第3話 プーチンの生い立ち


 プーチンは、共産党ではなく最初からKGBを目指した。プーチンはレニングラード(今のサンクトペテルブルク、以下ペテルブルクとする)大学法学部を出ている。モスクワ大学と並ぶ超エリート校である。当時のエリートは共産党を目指すのが普通だった。

 プーチンは自伝(唯一の公式自伝『第一人者から』)で少年時代を振り返り、家庭環境はあまり裕福で無く、レニングラードの共同アパート(一室で風呂やトイレは共同)で過ごしたと語っている。両親が41歳の時に第三子として生まれ、2人の兄はいずれもプーチンが生まれる前の1930年代に死亡(1人目は幼くして、2人目はレニングラード包囲戦の間にジフテリアで死亡)していたため、プーチンは一人っ子として育つ。父は熱心な共産党員、母は工場などで働く信仰心が深いロシア正教徒だった。父は海軍に徴兵され、独ソ戦で傷痍軍人となった。戦後は機械技師としてレニングラードの鉄道車両工場で働いた。プーチンは大柄なロシア人の中では小柄で、どちらかと云うと虚弱体格で、いじめられる存在でもあった。


 NHKのインタビユー(2003年)でこう語っている。「私は子供の頃『通り』で育ちました。『通り』には独自の厳しい掟がありました。何か揉め事が起きる時はつかみ合いの喧嘩です。そして、はっきり言えば、強いものが正しいということになるのです。私の周りの世界でいい顔をするために、いろいろな方法で身体を鍛えようとしました。小柄でしたから柔道にたどり着いたわけです」と。柔道は己が非力でも、相手側の力を逆利用して勝利出来る。プーチンにはその辺が気に入ったのだろう。

別のところでこうも語っている。「通りは、私にとって『大学』だった。そこから私は教訓を学んだ」と。学んだ教訓とは、①力の強い者だけが勝ち残る。②何が何でも勝とうという意思が肝要である。③闘う場合は最後まで闘わねばならない。②に関してはプーチンの柔道コーチだった人物は、「彼の勝とうとする意志は、人並み外れて強かった」と語っている。③については、プーチンは「攻撃に対しては直ちに応える用意を常に備えておく必要がある。すなわち、即座に!しかも最後まで闘うことが肝要である」と・・。

「これらは有名なルールであり、しばらく後になってKGBが私に教えようとしたことだった」。通りで掴んだ哲学に筋金が入ったのだ。この筋金がいか様なものであったかは、チェチェン紛争やそれを巡るテロ事件で遺憾なく発揮された。チェチェン紛争に対する強者の姿勢こそ、プーチンを大統領に押し上げたものであった。チェチェン紛争については、首相時代のプーチンのところでもう少し詳しく語ろう。


 やがてプーチンは小説や映画で、特にフランスが製作したリヒャルト・ゾルゲの映画を見てからスパイに憧れを抱いたとされる。祖国を守るカッコイイ仕事と映ったのだろうか・・。 14歳の9年生(日本の中学3年生に相当する)の時に彼はKGB支部を訪問し、応対した職員にどうすればKGBに就職できるのか質問した。職員は少年の質問にきわめて真率に対応し、KGBは自ら志願してきた者を絶対に採用しないため、今後は自分からKGBにコンタクトしてはならないこと、大学の専攻は法学部が有利であること、言動や思想的な問題点があってはならないこと、スポーツの実績は対象者の選考で有利に働くことなどの現実的な助言を与えた。

 プーチンは悪ガキで成績もイマイチだったが、それから猛勉強して、最難関のレニングラード大学法学部に入学した。そして大学4年次にKGBからのリクルートを受け、目出度くKGBへ就職する。KGB職員であるためには共産党への入党が条件だったため、プーチンは共産党員になっている。別段マルクス主義に傾倒したからではない。

『プーチンとロシア人』の著者木村ひろし北大名誉教授は、テスト期間もなしに、大学卒業と同時にリクルートを受けるのは異例中の異例だと書いている。応対した職員がその後を見ていたとしたら、あるいは印象ある少年の訪問と報告を上げていたら、なにせ諜報機関で、マークはお手の物である。


1983年に結婚、元客室乗務員でレニングラード大学の学生だった、綺麗な人だ。子供は娘二人(レニングラード大学を卒業)。2013年にプーチンは離婚している。

1985年、東ドイツに派遣。KGBドレスデン支部で北大西洋条約機構(NATO)の情報収集などの任務にあたる。プーチンのドイツ語は定評がある。この派遣と任務は彼の望むものであった。

1989年11月9日、ベルリンの壁崩壊。ここから欧米に対峙した彼の国ソビエト連邦が崩壊していく過程を見ることになる。民主化を要求する市民の怒りは国民を監視し続けて来た東ドイツの国家保安省(シュタージ)に向けられた。関連施設が破壊され、プーチンが勤務していたドレスデン支部にも市民が押しかけた。プーチンは同僚らとともに機密資料を焼却し、それまでに築いた情報網を全て破壊しなければならなかった。群衆の怒りに脅威を感じたプーチンは駐留ソ連軍の出動を要求したが、「モスクワの命令がない限り何もできない、モスクワは沈黙している」と云われて、「国はもう終わりだ、ソ連は病んでいる」と実感したと回想している。

プーチンの味わった敗北感は大きかった。このとき、ソ連にもKGBにも未来はないと悟ったプーチンは、モスクワ本部への移動を断って、レニングラードに戻った。


 さしたる高教育も受けていない敗残兵伍長殿が、どのようにして権力の階段を駆け上ったのであろうか。ナチス(党)を作って最初は蜂起して失敗するが、そのあとは選挙に勝ち続けて政権を取るのである。政権を取ってから憲法を停止し、総統として全権を握り独裁を敷くのである。選挙に勝つ、それは敵共産党から学ぶ。ヒットラーは演説を通して大衆の心を掴むのに卓越していたと云われている。

プーチンはウクライナ問題からは「冷酷非道の戦争屋」的に言われているが、それは西側メデイアの一方的報道からの見方である。ロシア国民の多くは熱烈にプーチンを支持している、支持率は80%、悪くても60%、それも20年だ。報道の自由がないから国民は操作されているだけでは答えにならないだろう。国民大衆と共有するところを掴んでいるからこそ強気な「戦争」も仕掛けられるのではないか。クリミア併合の時は実に90%近い支持率を得ている。そういう指導者が世界に今いるだろうか?そういう意味からもヒットラーの大衆論は中々に面白い。



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