心優しき者への烙印 ②
「神様は乗り越えられる試練しか与えません」
そんな言葉を聞いたのは、いつの日だったか。安息日に教会を訪れる日課も最早クラリアには懐かしいものとなっていた。では、今はどうだ? 両親を失い、生家を奪われ、見知らぬ花街で身体を弄ばれる。これは乗り越えられる試練なのだろうか。
「止まない雨はありません、明けない夜はありません」
今降りしきる雨が冷たくて、この夜が怖くてたまらない。どうすればいいのか。教義は自ら死すことを禁じている。前進も後退も出来ない息苦しさがクラリアの心を壊していく。
そうしている間に、他人への優しさを失うことが何より怖かった。だからテーネを助けられた時は嬉しかった。まだ自分にも、誰かを案じる心が残っている。赤の他人が死ぬのを、嫌だと思えている。人間として当然の感情が死んでいない。
テーネが保護されてから数週間経った。いくら加護らしきものを持っているとはいえ、瀕死の重傷に瀕死の重傷を重ねたのではすぐに治るものではない。加えて、簡単な治癒魔法と素人手当による治療では時間も掛かる。
寝ているのが後ろめたいのか、彼は何度か仕事の手伝いを申し出た。だがミリアムによって全て断られている。傷がまだ深いのもあるが、迂闊に動けば支配人に存在を悟られてしまう。部屋をあまり出なければ部外者が数週間も暮らしていることに気づかないほど愚かな相手ではあるが、気づかれた際の危険は大きい。
かといって他に当ても無い。周囲の女の子達は引っ込み思案だが思いやりがあって可愛らしいテーネを新しい癒しの存在として受け入れつつあった。
「……何してるの?」
クラリアが彼のいる部屋に入ると、一人の女の子がテーネを抱きしめて吸っていた。小動物を『吸う』というリラクゼーションはあるらしいが、それがテーネで行われていた。彼は抵抗こそしないが、耳まで真っ赤なので恥ずかしくはある様だ。
「あー、癒されるー……」
「ああ、これね、この子が何かしないと落ち着かないみたいだから、いるだけで役に立ってるよって話をね」
ミリアムの説明を聞いて、概ね理解した。こんな治安の悪い花街にまず来ない人種が劇場に長く留まっているのだ。見た目も可愛いとくればもう愛でるしかない。
(この烙印……もしかして加護関係じゃなくて呪いの類かしら……)
最近はすっかり読む時間がないのだが、本の隅々まで確認して烙印の情報を集めている最中だ。犯罪者の系統だという前提で探していたが、違うものだとすれば本に記載がないのも納得だ。
「ねぇ、今日の順番って変じゃない?」
女の子がテーネを解放してクラリアに声を掛けた。今日、舞台に立つ順番がいつもと違うことを気にしていた。彼女もそれは聞いていたが、どうせ支配人の気まぐれだろうと気に留めてなかった。
「そうね、私がオオトリ……珍しいんじゃないかしら?」
初対面から支配人はクラリアを気に入っていたのか、最初に舞台へ立たせてすぐ抱くという流れはずっと変わっていない。それが一気に変更となると多少は不気味さを感じてもいいかもしれない。
(新しい子が入るって話も聞かないし、単に飽きた?)
自分が飽きられたのなら気楽だが、その分他の子に負担が掛かるとなると喜んでばかりもいられない。どうせ自分は死を望む身、自分だけが穢されて済むならそれが一番だ。
「どうせ、何も考えてないでしょう。気にすることはないわ」
「だといいけど、なんだか嫌な予感がする」
急な配置転換は不安を煽った。ミリアムもそれは感じるところらしく、あるものをクラリアに手渡す。
「これは?」
「持っておきなさい」
加護を持たない者でも魔法が使える魔法石、護身道具の一種でぱっと見はジュエリーにしか見えない。そんなものを渡されても、と思ったが気持ちだけ受け取っておくことにした。
@
夜、劇場でクラリアの踊りが披露される番となった。概ね、客は女の子を連れて部屋に入ったので減っているはずだが、それでも開演時期と変わりない数の観客がいる。
(……どういうこと?)
