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 それからというもの、彼はたびたび図書館に現れては、私に話しかけてきた。私の何を気に入ったのか知らないが、彼に悪いものを感じることはなかったし、何より彼の話は面白かったので、その存在を煩わしく思うことはなかった。彼は理系の学部に所属しているらしく、殊に物理学に詳しかった。理科の授業でも丁度、振り子や台車などを使って力学の初歩が解説され始めていたので、彼の話は私の興味を引くに十分だった。

 彼はものを教えることに長けていた。数学無しには厳密に理解できぬであろう事柄も、まるで物語のように順序だてて話してくれるものだから、中学生の私は、なんだか自分まで賢くなったような気がして、それが尚更楽しかった。

 梅雨は順調に続いて、しとしとしとしと、雨をふらせ続けていた。今年は殆ど晴れ間がないとか、テレビのニュースでも言っていたように思う。

 或る日、彼は私を自宅へ連れて行ってくれた。何の変哲もないアパートで、彼はそこで一人暮らしをしているらしかった。

「むさ苦しい男の一人暮らしだけど」

 そう言っていたけど、彼の部屋は驚くほど綺麗に整えられていて、生活感が無かった。窓際には、まるで小さいベンチみたいな白い文机が置かれていて、レースカーテン越しにふらふら細雨の降るのが見えていた。文机というのをそもそもあまり見たことの無かった私は、

「オシャレな机ですね」

 と、お世辞でもなく素直に言った。彼はそれを汲み取ってか、小さく笑って、

「ここで勉強するんだ。疲れたら外の景色を眺めてる」

「なるほど…」

 そうは言っても、窓の外はありふれた街並みであって、そんなに心を癒してくれるものなんか一つもなさそうだった。机上には教科書の一つも載っておらず、代わりに傍の書棚に、あれこれ難しそうな本が詰め込んであった。それを覗き込んで、ふと気づいたことには、ノートが一冊もない。今となっては不思議でもないけど、私の通っていた中学校では定期テストの前にノートを提出せねばならなかったから、当時の私には不自然なことだったのだ。

「大学では、ノートを取らないんですか?」

「もちろん、取るよ。ノート無しに憶えてられるほど賢くはないからね」

 そう答えながら、彼は書棚の最下段に仕舞ってあった、布製のボックスを引き出して見せた。これもまた真っ白で、中には飾り気のない茶封筒がぎっしり詰められていた。それらの一つ一つには宛名の代わりに、『線形代数』だの『解析力学』だの、なにやら難しそうなタイトルが書いてあったが、それが恐らく教科の名前であろうことは察せられた。

 彼は無造作に封筒を一つ抜き取ると、手を突っ込んで中身を出した。出てきたのはホチキスで留められた資料らしき印刷物と、数十枚のコピー用紙だった。罫線も枠も、何一つ装飾のない白紙には、彼のものであろう手書きの文字が細々と並んでいて、つまりは、それが彼流のノートというわけであった。

 彼は自嘲じみた笑みを浮かべて、

「これがノート。味気ないでしょう」

 まあ、それはたしかに味気なかった。中身の難しさと相反して、ひどく質量のちいさいものである気がした。なので、

「はい」

 と私が答えると、彼は、そんなことにちょっと救われたみたいな顔をした。こういう時の彼が何を考えているのか、私は最後まで解らずじまいだった。

「君は真っ直ぐだね」

「どういうことですか?」

「なんでもない。まあ、でもこんな紙切れをノートにしているのには、ちょっとしたワケがあるんだ」

「はぁ」

「僕はね、空白が好きなんだよ」

「空白、ですか?」

 彼は頷いて、ほっそりとした両手の指を浅く組み合わせた。どうやらそれが、彼の思索に伴う仕草であるらしかった。

「物事って云うのはなんだって、本来は連続なものだと思う。人間の感性や理性が、それを一挙に捉えきれないだけで、だから、人間は切り取る。余計な細部を切り落として、そのものの本質を抉り取ろうとする」

 正直に言って、当時の私には難解すぎる話であったし、彼自身、私に理解を求めてはいなさそうだった。それでも私が彼の話を非常な精度で記憶しているのは、後年に至って彼の言がとてもクリティカルな、生きることのの虚無をも暗示する何かを含んでいると判ったからだ。

