3
果たして翌朝、私は母に事情を打ち明け、こっぴどく叱り飛ばされ、打たれた。その段になって私は、しかし漸く腹が極まったというのか、或る種の安堵を得た。これから彼が散々に私を貶すのは目に見えていたが、私は、何かを解決した気でいた。くすぶる火口は燃え上がらせたのだから、あとはもう、ただ黙って鎮火を待てばよいのだ。褪せないものなど、この世には一つだって存在しないのである。最終的には総てが首尾よく収まって、膿んだ傷口のような蟠りが残って、それもいずれは消えてなくなるのだ。もちろん、当時の私にそれほどの理性は備わっていなかったが、経験則として識っていた。
子供同士のトラブルで学校に迷惑をかけることも憚られたのだろう、母は放課後、一緒に謝罪へ出向くつもりで、ひとまずは朝一番、彼に一切を明かして謝るよう言いつけた。それはたぶん正しい方策であろうと、私にも理解できていたので、素直に頷き、いつもより十五分も早く登校すると、教室で彼を待った。
彼は朝が早い性質であったので、私が着いてから間もなく、教室へ入ってきた。私は心の中で何か──今にして思えば、この覚悟こそが真なる慚愧であろうとも思われる。そしてそれは、今なお、私の中にあるような気がしていて、本当の土壇場にぶち当たった時にひょっこり顔を出す。正気の上に成立する、自ら腹を割く時のような狂気である──を極めた。
何も知らない彼は私を見つけて、「おう、今日は早いんだな」などと言った。私は静かに立ち上がると、彼の前へ進み出て、深く頭を下げた。
「ごめん!」
「は?なんだよいきなり」
「ヘラクレスが……」
そこまでは出てきたのだけれど、その後が喉の奥につっかえていた。二の句を継いでいるうちに、彼は何かを察したらしく、目つきを鋭くした。
「まさか…殺したのか?」
殺した。
弱ったとか死んだとかではなく、彼は、そんなに直截な言葉を遣った。小さな子供が、しかも会話のなかの僅かな間に、その言葉の効果を検討したわけもなかろう。しかしながら、その言葉は私に対して適切で、先ほど極めたはずの何かをも、少し揺るがしうる衝撃となった。
「…ごめん」
あれやこれや、伝え方を幾通りか想定していたのだけど、そんなものは何の役にも立たなかった。その通りである。私が、ヘラクレスを、殺したのである。死なしめたのである。彼の宝物を台無しにしたのである。
罪悪。
それはよく傾く、とてもバランスの悪い言葉だ。おおよそ平衡の位置というものを知らぬような感じで、それ故に好き勝手に解釈され、怖いくらいに人を突き刺す。未だ比較的に感性の真面であった私にも、その荷重はずっしりとのしかかった。
「お前っ……!」
言いたいことなど幾らでもあったろうに、彼はそれだけ呟いて、歯を食いしばった。全身に力が篭もり、ありたけの憎悪が私へ向けられたのが判る。私は殴られても蹴られても声を上げまい、彼の気の済むまでやってもらって、それで終いにしようと考えていた。逆さに振っても、私にできる償いなどそれくらいしかなかった。
拳か面罵か、どちらにしても痛みを伴う何かを、私は凝っと待っていた。
それなのに、彼はもう、それ以上には何も言わなかった。瞳は変わらず鋭いままで、その奥の方には少年らしく、心外にも傷つけられたという色が滲んでいる。
ほんの数分。
時間にすればそんなものだろうが、その沈黙は数時間にも感じられた。
彼は、そのまま顔を背けた。そうして足早に歩き去ると、乱暴に着席し、机に突っ伏してしまった。まだ人けの無い教室には、彼と私だけの息遣いが残された。
許されていないことは、私の目にも明らかだった。彼のとった行動は、あらゆる言葉や暴力よりも苛烈に、私のモラルを責め立てた。どうしようもなく不快な感触だった。
しかしそれと同時に、あさましい私は、何か事を成したつもりでいた。表面上はどれだけ神妙にすましていても、心の端に、ある種の達成感がちらついていたのだ。
注射針の抜けたあと、あの、小さな絆創膏が貼られたような。
三つ子の魂百まで、それが、つまりは私の正体であった。善悪を判らぬわけでも、罪悪を感じぬわけでもないが、私には物事のはじまりとおわりを水の低きへ流るがごとく、直線的に結ぶ癖があった。この悪癖が後々に、私の人生を真っ平らな荒野へ変貌させるとは、当時の私には知る由もない。
その日、学校が終わるまで、私は教室で息を殺す羽目になった。彼の様子のおかしいことは直に知れ渡り、やがて先生の耳にも入ってしまったので、私はあれこれと事情を説明せねばならなかった。もちろん先生にも叱られたが、顔に反省の色を貼り付けておいたので、そんなにしつこく責められることもなかった。
次に私と彼が口をきいたのは、放課後になってからだった。
母は校門の近くまで来ていて、私を捕まえると、そのまま彼の家へ向かった。日中は終ぞ不貞たままだった彼は、さっさと下校してしまったので、タイミングとしても問題なかった。
彼の家に着いて、母がおもむろにチャイムを鳴らす。ややあって顔を出したのは、彼の母親だった。この親にしてこの子あり、彼同様に、母親はいわゆる強そうな人だった。彼女は大きな瞳をギョロりと動かし、私たち親子を一瞥すると、ちょっと鼻を鳴らした。
「何か御用ですか?」
その対応は子供の目にも高圧的に見えたけど、母は臆さず、ハキハキと答える。
「ウチの息子が、どうやらお子さんに失礼をしたようで…大変申し訳ありません」
母に合わせ、私も頭を垂れた。
彼から事情は聞いていたのだろう、彼女はしばらく黙っていたが、
「謝るなら、あの子に謝ってあげてください」
と冷たく言い放ち、奥へ消えた。ドアが閉まる。恐る恐る顔を上げると、母は神妙な顔つきで私をチラと見て、ほんの小さく頷いた。
そのまま待っていると、間もなく彼が現れた。
「……なんだよ」
時間が経って幾分か和らいでいたものの、その目は、朝の憎悪を忘れてはいなかった。私はやや大袈裟に恐縮して、
「ごめん」
隣で母も同じようにしたのが気配で判る。
十秒ほど経ったろうか、彼が口を開いた。
「いいから、これ持って帰れよ。ウゼェんだよ」
そう言って私に押し付けたのは、ヘラクレスと引き換えに渡したオオクワガタだった。ここで彼が報復に、オオクワガタを八つ裂きにしていたら、少しは私も救われたやも知れぬ。しかし、プラケースの中央に鎮座したクワガタには脚一本の欠失もなく、ピンピンしていた。
「ごめんね」
私はもう一度繰り返した。それに被せるようにして母も言った。けれども、彼は黙って姿を消した。
それから再び彼の母が現れ、母と何やら話を始めた。促されるまま、私は庭先の離れたところで待っていたので、仔細を知ることは叶わなかったが、母が白い封筒を渡しているのを見た。子供ながらに、ああ、きっとお金が入っているのだろうということは、何となく察せられた。彼の母はというと、始終しかめ面のままであったが、封筒だけはさっさと受け取ってしまって、懐へ納めていた。そんな様子のすべてが綯い交ぜになって、私は、なんだか形容しづらい、嫌な気分になった。何から何まで、すべては私の所為だ、しかし──。
何を言っても後の祭り、私には、ひとまずの鎮火を喜ぶことしかできなかった。そうして、ほんとうは、火は鎮まってなどいなかったことを、私は未だ知らなかった。
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