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 いつも通り、玄関で靴を履き替えようとしたところ、上履きがどこにも見当たらないのである。誰かが間違えたのか、そんなふうにも疑われたけれど、これまで一度もない珍事に、私は呆然とした。とはいえいつまでも突っ立っているわけにはいかず、私は靴下のままで教室へ向かった。

 教室の様子はいつもと変わらなかった。違うところがあるとすれば、私へ向けられる視線の温度──殊に、彼を中心に集まっていた数人の、私を睨みつける顔だった。言葉がなくとも、それが明らかな糾弾であることは察せられた。ともすれば、この珍事の顛末も想像に難くないところであった。

 私はそろりそろりと移動して、出席番号の一つ若い子へ近づいた。温厚な子で、普段は教室で本ばかり読んでいるような少年だったが、この時ばかりは私をキッと睨んだ。その表情は、どこか怯えているようにも見えた。真面な返事の返ってこないことは容易に想定されたけれど、

「ねえ、僕の上履き、見なかった?」

 と、私は問うた。案の定、彼はうんともすんとも、ただ、微かにかぶりを振ったように見えた。私はそれを能う限りの答えだと看做して、「ありがとう」と礼を述べ、黙って着席した。

 それから昼休みも過ぎたころ、私の上履きは校庭の隅で見つかった。背の低い雑草の上へ無造作に捨てられてあって、低学年の親切な子らが先生へ届けてくれたようであった。

 この頃になると、流石に私も、事態を現実のものとして受け止め始めていた。いや、本当は朝の時点で判っていたはずなのだけれど、人間はやはり、土壇場でないと駄目なのである。被イジメと縁遠い人間は、そんな事態を、夢にも見ることができないのだ。だから私は、ここで漸く、これが他人事でないと認識できたのだった。

 彼らによる嫌がらせは、その日以降、絶え間なく続いた。今にして思えば地味なものが多かったように思う。通りすがりに足を引っ掛けられたり、物を隠されたり、鉛筆やコンパスでチクリとされたり、消しゴムや消しカスを投げつけられたり。子供の思いつきそうなことばかりであって、また、彼ら自身も、私にとって致命傷となるような嫌がらせは避けているように思われた。あくまで、彼らは私を立場で居たかったのであろう。大事になるのは、彼らにとっても本望ではなかったとみえる。

 ただし、今よりもずいぶん多感で繊細だった私に、それらの攻撃が多大なダメージを与えたのは言うまでもなかろう。

 私は泣いていいのか、ひょっとすると泣きたいのは彼なのか、よく判らないまでに落ち込んだ。味方になってくれる者は、誰一人いなかった。それも原因は間違いなく私にあるから、まあ、無理からぬことだった。

 毎日々々、私は死にそうな思いで登校しては、嫌がらせを受け続けた。対する彼らは、徐々にその本性を垣間見せつつあった。初めは私へ向けられていた──奇妙な形容かもしれないが、ひどくピュアな──憎悪の目が、いつしか気味の悪い薄笑いに変わっていた。それはもはや恨みの顕現などではなく、虐待の愉悦にひたる拷問吏の眼差しであった。その本性がはなから彼らに備わっていたものなのか、はたまた私の呼び起こした怪物なのか、私には判じかねるが、今、こうして考えるところに依れば、これもまた人間の正体の一つであったのだろう。は、弱っている個体を排斥せずにはいられないのだ。何か手落ちを見附けるや否や、自らの立つ舞台に其者そいつを発見できなくなって、自分とは違う、何か異質で、あまり価値のないもので、、虐め殺してもいのだと、本気で考え始めるのだ。不祥事をやらかした有名人が落ちぶれるざまを見る度に、私は今も、この事件を思い出さずにはいられない。

 とはいえ、この事態を招いたのは他でもない私自身であり、また、周囲の大人に助けを求め、その介入が仇となって被害が拡大することも、私は望んでいなかった。コミュニティの外側から人を救うのに必要なのは、善意でも正義でもなく、絶対的な力なのである。故に、子供同士のトラブルにおいて、大人はどうしても無力だ。

 そんなことは解っていて、だから私には、絶望することしかできなかった。私が悄気返り、大人しくなればなるほど、彼らは笑みを深め、終いには直截な罵詈雑言まで浴びせるようになってきた。クラスでの孤独も深まる一方で、休み時間には誰とも口をきかず、ただ、人気のない所へ逃げ込むことで必死だった。大抵は人通りの少ない階段やトイレの個室など、埃っぽくて熱のない、冷たい場所が、私にとっては安息の地となった。

 休み時間には彼らとて遊びたかろうから、逃げていれば事なきを得た。授業中には先生に気づかれない程度のささやかな嫌がらせしか許されぬから、なんとか耐え忍べた。しかし放課後、家に辿り着くまでの時間は、私も無防備で、かつ、彼らはもともと近所の幼馴染どもであったから、帰り道の殆どを同じうしていて、まったく、悪夢のような時間と相成っていた。私は逃げるようにして足早に帰るよう心掛けたが、それでも数日に一度は彼らに捕まり、心無い暴言や暴力を受けた。そこには大人の目もない故、彼らはいっそう残虐になり、殴る蹴る、終いには小石を投げつけるなど、それは耐え難いレベルにまで悪化した。

 私は耐えた。

 痣ができても隠したし、泣く時は独り部屋で泣いた。私が悪いのだ、そう言い聞かせることで、何かを押し殺していた。

 両親とて、私の異変に気づかないではなかったろうが、私が音をあげないうえ、私の罪を知っている手前、安易に問題視できなかったのだろう。心配されることも、「学校に相談しようか」と囁かれたこともあった。けれども私は頑なに、救いの手を振り払い続けた。よもや、慚愧などというもので耐えられる範疇ではなかったから、償いをしているつもりは私にもなく、ただ、現状を維持することに必死だったのだと思う。

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