19.聖女の処遇……①

 日曜の朝、アルフォード大聖堂には澄んだ鐘の音が響いていた。

 白と金の法衣を纏ったノイルフェール枢機卿カーディナルウィンストン・セーラムは、大聖堂の中央祭壇に立ち、定例のミサを執り行っていた。


「神の恩寵が、あなた方とともにありますように」


 セーラムの柔らかな声が、天井高く響き渡る。

 ところが、近づいてその姿をよく見ると、声とは裏腹に決して威厳に満ちているとは言えない。収まりの悪い灰色の髪は、ブラッシングなどの手入れが行き届いておらず、いつも前屈みの姿勢は高位聖職者のそれとはかけ離れていた。

 むしろひなびたパン屋の親父と例えた方が良いかもしれないが、本人は一向に気に掛ける様子はない。


 しかし、祭壇に立った彼の言葉には不思議な説得力があり、集まった信者たちは熱心に耳を傾けていた。

 ミサが終わると、セーラムは配下の神官達と共に大聖堂内を巡回し始めた。

 マーキュリー王国の各地から訪れた信者達に声をかけ、時には助言を与え、また時には祝福を与える。その姿は、まるで慈愛に満ちた父親のようだった。


「国王陛下のご機嫌はいかがでしたか?」


 ある老婦人が尋ねた。

 セーラムは優しく微笑んで答える。


「エグバート三世陛下は御健勝です。先日の御会談でも、国民の幸福を第一に考えておられました」


 政治家としての顔を持つセーラムは、マーキュリー国王エグバート三世の信頼厚い助言者でもあった。その卓越した政治的知見は、宮廷でも高く評価されている。


 巡回を終えると、セーラムは大聖堂の最上階へと続く階段の前で足を止めた。

 随行する神官達も、自然と歩みを緩める。


「本日の奉仕、ご苦労であった」


 セーラムは振り返り、穏やかな笑みを浮かべた。


「デイビス司教、明日の婚礼式の準備を頼む。花嫁家族が早めに到着するかもしれぬ」

「承知いたしました」


 年配の司教が深々と頭を下げる。


「マーカス司祭には、聖歌隊の準備を」


 セーラムは若い神官に向き直った。


「聖歌隊の練習も見ておきたい」

「はい、枢機卿カーディナル猊下」


 真摯な眼差しで応える声には、緊張が滲んでいた。

 最後に残った神官達にも、それぞれの任務を細かく指示する。セーラムの言葉は簡潔だが、温かみがあった。部下たちへの信頼が、自然と滲み出ている。セーラムは神官達を見渡した。


「では、私は祈りを捧げる。何人たりとも最上階への立ち入りを禁止ずる。良いな?」


 神官達は一様に頷き、それぞれの持ち場へと向かっていった。

 彼等の足音が遠ざかるが、彼はその場に佇み周囲の様子を窺う。それも気配探知の魔術を施すほどの慎重ぶりだ。

 この階に気配がないのを確認するとセーラムの表情が一変する。

 緊張と期待が入り混じった眼差しで、階段を見上げた。


――さて、拝謁の刻限だ……


 唇を固く結び、一段一段ゆっくりと階段を上る。その先には重厚な扉があり、セーラムはその扉の前に立った。

 代々の枢機卿カーディナル以外、立ち入る事は許されない扉の奥は『枢機卿カーディナルの祈祷所』と呼ばれる特別な部屋となっている。

 ここから先は、枢機卿カーディナルのみが入室できうる。まさに『聖域』……セーラムは低い声で呪文を唱え始めた。


「時の門開かれよ、永遠の知恵の道標となりて」


 セーラムは低く囁くように呪文を紡ぎ出す。


「光の印を刻みし扉よ、我が血契を示さん……」


 複雑な魔法陣が扉に浮かび上がり、青白い光を放つ。やがて重厚な第一の扉が音もなく開いた。

 その奥には更なる扉が待っていた。セーラムは再び呪文を唱える。


「深淵の聖痕に誓いを立てん。賢きものの道を照らす星よ、我が真意を見定めよ」


 彼の声は僅かに震えていた。これは畏怖の念からか、それとも期待からか。第二の扉に手をかけながら、セーラムは自身の心の動揺を感じていた。

 扉に刻まれた古代文字が一瞬輝きを放ち、がっしりとした錠前が音もなく外れる。心臓の鼓動が早くなるのを感じながら、彼は扉を開いた。


「失礼します」


 静かな声が、神聖な空気に溶けていく。

 セーラムが部屋に一歩踏み入れると、荘厳な空気が漂う執務室が広がっていた。巨大な窓からは夕暮れの光が差し込み、古の魔導書が並ぶ書架を優しく照らしている。


 この部屋の主は賢者セージだ。

 賢者セージシルヴィは、重厚なオーク材の机に向かい、山積みの報告書に目を通していた。羽ペンが滑るような音と共に、一枚一枚に確認のサインを入れていく。


 その仕草には気品があり、何気ない動作にさえ、数千年の叡智が滲み出ているかのようだった。

 彼の左側には、聖騎士長キャプテンパラディンミシェルが、凛とした佇まいで控えている。銀の甲冑は夕陽に輝き、腰の剣は永い年月を経た重みを湛えている。翠玉エメラルド色の眼差しは鋭く、部屋の様子を絶えず観察していた。


 窓際では、風精神族ハイエルフのアイリスが古代の魔術書を読み込んでいた。

 シルヴィの高弟である彼女は、白金色プラチナブロンドの長い髪をまっすぐ下ろし、萌黄色のドレスに身を包んでいる。時折、読み進めた内容を確認するように呟く声が聞こえてくる。


「これはセーラム卿。よくぞお渡りくださいました」


 賢者セージシルヴィの声は、清らかな泉のように澄んでいた。

 セーラムは深々と頭を下げる。その仕草には、先ほどまでの高位聖職者としての威厳は微塵も残っていない。純粋な崇拝の念に満ちた、一人の信徒としての姿があるだけだった。


「少しお待ちいただけないでしょうか?」


 シルヴィは手元の報告書から目を離さず、丁寧にサインを続けた。


「重要な報告書の確認が残っておりますので」

「承知いたしました、主上様マイハイネス


 セーラムは深く頷き、部屋の隅に置かれた深緑のソファーに腰を下ろした。

 本を片付けたアイリスが温かい紅茶を運んできてくれる。


「どうぞお召し上がりください、枢機卿カーディナル猊下」


 その仕草には風精神族ハイエルフ特有の優雅さがあった。

 セーラムは紅茶を口に運びながら、シルヴィの執務の様子を静かに見守った。

 彼の筆致は流麗で、それでいて一つ一つの文字に確かな意志が込められている。時折、ミシェルが新しい報告書の束を差し出し、シルヴィはそれらにも丹念に目を通していく。


 約15分ほどの時間が過ぎただろうか。シルヴィは最後の報告書にサインを終えると、やっとセーラムの方へ向き直った。


「お待たせいたしました。お時間を頂き申し訳ありません」


 頭を下げ、謝罪するシルヴィの声は、清らかな泉のように澄んでいた。

 セーラムは「滅相もございません」と応えながら顔を上げるが、彼の放つ神々しさに圧され息を飲んでしまう。


「……本日も無事にミサを執り行うことができました。また、陛下からのご要望もお伝えせねばなりません」

「では、伺いましょう」


 辛うじて声を出したセーラムに、シルヴィは優雅に頷いた。

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