2.大厄災

 人々は知らなかった。

 彼等の運命を左右する戦いが、目に見えない次元で繰り広げられていることを。


 人々は知らなかった。

 天空の彼方で、この世界を浸食しようとする力と、その意志から護ろうとする力が激しく衝突していることを。


 その力と力のぶつかり合いが、世界に激震をもたらしていることを。

 何が起こっているのかも理解できないまま、人々はその激震を厄災としてしか受け止められないことを。


 彼女は声にならない悲鳴を上げていた。

 為すすべなく波間に揉まれながら、次から次へと押し寄せる波涛はとうに身体をもてあそばれていた。


 乗っていた船の姿はもはや海上から消え、深遠な海底へ再び戻らぬ旅を始めており、そこから巻き起こる大渦は、辛くも船から脱出した人間や小舟を情け容赦なく巻き添えにしていく。


 彼女はそれが信じられなかった。ついさっきまで、あの船に乗っていたのだ。

 大きな豪華客船。立派な船。

 いつかお金を貯めて世界一周旅行をすることが夢であった彼女は、緊急事態とはいえ、この船に乗船できたことに安心感を抱いていた。


 黒塗りの光沢のある船体と白色に塗り上げられた上甲板は、豪華さと高級感の象徴だった。毛足の長い深紅のカーペットが床一面に敷き詰められ、壁に掛けられた絵画は、美術館に展示されていてもおかしくはない名画ばかりだった。


 この場所では、航海中にイブニングドレスを着飾った女性達と、エスコートするタキシード姿の男性達によるディナーやパーティーが日夜催されていたのだろう。

 今この場所にいる、着の身、着のままの自分は酷く場違いに思えるほどであったが、それでも自分はこの船に乗り込んでいる。


 だからこそ彼女は思った。いつか光り輝くドレスを身につけて……避難民ではなく乗客として……もう一度この船に乗り込みたいと。

 そんな気持ちにされるほど、この船は魅力的だった。

 ピカピカに磨かれた金色の手すりや装飾品モールは、幾たびもの波涛はとうを乗り越えてもなお微動だにしなかった。今回もそうなる。その筈だったのに。


――今ここにいる自分はいったい何をしているの?

  何で泳いでいるの?

  そんな馬鹿な。ここは海じゃないの?

  これは夢だ。悪い夢だ。そんな筈はない。

  確かに私は船に乗ったのよ。

  あの金色の手摺りに掴まり有名な絵を眺めていたわ!


 彼女は思った。


――こんな筈はない、こんな地獄はまっぴらよ!

  私はまだ死にたくない!


 必死に腕を動かし、もがこうとすると、不意に彼女の耳に聞き慣れた声が飛び込んできた。


「ママッ!」


 彼女に呼びかける声は、幼く……そして小さかったが、それでも彼女の意識を現実に引き戻すには十分すぎる効果があった。


「坊や、私の子!」


 しかし、そのかすかな叫び声もすぐに大きな波間に消え失せて、辺りには身も凍るばかりの冷たく厳しい波の音だけが響き、冷たい水は彼女の体温を情け容赦なく奪い取っていく。


 もはや膝から下の感覚はなかった。飛行船にしなかった罰だ。彼女はそう思った。

 以前から、『天空から黒死の軍勢が降り注いでくる』と噂が飛び交っていた。


 そして天空に赤い稲妻が飛び交い、大地が不気味に揺れ動く日々が続き、大陸の向こう側の都市が滅んだという噂まで飛び交うと、街はパニックに陥り、ある事ない事の流言飛語が飛び交い、さらなる混乱を招いた。


 人々は逃げ惑い、少しでも遠くに逃れるすべを探し始めた。もはや統制などされない混沌こんとんだけが支配し、捨て鉢になった者や万に一つの可能性を求めた人間が行う、略奪や暴行、強姦・殺人と言った凶悪犯罪が白昼堂々と行われる始末だった。


 国防軍や他国の政府が派遣した救援の飛行船や船といった避難手段が次々に送り込まれる中、彼女は一人息子と共に、その避難船の一隻に乗り込んだ。


「もう大丈夫よ」


 離れ行く岸壁と住み慣れた街並みを眺めながら、彼女は思った。

 自分の意志とは関わりなく、もう二度と見ることは出来ない生まれ故郷を離れ、見知らぬ異国の地に移らねばならない。

 その事が悲しかった。


 天にそびえる摩天楼まてんろうの数々。ファッションと芸術と経済の中心として、華燭かしょくと豪華さに彩られた世界で最も美しい都。

 そこで生まれ育ったことを彼女は誇りに思っていた。

 その街が、今、そこかしこから煙を噴き上げている。

 暴徒と化した人間が街に火を放っているのだろう。


 しかし、それを消し止める人間は存在せず、累々と営んできた文化の都は、船が進むにつれ水平線の彼方に沈むのと同じように、今まさに消え去ろうとしている。

 それが彼女には寂しかった。

 やがて陽も沈み、辺りは波の掻き分ける音しか聞こえなくなった。


 いったいどれくらい甲板に佇んでいたのだろうか?

 同じように外を眺めていた人たちの姿もとうに船室に消えており、彼女は一人息子を抱きしめて彼らの後を追った。豪華な客室に入り、安堵と不安の表情を浮かべている人々の顔を見て、彼女はこの先どう生きなければならないのかを考え始めていた。


 その時、当直の見張り員は、天を焦がすような橙色の火の玉が水平線の彼方を駆け抜けるのを見送った。

 それが何であるのか彼らは一瞬理解できなかったが、天空を切り裂くような閃光が湧き起こり、瞬く間に呆然と見守る彼等を薙ぎ払った。


 そして彼女達親子を乗せた客船を鮮やかに照らし出し、激しい爆風と押し寄せる波涛はとうが、大きく翻弄ほんろうした。


 全長350m、排水量8万トンの大きな客船ではあったが、その船がまるで激流の川の流れに投げ打たれた、笹の葉で作られた船のように右に左に押し流され、ついに押し寄せた一際大きな波に飲まれ、船腹をあらわにして転覆した。


 豪華さと安心さを象徴していた金の手すりや装飾は、強大な自然の力の前にはひとたまりもなく、まるで巨人が紙を握り潰すが如く一瞬にしてひしゃげ、突き破られたドアや穴から侵入した海水は、中にいる者達を等しく荒れ狂う大海原へと押し流した。


 それは、ほんの僅かな間に起こった出来事だった。

 船に乗っていたであろう多くの人も、またそうであるように、彼女は船から投げ出され、為すすべもなく泣き叫びながら、大きな渦に飲み込まれた我が子の名を叫び続けながら大海原へと消えていった。


                          ◆◆◆◆


『海の女王』と呼ばれた豪華客船『クイーン・ヴィクトリア』沈没事件は、乗客乗員全員…犠牲者数3,324人…という歴史上最大級の海難事故であったが、この痛ましい事故は、実のところ、ほんの小さな出来事に過ぎなかった。


 この船の遭難と同じように、この日のこの瞬間、惑星『アナトリア』の至る所でこのような事象が多発していた。

 激しい振動・爆発に火炎…全てを飲み込むかのごとく沸き起こった津波や火砕流。

 この惑星上で起こった出来事は、生きとし生けるもの全てを巻き込み、危機的状況に叩き込む事に成功していた。


『アニマ』の浸食と四大精霊エレメンタルクリーチャーの戦いは、後の世に伝わる『悪魔の1ヶ月』と呼ばれ、惑星『アナトリア』に芽生えた文明を破壊するのは十分な威力を持っていた。



 そして5千年の月日が流れた。

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