ルト
行く所も金もましてや服も無い者を放る訳にもいかないので、とりあえずその子はシャルの家に押し込まれた。
「ただいま」
いつからか、決まって抑揚のない寂しい挨拶しか彼はしないが、欠かした事はない。
「こんにちはフェイさん、また来ましたー」
礼儀正しくも砕けた口調でルーズ。
「えと、おじゃましま~す……? いいんだよね、ほんとに?」
緊張したのだろうか? もう一つの声は不自然に震えていた。
「おかえり。おや? 珍しいね、誰か連れてきたのかいシャル?」
入ってすぐのリビングの中央に置かれたテーブルから、穏やかな返事が返ってくる。
フェイ・ザウバー、シャルの父だ。細身で物腰柔らか、ちょっとやそっとでは怒りそうもない彼の雰囲気を見て客人もだいぶ安心したようだ。
シャルがルーズ以外を招き入れる事はほぼなかった為、彼は立ち上がり興味の視線を向けてくる。
「ああ、実はこの子が……」
説明、といっても今あった事をそのまま話しただけだが、彼は真剣に聞いてくれていた。
「そうか、それは困ったね。そのままじゃ何も行動できないじゃないか」
「ね、ひとまず自己紹介してもらおうよ? ほら遠慮しなくていいからっ」
四脚ある椅子についたルーズが、いつの間にか床に座っていたその子に手招きする。
「うん! ボクね……あ。え~っと、うんとね」
少しの間、さしたる装飾もない普通の家を物珍しそうに見回していたが、質問を受けたのに気付くと快く返事を――したのにも関わらず、その子は俯いて迷うような素振りを見せた。
「どうしたんだい?」
「名前を明かせないって訳でもないだろ、流石に?」
危険な裏世界の住人などには全く見えないが。
その子は少し怪しまれ始めたかと焦ってすっくと立ち上がり、早口で告げた。
「あ、ううん何でもないよ! ボク、ルト。ルト・セレス! 十五歳!」
名はともかく、その年齢にシャルとルーズは驚いた。
「えっこれで……俺達の一つ下だって?」
「あらら、てっきり十二かそこらかなって思った」
体は小さい、オーバーアクション、家に入ってからもそわそわきょろきょろしていて、声も子供っぽくて中性的だったからだ。
「あとはね……そだ、女だよボク」
「え? あ、うんやっぱりそうよね……よかった」
長髪から予想はしたが、すぐ近くまで詰め寄られたシャルも女とは分からなかった。
恥も色も皆無であった事もそうだが、女性特有の気配あるいは匂いのような物が無かった。本能的に女だと感じなかったのだ。
匂いと言えば、少し動物臭かった。自宅で犬でも飼っていたのだろうか?
「ま、まあそれはいいとして。私がルーズで、こっちのムスッとしたのがシャル。二人共十六よ。もう何年も前からだから、ちょっとした幼馴染ってもんね」
「へえ~長い友達かぁ、いいよね、ボクにもそういうのいて……ちょっと前から一緒にいられなくなっちゃったんだけど、元気にしてるかな~」
席を立ったルトは二人の、特にシャルの顔を物珍しそうに覗き込んでくる。
好意を持っていると思われても構わなさそうな、無遠慮な仕草にどうも視線が泳ぐ。
「お、おいちょっと近……ほら、親父が待ってるから戻れって」
彼にはその時ルトが一瞬、とても嬉しそうに笑ったように見えた。何故だ?
まあ、言及する程の事でもない。彼は素直に座り直す彼女をただ頬杖をついて眺めていた。
「さて、ルトさんは一体なぜそんな状態でこちらにやってきたんだい?」
まず気にする事はフェイも同じ。そんな状態――手ぶらにぶかぶかな寝間着だけで。
「それなんだけどね、ボク、自分で来たんじゃなくて飛ばされてきたんだ」
ルトは小さい頭を掻いて少々のフケを落としながら、自分の不釣り合いに大きな寝間着の中を覗き込んで笑う。
言っている事に反してそれがとても楽しそうで、シャルは少し違和感を覚える。
(誰かに望まぬ転移をさせられたって事か? でもそいつだって時球の豊富なオルタナによこしたらすぐに戻って来る事くらい考えつきそうなもんだけど)
ふわふわとした態度を崩さないルトに、シャルは好感を覚えつつも疑念をどんどん深めていた。
彼にとっては、ルトが女である事も警戒するべき要因。
「嘘、大丈夫だった? 寝起きに変な人に襲われて!?」
両手を口元にやって大声をルーズだが、ルトは彼女がなぜ慌てるのかと目をぱちくりさせる。
「え? 襲う……なんで?」
「だってあなたその格好で、来た時目が覚めていたでしょ?」
ちょうど寝起きに飛ばすには、寝ている横で時球を持って待機していなければならないだろう。
着替えも髪の手入れもせずに出歩いていた可能性は……流石にないと思っておきたい。
「あ、飛ばしたのはお父さんだよ。そうだえ~と……だいたい二十年くらい未来から来たんだねボク」
リビングの壁にかかっているカレンダーに目をやり、しばらく指折り計算して言うルトに三人は顔をしかめる。
「な、なんで娘にそんなこと……」
