2.暗礁公路……②

 甲板に出ると、先ほどまでの静寂が嘘のように風が唸り声を上げ、波が『ゼーアドラー号』を激しく揺さぶっていた。

 空は黒紫色に染まり、稲妻が海面を裂くように光を放つ。

 その光景は、まるで海そのものが何かに怒り狂っているかのようだった。


「これは……?」


 ナディアが眉をひそめ、マックスに視線を送る。


「どうやらこの海は、俺達を歓迎する気はなさそうだ」


 彼は剣の柄に手を置きながら、嵐の中心に目を凝らした。

 その奥に潜む何かが、彼らを試そうとしているかのように脈動しているのを感じた。


「うわぁっ!」

「魔物だっ!」


 船首から響き渡る叫び声に、二人が駆け上がると、マックスは既に剣を抜いていた。

 群青の海面から這い上がってくる巨大な臙脂色えんじいろの触手が、帆船『セーアドラー号』の船縁の手摺りを次々に破壊しながら迫ってきて、船を破壊しようと巻き付いてくる。


「あれは?」

「『大十足墨魚クラーケン』よ。耐久力が高いの。屈強な海人族マーマンの戦士が10人掛かりでようやく倒せる相手」

「そんなバケモノがいるという事は……」

「大丈夫よ、マックス。大十足墨魚クラーケンは縄張り意識が強くて、群れを作らない。この大きさだから、この海に他の個体はもういないわ」


 ナディア・シルワ・プリーシママーリス……それが仙術師カルティベイターである彼女の名前であり、彼女の種族は『精人魚族ローレライ』だ。

 海に生まれ海と共に生きる『人魚族マーメイド』。彼等は300年ほどの寿命を持ち、生まれてから50~60年で幼体から成体に変態する。

 男性体は筋骨隆々な『海人族マーマン』に、女性体は美しくしなやかな姿態を持つ『海女族メロウ』に。

 しかし、女性体の『人魚族マーメイド』の中で、違う種族に変態する者がごく稀に存在する。


 身体は水中を進む『鰭』と、陸上を歩く『足』を自らの意思で自在に変化させることができ、魔術に長けた『海女族メロウ』よりも高い魔術適正と『海人族マーマン』に匹敵する戦闘能力を持つ存在が現れる。『彼女達』に共通しているのは、白い肌と頭髪が紫掛かった色味を帯びており『精人魚族ローレライ』と呼ばれている。

 ナディアもその希少な種族の一人だった。

 当然、海で遭遇する魔物の事は熟知している。


「攻撃法は?」

「全体が柔らかく刃物が通りにくいわ。『勇者』のキミとは、相性最悪ね」

「相性は悪くて結構だよ。俺はナディアとさえ良ければそれで良い」

「もう……バカ……」


 軽口を叩いて『勇者』マクシミリアン・メッサーシュミットが不敵な笑顔を浮かべると、ナディアは端正な顔を赤らめた。


「おーおー、お熱い事で燃え上がりそうだな! そんじゃあ、俺も焼くとするか!」


 ようやく追いついた遊撃士レンジャーコンラートが手を翳し、詠唱を始めようとする。


「このスカタンがぁ!」


 そんなコンラートの身体を鞭で拘束し、魔術行使を封殺した治癒師ヒーラーのヨゼフィーネが、大きなハリセンで後頭部を叩く。

 そんなハリセンを何処から持ち出したのかは判らない。


「こんな船の上で火炎系統の魔術なんて! 船火事になったら全滅じゃない!? バカなの? バカでしょ? いいや、そうに違いない!」

「そこで夫婦漫才してないで、攻撃に参加してくれ。刃物が通らねぇなら、大槌ハンマーでぶん殴れば、ちったぁ潰れんだろ?」


 結果的に戦闘に参加していないコンラートとヨゼフィーネを視線だけを向けながら、戦士のゲルハルトが溜息を吐き、背負った大槌ハンマーを持ち替え、両手で構えた。

 直後、大十足墨魚クラーケンは、どす黒い粘液を滴らせながら蠢き、10本ある触手の1本が、悲鳴を上げる水夫を掴み取ろうとする。


「させるかっ!」


 マックスは躊躇なく駆け出し、剣を振るって触手を切り裂いた。弾力のある身体で衝撃を受け流す筈の大十足墨魚クラーケンの触手は、マックスの繰り出す高速の刃の前に機能を発揮する事ができず、断ち切られた触手が海面に落ちる。

 だが次の瞬間、新たな触手が船体を締め上げ、木材がギシギシと軋む音が響く。


 故国ジールからフィルツブルグ聖皇国までの航路は、外洋を通るルートであり、確かに噂通り危険に満ちていた。しかし、これほどの大物が現れるとは……


「もう駄目だ!」

「お終いだ!」


 怯えた船乗り達が叫ぶ間にも、大十足墨魚クラーケンの触手は次々と甲板を這い回り、彼等を掴もうとする。

 その動きには明確な殺意が感じられた。人間を深淵へと引きずり込もうとする、冷たく残虐な意思。


「くそっ! コイツ、しぶといっ!!」


 一撃で触手を断ち切るマックスだが、それは際限のない戦いだった。

 切り落とした箇所から新たな触手が生え、その数は増える一方である。

 船底からミシミシと船体が軋む不気味な音が響く。

 クラーケンは船体そのものを粉砕しようとしているのだ。このままでは、全員が海に投げ出される。


「マックス、下がって!」


 彼女の声と共に、紫色の三角帽子から銀色の光が迸る。長杖を大きく振るうと、周囲の空気が震え始めた。


風霆ヴィンドシュトルム!」


 突如、猛烈な旋風が巨大な触手を襲う。

 風は刃のように鋭く、大十足墨魚クラーケンの触手を幾筋にも裂き始めた。

 しかし、マックスの攻撃同様、切り裂かれた触手は瞬く間に再生し、むしろ攻撃性を増したかのように船体に襲いかかってくる。


「やっぱり、再生するわ!」


 ナディアが叫んだ。

 マックスは剣を構え、ナディアに襲い掛かる触手を弾いていく。


「どうする!」


 その時、甲板の後方から力強い声が響いた。


「俺に任せろっ!」

「援護するっ!」


 ゲルハルトが気合の掛け声とともに、巨大な両手斧を振り上げ、全身の筋肉を震わせながら前に踏み出す。コンラートは既に遠距離から銀色の弓を構え、矢を放とうとしていた。

「マックスは一回下がって! 治療ヒールするわ!」


 ヨゼフィーネも白い聖杖を掲げ、治癒と強化の魔法の光を帯びていた。

 マックスはいったん剣を引いて、大きく後ろへ退いて距離を取りナディアとヨゼフィーネの横に並んだ。


「頼んだ!」


 マックスの声に、ヨゼフィーネが頷いた。

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