どうせ何もない。あの男が何かを考えて行動するなど、と思っていたクラリアもどこか不気味な気配を感じ、背筋が凍った。自分に刺さる目線がいつもと違う。舐め回す様に劣情の籠った視線が汗ばむ肌を這っていくのはいつも通り。だが、今夜はよりむき出しの肉欲が向けられている。
「……」
自分の演目を終えて、お辞儀するクラリア。息が上がって吸い込む空気が増える。すると、いつもと違うことが鼻で見つかる。
(この香り……)
前に踊っていた女の子の香水や、酒の匂いとも違い甘い香りが鼻孔をくすぐる。吸い込む度に胸の奥が熱くなる。妙なお香でも焚いているのだろうか。頭がぼーっとする。男達がにじり寄ってくることに、少しの間気づかなかったほどだ。
「あら? 私のこと買うの?」
どうやら、自分の売買が解禁されたらしいことに彼女は気づいた。男達は見せびらかせる様に踊る自分を見て悶々としていたのだろう。だが、一度に相手できる客は一人だ。そういう決まりなのもあるが、身体が持たない。
「でも誰か一人ね。決めて」
「全員の相手をしなさい」
断ろうとしたその時、後ろから支配人の声がする。これは一体どういうつもりなのか。問いただす間もなく、クラリアは複数の男に囲まれ、腕を掴まれて押し倒される。
「っ……、何を?」
「君の違う顔が見たくなった、というだけだ。お前は舌を噛んで死んだりしないから、安心して扱える」
「私の信仰を……」
支配人に信仰の話はしていないはず。いつも首に下げていた印を見てもそれがどの神を信仰するもので、自殺を禁じていることをこの浅学な者が知っているというのか。
今はその疑問に集中し、この長い夜が終わるのを待つしかなかった。
「はぁっ……」
解放されたクラリアは疲労と屈辱にまみれながら舞台で起き上がる。崩れたアイシャドウを拭い、ふらりと立ち上がる。まさかここに来て、より穢されることになるとは思わなかった。独占欲の塊みたいな男が自分の財宝を共有する様な真似をするとは。頭がぐちゃぐちゃにかき回され、感情の整理が出来ない。
何もかも失い、奪われ尽くした今、もう悲しむことはない。だが、死んで逃れることも出来ない閉塞感に胸が詰まる。汗が引いて冷える身体と繋がった様に、心も冷たくなっていた。
「うぅ……く……」
こんなの誤差、純潔を失った女などどれだけ汚されても同じ。そう自分に言い聞かせても涙が溢れてくる。こんなに辛いのに、神は逃れることも許さない。こんな試練、どうやって乗り越えればいいのか。これからもし孕んでも、今まではあの男かと割り切れたものが、父親も分からない子供を産むことになってしまう。
自分はどこまで落ちるのか。家の誇りだけでなく、人としての尊厳もどんどんなくなっていく。こんなことなら、信仰など捨てて綺麗なまま死んでいた方がよかった。だが家族との思い出もある信仰を捨てることは出来ない。
行き場のない感情がぐるぐると巡り、涙という形で出てくる。
「え?」
その時、上着を掛けられた。きちんと洗われた、清潔な香りがする柔らかいものだ。それだけで支配人や他の男ではないと分かる。後ろを振り向くと、おずおずとした様子でテーネがいた。上着は持って来たものではなく、着てきたものだったので上半身が包帯を巻いただけの裸だ。
「あ、あの……こういう時、どうしたらいいか分からないけど……」
気まずさもあるのか、彼は目を合わせない。だが、どうにかしたいという気持ちはあった。自分の着ているものさえ構わず、という姿にそれを感じることが出来る。
「テーネ、見てたの?」
終わってから男達が去り、それなりの時間が経っているが、テーネがどこまで『見てしまった』のか気がかりだった。見られてもどうということはないが、彼に何か悪い影響を与えないかどうかが心配だった。
「いえ! その……他の人からお仕事遅くなるって聞いて、でもずっと帰って来なかったからその……」
どうやら、いつまでも部屋に戻らないクラリアを心配して探しに来たらしい。
「そう、ありがとう」
今日も目元が赤く、やはり悪い夢を見て泣いていたのだろうが、それでも自分のことを気遣ってくれるのは嬉しい。テーネの身体を見ると、暗闇でも分かるほど細い。義手の部分が一回りごついが、あれだけの傷を負って生きているのが不思議なくらいの薄い肉付きだった。
(優しいのね……)
