第5話 政治の道に入ったプーチン


 KGB要員である身分を隠したまま、母校のレニングラード大学に学長補佐官として勤務する。この頃に大学生の頃の担当教授アナトリー・サプチャークと懇意になる。因みにメドベージェフもサブチャークの教え子であった。

 1991年12月、例のクーデター未遂事件、プーチンは、これは失敗すると見た。この事件で権威が失墜したゴルバチョフが辞任し、ソ連が崩壊する。ゴルバチョフの経済改革、民主的改革は必要性と考えたが、国家の一体性は粘り強く維持されなければならない。強い国家権力が必要と考えるプーチンにとっては、ソ連の崩壊を早めたゴルバチョフへの評価は高くない。またソ連邦の維持を主張した共産党クーデター派には、崩壊を早めただけと否定する。

「KGBで勤務していた私の理想と目標が全て崩れ去った」と述べている。ソ連崩壊後しばらくの間は、生活苦から無認可タクシーの運転手のアルバイトをして凌いだと語っている。立場の違いはあっても、一般国民の大多数もプーチンと同じような喪失感と生活苦を共有したのである。

 同年、12月、サプチャーク(改革派)がレニングラード(同年11月にサンクトペテルブルクに名称を変更)市長に当選すると、対外関係委員会議長に就任する。この時KGBの身分をサブチャークに明かしている。サブチャークは別段に問題としなかった。1992年中佐の階級で退役、16年間勤めたKGBを正式に辞している。同年サンクトペテルブルク市副市長。役人として政治の世界に入っていく。1994年3月同市第一副市長。プーチンは外国企業誘致を行い外国からの投資の促進に努めた。


 市の職員時代に共に働いていたサプチャークや同僚によれば、プーチンは礼儀正しく、遠慮深く、落ち着いた人物であったという。また権力欲が無く、地位よりも仕事を重視し、仕事一筋に生きるタイプであると見られていた。私もこれに同意する。

ソ連が崩壊した喪失感はプーチンの中では深かったであろうが、それで政治の道を志したわけではない。サブチャークがエリツインらと並ぶ改革派だからそれに熱く賛同した訳でもない。その能力をサブチャークに認められ、与えられた仕事に実務能力を見出して行ったのだと思う。また、KGBで東ドイツに行って、西側を見て知っていたことが当時の仕事では役立ったと思える。

 1996年8月、サプチャークがペテルブルク市長選挙でヤコブレフ(サブチャークの下で副市長、プーチンとは同僚であった)に敗北して退陣すると、プーチンはそれに伴い第一副市長を辞職する。ヤコブレフによる慰留もあったが、それを辞退。仕事ぶりを見ていたロシア大統領府の総務局長パーヴェル・ボロジンによる引きでロシア大統領府(総務局次長)に入ることになる。時の大統領府長官はエリツイン再選に功労し、国有企業の民営化を担当したアナトリー・チュバイス*であった。中央政界との接点である。

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