3.見知らぬ世界……現(うつつ)
余りにも現実離れした夢なのに、何故か強い実感を伴っていた。驚きの余り、半身を起こした身体に冷えた空気が流れ込み身震いしてしまう。
ふとベッドサイドの明かりを灯して、鏡に映る自分の姿を見る。
まるで寝間着が水を浴びたかのように湿っていて、乱れた髪は自分の身体にまとわりついて不快だった。
「イヤだな……ベタベタしている……」
ベッドサイドの置き時計を眺めると、時刻は午前五時を少し回っていた。
午前七時の起床時間までには少しばかりの時間があるが、
――せっかくだからお風呂で汗を流そう
彼女は軽く両手で頬を叩き、ベッドから抜け出した。
この学院は水道の設備が整えられており、それこそ生徒が日常を過ごす寮にも配管が成されている。
驚くべきことに学生寮は一人一人に個室が用意されていて、複数人相部屋というのは存在しない。
もちろん、大半の生徒は使用人を最大二名まで帯同してくるので、使用人用の空間も内部に設けられている。
理由は簡単だ。生徒の大半が貴族である以上、個々の空間は必要という判断がされたのであろう。
その恩恵は平民であるシェリルにも与えられているが、彼女には使用人がいない分より広く感じてしまうし、元々質素な生活に慣れているシェリルにとっては、無駄な空間になっている。
小さめに作られている浴室に向かい、汗で湿ったニットの
――早くお湯を……風邪ひいちゃう……
盛大にバルブを捻ると、湯気と共に蛇口から流れ出る。
火属性の魔石で温められた水が、かざした彼女の白い手の上を走り、朝の冷え込みで凍えた彼女の指先を温めて、気分を落ち着かせていく。
やがて彼女は両手で流れ落ちる湯を受け止めて、その中に湛えて眺めながら、彼女は自分自身に言い聞かせていた。
――あれは夢……あれは幻想……現実じゃない……
余りにも現実離れしている夢を見てしまう自分がおかしくなってしまったのかと思う事もある。
<何それ? 訳わかんない……>
シェリルの思いを肯定するように、数少ない親友の言葉が
この夢は何度も見てしまう。
だから思い切って、隣室で仲の良い友人であるステファニーに話してはみたものの、彼女は理解が追いつかないようで首を傾げるばかりだ。
相談したシェリル自身
そもそも、あのような場所は行ったことがないばかりか、見たことも聞いたこともないと言うのに……
――どうしてこんな夢を見てしまうのかな?
備え付けられた
夢で見た光景に見覚えはない。図書館の蔵書にもあんな風景を描いた話は存在しない。むしろ空に昇る青と白の二つの月のようだ。
「……でも天空って、いったいどんな世界なんだろう?」
独り
図書館の蔵書では、この学院の生徒が、広場に設けた滑走台から動力式飛空機で空を飛んだと言う記録が残っている。今から約三十年前の話だ。
風系統の魔術が使える者であれば、わざわざ動力や道具を使って空を舞うなど
事実、この学院の生徒が飛空機を飛ばしたという記述はこの部分だけであり、それ以外の記述は一切ない。だからこそシェリルは興味が沸いた。
見知らぬ世界への憧憬。その気持ちは、他の誰よりも強いと彼女自身思っている。だからこそ彼女は、ハンデを負った平民学生でありがながら、学年主席の座を入学以来他者に譲ったことはない。
「その人のお話……聞いてみたいな……」
今のシェリルにできることは、その時の光景に思いを馳せることだけであったが、それでもあの訳の分からない夢よりも余程現実的だと思う。
そして、今の自分が身を置いている『貴族社会』よりもずっと。
「あと……四年よ……」
『貴族社会』の縮図ともいえる同級生達の事を考えると、気分が滅入ってしまう。
魔術の講義や実習はとても興味深い。しかしそれ以外の時間は、彼女にとっては居心地が悪いばかりか、むしろ苦痛でしかなかった。
「やっぱり長いな……長すぎるよ、四年なんて……」
彼女から見れば、何の意味のない探り合いとマウントの取り合い。そして裏工作。貴族とは毎日こんな足の引っ張り合いや多数派工作をしているのかと思うとうんざりしてしまう。
友好的な態度で握手を求めながら、反対側の手には剣を握っている
「ダメよ、シェリル……ここで逃げたらわたしの負けじゃない……」
両手を下ろして立ち上がると、
腰の下部まで伸びている髪は、桜の花の色のように輝き、細身の身体から豊かに膨らんだ胸とくびれた腰から成る曲線は、女性であることの証であり、日に日に変わっていく自分自身の姿に戸惑いや苛立ちを覚えたこともある。
「これがわたし……それ以上でもそれ以下でもない……」
シャボンで泡立つ
「でも……あの人だけは……他の誰とも違う……」
目を閉じ
まるで空を模したかのような明るい青色の髪を持つその存在は、突然シェリルの前に姿を見せた。
不慮の事故に遭い落下する自分を支えてくれた時の力強い腕の感覚は、今でもこの身に残っている。新年度の始まりと同時に、彼が、いきなりシェリルのクラスに編入してきた。
「シルヴェスター……シェフィールド……」
その名を口にすると訳もなく恥ずかしくなるし、叫びたくもなる。
そんな衝動を抑えながら、彼女は傍らの台に置いたペンダントを撮り、目の前にぶら下げてみた。
「キミが彼と巡り逢わせてくれたの?」
銀色に光る天使の像は微笑んだ表情を浮かべたまま何も応えることはない。それでもぶら下げたペンダントが揺れる度に、胸に埋め込まれた蒼い宝珠が、まるで意思を持つかのように時折の光を放ってくる。
幼い時から共にある銀のペンダントは、素性が知れないシェリルにとって自分が何者かを探る手掛かりのように思っている。
「王子様……か……」
幼い時から多くの本……特に亡国の王子と村娘の恋愛を描く物語……を好んで読んだ事もあり、彼女は
しかし、現実の男子の姿を目にした途端、その願望は打ち砕かれた。
そこに現れた『王子様』。二ヶ月前の九月のことだ。以来彼女は気付けば『彼』の事を考えていた。
王国暦一七八四年十一月。
シェリルは他人には決して語らない想いを抱きながら、今日もまた新しい朝を迎えようとしていた。
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