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 結局のところ、私は彼女と逢瀬を重ね、ついには男女として交際するに至った。その過程は実にありふれていて、今ではもうあまり思い出せないくらいである。それでももちろん当時の私には嬉しいことだったし、まさに天にも昇る心地だった。

 そして彼が死んだのは、彼女と交際を始めてすぐのことだった。

 私は、彼の死をも非常に曖昧なものとして憶えている。それあ悲しかったし、なんだか大事なものを失くした気分になったが、初めて恋人ができた喜びとごちゃ混ぜになって、純度が下がってしまったのであろう。私には今でも彼がどこかで生きているような気がしていて、もっと大袈裟に言えば、『彼』などという人間はもともと何処にも存在しなかったのではないかと、疑うことがある。

 ただ一つ、はっきりと覚えているのは彼の辞世の句である。

 そもそも私が彼の死を知ったのは、恋の顛末の報告に上がった時、彼の住む一室が奇妙に静まり返っていた事による。一日でも早く報告したかった私は、一時間ほど図書館で時間を潰して、再度彼を訪ねた。ちょうどその時、部屋の扉の空くのが遠目から見えたものだから、私は嬉しくなって駆け寄った。しかし、現れたのは見知らぬ女性だった。彼と同い歳くらいに見えたので、これが彼の元恋人かとも思われたが、訊ねる勇気はなかった。

 そうしてモジモジしているうちに、その女性の方から声をかけてくれた。

「もしかして⋯」

 そう呟いてから、女性が私の名前を呼んだものだから、私はまったく驚いてしまった。

「どうして僕の名前を?」

「彼から聞いていたの」

 その時になって、ようやく私は、女性の目がひどく泣き腫れていることに気づいた。

「お兄さんは?」

「⋯⋯⋯死んだの。ここで、首吊って⋯」

 不思議なことに私はそれほど驚かなかったように思うが、それが事実なのか、記憶の風化によるものなのかは定かでない。ただ、彼ならばそうやって、ある日ぽっかりと縊死を遂げても、ぜんぜん意外ではないような気がしていた。

 女性は洟をすすると、カバンから何やら取り出した。

「これ、もしあなたに会えたら渡してって⋯」

 そうして差し出されたのは、四つ折りにされたコピー用紙だった。何の変哲もない。徐に開いてみると、そこには、

『池水は濁りににごり藤波の影もうつらず雨降りしきる』

 と、たったそれだけ書かれていた。彼の意図が判らぬことなど珍しくもなかったが、それにしても意味不明であった。

「それじゃ...」

 女性はフラフラと立ち去り、夏夕べの生温い風が吹き抜けた。

 ふと思い出したことには、ちょうど前日、梅雨が明けたとの報せがニュースに出ていた。

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