第14話

少女が降りた直後、55が間髪を入れずまたさっきと同じような溜め息をつき、席を立って動き出した。

乗客が動いたため、車内転倒防止の目的でバスは発車できない。

この55も迷惑な話だと考えていると、無表情を絵に描いたような面構えで先程まであの少女がいた座席に向かった。

そして、利き腕であろう右腕の袖を捲り上げて、その座席を4回強く払いこう言った。

「この席、大丈夫かね」

僕は、何を言っているのか分からなかったが、続いて、フンっと鼻で笑ってこう言ったことでこの女が言いたいことが分かった。

「ここ、何かついてないかね、座っても大丈夫かね」

運転士さんはマイクを通して車内放送で、

「発車致しますので座席に着いていただくか、お立ちのお客様はつり革・握り棒をお持ちください」

とアナウンスしたが、明らかにその語気はバスの車内で聞かれるものではなかった。

55は僕の横を進行方向とは逆に通過して、渋々座席に着いた。

発車した。

怒りというのは人間が生きていく上で必要な要素だと習ったことがあったが、今の僕にはそんな感情ではなく、社会通念上決して持ち合わせてはいけない軽蔑という気持ちが確実にあった。

しかし、その上で、何も言えなかった僕もこの55と同罪だと思った。


最後部の乳児はしっかりと若い母親の目を見ている。

母親も逸らさない。

初老の女性の白髪が小刻みに揺れている。

僕は、交付されたばかりの黒地に金の文字の手帳を、傷つくくらい強く握りしめた。




24歳の頃に観た、映画監督・草野陽花のデビュー作『青の瞬間』の船上でのエンディングを思い出した。

間違っているかもしれないが、こんな台詞だったような気がする。


「僕は、不安で不安で仕方がない」



もう、僕は青春ではない。

言うなれば、病気と闘っているだけなんだ。

進むのも立ち止まるのも怖い。

次はどんな症状が出るだろう。

大量に飲んでいる精神病薬が、いつか『レミーマルタン』に変わる日が来るのだろうか。

自殺企図なんてごめんだ。

不安に怯えてもいいから、それでいいから、震える膝っ小僧を叩きながら、今日、生きてみたいと思うんだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

膝っ小僧を叩きながら @akinokoto

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