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そこで、私の見つけた次なる居場所は、隣町の図書館である。
何が気に入ったって、入ってすぐのところに、大きな水槽が置いてあったのだ。中には水草が青々と育ち、勢いよく繁茂していた。一見すると無造作に造られたと思しきそれらは、けれどもよくよく観察してみれば、慎重に整えられた美しさを秘めていた。斜めに突き出した無骨な流木に、ひょろりと細長い水草が寄り添うように伸びて、その周辺に色鮮やかな熱帯魚たちが泳ぐ様などは、ちょっと放心してしまうような光景だった。
もちろん、それだけではない。そこは漫画に小説に、ちょっと難しいけれど科学の本に、私の欲求をバランスよく満たしてくれるもので溢れていた。平日には利用者も少なく、涼やかな静謐の中でゆっくり寛いでいられるのも実に好かった。もちろん中学生たちも来るには来たが、大抵は大人しい子達ばかりで、私に干渉してくるような者もなかった。
放課後、とりたてて帰る必要の無い日は、決まって図書館で過ごすようになった。学校の宿題もそこで片付けられたし、私の生活は規則正しく、健全化されていった。私は大いに読み、飽きたら水槽を眺め、眠ったりもした。私を咎めるものは誰一人としていなかった。
そんな日々が一年ほど続き、私は二年生になって、中学生活二度目の夏を迎えようとしていた。
梅雨の最中で、じとじと湿った空気が煩わしい或る日のこと、放課後いつものように図書館へ向かったところ、入口の自動ドア越しに、見慣れぬ人影を見つけた。近づいてみると、それは大学生くらいの若い男性であって、腰を屈め、熱心に水槽を観察しているらしかった。私は少し機嫌を損ねた。というのも、美しい水槽は一年見ても飽くことなく、入館時にはいつも数分眺めていくようにしていたのだ。仕方なく傍を通り過ぎると、私は二階にあるお気に入りの閲覧席へ歩みを進めた。
まずは学校の宿題を片付けにかかる。漢字の書取などは、いつもの調子で直ぐに了わったが、今日は一つ、変わった課題が出ていた。数学の問題であって、すこし発展的なものである。先生も強いて解く必要は無いと断っていたので、別に取り組まなくとも怒られやしなかったろうが、真面目に生きる他に実社会での生存戦略を持たぬ私は、うんうん唸った。これまでに習ったあれこれを思い出し、ああでもないこうでもない、教科書とノートを見比べては、こめかみにシャーペンをあてがったりした。
さっぱり解けぬ。
そのまま三十分近くが経過し、流石に諦めようかと思いはじめた時、ぬっと、視界の左端から細い手首が現れた。私は、それはたまげた。声も出そうになったが、辺りの静けさに援けられて、何とか堪えられた。
慌てて其方を見遣れば、先刻、入口で水槽を覗き込んでいた男性と目が合った。彼は柔らかくカーブした目尻でもって微笑むと、
「ここ、まずはAとおいてみて」
などと吐かした。解答の手助けをしてくれているのは百も承知だったが、そんなに素直に受け容れられるはずもなく、私は呆けた。すると彼は漸く、
「あ、ごめん、困ってるみたいだったから、つい。迷惑だったかな?」
と付け加えた。そこまで言われて好意を無下にするほど野暮じゃなし、私は被りを振って、彼の言うとおり、数式の一部を書き換え始めた。すると、数式の全体が、なにやら見覚えのある形へ変貌を遂げていくのが判った。私は気を快くして、彼が何か言い出す前に次の一手を打ってみせた。彼は黙って頷いて、また、肝要の箇所を指さした。今度は少し悩んだが、彼の意図するところは察せられたので、さらに式を変形していく。そんなことを二、三度繰り返したところ、なんとも呆気なく、私の難問は解決してしまったのである。
「はい、よく出来ました」
彼は得意げにも、なんだか草臥れたようにもみえる、いずれにしても或る種の慈愛を湛えた表情を浮かべた。私は「ありがとうございます」と囁いて、小さくお辞儀をした。彼は「どういたしまして」と応じ、そのまま何処かへ消えてしまった。
不思議な人だと思った。
けれども、外見や雰囲気も相まって、とても彼が悪人であるようには見えなかったし、余計な干渉をしてくるわけでも無かったので、私は心中でも素直に感謝し、心置き無く読書に取りかかったのだった。
その日は宿題にずいぶん時間を使ってしまったので、文庫本を二十ページも読まぬうちに退館することになった。荷物をまとめて階段を下り、外へ出ると雨がまた来ていて、ふと、自動ドアの傍らを見遣ると、先刻の彼が物憂げに空を見上げていた。そのまま帰っても可かったけど、私は足を止めてしまって、その拍子に彼も私に気づいてしまった。彼は録画しておいた映像を再生するかの如く、初対面での笑みを再現してみせた。それがもしかすると、彼の自然の笑い方なのかもしれない。
「帰るの?」
「はい。さっきはありがとうございました」
「いいえ。ここにはよく来るの?」
「放課後には大抵」
「そか、偉いな、君は。そこらの大学生より、ずっと偉い」
「お兄さんは、大学生ですか?」
「そう、大学生。でも君の思ってるヤツとは違うかもしれない。大学院というヤツやつでね」
大学院という言葉を、当時の私はよく知らなかったので、素直に首を傾げた。すると彼は苦笑して、
「ふつう、大学は四年間でしょう。大学院っていうのは、そのあと行くところだよ」
「大学を卒業しても、まだ学校へ行くんですか?」
「そう。ま、僕の場合には、単に働きたくないから行ってるんだけども」
「なるほど...」
彼は平然と言ってのけたが、私はちょっと困惑していた。頑張って勉強して、大学院とやらまで行ったのに、口から出るのが「働きたくない」だなんて、それは、なんだか絶望的であるような気がした。大人というのはもっと当たり前に労働の義務を果たしているものだと、この頃はまだ錯覚していたし、なにせ、大人というのは遠い存在で、二十歳前後の辺りに、何かしら不連続な変化が待ち受けているものだと思い込んでいたのである。
「君は、大学へ行きたいかい?」
不意に訊かれて、私はまごついた。別に行きたいわけでもなかったけれど、勉強はそれほど嫌いでなかったから、行きたくないというのも嘘になる気がした。
雨は降り続いて、不思議なくらい周囲の雑音を遮断していた。
「分かりません」
私が素直に答えると、彼は小さく頷いて、
「そっか、未だ中学生だもんな」
と呟いた。そこに自嘲の香りが溶け込んでいたと気づくのは、また随分あとになってからだった。その時の私は、ただ、曖昧に頷いて、
「さようなら」
と、それだけ言って傘を開いた。彼もまた、ひどく落ち着いた声色で「さようなら」と返し、空へ視線を戻した。
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