15.魔術授業……③

 柔らかな日差しが差し込む更衣室は、大きな窓と上質な木材で作られた仕切りに囲まれ、優雅な雰囲気が漂っていた。

 窓辺には薄手のレースのカーテンが揺れ、朝の光を優しく和らげている。

 壁には細やかな装飾が施された姿見が立ち並び、それぞれの区画には上質な緋色のビロードの椅子が置かれていた。


 Sクラスの貴族令嬢達は、それぞれの専属女中メイドの手によって丁寧に着替えさせられている。

 空気中には高級な石鹸の香りと、上品な香水の余韻が漂っていた。


 レイコは姿見の前に立ち、困惑した表情を浮かべながら、専属女中メイドのヒカルが手に持った運動着を見つめていた。姿見に映る彼女の長い黒髪は、朝日を受けて艶やかに輝いている。


 ヒカルの手にした運動着は、生地は動きやすさと吸湿や速乾性と高通気といった機能性を優先している。そのため、純白の上衣想像以上に薄く、紺色の下衣は、大胆なまでに短く、普段の優雅なドレスや制服のスカートとは程遠いものだった。


 生地は最高級の素材で作られているとはいえ、その実用的な作りは貴族令嬢達の美意識とは相反するものであり、特に下衣の丈の短さに、レイコは頬を赤らめる。

 薔薇色に染まった頬が姿見に映り込み、彼女の困惑をより一層際立たせている。


「これを着るの?」


 傍らで制服を丁寧に畳んでいたヒカルは、慣れた手つきで作業を続けながら、淡々とした口調で説明を始めた。彼女の金色のショートヘアが朝の光を受けて輝き、白いブリムが僅かに揺れる。


「はい、お嬢様。『体育』とは身体運動を通して身体の健全な発達を促すものです。この運動着はその為に着用します」


 ヒカルの説明は的確だったが、レイコの眉間には深い皺が刻まれていた。彼女は運動着を両手で広げ、下衣を注意深く観察している。生地は伸縮性があり、動きやすそうではあるが、それが却って不安を煽る。


「それは宜しいのですけど、随分と露出が多くありませんこと?」


 レイコの声には明らかな戸惑いが混じっていた。

 普段は優雅なドレスに身を包み、淑女として完璧な立ち振る舞いを保っている彼女にとっては、制服の膝上丈のスカートでさえ、驚愕するものであった。


「お身体を動かすのですから、当然かと」

「でも、脚を出すのは、ちょっと抵抗が……」


 淡々と応えるヒカルに、レイコは自分の脚をさすりながら、恨めしそうな視線を向ける。


「制服やご趣味の『マジックテニス』と大して変わらないではありませんか?」


 戸惑うレイコに対し、ヒカルは相変わらず冷静だ。

 やれやれという表情を浮かべて、ヒカルが応える。確かにドレスとは異なり、制服のスカート丈は短い。しかし、光背で結ぶ大きなリボンが、身に纏う者を気品高く粧う様をレイコは気に入っている。

 腰全体を包むようなリボンの端布は、フィッシュテイルのスカート状となっている。動くたびにゆらゆらと揺れる様は、水を泳ぐ魚のようであり、上品な印象を与えているからだ。


 マジカルテニスのウェアも、制服同様、脚を出しているから、今更気にする必要もないとヒカルは思っているのだが、レイコはそうは思わないらしい。

 この運動着……特に短い下衣……は衝撃的のようだ。

 両手で引っ張ってみる。構造上、膝上の高い位置で止まってしまうことは想像できる。


「何の装飾もないではありませんか?」

「運動着なので当たり前です」


 過去の経験から『このお嬢様』の些細な抵抗にも慣れているようで、応える態度はにべもない。ヒカルは手際よく運動着を広げ、着替えの準備を整えていく。


「そう……でも……」


 レイコが更に躊躇いを見せると、ヒカルは少し厳しい口調になった。

 実際レイコとヒカルは乳姉妹であり、レイコの乳母はヒカルの母親だった。それ故にヒカルの声には、長年の信頼関係に基づいた権威が感じられた。


「四の五の言わずにお召替え下さい。他家の皆様もお召替えあそばされていらっしゃるではありませんか!」


 広い更衣室に、ヒカルの毅然とした声が響き、レイコに視線が集まると、彼女は身を竦めた。着替え途中の他の貴族令嬢達も、それぞれの専属メイドに着替えを手伝われている。


「頭から被っていただいて……はい、腕を通してくださいませ、お嬢様」

「はい」


 セラフィーナの女中メイドは、慣れた手つきで運動着の袖に腕を通させている。クラリスも同様に、女中メイドの手を借りながら着替えを進めていた。

 皆、同じように戸惑いの表情を浮かべながらも、新しい装いに身を委ねようとしていた。


 レイコは小さな溜息を吐きながら、ヒカルの手助けを受け入れることにした。

 周囲の仕切りに囲まれた空間で、彼女の変身が始まろうとしていた。


――着替え一つでこの騒動……大変なのね……貴族のお嬢様って……


 更衣室の隅で、シェリルはその『騒動』に目を丸くしていた。『特別生イレギュラー』のシェリルには、専属女中メイドはおらず、一人で着替えを始める。自ら制服を脱ぎ、運動着に素早く着替え終わったシェリルの背に、ステファニーの冷ややかな声が浴びせかけられる。


「まあ、ご覧なさいな、フロラ」


 ステファニーはこれ見よがしに、自身の専属メイドであるフロラに声をかけた。フロラが丁寧に彼女の制服のボタンを外しながら、控えめに応える。


「はい、お嬢様」

聖女様・・・とあろうお方が、専属女中メイドを一人も侍らせないなんて! まるで平民のようではありませんこと?」


 ステファニーの声は、意図的に煽るように発せられた。シェリルは運動着の上着を手に取りながら、淡々と返す。


「わたしは……自分でできることに……他者の労力リソースを割くことはない……贅沢は慎んでいる……」

「あら、私達貴族の当然の作法を贅沢とおっしゃるの? 本当に聖女様・・・は私達とは違いますわね!?」


 ステファニーの声には明らかな皮肉が込められていた。

 傍らでフロラが、運動着の上着を広げながら、二人のやり取りを心配そうな表情で見つめている。


女中メイドを持つことは、貴族としての威厳を保つために必要なことですわ。聖女様ともあろう御方が、その程度の事をご理解されていないとは、嘆かわしい限りですわね!」


 ステファニーの挑発するような言動に、シェリルは眼鏡の縁を指で押し上げて、冷ややかに応えた。


「威厳は……他人の手を借りることでは得られない……だから、わたしはわたし自身が信じる道を進む……」

「何ですって?」


 シェリルの切り捨てるような返答に、ステファニーの頬が見る見る赤らんでいく。主人の変化に驚いたフロラは慌てて二人の間に割って入った。


「お嬢様、もうすぐ授業の開始時刻でございます。お召替えを急ぎましょう」


 フロラに促され、ステファニーが忌々しそうな視線を向けるが、先に着替え終わっていたシェリルは、それを無視して更衣室を後にする。


「皆さん、準備は宜しいかしら?」


 クラリスが張りつめた空気を解すように柔らかな声を上げると、着替えを終えていたセラフィーナ、レイコが頷いた。それぞれ上が白、下が紺色の運動着に身を包み、専属女中メイド達が最後の身だしなみを整えている。


「お待たせしましたわ」


 フロラに髪を整えてもらい、ようやく気を取り直したステファニーが静かに口を開き、彼女達は更衣室のドアに向かって歩き出した。

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