自分だって余裕ないくせに、と思いながら彼の優しさを噛みしめるクラリア。一緒に部屋へ戻るべく歩いていると、窓に月明りが差し込み二人を照らす。テーネの姿を見た彼女は絶句し、思わず声を荒げた。
「ちょっと? 大丈夫?」
包帯に血が滲んでいた。傷が開いたのか、元々深い傷だったからなかなか塞がらないのか。まだ起き上がって歩くのは早かったのだろうか。色々な思いが去来する。自分の為に、死ぬつもりの自分のせいで、テーネが傷を負うことはないのに。
「大丈夫、このくらいいつもだから……」
彼はクラリアを心配させまいと、微笑む。その笑みはどこか悲しげで、心の底から笑えていない様な引っ掛かりもあった。
@
「ねぇ、ミリアムさん知らない?」
二日後、クラリアは諸用でミリアムを探していた。いつもの場所にいない。劇場で姿を見ないというのは非常に珍しいのであちこち探した末人に聞くこととなってしまった。
「ミリアムさんなら支配人の奴に呼ばれて酒蔵に行ったよ。ほら、バーが併設された」
「そう」
支配人に呼ばれた、というのが気がかりであったが用事らしい。帰って来てからか、ということだけを念頭に置いて彼女は部屋に戻り読書の続きをした。呪いの本に切り換えて情報収集は続けている。
「うーん、エンタールの街にはいないんだっけ」
呪いを解ける僧職の者が一番近くにある大きな街、エンタールにはいない。どうも大物の魔物を狩り尽くしてギルドごとバスターが出て行ってしまい、そもそも人手がいないとのこと。サナトリ村から派遣されるのは若いパラディンなので、詳細も分からないテーネを見せて解決しそうにないのがネックだ。
「お茶淹れましたー」
「あ、ありがと……ってその状態で持って来たの?」
テーネがお茶を持ってくるが、カップを持ってそーっと零さない様に歩いていた。トレーはおろかソーサーも使っていない。
「あ、すいません砂糖を……」
「いやそうじゃなくて、受け取るから!」
砂糖のことだと思って引き返そうとするテーネを止め、お茶を受け取る。いい子ではあるが、少しおバカなのが玉に傷。
「ねぇ、テーネ。旅してるなら木造の蔵って見たことあるわよね?」
「うん」
ふと、旅人である彼にミリアムが向かった古い建物の話をする。農村ではそれなりにあるが、街中では珍しいかなと、ふと思ったりしたのだ。というか、こういう街で木造の建造物自体があまり見ないものになっている。
「あれって街中には無いわね」
「はい、火が起こせる魔法石が出回ってからなんか火事が増えてからかな……街の建物がレンガになったの」
「そうなの?」
便利な世の中になったことが主な原因らしい。確かにあのカンテラしかり、ちょっと念を込めるだけで火や光が使えるのは革命的だ。だが、便利な技術には闇が付き纏う。
「街って建物ぎゅうぎゅうじゃない? だから火が点くと一気に燃え広がって危ないんだ。それで一時街の建物レンガにしようって色んなところで建て替えしてたりレンガ焼いてるの見たなぁ……」
まるで見て来たかの様に語るテーネ。魔法石が広まったのはそこまで最近ではない。クラリアの故郷の様に元々整備されていた街では当たり前の様に石造りやレンガ造りの建物になっていたが、地方では違ったのだろう。
「国によっては王様がお金を出してたり、そのままにしていると捕まったりして」
「へぇー、旅してるだけに詳しいのね」
話を聞きながら、お茶を啜るクラリア。運ぶのがゆっくりだったおかげで飲みやすい温度だ。蒸らす時間や淹れ方の問題で味が薄いのだが、それは言わないお約束。
「そうだ、砂糖持ってきますね」
「あ、いいわよ私普段から入れないから」
テーネは思い出した様に砂糖を持ってくるため、クラリアの静止も聞かず部屋を出た。パタンと閉じる木の扉。木……木造。国によっては改善しないと捕まる……。その時だった、彼女の中にあった一つの懸念が確信に変わったのは。
「大変!」
立ち上がり、部屋を飛び出すクラリア。勢いよく開けた扉は部屋を出たばかりのテーネを直撃する。
「うっ!」
「あ、ごめん!」
廊下に倒れる彼を起こし、廊下を走り去る。
「クラリアさん?」
「ちょっと用事思い出した!」
テーネを巻き込まない様に誤魔化しつつ、彼女はミリアムの下へ走った。最悪の予想が当たらない様にと願いながら。
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