一章 最高最悪の都市

オルタナ

 ――ザシュンッ……!

 少女の全体重を乗せて振り抜かれた巨大な刃が、腹の肉を抉る。

「がっ……ハッ……!」

 幾つもの臓物がねじ切れ、声にならない悲鳴が上がる。それを聞き、肩で息をしている少女は誇らしげに頷いた。

「やった! はぁはぁ……ボクの、勝ち! は~楽しかった」

 周囲にうず高く死骸を積み上げ血と油にまみれた少女は、夕刻まで外を走り回った子供のように清々しい笑顔を見せる。

「なにか形見になるものが欲しいなぁ……爪でも剥いでおこっかな」

「ル……ト……」

 消え入りそうな声で名を呼ばれ、少女はぽろぽろと涙を落としながらも満足げな笑みを絶やさぬまま、一気に両足の爪を引き剥がした。

 ――ベリ、バリバリバリ……!

「お別れするの、イヤだけど。ボクガマンできなくなっちゃったんだ。今まで育ててくれて、ありがとね」


 何も見えない、暗い世界……視界を遮るものは人も、動物も建造物も、地平線すらない。ただ真っ暗な空間だけがどこまでも続いている。

 一歩先に地面があるかも不明な道なき道を、足音もなく一つの影が歩いていく。

 何の道標も無い世界を、彼は微笑みを浮かべながら……どれくらい歩いたのか、比較対象の無いここでは知り得ない。数秒か、はたまた数年か。

 彼はやがて立ち止まると、虚空にゆっくりと手をかざす。

「ふふ……なかなか良い人材が生まれようとしています」

 彼の眼前の狭い空間に、一つの世界のビジョンが映し出される。特別発達しているとは言えないが、人々が安定して社会を築くだけの文明は整っている。そんなありきたりな世界の、一つの命に彼は目をつけた。

「どうやらこの世界は私達の残り香に気付いていますね……そのおかげで彼は大いに苦心している様子。今はまだ静かに耐えているようですが……嬉しいですね、近々新しい友人ができるかも知れません」

 彼には、その世界の全てが見えた。自由に映像を操り、時代を、場所を移し、多くを知る。無限の時間を持つ彼には、どの世界もほんの小さな映像作品のようなものだった。

(しかし見えこそすれ、全てを理解する事は叶わない。ただ私の方が外側にいて、覗いているだけの事……)

 その世界をもっと知ろうと細部へと踏み込んでいくうちに、背後から無数の唸り声が響いてきた。罵声にも聞こえるそれらはどうやらこの世界が少々気に食わないらしい。

 彼はだが静かに、吠える仲間を優しい声と手で制した。

「お止めなさい、今更どうにもならない事です。おや、これは……」

 不意に目の前の映像で起こった微かな変化に、彼の興味は奪われる。

「なるほど、あなたはもう少し人間でいられるかも知れませんね……ふふふ、おやおやこれはまた猟奇的な……見ていてあまり気持ちのいいものではありませんよ? ですが安心なさい、どんな過程を経ようと、私はあなたの努力を否定しませんから……」


 世界には、自分と同じ顔が三人はいるという。出会ったら死んでしまうとも、激しく罵倒すれば事なきを得るとも言われている。

 この世界においてそれは迷信の類ではなく、まぎれもない事実であった。証が残るのだ。

 ある時ある場所、同一の存在同士は接触し……指摘する。

「○○は私だ。お前は存在してはいけないモノなのだ! 消え失せろ!」

 ――では、自分は何なのか? 

 ――いつ、どこの何として生きればいいのか? 

