第3章 『勇者』と呼ばれた男

1.暗礁航路……①

 群青の海原は、いつしか紫に染まった雲が重く圧し掛かり、異様なほどの静けさに包まれていた。


 波一つ立たぬ海面は鏡のように平らで、その不自然な静寂は、まるで息を潜める獣が待ち構えているかのような危険の予兆を宿していた。

 遠くで微かに唸るような風は、今にも襲い来る何かの予感に、船乗り達の背筋に冷たい汗を這わせていた。


 帆船『ゼーアドラー号』に設えられた豪華な船室で『彼』は海図を広げて、その端正な顔立ちを歪ませていた。

 指先で航路を辿りながら、フィルツブルグ聖皇国への道程みちのりを再確認する。

 海図には、数多の伝説的な海域が記されており、そのいくつかには「通航危険」の文字が赤く記されていた。


「何でこんな航路を通ろうと言うんだ……この船の乗員は揃って自殺志願者なのか?」

「そうかもしれないわね。むしろ信心深いのかもしれない……『アニマ神』が導いてくれるって信じているのよ」


 隣から海図を覗き込み『彼女』は皮肉めいた笑みを浮かべた。

 濃い紫色のボレロを纏い、同色の三角帽子から流れ出る紫銀の髪は、上質な絵画のように輝きを伴っている。


「くだらないな……」


『彼』は忌々しそうに吐き捨てた。


「何もしない、何も為そうとしない者に神が微笑んでくれるものかよ」


 遠き日に遡って『彼』は胸元に光る銀のペンダントを握りしめた。


「力なき者に神が授けるのは、過酷な現実だけだ」


 遠き日の事は今でも鮮明に覚えている。

 炎に包まれていく街を。飛竜ワイバーンが舞う空を。青い空を赤い炎染め上げていく様を。黒い煙が濛々もうもうと立ち昇っていく様を。

 そして……人々の悲鳴が風に乗って聞こえくるのを。


「俺は……もう二度とあんな思いはしたくない」

「そうだね」


『彼女』が『彼』の手をそっと握る。指の温もりが互いの心の距離を埋めるように、静かに絡み合う。『彼』の粗い、傷跡の刻まれたてのひらに、『彼女』の繊細な指先が優しく寄り添う。

 まるで二人の心が一つになるかのような、深い親密さが感じられた。


「……キミは約束通り『勇者』になった。多くの困難を乗り越えて『あの海』で待つ私を迎えに来てくれた」

「君と別れて修業して……気づいたんだ」


『彼女』の手を握り返して『彼』は微笑んだ。


「危険は避けるべきではなく、乗り越えるものなんだって……それが『勇者』に与えられた使命だと気づいたから」

「……損な性格ね」


『彼女』はクスッと笑った。

 どうしても楽じゃない道ばかりを選んで歩いている。

 汚泥に塗れた靴、薄汚れた衣服に軽鎧。その姿は英雄伝で語られるような光り輝くものではない。

 事情を知らない他人が見たら、きっと避けられ、関わり合う事を避けてしまうかもしれない。


「すまない……俺はこんな風にしか生きられないよ」

「謝らないで……私はそんなキミが好きなんだよ……どうしようもなく……」


『彼』の頬に手を添えて、優しく撫でる。精悍な顔立ち、鍛え上げられた鋼のような肉体。薄汚れてはいても、そこには幾度いくたびの試練を経てきた若き勇者の姿があった。


「私、もう離れないよ……キミが私の『足』になってくれたから……」


 囁くような声と共に『彼女』の唇が『彼』の唇に重ねられた瞬間、船室の扉が勢いよく開け放たれた。


「おいマックス! それにナディア! 海の様子が変だから甲板に上がって来てくれって船長が……!」


 大きな声と共に、二人のパーティーメンバーが入ってきた。

 巨漢の戦士ゲルハルトが、重厚な鎧を鳴らしながら。

 細身の遊撃士レンジャーコンラートが軽やかな足取りで。

 しかし、二人が入室するや否や、一組の男女の親密な瞬間を目にして、ゲルハルトとコンラートは互いに困惑の視線を交わした。

 ゲルハルトは咳払いをして、重厚な鎧の中で少し身を縮めるように、視線を外した。


「お、おう……すまねぇ!」

「お取込み中だったか……」


『彼』……マックスと呼ばれた男は、臆した様子もなく小さく手を振った。


「いや、構わない。俺達も気配を感じていた」

「お取込み中って、何を言ってるの? 早く甲板に上がらないと……」


 二人の背後から、赤と白のローブを纏った小柄な女性が男達の間を縫って顔を覗かせる。

 治癒師ヒーラーのヨゼフィーネは、栗色の髪を揺らして室内の様子を不思議そうに覗き込んだが、お互いに身を寄せ合っている二人の様子を見て思考を停止させた。


「えっと……これは……だからその……えっ……?」


 言葉にならない言葉を発して口をパクパク動かすヨゼフィーネの頬は徐々に上気し、目にあだめいた光が宿る。彼女は無意識に息を呑み、わずかに唇を舌で濡らした。


「おいおい、ヨゼ! 目つきがエロくなってんぞ」

「ヨゼだって、ガン見してんじゃねーか」


 ゲルハルトがコンラートと目配せしながら揶揄からかいの声を上げ、コンラートも同調して乗って笑いかける。気まずいシーンを目撃したから気を紛らわせようとしたのだが、女性のヨゼフィーネには『悪手』だった。

 その瞬間、ヨゼフィーネからどす黒い妖気が放たれ、二人の男達に襲い掛かる。


「今すぐ冥界に送り込んであげようかしら? どちらから先に逝く?」


 溢れ出る殺気とともに腰元に提げられた鞭が細い手に素早く握り締められて行く。


「じょ、冗談だってばよ」

「ちょっとしたシャレだって」

「お黙りなさい、バカ男子どもっ!」


 鞭が二人の頭と肩に強かに当たり、悲鳴が上がる。


「脳ミソ筋肉しか入ってないクセに、お花畑だけはあるみたいね……仕方ないから私がわからせてあげる!」


 ヨゼフィーネは鞭を振り上げながら、頬を赤らめたまま再び振り下ろす。

 室内の騒動をよそに、マックスとナディアは互いに顔を見合わせて微笑んだ。


「相変わらず賑やかな連中だ」


「そうね。でも、こういう時間が続けばいいと思う」


 ナディアの言葉には、静かな願いが込められていた。争いと危険の絶えない旅路の中で、こうした穏やかな瞬間がいかに貴重かを二人とも痛感していたからだ。

 マックスは軽く肩を竦め、ナディアの髪を優しく撫でて、自分の考えを告げた。


「それはどうかな。俺達の目的地はフィルツブルク聖皇国だ。彼処あそこ静けさとは無縁だろう」


 直後、遠くから不気味な雷鳴が響き渡った。

 船室が微かに揺れ、全員の表情が引き締まる。


「……行きましょう……マックス」

「ああ」


 ナディアが立ち上がり、マックスの手を引くと、二人はそのまま部屋から甲板へと歩き去っていく。


「コンラート。何も見なかったことにしようではないか」


 ゲルハルトが、天井を見上げながら呟くと、コンラートも微かに顔を赤らめながら「ああ、そうだな」と小さく呟く。その様子をヨゼフィーネは冷ややかな目で見つめている。


――まったく……どうしてくれるのよ、この雰囲気……


 何とも微妙な空気が流れる。三人の男女、それぞれの性格が、この瞬間の気まずさを如実に表していた。

 が、その直後、甲板から船乗り達の悲鳴が上がった。

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