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果たして翌日、私は自らの宝物と引き換えに、彼の宝物を持ち帰った。昨日は浮かない顔をしていた彼も、私のオオクワガタには興奮を隠せない様子で、まんざらでも無さそうにケースを差し出してくれたのだった。
その夜、宿題も入浴も歯磨きも了え、誰の邪魔も入らぬ自室にて、私は学習机のライトを点けた。机上には例のケースが置いてあって、その中央、止まり木の僅かな足場に、ヘラクレスは鎮座していた。
私はゆっくりと着席し、観察を始めた。カブトはやはり美しく、実に精巧な作りをしていた。昨日、満足に確認できなかった細部までもを、私はじっくりと精査した。特に私の気を惹いたのは、細かくて柔らかそうな体毛であった。いかにも堅牢でツヤツヤとした装甲には似合わぬ、地味で微細な構造である。
魔が差したのは、ちょうど、それに気づいた辺りである。
おもむろに私はケースを開けて、むんずと、その硬い装甲を鷲掴みにした。カブトはツノを振りかざして威嚇してみせたが、私は怯まなかった。昆虫にしては稀有な巨躯も、人の手にかかればプラモデルのように呆気なく、止まり木から脚が離れるのに時間は掛からなかった。
私はカブトをひっくり返した。昆虫に特有の悪臭がしていたし、腹側の構造は無骨で、気味が悪いばかりだった。それでも私は初めて見るそれに、湧き上がる好奇心を抑えられなかった。腹の節を指でなぞり、細い脚の感触を確かめる。次は翅を拡げてみたくなり、抵抗するカブトを押さえつけ、ガパリ、翅を引っ張った。こうなってくると隅から隅まで見ておかないと、なんだか気が済まなかった。目前の憧れの昆虫が持つ、凡ゆる側面をしらみつぶしに確認して、網膜と脳細胞に焼き付けておきたかったのだ。
いつにも増して時間の感覚が曖昧で、気がつけば一時間ほど経っていた。ふと、私は我に返り、机上の昆虫を確認して、息を呑んだ。
カブトは既に、瀕死の様相を呈していたのだ。
細い脚は二、三も捥げ、雄々しい装甲は不恰好に広がったまま、その下に格納されてあった飛行用の薄い翅も破損し、一部は机に脱落していた。
当然ながら、状況の最悪さを理解するのには十秒と掛からなかった。取り返しのつかぬことだと解っていた。あした激怒するであろう友人のことや、私をこっぴどく怒鳴りとばすであろう両親のことを考えると、目頭も熱くなってきて、私はすっかり放心してしまった。
しかし、私は壊してしまったのだ。さらに悪いことには生き物を、である。どうしたって誤魔化しの効かないことは目に見えていた。指先でカブトをつついてみるも、ぐったりと草臥れたまま、力がこもる様子は無く、初めて見た時より一回りも二回りも矮小化されたようだった。
困った時の神頼みとは能く云ったもので、私にはもはや、祈ることしかできなかった。望みのない、虚しいばかりの現実逃避である。それは子供の私にも解っていた。だけれども人というものはどうにも、土壇場になっても腹を極めかね、断頭の刃が皮膚に食い込むその刹那まで、往生際悪く助かろうとする性質があって、それはそれでまた、人間の正体なのではなかろうか。助かるなどとは思わずとも、なんとか正気を保とうと努めるのである。
結局、私はそのままの気持ちで床につき、目を瞑って朝を待った。頬には涙が感じられて、それが余計に惨めで、やはり土壇場になるまで暗澹たる胸中が晴れることはなかった。
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