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 彼の家から帰る道々、私は彼女のことについて思いをめぐらせていた。

 その彼女というのは、私が図書館で出会った少女である。私よりも一つ歳上で、それまで面識も無かったのだが、全くひょんな事──などと勿体つけるほどではなく、実際には、ただ彼女が置き忘れていたブックマーカーを走って届けたということ──から、以降、顔を合わせれば何方からとなく挨拶を交わし、時には小説について論じ合うようになった。今にして思えばきっと彼女は、思春期のうちに誰もが一度は沈潜するロマンチシズムの幻影を私の肩越しに見出しただけで、特段に深い事由から私と関係をもったわけではなかったのだろう。だが、私にそんな察知能力が有るはずもなく、彼女が何故に私を気に入ったのかなどと間の抜けた疑問を呈し、もしやこれがいわゆる恋の種とやらではなかろうかと、ウキウキもしたものであった。

 恋とやら。

 それは私の知らないものだった。

 だから知りたいと思った。

 何だってそうだ。初めては尊いのである。彼の論で言えば、未だそれに慣れておらず、侮ることなく、全ての情報を注意深く享受できる状態。そこから賞味期限の切れる迄が、万物の華ともいえよう。ヘラクレスを殺したとき、私に取り憑いていた悪魔の正体もきっと、それと本質を異にせぬものであったはずである。私の理性は一般的な現実問題を解決するに十分なくらいまで発達しつつあったし、何か致命的な間違いを起こすことも減った。それと同時に、実は私は、世界の面白さみたいなものが反比例に減じていくのを、暗黙のうちに了解していたのかもしれない。そうなればなるほど、人間というのは未知に惹かれ、己に残されたなけなしの可能性とやらを片端から潰してまわりだす──陳腐な表現に頼るならそれこそは、『死ぬまでの暇潰し』と云うのだろう。

 翌日、放課後の図書館に彼女がやってくるのを、私は待っていた。文庫本を読む振りなんぞして、中身は一字だって頭に入らず、ちらりちらりと周囲を見渡すばかりだった。そんなことを二十分ほど繰り返した時、彼女が不意に現れたので、私は大袈裟に振り返って存在をアピールした。首尾よく気づいてもらえた私は、彼女がその小さい歩幅で歩み寄ってくる数秒間で、早い鼓動をなんとか鎮めようとした。

「こんばんは」

 結局、鼓動は早いままで私が言うと、彼女は小さく笑って、

「こんばんは」

 と応えた。彼女の声は同年代の少女に比して低く、知性を感じさせた。肩の辺りまで伸びている艶々した黒髪も、白くほっそりした首筋も、豊かに膨らんだ胸も、全てが私を誘惑しているかに錯覚せられる。今にして思えば野蛮な好意は、しかし私には恋であったのだから、それあ、必死である。

「今日も、お母さんたち居ないの?」

 私が問うと、彼女はこっくり頷いて、隣に腰掛けた。どこからとなく甘い香りが漂っている。彼女の親は共働きだそうで、毎日ではないものの、夕方の家がもぬけの殻になることも少なくなかった。彼女は殊にそんな夕方、寂しさと退屈を紛らわせるために、ここへ通っていたのだ。

「君は?まだ帰らない?」

「うん。もうちょっと居るよ」

 親しいとはいえ先輩なので、私だって最初は敬語で話していたのだが、彼女が嫌がるのでやめていた。私はいかにもドギマギしながら、さて、どうしたものか、頭を搔いたりしていたが、とにかく口にしなければ始まらぬと腹を極める。

「あの、明日、空いてますか?」明日は土曜日で、私は敬語になっていた。

 瞬時、彼女はきょとんとしたが、すぐに何やら察した様子で微笑むと、

「空いてる」

「よければ、ハンバーガー食べに行かない?しばらく食べてなくて、久しぶりに食べたいんだ。ちょうど、親も出掛けるみたいで…」ぜんぶ本当のことだったが、なんだか言い訳みたいに、私はだらだらと続けた。

「いいよ」

「え」

「ハンバーガー、食べに行こう」

 予想に反して呆気なく了承されて、私は呆気に取られたが、ひとまずは「ありがとう」だけしっかりと伝え、それからようやっと落ち着いて、待ち合わせに関するあれやこれを決め始めた。

 それから三十分ほどして、まだ帰らぬという彼女を残し、私は退館した。これもいつもの事だった。入口の自動ドアを出ると冷えた空気が息絶えて、途端に梅雨がじっとりと私の頬を包む。

 その傍らに、彼がいた。私の視線に気づくと、平素の笑みを浮かべて、

「帰るのかい?」

「はい」

「どうやら、デートのお誘いは上手くいったみたいだね」

 これには流石に面食らった。今日、彼女を誘うことは誰にも口外していなかったし、彼女と話しているあいだ、周囲に人気は無かったはずだ。それなのに彼はまるで見ていたみたいな口振りだったから、さすがに私も訝しがって、

「聞いてたんですか?」

「や、そういうわけでは。彼女を誘うなら、何となく今日かなって思って」

 たしかに金曜日の夕方だったし、私が妙なことを口走った昨日の今日だったから、それはまあ、無理ではないとも思えた。私が小さく頷くと、彼はその笑顔のままで、

「頑張ってね。あ、そうそう、渡したい物があった」

 と言って、ズボンのポケットに手を突っ込んだ。

「これ」

 言いながら取り出したのは、コンドームだった。

「まだ先になると思うけど、いざと言う時に無いと心配だから。ちょっと古いから良くないけど、緊急時に使って」

 私は恐る恐る──それこそ見たことの無い生物に手を触れる時のように──受け取った。それが、私が初めて避妊具を手にした瞬間だった。今にして思えば取るに足らない、こんな出来事も、当時の私には非日常的で新鮮だった。私は頬にほんのりと高潮を覚えながら礼を述べた。彼は、これまでにも何度かしてきたように、私の頭に手を置くと、

「頑張って」

 と言った。私は威勢のいい返事をして、そのまま踵を返す。

 図書館の敷地を出る前に、ちらと振り返れば、彼はそのまま微動だにせず、やはり雨を眺めていた。そのとき不意に気づく。

 彼の現れる時はいつも、必ず雨が降っている。

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