「んと、実は寝ぼけてたからよく覚えてなくって……」
「まあ何かの拍子に喧嘩して追い出されたってとこだろうな」
「あ! うん多分そう! こっちで学ぶことがあるからそれを済ませるまで帰るな~とかって最後に言われたから。お父さんに怒鳴られたの初めてだったから、それはちゃんと覚えてる……」
だんだん声の小さくなったルトはちょっと縮こまって押し黙る。何をしたのかまでは言わないが、その時の事を反省しているように見えた。
そのまま沈黙が続いたのを見かねたルーズが手を叩いて、注目を集める。
「ともかく! そういう事ならルトちゃんの住む所を都合しなくっちゃ! なんなら今から私が知り合いに声かけて回って……」
今夜までには落ち着く所を決めるべきで、まずそれを決めてしまおうと言うのだ。しかし、シャルは割り込んであっさりと言った。
「いやいいよ。とりあえずこいつ、うちに住ませよう」
これにルーズは過剰なまでに驚く。
「え? 嘘! 本気なの!?」
「いいの? ほんとに? ありが……あれ、どうしたのルーズ?」
「ねえ、本っ当に大丈夫? この子……「女の子」なんだってよ?」
彼の両肩を乱暴に揺らしてルーズは必死の形相で諭すが、シャルは意見を変えなかった。
「あくまでこいつ次第だけど……他とは何か違う気がする。きっと平気だと思うんだ、いいよな、親父?」
「ああ、私は構わないよ。少し変わってるけど、いい子じゃないか」
「はあ、どうなっても知らないからね?」
彼はいつの間にかまた傍に来て目で説明を求めているルトの頭に、軽く手を置いてみる。どう接していいかも分からぬままそうしたものの、ルトは嬉しそうで安心した。
なぜルーズがそこまでルトを住まわせる事に反応したのかというと、シャル自身が同年代の子に集団で虐めを受けていて、特に女子がその主な害悪になっていたからである。
彼は数年単位で続く理不尽な扱いで、女に、人と話す事に、ありのままの自分をさらけ出す事に、深いトラウマを抱えていた。
「じゃあ私、今日は帰るけど。どんな風にしてたのかちゃんと聞かせてね? もう……一人で背負い込もうとしないでよ」
「さて、私としては賑やかになるのは大歓迎だけど、家計簿の方はそう簡単に許してくれそうもないからね。外壁の見張りくらいは行ってもらう事になるかな」
「がいへき? 壁? なんの?」
やがて現実的な話がフェイから持ちかけられるが、ルトはさっそく小首を傾げる。
「ああ、すまないね。街の基本知識があるとも限らないか」
オルタナは発見された時球を各町が必要なだけ保管した余剰分が大量に集められるため、何らかの欲望を叶えるためだろう、それを奪いに来る集団が後を絶たない。
そのためオルタナには円形の都市を囲むように、城壁もかくやという分厚い石壁を設置している。侵攻を察知してから、これを突破されるまでの間に防戦の準備をするのだ。
その見張りにつくのが庶民の身近な稼ぎ口の一つである為、街が常時剣呑な雰囲気になっているような心配はない。
「というわけ。なに、簡単さ。子供にでもできる。何日かに一度、少し退屈な思いをしてもらうだけだよ」
「それだけでいいの? やるやる! あれでも、戦うの? 時球でポーンと飛ばしちゃえばいいんじゃないかなぁ?」
「それはちょっと無理があるかな。あれを使う時にはね、対象をはっきり特定する、つまりイメージできる程度に知っておかなくちゃいけないんだ」
「そっか、会ってからじゃそんなヒマないよね」
「そう。それに少なくとも私は、たとえ傷付き倒れる可能性があるとしても真っ当に戦い、追い返してやるべきだと思ってる。知らない場所に弾き飛ばしたりしたらその人達は……と、今は難しくて悲しい話はよしておこうか」
ルトは反応に困ってまた首をひねる……折をみて、彼女を凝視したまま状況を整理していたシャルが質問を投げかける。
「なあ、ルトだっけ。時球で跳んでも、座標はそんなに変わらないんだ。お前がいた所はどんなだったんだ? 二十年後のオルタナには時球や外壁はないってのか?」
話がおかしいのだ。彼女がオルタナから来たのなら、都市の仕組みに疑問などないはず。
こんな堕落しきった都市で学ぶ事なんかあるか?
親はオルタナの事をどこまで知ってる?
大体なんでこいつは時球の事をあまり知らないんだ?
オルタナから来たんじゃないとしたらこの街は滅ぶって事か? 都市ひとつ、あと二十年以内に?
仮説を出しては納得がいかず却下して、シャルは頭がどうにかなりそうになっていた。
「時球は、あるよ。でももう使う人はいないんだ。外壁は……なんかオルタナのはずれにガレキの山があったような。それかな? あの塔もボク全然知らなくって、他にはね……あ、そういえばオルタナに住んでるのはボクが生まれたころに遠い山の向こうから来た人たちばかりだ~って聞いた事あるかな」
(瓦礫だって……? 何か災害でも起きるのか?)
