5

 私が落ちぶれてから、考えてみればひと月ほどしか経っていなかったが、それはずいぶん永い年月に感じられた、そんな或る日、堪忍袋の緒は不意に切れることとなった。

 激怒したことを除き、不思議にも私は、その日のことについて、あまりよく覚えていない。ただ、何かのイベントが学校にて催され、たしか父兄も参加する何かだったような気もするが、とにかく土曜日であって、昼には給食の代わりに持参した弁当を食べる日だった。

 その日も当たり前のように私は蔑まれ、無視されていた。姑息にも彼らには私の持ち物を狙う習性があったので、普段から所持品の管理には気をつけていた。隠されて困るものは目の届くところに置いておき、教室を離れる際には持って歩いた。

 だから本当は、その日、母の作ってくれた弁当にも、同様の注意を払っておくべきだった。なのに私は、どこかで彼らを侮っていたのだと思う。弁当などに手を出せば先生も直ちに気づくであろうし、大事になるのは避けられない。そんなリスクを背負ってまで、弁当に手を出しはしないだろうと思っていた。

 短い休憩時間に、私がトイレから帰ってきた時のことである。机の横にぶら下げておいた包みが消えていた。私はサッと青くなって、机の中をまさぐり、ロッカーを覗き込み、終いには教室の隅々まで探してまわった。どこからともなく忍び笑いが聞こえてくる。

 果たして無惨にも、弁当は教室のゴミ箱へぶちまけられていた。

 それを発見した時、頭の後ろあたりで、何か、聞いたことの無い音がした。

 一も二もなく、私は手近にあった椅子を掴んで、ガタガタ引き摺った。そうして薄笑いのイジメっ子どもへ近づいて、そいつを振り上げた。反撃など予期していなかったのか、彼は滑稽なほど緩慢な反応をみせたから、私の第一撃を避けようもなかったのだろう、椅子は肩に思い切りぶつかり、悲鳴があがった。痛快である。手前にいた仲間に第二撃をあびせるも、そいつは素早く身をかわすと、まだ怯んでいる彼に代わって、私へ飛びかかってきた。

 そこからは、もう、泥仕合である。殴り殴られ蹴り蹴られ、前後不覚のままに揉み合った。とはいえ手数において不利な私は間もなく押され始め、ついには拳をもろに食らって、口内で血が噴き出す。異変に気づいた先生が飛んできたのは、ちょうどその時だった。

「何してる!」

 先生は恰幅の良い、まだ若い男の人だったので、私たちを楽々と取り押さえ、ひとまず事態は終息した。そうして、他の生徒たちは自習するよう指示され、その間、私たちは一人ずつ先生に呼ばれては、事情を訊かれる羽目になった。

 とうとう私の番が来た。どうせ怒鳴られるだろう。神妙な面持ちで部屋に入ってみる。ところが先生は、ひどく私を憐れんでいるようだった。その眼差しに怒気はなく、「座りなさい」と言って、少しため息ついてみせる。言われたまま、私が正面に腰掛けると、先生は徐に切り出した。

「先にお前が椅子で殴ったと聞いたが、本当か?」

「はい」

「弁当を捨てられたからか?」

「そうです」

 馬鹿げた問答だった。それ以上でも以下でもない。先生は変わらず、へんに優しい目で私を見ていた。

 ふと、私は気づいてしまった。

「先生は、僕がイジメられているのを知っていましたか?」

 それは訊いてはいけないことだった。

 先生は私の目を真っ直ぐに見たまま、静かに、平然と答えた。

「知らなかった。ただ、最近お前の元気の無いことは気づいていたから、ご両親にも相談しようと思っていたところだ」

 知らないはずはなかった。

 嫌がらせの現場は幾度か見咎められ、彼らも注意を受けていたし、なにより、これまで全く懇ろにやっていた彼らと私がそんなふうになっているのは、傍目にも異様であったばすなのだ。

「……そうですか」

 二、三、何か言い返しても可かったのかもしれない。けれども私は、そう呟いただけだった。大人の助けを期待していなかったのは、なにせ、他でもない私だったのだから。ただ、私の知っている第一原理みたいなもので、大人である先生も何かしらのバランスをとっていて、それで、私を見殺しにすることも辞さなかったのであろうことは察せられた。

「どうしてこんなことになった?」

「僕が悪いんです。彼の宝物を台無しにしたから…」

 そう言いながらも、私は、頬に熱いものが流れているのに気づいていた。先生はますます困り顔で、机に身を乗り出した。

「お前が、何か壊したのか?」

「ヘラクレスを殺しました。僕が、殺したんです」

「……そうか」

 先生は私を叱るわけでも、それ以上何か問い詰めるわけでもなく、そう呟いて席を立った。

 その後のことは取り立てて語るほどでもなく、まあ、妥当に保護者たちが呼び出され、またしても私の両親が平謝りすることになったが、恐らくは我が子らの悪行を承知していたであろう彼らの親も、なんだかバツが悪そうで、執拗に私を責めたてはせず、ここは痛み分け、もう水に流そうと結論した様子だった。

 家へ帰る道々、私は両親にイジメのことを洗いざらい白状した。まだ陽が高く、ちょうど逆光みたくなっていて、辺りを白く照らしていた。話しているうちに、また涙が零れてきて、それを見た両親もまた、洟をすすった。何処かで死に遅れた蜩が鳴いていて、風も生ぬるい。私は滲んだ視界の中で、事の了った安心感に包まれながら、人間の損得勘定に作用する不思議の力学について、解らないながらにも思いを馳せていた。

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