 正しい存在でないと指摘された者は自身の存在の矛盾を認めると、やがて水色に輝く石に姿を変える。

 いつの時代においても誰もが、その奇妙な石に知識欲のまま手を伸ばした……。


 人類の支配する惑星、リグレット。その中でも最も裕福であると言われる都市、オルタナ。

 人々の誰一人、そこでの暮らしに不満は持たない。治安はよく、食べ物も絶対に尽きない。労働もわずかで済み、自分の家で何不自由なく過ごせる。

 不可能にも思える平和を支えているのは、ドッペルゲンガーを否定する事で現れる、時の矛盾の塊。これに触れて念ずれば、誰でも好きなように時間を跳ぶ事が出来る。

 使い捨てではあるが、永遠の夢となりうるタイムマシンそのものだった。

 人々はこの掌ほどの大きさの水色の石を、誰からともなく率直に「時球」と呼んだ。

 広大な平原にあり、馬車の往来が盛んなオルタナには生成された時球がいったん集められる。

 オルタナは時球の倉庫、緊急用の数十個を除いた数万もの時球は身分に関わらず自由な使用が認められている。


「……のがこの街の特徴で、自慢だってのは分かるけど。時を掴む都市ってさ。でもだからってこれはないだろって思うんだよな」

 平和な日常の、ある昼下がり。大通りに面した家の玄関口に座り込んで顔をしかめている青年と、ため息をつく少女。

「ね、毎日毎日これじゃやんなっちゃう」

 丸く作られたオルタナの東エリアは住宅街。大抵の者はここか、北側の商店街に構えた自分の店で暮らす。

「あの長蛇の列。街の真ん中からずっと伸びてるんだぞ? もうちょっとでウチの前まで到達するじゃんか」

「私、物心ついた時から塔の行列は無くなったの見た事ない。まあ、便利な物はみんな使いたがるからね……もちろん私も時々」

 人々が同じ目的地に向かって断続的に行き交うのを見ながら、二人は遠い目をして愚痴を言い合う。

 ……なぜ彼らが自宅の玄関扉に肩を並べてしゃがみ込んで、こんな習慣を作ってしまったのかはひとえに街の雰囲気による。

「ほとんどの人は度が過ぎてるんだよ、この都市の住人はもう時球なしでは人間の生活が出来ないんじゃないか? 十日もあればゴーストタウンになると思うよ」

 彼はシャルといい、時球を多用する事に抵抗がある、という一点以外はごくありふれた青年である。

 だが彼は同年代の若者と比べて倫理観が強く、物事を逐一天秤にかけて納得のいかない事は徹底的に言及する性格。

 そのせいで周りに馴染めず、昔から理不尽な嫌がらせを受けている。一言で言えば、損な性質の虐められっ子だ。

「昔は子供が迷子になったり思い出の品が壊れたって時くらいな物だったらしいのに。こないだ友達がね、寝足りないから夜に戻って野宿してきたって言ったんだよ? 呆れちゃった」

 隣の少女、ルーズも似たようなもので、こちらは友人関係を崩してはおらずむしろ人気のある方だが、怠惰で勝手で他者を蔑む事で自分を向上させるのに必死な大多数の友人と付き合うのには、内心辟易している。

 彼らとごく一部の人間を除き、人々は時球によるオルタナの便利な暮らしに慣れ、堕落の一途を辿っていた。

「すごいよねシャル、ほとんど時球に頼った事ないんだもん」

「そりゃ使いたい時は沢山あったけど、それさえあれば一発解決ってのがどうも気に入らなくてさ……単なるこだわりだよ。それに、ここで生活する以上どうしてもその恩恵は受けちゃうからな。俺だって、あれが無くなったら食っていけないし」

「それでもすごいんだって。みんなは自分でなんとかできるんじゃないかって疑問、持たないのかな? もしかしてそういう感覚ももう……」

 二人共家は決まった職がないが、オルタナではそう珍しくもない。

 例えば野菜を作ろうと思ったら、畑だけ用意して過去に送ってしまえば一瞬にして収穫できる。失敗したら何度でもやり直せる事も手伝って、専門の農家はあまり必要とされない。

 殺人事件でも起きようものなら場所さえ分かれば実際に見に行けば犯人が分かる。そもそもやろうと思えば人だって簡単に生き返る。

 二人はこの仕組みが気に入っていないが、今それを放棄すると生活が成り立たなくなるような事だけは我慢している。

 畑のような例なら文句はない。だが私利私欲のために時球が浪費されるのを見ていると、もっとマシな使い方があるのでは?と考えてしまう。

 時球が存在を否定されたドッペルゲンガーの、言いようによっては命そのものである事も心を痛めていた。

「さて、また本でも読むとするかな……ずっとこうしてても仕方ないし」

「ん、そうだね……」

 普段ならここまでで終わりだったが、二人がそれぞれの家の扉に手を掛けた所で、オルタナでは聞き慣れない元気な声が聞こえてきた。

「わっ、お昼だ眩し。昔のオルタナ……だよね? うわぁ、おっきな塔がある!」

 振り向くと、彼らより一回り二回り小柄な子が大通りに座り込んでいた。

「うわぁ……どうしてああなっちゃったんだろ」

「またぶっとんだのがいるな……」

 たまに、別の時代に行ってみたいと言って自身をまるで異なる所へ転送する者もいる。

 時球を使う本人にしか細かい行き先は分からないので行方は知れないが、逆に訪ねてくる者も少なくないので心配もされず、皆気軽に時間移動している。

 その子がこうして突然背後に現れたのも特に珍しい事でもなかった。

 ――寝間着姿なのを除いては。

「な、なあそこのお前」

 とりあえず声をかけたシャルを遮るように、いち早くこちらに気付いたその子は彼のもとへ飛び付く。

「あ! 人がいた! ねえねええっと、住む所と着る物ってどこにあるか教えて!」

 激しい身長差から胸をどんどんと叩かれるような図になり、しばらく呆気にとられる。

(いきなりなんて質問するんだこいつ……)

 近くで見るとまたとんでもない風貌の子だ。

 まず目につくのはマントのように広がったオレンジ色の長髪。癖っ毛どころではない、至る所からひょんひょんと房になったハネが見られ、特に頭の横からは犬の耳のように反り上がっている……のに加えて今はひどい寝ぐせの跡までついていて大惨事である。

 素朴な茶色の瞳にひたすら無邪気な光を宿すとても幼い顔立ちの子で、特別美少女という訳でもないがどこか愛嬌のある不思議な子であった。

 寝間着もよく見るとサイズが大きすぎで、華奢な体を全く隠せていない。そのままだと歩くのにも苦労しそうだ。

「家も服もこっから見てあの塔の右側にある商店街で手に入るんだけど……さ」

「そっか、ありがとう!」

 それだけ聞いたその子がすぐに駆け出そうとしたので、シャルは慌ててその首根っこを捕まえる。

「見たとこお前、持ち合わせがないんじゃないか」

「あっ……そうだったどうしよう!? も~なんで手ぶらで来させるのさ~!」

 瞬く間に顔を蒼くしたり紅くしたりして腕を滅茶苦茶に振り回すその子がなんだか可笑しくて、二人は久しぶりに思い切り笑った気がした。

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