 彼は同じスピードで続けた。ゆっくりと紫煙を吐き出すような、眠気さえ感じさせる声音だ。

「それは、間違いなく人間の美徳で、知性なんだよ。でもね、切り落とした、その端っこには、たぶん面白さみたいなものも入ってて。僕らはきっと、色々なものを手頃に扱う代わりに、ひどくつまらなくしている」

「…それで、コピー用紙を使うんですか?」

「そう。真っ白な空白には、なんの制限もない気がして」

「紙の大きさは、制限ではないんですか?」

 彼は苦笑して、空いている左手を僕の頭に載せた。

「君は鋭いな。その通り。本当は模造紙くらい大きいのが好いけどね、現実的じゃないでしょう」

 こだわりが強い割に、その辺を妥協してしまえる彼を、私は少しだけ不可思議に感じた。その言い分に理があるのは百も承知だったけど、そうして、公に対する自らの不合理を減ぜられるのが、あるいは大人であろうかとも思われた。

 彼がノートや茶封筒を仕舞っている間に、私はもう一つ、予てより気になっていた疑問を口にした。

「彼女っていますか?」

 いかんせん出し抜けに訊いたものだから、流石の彼も面食らったようだったが、すぐに、あの自然の笑みを浮かべて、

「いたけどね、別れちゃった」

 と答えた。

「いつ頃までいたんですか?」

「半年くらい前かな。…女の子に興味があるのかい?」

「まあ、それなりに…」

 この頃の私はまさに思春期の真っ只中であったので、それあ性欲も高じたものだし、女性の身体に興味は尽きなかった。有り体に言えば、とてもセックスがしたかった。しかし、そう思い始めたのには、実は理由があった。

 教室では口が裂けても言えないが、彼なら馬鹿にせず聞いてくれそうな気がしたので、私は素直に打ち明ける。

「女の子のシルエットが好きなんです。ワンピースを着た後ろ姿とか、あの丸い感じが、最近、とても」

 綺麗だと思っていた。髪が長くて、風に靡いたりするのも美しい。理屈は解らなかったが、当時の私はそこに或る種の造形美を認めていた。

 彼は微笑んだままで小さく頷き、

「たしかに、それは僕も思うよ。裸の女性を描く人だって居たくらいだ、そう思うのは不思議じゃない」

 私は若干の紅潮を覚えながらも、彼に頷いてもらえたことが、それこそ子供じみて嬉しく、要らぬことまで口走る。

「セックスって、どんな感じですか?」

 これこそが私において奇特な箇所であり、そんなことは当時の私にも解っていたのだけど、彼は苦笑もせず、ただ静かに口を開いた。

「そりゃ、良いものだよ。たぶん、君が想像するよりは気持ち良くもないし、案外薄っぺらいものだけどね」

「そうなんですか?」

「うん。まあ、いつか君にも解るよ。や、本当は解ってほしくないけど…」

 他人事なのに、彼は心底悲しそうな顔をした。その意味がよく解らないまま私が押し黙っていると、彼は不意に表情を転じた。

「好きな子でもいるの?」

「いえ、そういうわけでも」

「じゃあ、あの、前に話してた子は?」

「うーん……判りません」

 実を言うと、私には恋愛能力みたいなものが殆ど完全に欠如していた。性欲は人並みにあるのだけど、別段、誰かを恋しく想うこともなく、少し気になる異性があっても、それはやはり肉慾から来る興味であって、必要な時に傍に居てくれればそれで宜いという具合だった。

 けれども当時は、彼女のことが気になっていたのも確かで、私は、なんとも答えかねたのだ。

 彼はそれを恥じらいとでも受け取ったのであろう、小さく笑って、

「そっか」

 と、それだけ呟いた。そうして軽んじられたことに当時の私は気づきもせず、ただ黙って頷くばかりだった。

 それから私は、彼にカフェオレを作ってもらって、半透明で翠色のガラスコップから飲んだ。彼は自分にはアイスコーヒーを淹れて、ブラックのままで飲んでいた。氷の浮かんだアイスコーヒーにはみるみる結露が集ったけれども、その中身は真っ暗なまま、奇妙に透き通っていた。私は床に直座しながら、カフェオレの甘みとアイスコーヒーとを、交互にぼんやり知覚していた。

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