はっきりしないものをそれ以上考えても、頭痛を引き起こすだけだった。別にこれから時間はいくらでもあるのだから、一度に聞く事もないだろうと判断する。
「うーん……そうか……とにかく俺、部屋の用意しとくから……」
リビングの壁に沿う階段を登って、自分の部屋へ。机に散らかった落書き、昔熱中した漫画、昨日脱いだ服……見られたくない物はある。
「シャル、どうしたのかなぁ」
「あいつは頭がいいからね、謎があると考え込むんだよ。さぁルトさん、いやルト、今日から家族だね。十五ならシャルの妹って事にしようか」
「家族、かぁ……うん! おやすみ、お父さ~ん」
話し込んでいるうちに日が沈んでいたらしく、もう眠くなったのかルトも二階に駆けていった。
――うわ待て、まだ入ってくんなって! 床で寝るんじゃねえー!
「ふう、本当に賑やかになりそうだね。今日までうちは静かすぎたから、いい風を吹き入れてくれるかもしれないな」
シャルの部屋には別段いかがわしい物がある訳ではなかったので、片付けもそこそこのまま彼女が入ってきても特に問題はなかった。
唯一彼の精神面を除いては。
「すぅ……」
ルトは睡眠が全てに優先される性質なのか知らないが、ふらふらと入室するなり床に適当なスペースを見つけると、そのまま毛布もかけずに丸くなってしまった。
いや彼女の場合、その髪が天然の毛布となっていた。
夜も更けて、今彼は普段通りに自分のシングルベッドで横たわっているのだが、とても眠れる状況ではない。自分は寝具に入っているのにすぐ隣では少女が身一つで転がっているのだ。さすがに良心が許さない。
「……っ! ……おい、おい……まだ起きられるか?」
「……ん~? なぁに?」
彼女が片目を擦りながら上体を少し起こしたのを確認して、自分の毛布を少し持ち上げて見せる。
「よかったら、入るか? あ、嫌なら別に」
「え? いいの?」
ルトはごく自然に彼の隣に転がり込むと、仰向けに落ち着いた。
暖かい。背中に敷かれた髪が自分にも当たっていて、なんだかくすぐったい。もう何年も感じていない人の温かみに、彼はまず感動していた。
しかし、胸が熱くなるのに慣れてくると……別の意味で眠れない。
自分では全くそんな気も予定もないのだが、やがて女性への免疫が皆無な彼は、胸と下腹部の疼きと背中の冷や汗が止まらなくなった。
(これは……まずいな)
彼が最も恐れていたのは、これで自分が何かしてしまって泥臭い関係になってしまう事ではない。それはないだろうと断言できる。
むしろ彼女が、ほんの小さな粗相をしたのをいい事に何十倍にも膨れ上がった不名誉なレッテルを貼ってくるのではないか、それが恐怖であった。
そもそも自分に何も落ち度がなくても、適当な状況をでっち上げてくるかもしれない。冷静に考えればこのほわほわした子がそんな黒い思考をするはずがないのだが、その時彼には余裕がなかった……なにしろ彼の知っている女性は一人を除いて、そんな輩ばかりであったのだ。
とりあえず、起こしてはいけない。彼は静かに壁の方へ擦り寄って、距離を取る。だが気付かれたのか、ほどなく肩にちょこんと手が乗せられた。
はっきり言って彼は怯えた。そのか細い腕がまるで魔獣の巨躯のようにさえ思えた程である。
「……どうしたのシャル? なんでそんなに遠慮してるの……ここはシャルの場所なんだから、そんなのおかしいよ……ボクが出て行ったら、いつもどおりに寝られる?」
「い、いや……お前が、イヤかなー、と、思うかなって」
恐る恐る振り向いて、ばつが悪そうに見えるように意識して述べてみる。笑われるかと覚悟したが……ルトは鳩が豆鉄砲を食らったような顔をした。
「え? イヤだなんて思う権利、ボクにはないよ? ここではシャルの方がエラいんだから、好きにしてていいの。それにすっごくあったかくて、いい匂いがして、ボクを気にしててくれたこと、喜んでるよ? ん~……はいっ、これなら信じてもらえるかな? ボクもこうしてたいと思ってた所なんだ~」
ルトは彼を寝床の中央まで引き寄せると、その半身に手足を絡めて密着してきた。いたずらに理性を刺激するような胸の膨らみは、気の毒だが全く感じない。
うふふふ、くすくす、とこぼす笑いはとても嬉しそうだ。
「ね? これで眠れる? おやすみなさ~い。くぅ……」
――眠れる訳がないだろう。
心の中で突っ込みをいれずにはいられなかったが、しかし精神面は確かにすっかり癒されていた。
自分も大概だが、本当に変わり者の子だ……シャルは安らかな心地で、思う存分柔らかな体の放つ体温を味わう事ができた。
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