第10話 旅立ち

 なにか姉ちゃんがご機嫌で鼻歌を歌っている。朝からたっぷりと食事をしたし、この先に何があるのか楽しみで仕方がないらしい。背中にはかなりの量の荷物を背負っているけれど、ちっとも苦しくはなさそうだ。

 我が姉ながら、この能天気ぶりがうらやましかった。

 ぼくは昨晩のうちに簡単な地図を示されて途中の障害物の説明を受けている。ちなみに姉ちゃんはその話を聞いていない。

 通訳しようかと提案したら、先の楽しみがなくなるし話が長くなるから、あんたが聞いといてときたものだ。

 ちなみに、本人はその間部屋の隅でプッシュ・アップ、つまり腕立て伏せに励んでいた。

 それで朝早くにひそやかにマールズの家を出たぼくたちは川岸に漂う朝もやの中を下流に向かって進んでいく。

 こっちの世界に迷い込んだときの霧に比べると遠くまで見えた。

 ちなみに霧ともやの違いは視界が一キロメートルあるかないか。

 そんなことを思い出していると、対岸にわらわらと人影が現れた。赤鬼の集団だ。

 これは想定内のことなので慌てはしない。それにぼくが旅立ったことをアピールしないと集落にいつまでも押しかけてきちゃうからね。

 とはいえ、化け物の目的がぼくの確保というのは決して気分のいいものじゃない。

「こらあ、どこに行くんだ?」

「家に帰るんだよ」

 シンプルかつ心の底からの願いごと。

 マールズが弓を引き絞って周囲に居てくれるのが心強かった。そうじゃなきゃ声が震えちゃったかも。

「そんなことは許されないぞ。こっちへ来い」

 そうは言いながらも向こうの親玉も自分でぼくを捕まえに来る気はないらしい。

 周囲の子分に向かって声を張り上げた。

「ほら、あの魔法使いを捕まえて来るんだ」

「いや、だって、弓構えてますよ」

「矢が刺さったら痛いし」

「川に入って滑って転んだら危ないじゃないですか」

 口々に言い訳をしている。良かった。このぐだぐだの間に逃げられるかも。

 親玉はいらいらと声を張り上げる。

「あいつを捕まえてきたら、ほうびをやるぞ。ぴかぴか光る宝石に、干し肉を両手に抱えるほどくれてやる」

 子分たちの目の色が変わった。斧やら剣やら物騒なものを手にして水際まで進んでくる。

 ぼくが物語の主人公なら、こんな連中はぱぱっとやっつけちゃうのだろうけど、あいにくとそんな力は持ってない。

 姉ちゃんならなんとかしそうだけど、今日は別の秘策があった。

 この先に何が起こるか分からないから、事前に予測できるものはぼくの魔法でなんとかしようというわけだ。

 そのために昨夜は辞書で役に立ちそうな言葉は調べてみた。だけど、『おに』で始まる単語に使えそうなものはない。辞書は先頭の言葉から順に調べていく体裁になっているので、途中に『おに』が入る言葉は調べようがなかった。

