた。ソ連8月クーデター時、いち早くエリツィンを支持した。
彼はエリツインと話し合うとしたし、何らかの合意がなされる余地は十分にあった。議会側の反対(共産党だけでなく改革派も)を押し切って軍事侵攻に踏み切らせたのは、経済改革で行き詰っていたエリツイン及び大統領府のメンバーであった。起死回生を狙ったのである。エリツインが改革派から秩序派に転じた瞬間であった。チェチェンでの失態でエリツインの支持は最低になり、再選は無理だろうと思われた。
これを救ったのが二女のタチアナ(ナタシャー)であった。モスクワ大学で情報数学・人工知能学を修め、国家研究生産宇宙センターに勤務する才女であった。政治色はなし、最初はそうだった。彼女は純粋にパパを助けるため選挙対策に徹し、イメージ戦略を展開した。テレビ局の宣伝に莫大な金をつぎ込んだ。大統領府長官チュバイスはオルガルヒ(新興財閥)を巻き込んでその資金を調達した。それと対抗馬が共産党のジュガーノフであったことが何よりであった。彼はロシア共産党を再建した実力者で、前年の下院選挙では共産党を議会第1党に押し上げていた。しかし国民は『復活した社会主義』には戻りたくなかった。また企業の国有化を掲げる政策に、オルガルヒは危機感を募らせエリツイン再選に味方した。辛うじてエリツインは96年再選を果たした。
「保守派」が起こしたソ連8月クーデターの際には戦車の上からロシア国民に対し、ゼネストを呼びかけるなど徹底抗戦した姿はエリツインの人生で最高に輝いた時ではなかったか!『危機と人類』の著者ジャレッド・ダイアモンドはエリツインの政治的失敗として8月クーデター事件失敗の直後に何故、ロシア議会を解散しなかったかと指摘する。解散しておれば改革派が圧倒的に勝利した筈と云う。共産党の活動は禁止され、解党したが、保守派議員の身分は次の選挙(93年)までそのままで、議会では保守派は勢力を温存したままであった。
93年『10月騒乱事件』という記憶があるだろうか。新憲法制定を巡って、大統領とハズブラートフ最高会議議長らの議会側との衝突事件である。発端は議長のテレビでの挑発発言だった。「大統領は当てにできない。どうしようもないどん百姓だ。(人差し指で喉をたたきながら=酔っ払いのジェスチャー)これさえあれば、あいつはどんな大統領令にも署名する」。エリツインは怒り、憲法の停止、議会の解散、立てこもった議員らの排除に軍隊の戦車が出動、死者まで出す始末であった。前のクーデター事件とは違って、国民は内輪揉めと白けてしまった。12月に大統領選、憲法の国民投票、議会選挙が同時に行われた。大統領と憲法は信任されたが、議会は再建された共産党を含む保守派が多数を占めたのである。
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