 一生懸命に考えた言葉を叫ぶ。

<鬼がすな言うことを聞く>

 じんわりと頭の奥の方に鈍い痛みを感じた。気にしないようにして、さらにぼくのお願いについても声を張り上げる。

「このままぼくたちを行かせてくれ!」

 赤鬼たちの表情が緩んで、振り上げていた手を降ろした。ぼーっと突っ立っている連中を置き去りにしてぼくたちは先を急ぐことにする。

 ぼくの魔法がどの程度の時間効果を発揮し続けるのか分からなかった。

 なので、マールズを先頭に川岸を駆けていった。もちろん無言だ。

 しゃべりながら走れるほどぼくは肺活量がない。

 たぶん二キロメートルほどは走ったと思う。学校の持久走はそれぐらいの距離をやらされた。息が切れたので走るのをやめる。

 はあはあと荒い息をしながら呼吸を整えた。

 ぼく以外の二人は平気そうな顔だ。

 一番余裕な顔をしている姉ちゃんが会話の口火を切る。

「秀斗凄いじゃない。まさかこんなにうまくいくとはね。まあ、超ダサいというは変わらないけど」

 褒めているのか、けなしているか。ぼくは酸素をむさぼるのに忙しく返事はできなかった。

「やっぱり大魔導士の息子だな。たいしたもんだ。あれだけの人数の相手はさすがにオレっちでも厳しいもの」

 マールズは素直に賞賛の言葉をかけてくれるのだけど、やっぱりぼくはまだ返事はできない。すうはあ、すうはあ。

「まあ、でも、シュートも少しは運動した方がいいな。これぐらいで息切らしてたんじゃ、いざというときに逃げきれないぜ」

「あ、ああ」

 やっとこれだけを返事する。

「でも、魔法使いというのは基本的にあまり体が丈夫じゃないか……。あまり走れなくても仕方ねえかもな」

 マールズがへばったぼくを見かねたのかフォローしてくれた。

 つばを飲み込みようやく声を出す。

「そんなことよりも、舟はどこにあるんだい?」

 横を流れる川はいつの間にか幅も広くなり水量も増えていた。

 走っている時に飛び越えたごく細い水の流れを集めているのだろう。

 この川は他の支流の水も集めてアーカンルムのある沼地のそばを通り、そこからされに遠い海に流れ込んでいるらしい。

 ぼくらは歩いて行くのも大変なので舟で行くことになっていた。

 あの赤鬼たちは水を怖がるという。そういう意味でも陸路を進むより安全なはずだった。

 マールズが振り返って耳を澄ます。

「ああ。赤鬼どもが追いかけてきているみたいだ。シュート、もう一度魔法を使えそうか?」

 マールズはすぐに自分の発言を撤回する。

「だめだな。シュートの顔を見ると、明らかに疲れてる。あれだけの人数に効果を及ぼす魔法だもんな、すごく消耗したんじゃないか? 魔法の使いすぎは命の危険があるから気を付けるようにロージーにも言われてるし。よし。じゃあ、また駆けっこだ。もうそんなに遠くないしな」

 ぼくはうんざりしながらも走り出す。命の危険があると言われてはもう一度あの魔法を試す気にはなれなかった。

 しばらく進むとマールズが道のわきのやぶをかき分けて入っていく。

「あった。あった。手伝ってくれ」

 やぶの先には川岸に半ば乗り上げるようにして、丸木を束ねたいかだがあった。一応たたみ三枚分ぐらいの広さはある。

 起きて半畳、寝て一畳。いざとなればいかだの上で寝泊まりもできそうだ。

 よく見るといかだは数本の木でできた進水台のようなものの上に載っていた。

「よし。一斉に押すんだ」

 マールズはいかだを留め置いていた綱を切り放した。

 皆で押すと意外と簡単にいかだは水面に向かって滑り出す。姉ちゃんが加わっているせいかもしれない。

「飛び乗れ!」

 まごまごしていると姉ちゃんがぼくの体を抱えて宙を跳んだ。

 少し揺れたけど姉ちゃんはバランスを取る。

 いかだはゆっくりと川の流れに乗った。

 視線をさえぎっていた茂みがなくなったので川岸から丸見えになる。

 赤鬼たちはわーわー言いながら地面に落ちている石を拾うとぼくらに向かって投げ始めた。

 小石とはいえ当たれば痛い。相手に向かって石を投げる技術は印地打ちといって戦国時代まではよく行われていたそうだ。

 ぼくはいかだの上にしゃがみこんで身を小さくする。

 かん。かん。

 姉ちゃんが風車のように杖を振り回して石を弾き飛ばしていた。後ろ姿が頼もしい。弓で反撃しようとしていたマールズも手を止めてその様子を見ていた。

 そのうちに石は届かない距離になって、無駄に川面に水しぶきを上げるだけになる。ぼくらは誰からともなく笑い始め、無事に旅立てたことを喜び合った。

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